Archive for 3月, 2018

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その2)

それまで耳にしたことがなかったわけではないが、
“Hotel California”を聴いて、なるほど、たしかにそうだ、と感じたのは、
1982年になっていた。

録音が必ずしもモニタースピーカーの音と逆の傾向に仕上がるわけではないことは知っている。
モニタースピーカーの性格を熟知しているレコーディングエンジニアならば、
そのへんのことも自動的に補正しての録音を行う。

おそらくゲーリー・マルゴリスもそのへんのことはわかったうえでの、
ステレオサウンド 51号の発言なのだろうし、
確かにハイ上りといえばそうだし、
黒田先生が指摘されているように重低音を切りおとした、とも聴こえる。

重低音がそうだから、ハイ上りに聴こえるのかもしれない。
といって、いまとなっては確認のしようがない。
“Hotel California”は、何度か試聴室で聴いていたけれど、
自分でレコードを買うことはしなかった。

“Hotel California”を聴いたのは、もう36年ほど前であり、
“Hotel California”の音がどうだったのか、なんとなくの全体の印象は残っていても、
細部がどんなふうだったのか、そこまで記憶が残っているわけではない。

audio wednesdayで音を出すようになって、
“Hotel California”を聴く機会が、これまでに何度もあった。
別の場所で、ヘッドフォンでも聴いている。
つい先日もそうだった。

そこで疑問が湧いた。
こんな音だったかな? と。

私の中にかすかに残っている“Hotel California”の印象は、
当時のLPによるものである。
そのディスクが国内盤だったか、輸入盤だったかも、記憶は定かではない。

それでも聴いていると、かすかとはいえ記憶はよみがえってくる。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その1)

イーグルスの“Hotel California”のことを知ったのは、
ステレオサウンド 44号だった。

ロック小僧でなかった私は、イーグルスの名前は知っていても、
どのレコードもきいたことはなかった。

ステレオサウンド 44号の特集はスピーカーシステムの総テストで、
黒田先生が使われた十枚の試聴レコードの一枚が、“Hotel California”だった。

なので、当り前のように優れた録音のレコードだ、と思うようになっていた。
黒田先生は、こう書かれていた。
     *
 イーグルスの、レコードできける音は、重低音を切りおとした独特のものだ。そのために、ベース・ドラムなどにしても、決して重くはひびかない。そういう特徴のあるサウンドが、あいまいになっては、やはり困る。そして、ここでとりあげた2分の、前半の50秒は、インストルメンタルのみによっているが、その後、ヴォーカルが参加するが、そこで肝腎なのは、うたっている言葉が、どれだけ鮮明にききとれるかだ。なぜなら、「ホテル・カリフォルニア」はまぎれもない歌なのだから。
     *
さらに試聴ポイントして、五つあげられてもいた。

冒頭:左から12弦ギターが奏しはじめるが、この12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと、イーグルスのサウンドが充分にたのしめないだろう。

冒頭から025秒:ツィン・ギターによって、サウンドに厚みをもたせているが、その効果がききとれるかどうか。イーグルスの音楽的工夫を実感できるかどうかが問題だ。

冒頭から37秒:ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい。ギターによるひびきの中から、すっきりとハットシンバルの音がぬけでてきた時に、さわやかさが感じられる。

冒頭から51秒:ドラムスが乾いた音でつっこんでくる。重くひきずった音ではない。ドン・ヘンリーのヴォーカルがそれにつづく。声もまた、乾いた声だ。

冒頭から1分44秒:バック・コーラスが加わる。その効果がどれだけ示されるか。”Such a lovely place, such a lovely face” とうたう際の、言葉のたち方も問題になる。

“Hotel California”は、ステレオサウンド 51号にも登場している。
この号から始まった#4343研究で、
JBLプロフェッショナル・ディヴィジョンのゲーリー・マルゴリスとブルース・スクローガンが、
ステレオサウンド試聴室にて4343をセッティングしていく際に使ったレコードの一枚でもある。

