Archive for 12月, 2017

Date: 12月 10th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その6)

12月のaudio wednesdayの音を聴いたHさんが、
「今日の音、いつもより明るいですね?」といわれた。

別項で書いたように、今回はファインメットコアを使ったコモンモードノイズフィルターを、
CDプレーヤーの電源に挿入している。
それからスピーカーのまわりもちょっといつもと違うセッティングにしている。

アルテックのドライバーの下には角材をかましている。
その向きと位置を変えただけであるが、それだけであっても音の変化は小さくない。

細部まで、光が当るようになった音ということでは、
明るくなった、という表現はそのとおりである。

だからといって能天気な明るさであったり、
まぶしすぎたり、細部まであからさまにするような、そんな明るさではない。

これまでの音より明るくなることで、音楽の表情は豊かに出るようになった、といえる。
瑕疵のない音であっても、表情に乏しい音は、いくらでも聴いている。

細かい音まで聴けるスピーカー、
つまりそういう細かな音を出してくるスピーカーだからといって、
音楽の表情も豊かになるわけではない。

音が全体に明るくなった──、
マーラーの〝闇〟から遠ざかった──、
そう単純なものではない、音の世界というのは。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その5)

12月のaudio wednesdayで、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番を、
かなりの大音量で鳴らした。

瑕疵のまったくない音ではなかった。
人によっては、聴くに耐えぬ音と思うかもしれない。
それでもマーラーの音楽の本質は出していたと言い切れるし、
ショルティの演奏の本質についても、同じことをいう。

瑕疵がまったくない音を聴きたいわけではない。
私が心の中で描くマーラーの「音」を聴きたいのである。

二番は一楽章だけを鳴らした。
全楽章鳴らしたい気持はあったけれど、マーラーを聴くことがテーマだったわけでもないから、
一楽章だけでがまんした。

これが水曜日の夜のことだ。
それから今日まで、頭のなかで何度も、二番のフレーズがリフレインしている。
その度に、マーラーという男は、どこか狂っている、と思う。

この旋律から、なぜ、こういう展開になっていくのか。
何度も聴いている曲とはいえ、あらためてマーラーという男の頭の中は、
いったいどうなっているのか、覗けるものなら覗いてみたいと思うほどに、
強烈な展開をしていく。

聴き終って、五味先生の文章を思い出してもいた。
     *
 ところでマーラーの愛情にはウェーバー夫人も充分こたえた。知られていることだがウェーバーの未完の遺作『三つのピント』は、このときのマーラーと夫人との協力で完成された。(もっとも、どう見てもウェーバーのものではなく、マーラーの音楽で、なんといってもつぎはぎ細工の域を出ず、舞台にのせられる代物ではなかったと、アルマは書いている)この仕事にたずさわったことがしだいに二人を燃えあがらせ、ついに駆落ちを決意させる。アルマは書くのだ——「夫人に対するマーラーの愛はきわめて深かったが、最後の一歩をふみ出すことへの恐怖もそれにおとらず強かった。彼は一文無しだったし親兄弟を養わねばならぬ身だった、というわけで——彼の話によれば——マーラーと一緒に逃げるつもりでいた夫人を乗せずに汽車がすべり出したとき、彼は深い安堵の溜息をついたのだ!」——この記述がどれほど真実をつたえているかは怪しい。アルマと結婚するとき、「おれは年をとりすぎていないか?」とマーラーは自問し苦悩した。このときのマーラーは四十男だ。それが二十歳年下の女性と結婚して、思い出話に夫人との恋を語ったのである。四十男の述懐である、わずかにアルマの軽妙な筆致のおかげで、ユーモアの感じられるのがマーラーのためにも救いだろう。有体に言えば、二十八歳のそれも「禁欲者マーラー」(アルマ)が人妻と恋におち、駆落ちを決意した。その相手が駅に現われなくてホッとなどするわけがない。大袈裟に言えば絶望したにちがいない、おのれの人生に。貧しいということに。たいへん大胆な言い方をすれば、だが、そういう夫人との恋だったから〝巨人〟はあの程度の作品にとどまった。つまり大して傑作にはならなかった。真にマーラーの才能にふさわしい相手が夫人だったら、駆落ちは実行されたろう。〝巨人〟はもっと燃焼度の高い傑作になったろう。その代り、マーラーのその後の人生は変っていたろう。
〝巨人〟を聴くたびに私はそう思う。人生の出会いの重みを考える。天才に運命はない、というのが私の持論だが、マーラーほどの天才にしてウェーバー夫人との出会い、アルマとの結婚がその創作とわかちがたく結びついていること、個々の才能を超えた何ものかの摂理のもとに吾人はまだ在ることを、おもわざるを得ない。フルトヴェングラーを私は熱愛してやまないが、フルトヴェングラーの十七歳の写真がある、髭をはやし、長髪で、今のヒッピースタイルの若者と異らぬ風貌ながら、実にいい顔をした写真だ。(カルラ・ヘッカー女史の『フルトヴェングラーとの対話』—音楽之友社刊—に掲載されているから見た人も多いとおもう)私はこの写真を眺める度に、この若者ハインリッヒ・グスタフ・エルンスト・マルティーン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、今世紀最大の指揮者となり、ぼくらのフルトヴェングラーとして死んでいった六十八年の歳月を考えるのだ。いろいろなことがフルトヴェングラーにはあったし、指揮者としての彼の偉大さは、とりもなおさず作曲家であることのおかげで、「もし作曲家の立場がなかったらフルトヴェングラーは、その指揮する傑作の深奥にまで入りきることはできなかったろう」とフランク・ティースがフルトヴェングラーの書翰集を編んだ序文で書いているが、生前フルトヴェングラーと親しかったある人に言わせると、あれほど厳粛な感動を味わせてくれたぼくらの指揮者も、女性問題には至ってだらしがなかったそうだ。
 いろいろなことが人にはあるのだ。歳月がそれを浄化し、時に消去してくれる。マーラーが人妻と何をしようと、結局、マーラーの人生を語るのは彼の作品で、〝巨人〟はマーラーのものとしてはつまらない、と私は言いきる。〝巨人〟の擱筆ののちでなければ〝闇〟ははじまらないと。
(「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」より)
     *
第二番から、マーラーの〝闇〟は始まっている、と。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: 菅野沖彦