“Hotel California”についてのマルゴリスの発言が載っている。
     *
イーグルスのホテル・カリフォルニアについては「このレコードはアルテックの604でモニターした音がしていますね。データは書いてありませんが、おそらくそうでしょう。」という。どうしてわかるのかと尋ねると「アルテックは帯域を少し狭めて、なおかつ中域が少し盛り上がり気味の周波数特性をしていますから、ミキシングのバランスとしては中域が引っ込みがちになることがあります。モニターの音と逆の傾向になることがあるのです。その分、高域が盛り上って聴こえます」と教えてくれた。そう思って聴くとたしかにハイ上りの音に思えてくる。
     *
私が“Hotel California”をきちんとしたかたちで聴くのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだった。

Date: 3月 24th, 2018
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(余談・その4)

その2)で書いているように、
予想しない場所で、予想しないスピーカーと出合えると、意外と思うとともに、嬉しいものである。

(その2)ではレコード店にあったKEFのModel 303だった。
数日前の火曜日、十数年ぶりに下北沢に行った。
夜の下北沢は、さらにひさしぶりである。

下北沢にあるライヴハウスに行ってきた。
ライヴハウスに前回行ったのはいつだったか、もう正確に思い出せないほど以前、
というより昔のことだ。
友人に連れられて行った記憶が、ぼんやりとあるくらいだ。

今回の下北沢のライヴハウスも、だからひとりではなく誘われてのことだった。
THE SUZANのライヴに行ってきた。

ライヴが始まるのは20時過ぎ、その前に腹ごしらえをしようということで、カレー屋に入った。
店の外からもわかるように、マッキントッシュのプリメインアンプとJBLのスピーカー4312SEがある。
そのことが意外だったわけではない。

店に入って気がついたのは、カウンター席の上にある棚にも、
ブックシェルフ型スピーカーが置いてあった。
私が坐った席からは、スピーカーのわずかなところしか見えないけれど、
それがすぐにKEFのModel 104であることはわかる。

立ち上って確かめたら、104aBだった。
ほんとうにひさしぶりに見た(対面した)104aBである。

最初は意外な感じもしたけれど、しばらくすると4312SEよりも、
104aBのほうがしっくりくるような感じもしてきた。
残念ながら音は鳴っていなかった。

アンプに接がれているのかどうかもはっりきしない。
それでも、意外なところで予期しないタイミングで出合えるのは、
104aBにも憧れをもっていた中学生時代を思い出させてくれて嬉しくなっていた。

ひさしぶりがいくつも重なっての、104aBとの再会だった。

Date: 3月 24th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その1)

3月23日は、KK適塾 2017の四回目だった。
2月に予定されていた二回目と三回目は中止だった。
一回目が12月22日だったから、三ヵ月ぶりのKK適塾だった。

三ヵ月のあいだに、暖かくなっていた。
桜も咲いている。
なのでずいぶんとひさしぶりの感じもしていた。

四回目の講師は、石黒浩氏。
石黒浩氏の講演はKK塾、KK適塾での二回に加えて、
2015年秋に六本木にある国際文化会館でもきいている。

石黒浩氏の話をききながら考えていたのは、
前日(22日)に書いた「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」だったし、
黒田先生の文章も思い出していた。

石黒浩氏のアンドロイド(人型ロボット)には、
人間に酷似しているタイプ(ジェミノイド)と、
テレノイドと呼ばれているタイプとがある。

ジェミノイドが酷似型であるために、性別や年齢、背格好など、見る人に意識させるのに対し、
テレノイドは性別も年齢も特定される外観を持たず、
見る人によって男にも女にも、子供にも大人にも見える、外観を簡略化したタイプである。

いわば観察(ジェミノイド)と想像(テレノイド)である。
このふたつのことは、これまでの石黒浩氏の話で知っていたけれど、
前日に黒田先生の文章を書き写したこともあって、
いままで以上に、このふたつのアンドロイドの対比が、
ほぼそのままオーディオの世界、音にもあてはまりそうな気がしていた。

Date: 3月 24th, 2018
Cate:

音の色と構図の関係(その1)

別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れている。

音の構図が崩れてしまっている音には、魅力を感じない。
これまでも音の構図には注意深くありたい、と思っていた。
けれど、いままで気づかなかったことがあるのに、昨晩気づかされた。

昨晩、写真家の野上眞宏さんと会っていた。
野上さんとの会話のなかで、最近ニュースになったAl(人工知能)も錯視することが出てきた。
ここでのAIがほんとうの意味でのAIなのかは、ここでは問わないが、
この実験の結果通りだとして、ほんとうにAIは錯視したのか、という捉え方もできる。

つまり錯視ではなく、現象として、それは起っている、と考えることだってできる。

もう20年以上前になると思う。
当時の週刊文春のカラー広告に、NTTが毎号出していたことがある。
NTTの研究所で、どんなことを研究しているのかを伝える広告だった。

すべてを憶えているわけではないが、錯視についての研究の回もあった。
錯視を現象として捉えた上で、アインシュタインの相対性理論にあてはめてみれば、
説明がつく──、そんな内容だったと記憶している。

たとえば同じ大きさのふたつの円がある。
色が塗られていない、もしくは同じ色であれば、ふたつの円は同じ大きさに見える。
ところがひとつを薄い色、もうひとつを濃い色にすると、ふたつの円の大きさは違って見える。

多くの人が小学生のころに体験されているはずだ。
これをNTTの研究者たちは錯視と捉えずに、実際に大きさが変っているのではないか。
つまり濃い色は、薄い色よりも色の質量がある。
そこに相対性理論が成り立ち、色の薄い円は、濃い色の円の影響を受ける、という内容だった。

色の質量という言葉が、その広告で使われていたのかどうかは定かではないが、
感覚的にも重い色、軽い色は確かにある。

そのことを思い出していたから、
もしかするとAIも錯視ではないのかもしれない──、
そんなことを話していた。

そこで野上さんが、非常に興味深いことをいわれた。

Date: 3月 23rd, 2018
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その18)

すべてのコーン型ユニットが、平面バッフルで鳴らす音が最良の結果を生むとは限らない。
それでも5.5畳ほどのワンルームマンションに、
シーメンスのコアキシャルを1.9mw(縦)×1m(横)の平面バッフルにとりつけて押し込んで鳴らしていた。

そんな経験をしてきた私は、まずは平面バッフルという意識が強い。
それだけのスペースが用意できれば、2m×2mという、
平面バッフルのサイズとしては、ひとつの到達点といえるサイズにしたいけれど、
それだけのスペースは無理である。

となるとサイズを小さくするしかない。
平面バッフルのサイズが小さくなるということは、低音の再生限界が上へと移動してくることでもある。

昔のスピーカーの教科書には、平面バッフルの説明があり、
次に後面開放型の説明があった。
平面バッフルの左右を後に折り曲げるようなかっこうにすることで、
奥行き方向には長くなるものの、横幅はぐんと狭くできるのが後面開放型という説明だった。

それで後面開放型から平面バッフルそのままの音が出てくればいいわけだが、
世の中そううまい話はなく、後面開放型には平面バッフルにはない問題点が生じる。

ならば平面バッフルのサイズとともに、形状を工夫することで、
コンパクト化はできないのか──、思い続けている。

セレッションのSL600のことは、これまで何回か書いている。
SL600には、System 6000という専用ウーファーがのちに登場した。

System 6000は、いわゆるエンクロージュアをもたないサブウーファーだ。
必要最小限のサイズのバッフルにウーファーが取り付けられている。
これだけではどんなにやっても低音再生は無理だから、前後に一基ずつ配置されている。

この方式の場合、平面バッフルのサイズは前面(後面)から見たサイズだけでなく、
ユニットが取り付けられているバッフルの厚み(これが二基分)と、
前後のバッフルの間隔、これらがすべてサイズとして含まれる。

平面バッフルにとって、バッフルの厚みもサイズのうちである。

Date: 3月 22nd, 2018
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その2)