音のマエストロ「菅野沖彦の世界」に行ってきて……(その2)

その1)にコメントがあった。
《担当の方いわく、「この企画にあたって、ソニーをはじめとした各メーカーへ問い合わせてみたところ『レンタルならお貸しできますが…』と取り合ってくれなかった》
とある。

レンタルなら……、ということは有償で、ということなのだろうか。
だとしたら、なんとなさけないメーカーなのだろうか。
オーディオメーカーと、それでも胸をはれるのか。

12月12日追記
一部、私の勝手な誤解があったこと、(その3)に書いています。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(SWITCH Vol.36)

iPhoneのGoogleアプリは、私が検索したキーワードから、
私が関心をもちそうなニュースをカード型式で表示してくれる。

今日の午後、表示されたのが「SWITCH Vol.36 No.1 特集:良い音の鳴る場所 福山雅治」だった。
12月20日発売の雑誌SWITCH Vol.36の特集は、オーディオである。

まだ書店に並んでいない本(読んでいない本)の内容について、
あれこれ書くことはできないが、リンク先の内容(コンテンツ)を眺めると、
メーカー、輸入元とのタイアップ的な記事が目につく、といえばそうである。

それでもおもしろければ……、と思うが、
そのへんは20日になってみないと、なんともいえない。

個人的には、
STEREO SOUND [PLAY and REPLAY]
半世紀以上にわたりオーディオ専門誌「ステレオサウンド」が読者に伝えてきたこと、
この記事がどんな仕上がりになっているのかが、いちばんの楽しみだ。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(オーディオ少年)

いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ、と一年前に書いている。

オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: 菅野沖彦
1 msg

音のマエストロ「菅野沖彦の世界」に行ってきて……(その1)

西荻窪、南荻窪と杉並区に10年以上住んでいたので、
杉並区の中央図書館には何度も行っている。

その中央図書館の一階、CDコーナーで、
特別展示『音のマエストロ「菅野沖彦の世界」』が開催されるということを知って、
おおよそどのくらいのスペースが割かれるのかの想像はついた。

今日から開催されている。
行ってきた。
展示スペースは、想像したとおりの広さだった(広くはない)。

杉並区のウェブサイトには、「菅野氏が録音した音源の試聴コーナーもあります」と書いてある。
図書館での試聴コーナーだから、スピーカーでの音出しではないことはわかる。
ヘッドフォンでの試聴なのは理解できる。