オーディオ店の前を通った際、気が向けばふらっと入る。
特に目的があるわけではなく、店内を一周して出てくるわけだが、
時々だが、客と店員の会話が耳に入ってくる。

先日もそうだった。
棚に並んでいるアンプを見ていたら、後から、あるオーディオ機器についての会話が聞こえてきた。

それから別の製品との比較の話になり、動作方式への話は移っていった。
製品の比較の時から、少し誤解があるよな、と思いつつ聞いてきたが、
動作方式に関しては、明らかに店員の説明は間違っている。

けれど客は、いつの間にか、店員の説に完全に同意してしまっている。
これでいいのか、と思う。
横から口を出したくもなったが、我慢した。

こうやって間違った知識が広まっていくのか。
そういえば、瀬川先生も同じようなことを書かれていた。
     *
 ある若い人が私のところにへ相談に来た。新しい装置を入れたところ、低音が全然出ないどこが悪いのだろうか、という内容だ。月に四回、あるデパートでオーディオ・コンサルタントをしている一日のことである。
 話を聞いてみると、JBLのプロ用のユニットを特製のキャビネット(この〝特製〟というのも少し怪しいのだが)に収めて大型のスピーカー・システムを作ってもらった、という。その人は自分では知識がないので、信頼している販売店の店員の言うなりらしい。アンプもそれ相応に、マークレビンソンその他でかなりお金がかかっている。それなのに低音が出ないというその出なさかげんは相当にひどいもので、たとえば別のプリアンプを持ってきてトーンコントロールで(マークレビンソンJCー2はトーンコントロールがないので)低音をいっぱいまで上げてみてもまだ出てこない、というのだ。これは異常である。
 こういう場合、まず疑ってみるのは低音用スピーカーの接続のあやまちだが、その点は厳重にチェックしているという。むろん話だけで、ほんとうに合っているかどうか確認できないが、それよりもその人が、興味ある話をし始めた。
 というのは、低音がどのくらい出ていないかということをチェックしてもらったら、七〇ヘルツまでしか出ていないことがわかった、というのだ。この辺から私は、この話はどこかおかしい、と気がつきはじめた。
 七〇ヘルツという低音は、決して本当に低い低音とは言えないかもしれないが、聴感上は相当に「低い感じ」の音であって、たいていのブックシェルフ型スピーカーなら、六〇ないし八〇ヘルツぐらいまでしか出ていないものだし、それでも「けっこう低音がよく出ている」と感じるものなのだ。JBLのプロ用の三八センチ・ウーファーを二本ずつ収めた大型キャビネットで、もしも七〇ヘルツまで出ればもう圧倒的な低音が聴こえて不思議はない。それが出ないというのはどこかに大きなミスがある。
 しかし私は、七〇ヘルツまで出ているというチェックの仕方に、まず興味を持った。ふつうの場合こういうチェックは、オーディオ・オシレーターか周波数レコードで低音をスイープ発振して、スピーカー・システムのインピーダンス特性を測定しながら、場合によってはマイクロフォンやオシログラフ、あるいはせめてサウンドレベルメーターを併用してチェックする。そうでなくては、七〇ヘルツぐらいとはいえても、七〇ヘルツまでしか出ていない、などと断定はできない。
 しかしそういうめんどうな理屈をこねるような話ではなかった。なんと、その人の信頼している店員氏が、よく聴き馴れた歌謡曲のレコードを持ってきて、しばらく耳を傾けたのちに、「ウン! 七〇ヘルツ……」をやったのだという。気の毒だがやはり本当のことを言ってあげた方がよいと思った。「あなた、相当に程度の悪い人に引っかかってますよ」と。
(「新《サイクリスト》教祖」より)
     *
ここまで程度の悪い店員ではなかったけれど、
その口調はかなり断定的で、否定的でもあった。
それでも動作方式の技術的解説に間違いがなければまだいいが、そうではない。
あきらかに間違っての認識である。

店の名前を書かないのは、その店の店員ひとりのことであり、
おそらく他の多くの店員はそうではないであろうからだ。

Date: 3月 22nd, 2018
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考を書くにあたって

ハイエンドオーディオについては、いつか書こうと、
このブログを始めた時から考えている。

必ずしも否定的なことばかりを書こうとは考えていない。
ハイエンドオーディオの存在を否定する気もない。

それでも、ハイエンドオーディオについて書き始めると、
書きたいことは次々と出てくるような気もしている。

いつから書き始めるかも決めていない。
ただ書く前に読んでおきたい文章を、今日やっと思い出した。

黒田先生が書かれていたものだ。
かなり以前のステレオサウンドに書かれていたことは憶えていたが、
はっきりと、どの号なのかまでは思い出せていなかったし、
先延ばしにしていたから、探していたわけでもなかった。

その文章は、27号に載っている。
ラサール弦楽四重奏団のドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲についての文章である。
     *
 ひどく素朴ないい方になってしまうんだが、この弦楽四重奏団による演奏には、四人の奏者によるものとは考えにくいところがある。ダイナミックスが変化するとき、たとえばクレッシェンドしたり、ディミヌエンドしたりするとき、それは特にきわだつ。こういう演奏をきいていると、弦楽四重奏もついにここまできたかと思ってしまう。いや、ここまできたか──といういい方は、正しくない。これは明らかに、今までの4人の弦楽器奏者があわせてひくことによってなりたった弦楽四重奏とは、別のところから出発してのものと考えなければいけないようだ。
 すでにここでは、あわせることが目的たりえていない、そのすごさがある。だからこの演奏を、ありきたりの言葉で、もし、見事なアンサンブルなどといったとすると、この演奏がもっている力の、きわめて重要な部分を伝えないで終ることになる。たとえばそのようなことはありえないといわれようと、この演奏、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、あわせようとしてあわせた演奏ではないのようにきこえる。たとえばジュリアードカルテットの演奏が、あわせようとしてあわせたぎりぎりのところでのものだとすれば、このラサールカルテットのものは、あたかもまったく別のところから出発してその先に到達してしまったかのようるきこえる。
 その意味でこの演奏には、いささか信じがたいところがある。文字通りの意味で、これは戦慄的だ。それがいいかわるいかは、ひとまず聴者の判断にまかせるとして、この演奏がどういう演奏家、もう少し別の言葉でいっておかねばならないだろう。ここで、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、いずれの音も、かつてなかったほどに無機的にひびく。もし無機的という言葉が誤解をまねくとすれば、ぎりぎりのところまで追いこまれた後の音が、音としての主体性を強く主張している──といいなおしてもいい。しかもそれは、感覚の尋常ならざる鋭利さによってなされているかのようだ。
 その鋭さは、まったくいたさを感じさせないで骨までとどかんとするところまで切りこみうる刃物のそれに似る。当然のことに、雰囲気的なものが入りこむすきまは、まったくない。しかし、俗にいわれる冷徹さは、むしろ表だっていない。そこにこの演奏の、不思議さとすさまじさがあるように思える。
 ただしかし、そういう演奏の性格が、たとえば彼らがウェーベルンをひいた時のように、聴者に有無をいわせぬ力となりえているかというと、そうはいえないようだ。たしかにぼくはこの演奏をきいて、おどろき、心うごかされた。すごい演奏だと思った。このように演奏されてもなお、その音楽的魅力を誇示しえているということで、かならずしもぼくがきくにあたり得意な作品とはいえない(演奏家にだって、得手な作品もあれば不得手な作品があるんだから、聴者にだってそれがあって不思議はない)ドビュッシーとラヴェルのカルテットを、妙ないい方になるが、見なおした。
 これは、一種の、一糸まとわぬものの美だ。分析のメスのあとはない。演奏という行為にどうしてもついてまわる、ある種のおぼつかなさとあいまいさをきれいにとり去って、敢えていえば演奏のあとを残さぬ演奏になっている。しかし一般的な意味での名演奏とは、基本的なところで違っているようだ。
「音楽」における「音」が、これほど「もの」として存在を主張することは、やはり稀といっていい。しかしくりかえすが、数式の非情さは、ここにはない。ただ、「もの」と化した「音」によるドビュッシーやラヴェルの「音楽」を、聴者がいかように受けとるかということになると、これははなはだむずかしい。この、文字どおりのたぐいまれな演奏をきいて心うごかされながら、たとえば親しい友人に、いい演奏だからきいてごらんよというには、いささかの勇気が必要になる。ただものすごい演奏なのはまちがいないんだが。
 その意味で、このラサールの演奏は、一種の踏絵だ。これは演奏じゃないということは、そんなにむずかしくない。しかしそういったが最後、演奏という行為にのこされた可能性の、もっとも聴者に対して挑発的な部分を否定することになり、それはやはりどう考えても、つまらない。だからということではなく、この戦慄的な演奏に戦慄をおぼえたことに正直になって、ぼくはこのラサールの演奏にくらいつき、勉強したいと、今、むきになっているところだ。
     *
ラサール弦楽四重奏団による演奏を、ハイエンドオーディオ、
それもスピーカーが出す音におきかえて読んでみてほしい。