けれど、そこにあったのは安っぽいCDラジカセとヘッドフォンだった。
菅野先生の録音はSACDでも出ている。
せめてSACDプレーヤーと良質のヘッドフォンアンプとヘッドフォンは用意できなかったのか、
と正直思う。

ステレオサウンドが、今回の展示に協力している、ともある。
確かにステレオサウンドが創刊号から展示してあった。
ただガラスケースの中に、である。

ステレオサウンドの協力とは、これだけなのか、とも思った。
せめて試聴器材の貸し出しに協力できなかったのか。

メーカー、輸入元にステレオサウンドが声をかければ、
器材を貸し出してくれるところは、いくつかあるはずだ。

ステレオサウンドが、あと一歩の協力をしていれば……、
と中央図書館に足を運んだ人は、みな思うはずだ。

今回の展示は始まったばかりである。
試聴器材の変更は可能なはずだ。

12月12日追記
一部、私の勝手な誤解があったこと、(その3)に書いています。

Date: 12月 8th, 2017
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その9)

スピーカー単体での変換効率は、圧倒的に昔の方が高かった。

アンプも真空管の時代でも、出力は、時代とともに増していった。
マッキントッシュのMC3500は350Wの出力をもつ管球式アンプである。

時代は、真空管からトランジスターへの増幅素子の移行があり、
同じ出力であれば真空管よりもトランジスターを採用した方が、アンプそのもののサイズは小さくなる。

さらに増幅方式がA級動作からB級動作、そしてD級動作となれば、
アンプの効率が高くなっていく。
そうなればアンプのサイズはますます小さくなる。

しかもA級アンプは効率が悪い、ということは、
効率の悪いスピーカー同様、熱を大量に発する。

効率の良いD級アンプは発熱も少ない。
A級アンプに不可欠だった大型ヒートシンクは、
D級アンプには不要になってくる。サイズはさらに小さく、軽くできる。

電源もスイッチング方式が増えてきている。
効率のよい電源方式である。

増幅部も電源部も効率が飛躍的に向上している。
D級動作+スイッチング電源のアンプは、小さく軽い。

こうなってくると、スピーカーの変換効率ではなく、
パワーアンプを含めた変換効率を考えると、
スピーカーの変換効率の悪さを、変換効率の高いアンプでカバーする、
いまの方が高いといえるのではないか──、そう考えることもできる。

それにウェスターン・エレクトリックのユニットは励磁型が多かった。
そうなるとユニット用に電源が必要となる。

ユニットもずしりと重かった。
アンプも出力は低くとも大きく重かった。
スピーカーユニット用の電源も同じだった。

どれだけの物慮を投入しての変換効率の高さなのか。
そのことに対しあきれもするが、わくわくもする。

つまりそれだけの物量を、変換効率の高さのために投入していた。
まさに集中のアプローチである。

Date: 12月 8th, 2017
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その8)

90dB/W/mでも高能率スピーカーといわれるようになった時代しか知らない世代、
100dB/W/mあたりから高能率スピーカーといっていた時代を知っている世代。

その差は10dBである。
この10dBの差を、非常に大きいと感じる世代に、私は属している。

喫茶茶会記のスピーカーはアルテックを中心としたシステム。
測定したわけではないが、97dBほどか、と思う。
現在市販されているスピーカーと比較すれば、圧倒的に高能率といえる数字であっても、
鳴らした感触からいっても100dBを超えているとはいえないスピーカーである。

ウーファーの416-8Cの能率がいちばん低いから、ここがシステムの数字となる。
ドライバーは100dBを超えている。
トゥイーターのJBLの075は、もう少し高い数字である。

ホーン型だから、高能率はいわば当然といえるし、
それでもウェスターン・エレクトリックのドライバーからすると、低い数字でもある。

無声映画からトーキーへと、なった時代、
アンプの出力はわずか数Wだった。
そのわずかな出力でも、映画館いっぱいに観客に満足のいく音を届けなければならない。

そのために必要なことは、スピーカーの徹底した高能率化である。
他のことは犠牲にしてでも、まず変換効率をあげること。
そこに集中しての開発だった。

いまのスピーカー開発が拡張というアプローチをとっているのに対し、
古のスピーカー開発は集中というアプローチをとっていた。

Date: 12月 8th, 2017
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク(その1)