ハイエンドオーディオの世界が、
ここでのラサール弦楽四重奏団のレベルにあるとはいわないが、
もしかするとハイエンドオーディオがめざす世界は、ここに書かれているところ(もしくは近い)のか、
いくつかのキーワードが、こちらの心にひっかかってくる。

Date: 3月 21st, 2018
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その3)

現行製品のなかで、コントロールアンプとプリメインアンプのデザインが共通なのは、
イギリスのCHORDがある。

CHORDの製品ではD/Aコンバーターは話題になることが多いが、
アンプは、その実力のわりには、あまり話題にのぼることはない──、そんな印象がある。

パワーアンプは、そうとうに優秀だと思っているが、
なんとなく地味に受け止められるのか、それとも他に理由があるのか。

少なくとも私の周りでは、CHORDのパワーアンプの音を聴いている人は、
いいパワーアンプのにねぇ……、もっと注目されていいのに……、という。

そして続くのが、「コントロールアンプのデザインがねぇ……」である。
私も、そう思うひとりである。

CHORDのコントロールアンプは、プリメインアンプと同じデザインである。
これが不思議なことに、プリメインアンプとしてみれば、
優れたデザインとは決して思わないが、こういうのもあって楽しいかも……、と思う。

なのにそれがコントロールアンプとなると、ダメなところが非常に気になってくる。
プリメインアンプであろうと、コントロールアンプであろうと、
操作そのものが変ってくるわけではない。

にもかかわらず、プリメインアンプとして同じデザインが目の前にあると、
ダメなところも、愛矯だよね、と思えたりするのに、
コントロールアンプとしてのデザインと捉えると、好意的に受け取る気持がなくなっている。

「あばたもえくぼ」(プリメインアンプの場合)が、
「あばたはあばた」(コントロールアンプの場合)となる。

Date: 3月 21st, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(3月30日)

グレン・グールドの演奏は「解答」だ。

「解答」だからこそ、グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。

「解答」のために必要な場は、コンサートホールではなくスタジオであり、録音である──。

KK適塾を聴くことで、強くそう確信するようになった。

23日はKK適塾四回目、30日は五回目が行われる。
五回目の受付も始まっている。

Date: 3月 20th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その1)

昨年11月と12月に、
オーディオを特集した「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」とSWITCH Vol.36を紹介した。

この二冊には、何人かのリスニングルームが紹介されている。
その人たちのシステムを見ながら、
セレッションのDittonシリーズを、いまも使っている人がいるのを見つけて、
やっぱりセレッションはDittonシリーズなんだよね、と思っていた。

セレッションからSL6が登場し、
アルミハニカムエンクロージュアのSL600、SL700が続いて、
これらのスピーカーを高く評価する人の中には、
それ以前のセレッション、つまりDittonシリーズが主力だったころのセレッションを、
終ってしまったメーカーのように書いている人がいた。