12月のaudio wednesdayのテーマは、
「誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク」だった。

誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスクというけれど、
その前に自分で聴きたいディスクである。

自分で聴きたくないディスクを、
誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいとは、まず思わない。

けれど自分で聴きたいディスクは、
誰かといっしょに聴くことに向いているディスクとは必ずしもいえない。

そういえるディスクとそういえないディスクとがある。

今年のインターナショナルオーディオショウでの、あるブースでのことだった。
そこでは高価なオーディオ機器が鳴っていた。

私がそのブースに入ったとき、それまで鳴らされていたディスクがちょうど終ったところだった。
来場者の一人がスタッフに「このディスクを聴かせてほしい」とCDを手渡していた。

スタッフの人も気軽に応じていた。
「音量は?」とスタッフの問いに、「かなり大きめで」との会話が聞こえてきた。

どんな音楽なのかは、音が鳴るまでわからない。
音が鳴ってきた。

なんともいいようのない音楽と音だった。
演奏はプロのミュージシャンとは思えない、
それに録音もプロの仕事とは思えない。

アマチュアのバンドをアマチュアの録音マニアが録ったディスクなのか……、
と思った私は、ディスクを持参した人の顔を見た。
満足そうに聴いているように見えた。

私は、これを最後まで聴くのはタマラン、ということで、すぐに席を立ってブースを出た。
私が立ったのと同じようなタイミングで数人の人が立ち上って出口に向っていた。

この人たちが、私と同じように感じて席を立ったのかはわからない。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その12)

THE DIALOGUE(その1)」で、
ジャズ好きの人から、
「音はいいけど、音楽的(ジャズ的)にはつまらない……」といわれ、
それに反論できなかったことを書いた。

一瞬一瞬の結晶化こそがジャズだ、とすれば、
「THE DIALOGUE」ははっきりとジャズであり、
「THE DIALOGUE」をジャズでなくしているとすれば、
それは聴き手(鳴らし手)の問題である、といまならはっきりといえる。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その26)

音楽之友社から1976年末に出た「ステレオのすべて」に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏による記事
「リアリティまたはリアリスティックとプレゼンスの世界から いま音楽は装置に何を望むか」。

この鼎談は、瀬川先生の音について考えていく上で読んでおきたい記事であり、
同時に菅野先生の音について考える上でも読んでおきたい。

しかもこの年の春に出ているステレオサウンド 38号の、
いわば続きといえる内容だけに、
38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」の後に読むべき記事である。
     *
菅野 僕は瀬川さんといつもよく話すことなんだけど、瀬川さんもJBLが好きで、僕もJBLが好きで、何年か前に瀬川さんのところへ行ってJBLを聴かせていただいた時にものすごくすばらしい音だと思った。だけどそこで聴いた音はね、僕からするとまったく今我々の申し上げたプレゼンスの傾向としてすはらしい音だと思ってしびれたわけです。それで僕が鳴らしているJBLというのは今度は今いったリアルの傾向で鳴らしているわけですね。それでよくお互いに同じスピーカーを使ってまあ鳴らし方がちがうなというふうに言っているわけで、つまりこれは鳴らし方にも今製品で言ったけどね、鳴らし方にもそういう差が出てくるというね、そこまで含められてくるでしょうね。
黒田 それで今回のこの企画のことを話された時に、菅野さんのそのリアリスティックで聴くっていう話しを聞いて、僕はやっぱり以前その聴かせていただいた音がピンときている。なるほどあれはリアリスティックという言葉を好んで使いそうな男の音だと、それで瀬川さんはプレゼンスだと。全くそうだと。それはその両者がそういう言葉を頻繁にお使いになるのは当然だと僕は思ったんです。で、ただその煮つめていけばどっかで同じになっちゃうことなんで、それを何かここではっきりさせようというのがどうもその編集部の意図らしいんです。
     *
リアリスティックとプレゼンス。

ステレオサウンド50号から連載が始まった瀬川先生のリスニングルームの記事。
そのタイトルは「ひろがり溶けあう響きを求めて」であり、
これらのことを抜きにして、たんなる音のバランスだけで、
瀬川先生の音を、活字(誌面)から読みとろうとしても、無駄というよりも、
知人のように間違った方向にいくことだってある。

4年前に「4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その14)」を書いたことを、もう一度書いておく。