SL6の開発リーダーのグラハム・バンク、
彼がいなかったころのセレッションは、絞り切った雑巾のようだ、という表現もあった。

SL6は優れたスピーカーではあったし、SL6の音には驚くこともあった。
そしてSL600が登場して、私は買った。

けれど、私の心のなかでは、Dittonシリーズも、いいスピーカーなのに……、という気持がつねにあった。
古くさい音と、SL6以降のセレッションの音を高く評価する人は、そういっていた。

ほんとうにそうだったのだろうか。

「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」、SWITCH Vol.36を見て、
Dittonシリーズに興味をもった人がいるのかいないのか──、
それは知りようがないが、
Dittonシリーズと同系統の音を聴かせてくれるスピーカーは、
いまやなくなってしまっていることも気づかせてくれる。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その7)

3月のaudio wednesdayで、075用のネットワークの準備をしていた時に、
常連のTさんにいわれたのは、ここで鳴っている音は宮﨑さんの音と思っている、ということだった。

ことさら自分の音を、喫茶茶会記で鳴らしているつもりは、実はまったくない。
だから、否定してしまったわけだが、
それでも私が鳴らしている音にはかわりないわけで、
私の音といえば、そういうことになる。

私の音ではない、とつい否定してしまったのは、
セッティングし、時には鳴らしながらチューニングしていっていても、
常に、来ている人からのリクエストがあれば、
そちらへとチューニングの方向を変えていけるだけの領域を残しているからなのかもしれない。

むしろ毎回心掛けているのは、
いかに目の前にあるスピーカーを気持良く鳴らせるか、である。

表現を変えれば、そのスピーカーらしく鳴らすか、である。
どんなスピーカーも、そのスピーカー固有の特性(音)を持つ。

それを無視するかのように、強引に自分の音で鳴らす、というアプローチをとる人がいる。
それを自慢する人もいるが、ほんとうに自慢できることだろうか。
そういう鳴らし方(つまりワンパターンな鳴らし方)しかできないからではないのか。

そんな鳴らし方は絶対にしないように心掛けている。
そのために必要なことは、目の前にあるスピーカーから鳴ってくる音を、
きちんと聴くことである。

そうすることで、目の前にあるスピーカーとコミュニケーションが始まる。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その37)

598のスピーカーについて、ここまで書いてきて考えているのは、
なぜ598だったか、である。

698でもなく、498でもなく、598(一本59,800円)のスピーカーが、
これほどメーカーがコストパフォーマンスを競うようになったのか。

それを煽ったのは、長岡鉄男氏であり、
598のスピーカーにおける異常な物量投入の最初はオンキョーのスピーカーだったことは確かだ。

とはいえ、どのメーカーもこれほど598に集中しすぎたのか。

ステレオサウンド 44号(1977年)の新製品紹介の記事で、
井上先生と山中先生が語られていることが、いま読み返してみると、ひじょうに興味深い。
     *
井上 海外製品を含めて、いわゆる名器とか高級スピーカーといわれているものは、「好み」という次元でいえば得てして幅の狭いものではないかと思いますね。むしろ五、六万円のスピーカーの方がいろいな人の「好み」を満足させることができる。より「一般的な音」を持っているのではないかと思うんです。大型になってくるとそんなにオールマイティというわけにはいかなくなる。「いいスピーカーシステムなんだけれども」ということを前提にして、一人一人の人がそれでは自分に応わしいかどうかを聴くことが本来の趣味になってくると思います。それをはっきり認識する必要があります。
山中 趣味っていうのはみんなそうですね。非常に多様なものがあって、その中で自分に合った対応の仕方がいろいろできるというのでないと、また趣味にはならないでしょうね。
     *
この発言から数年後に、598戦争といわれるものが始まり、
十年後の1987年にはたいへんなことになっていた。

「一般的な音」を持っていたであろう、この価格帯のスピーカーの音は、
よほど鳴らしこなしの腕がないと、ひどくアンバランスに鳴りがちで、
とても「一般的な音」からはある意味遠ざかったにも関らず、
数は売れていただけに、その音が「一般的な音」と受け止められていくようにもなっていった。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その29)