それでは瀬川先生の音のバランスの特長は、どこにあるのかといえば、
それは、基音(ファンダメンタル)と倍音(ハーモニクス)とのバランスにある、と推断する。

これを理解できずに、瀬川先生の出されていた「音」を、周波数スペクトラム的な観点から、や、
使用されていたオーディオ機器への観点から追い求めても、まったく似ても似つかぬ(ただの)音になってしまう。

残念なのは、基音と倍音のバランスの観点(感覚)から、
実際に瀬川先生の「音」を聴かれた人の、瀬川先生の「音」について語られているのが、ない、ということだ。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その37)

リヒテルが、ヤマハのピアノはパッシヴであり、受動的だから欲する音を出してくれる──、
そういう理由で選んだということは、彼自身がアクティヴなピアニストだからではないのか。

パッシヴなピアニストだったら、パッシヴなピアノではなく、
アクティヴなピアノを選択するのかもしれない。

アクティヴなピアニストといっても、みながみなリヒテルと同じわけではないから、
アクティヴなピアニストが、パッシヴなピアノをみな選ぶわけではなく、
アクティヴなピアノを選ぶことだってある。

ならばパッシヴなピアニストが、パッシヴなピアノを選ぶこともあろう。
四つのマトリクスがある、と考える。

ピアノをスピーカーと置き換える、
ピアニストを聴き手(オーディオマニア)と置き換える。

アクティヴな聴き手(オーディオマニア)は、
パッシヴなスピーカーを選ぶのか、アクティヴなスピーカーを選ぶのか。

パッシヴな聴き手(オーディオマニア)は、
パッシヴなスピーカーを選ぶのか、アクティヴなスピーカーをえらぶのか。

ここにも四つのマトリクスがある、と考えられる。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 1年の終りに……, audio wednesday

2017年をふりかえって(その4)

毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で行っているaudio wednesday。
今年は11回の音出しだった。
11月のみ喫茶茶会記が使えなかったので、毎回の音出しといっていいだろう。

昨年が9回だった。
昨晩のaudio wednesdayが、音出し20回目だったわけだ。

2016年1月の、最初の音出しからの20回目。
音はそうとうに変化している。

昨晩、Hさんが持参されたCDを鳴らした。
「満足です」と言って帰られた。
社交辞令でないことはわかっている。

もうひとりのHさんは、最後までおられて「ありがとうございます」と言ってくださった。

少なくとも自己満足の音は出していない、といえる。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: ディスク/ブック

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(余談)

ステレオサウンド 52号、
瀬川先生による「JBL♯4343研究」は、
プリメインアンプで4343をどこまで鳴らせるか、という企画である。

「THE DIALOGUE」も試聴レコードの一枚で、試聴記の中にも何度か出てくる。
ラックスのL58Aの試聴記にも出てくる。
     *
たとえば「ザ・ダイアログ」で、ドラムスとベースの対話の冒頭からほんの数小節のところで、シンバルが一定のリズムをきざむが、このシンバルがぶつかり合った時に、合わさったシンバルの中の空気が一瞬吐き出される、一種独得の音にならないような「ハフッ」というような音(この「ハフッ」という表現は、数年前菅野沖彦氏があるジャズ愛好家の使った実におもしろくしかも適確な表現だとして、わたくしに教えてくれたのだが、)この〈音にならない音〉というようなニュアンスがレコードには確かに録音されていて、しかしなかなかその部分をうまく鳴らしてくれるアンプがないのだが、L58Aはそこのところがかなりリアルに聴けた。
     *
《一種独得の音にならないような「ハフッ」というような音》、
たしかに、そういう音が「THE DIALOGUE」にはある。

この「ハフッ」という表現を使ったジャズ愛好家──、
一関ベイシーの菅原正二氏なのではないだろうか。

Date: 12月 7th, 2017
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その12)

岡先生は映画畑の人だった。

昨晩のaudio wednesdayでショルティのマーラーの二番をかけたあとの
「一本の映画を観ているようだった」の感想を聞いて、ふと岡先生のことをおもっていた。

岡先生がショルティの演奏を高く評価されていたことは、
ステレオサウンドを読んできた人ならば知っているはずだし、
ここでも何度か書いている。

「一本の映画を観ているようだった」をきいて、
もしかして、そうだったのかも……、おもった。
そういう面を、岡先生は感じとられていたのだろうか、と。