1996年のステレオサウンド別冊に「MY HANDICRAFT」がある。
副題として「マイ・サウンドをつくろう」とある。

オーディオにおける自作の楽しみは、マイ・サウンドをつくれること──、
とは思っていない。

瀬川先生がステレオサウンド 17号(1970年)に書かれている。
     *
 大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
 ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
(「コンポーネントステレオの楽しみ」より)
     *
スピーカーを自作した、アンプを自作した、
それでマイ・サウンドがつくれるわけではないし、
既製品を組み合わせたからといって、
マイ・サウンドがつくれないわけではない。

「MY HANDICRAFT」に、わざわざ「マイ・サウンドをつくろう」とつけた人は、
どういう意図があったのだろうか。
本気で、自作しなければ……、と思っている人なのか、
瀬川先生の文章を読んでいなかった、
もしくは読んでいたしとても……ことだけは確かだろう。

Date: 3月 18th, 2018
Cate: Jazz Spirit

ジャズ喫茶が生んだもの(その5)

ジャズ喫茶、名曲喫茶が日本独自の文化といえるのならば、
レコードコンサートもまた日本独自の文化である。

レコードコンサートといっても、もう通じなくなった世代の方が多くなっているかもしれない。
こう書いている私だって、レコードコンサートには行ったことはない。

私がオーディオ雑誌を読みはじめたころは、まだレコードコンサートは残っていた。
でも、それは大都市でのことであって、地方に住んでいる者、
それも学生にとっては、都会への憧れを募らせるものでしかなかった。

レコードコンサートについて、瀬川先生がステレオサウンド 25号に書かれている。
     *
 レコード・コンサートという形式がいつごろ生まれたのかは知らないが、LPレコード以降に話を限れば、昭和26年に雑誌『ディスク』(現在は廃刊)が主催した《ディスク・LPコンサート》がそのはしりといえようか。この年は国産のLPレコードが日本コロムビアから発売された年でもあるが、まだレパートリーも狭かったし、それにも増して盤質も録音も粗悪で、公開の場で鳴らすには貧弱すぎた。だからコンサートはすべて輸入盤に頼っていた。外貨の割当が制限されていた時代、しかも当時の一枚三千円から四千円近い価格は現在の感覚でいえば十倍ぐらいになるだろうか。誰もが入手できるというわけにはゆかず、したがってディスクのコンサートも、誌上で批評の対象になるレコードを実際に読者に聴かせたいという意図から出たのだろうと思う。いまではバロックの通俗名曲の代表になってしまったヴィヴァルディの「四季」を、ミュンヒンガーのロンドン盤で本邦初演したのが、このディスクの第二回のコンサート(読売ホール、昭和26年暮)であった。
 これを皮切りに、その後、ブリヂストン美術館の主催(松下秀雄氏=現在のオーディオテクニカ社長)による土曜コンサートや、日本楽器・銀座店によるヤマハLPコンサートが続々と名乗りを上げた。これらのコンサートは、輸入新譜の紹介の場であると同時に、それを再生する最新のオーディオ機器とその技術の発表の場でもあった。富田嘉和氏、岡山好直氏、高城重躬氏らが、それぞれに装置を競い合った時代である。
 やがて音楽喫茶ブームが来る。そこでは、上記のコンサートで使われるような、個人では所有できない最高の再生装置が常設され、毎日のプログラムのほかにリクェストに応じ、レコード・ファンのたまり場のような形で全国的に広まっていった。そうしたコンサートや音楽喫茶については、『レコード芸術』誌の3・4・5月号に小史の形ですでにくわしく書いたが、LPの再生装置が単に珍しかったり高価なだけでなく、高度の技術がともなわなくては、それを作ることもまして使いこなしてゆくことも難しかったこの時代に、コンサートと喫茶店の果した役割は大きい。
     *
ステレオサウンド 25号は1972年に出ている。
レコードコンサートはオーディオメーカーの主催によるものが多かったようだが、
レコード会社によるものもあったようだ。

この時代までの日本では、レコードと聴き手の関係は、一対一とはいえない面があった。