ネジの店(三和鋲螺)
facebookでネジのことが少し話題になっていた。
30年ほど前、インチネジが必要になった。
古いアメリカのオーディオ機器にはインチネジが使われていた。
交換の必要があるネジが数本あって、探していた。
いまならインターネットで検索すれば、わりと簡単に探せるが、
当時はけっこうな時間をかけて、やっとインチネジを取り扱っているところ、
それも小売りしてくれるところを見つけた。
神谷町駅の近くにある三和鋲螺である。
いまも変らず、同じ場所で営業している。
facebookでネジのことが少し話題になっていた。
30年ほど前、インチネジが必要になった。
古いアメリカのオーディオ機器にはインチネジが使われていた。
交換の必要があるネジが数本あって、探していた。
いまならインターネットで検索すれば、わりと簡単に探せるが、
当時はけっこうな時間をかけて、やっとインチネジを取り扱っているところ、
それも小売りしてくれるところを見つけた。
神谷町駅の近くにある三和鋲螺である。
いまも変らず、同じ場所で営業している。
別項「つきあいの長い音」について考えていると、
好きな音は、いつしか好きだった音になってしまっているのか、と考えてしまう。
10代のころ、BBCモニターとその系列の音が好きだった。
スペンドールのBCII、ハーベスのMonitor HL、
ロジャースのLS3/5A、それにPM510。
BBCモニター系の音とはいえないが、
セレッションのDitton 66、QUADのESL(ESL63は好きにはなれなかった)も好きだった。
JBLのスタジオモニターの存在に憧れながらも、
音を聴いて「あっ、いい音だな……」と呟きたくなるのは、
決ってイギリスの、それもダイアフラムが金属ではないスピーカーばかりだった。
どのスピーカーの音にも、うるおいがあった。
乾き切った音を出すことは決してなかった。
そういう音が好きな人からは、ボロクソにいわれがちでもあった。
音が湿っている、とか、鈍い、とか。
そんな評価を聞くことはけっこうあった。
けれどうるおいのない音に惹かれることはなかった。
つきあいの長い音──、私にとってそれは、意外にもJBLなのかもしれない。
いい音で、好きな音楽を聴きたい──、と思う人は意外に多いのではないか。
けれど、そのほとんどの人たちが、
オーディオを、何かとてもめんどうなことのように思っているのかもしれないし、
とてつもない金額を出さなければいい音で聴けない、と思っているのかもしれない、
住宅環境を考えたら、家で大きな音量は出せない……、
そう思って、最初から関心をもたないようにしているのか。
いい音を聴きたい、とは思っているだろうし、
いい音を聴く快感も知っている人は少なからずいる、とも思う。
けれど家で聴くことを諦めてしまっている──、
私にはそんなふうに見えてしまう。
いい音を聴きたければ、いい音で鳴っている、と巷でいわれているところへ出掛けて聴く。
家ではスマートフォンにイヤフォン(ヘッドフォン)で聴く。
いわば諦めから生じた機能的な音楽の聴き方を選択した。
この捉え方が正しいのかははっきりしないが、
こういう捉え方ができるということは事実である。
アナログディスクだけでなく、テープも復活している、と報道されることがある。
カセットテープだけでなくオープンリールテープも、人気が出てきている──、とのこと。
2016年、オープンリールデッキの新規開発のニュースがあった。
Horch House Gmbhという会社が、Project R2Rを打ち上げた。
発表から数ヵ月後に、ルボックスとの共同開発になるとの発表とともに、
外観写真も公開された。
このままうまくいくのかと思っていたら、
現在ではProject R2R関連のページはなくなっている。
こまめにチェックしていたわけではないので、途中経過のすべてを見ているわけではない。
ポシャった、ときいている。
開発はスムーズに運んだ、とのこと。
ネックとなったのは、ノイズリダクションに関することだったらしい。
いまではアナログでの実現が難しい……、
デジタル信号処理でよければ……、という提案もあったらしいが、
それではこの時代に、あえてオープンリールデッキを新規開発する意味合いが大きく薄れてしまう。
結果、このプロジェクトは終ってしまった、そうだ。
(その7)で、日本ではアナログディスク制作においても、
デジタルによるマスタリングが行われている、と書いた。
いまではアナログだけでできるエンジニアがいなくなった、ということだ。
これはなにも日本だけではないようだ。
その一方で、BALLFINGERという会社は、
Tonbandmaschine M063というオープンリールデッキを発表している。
UREIのModel 813に搭載されてるアルテックの604のように、
中高域のダイアフラムが、ウーファーよりも奥にある場合には、
ウーファー側のフィルター(ハイカットフィルター)にベッセル型を採用することで、
通過帯域内では一定の群遅延(Group Delay)がかかる。
では反対にウーファーがコーン型で、中高域がドーム型であれば、
中高域のダイアフラムがウーファーよりも前に位置する。
その場合、中高域側のハイパスフィルターにベッセル型を使えばいいのかというと、
必ずしもハイカットフィルターのようにうまくいくわけではない。
群遅延がローカット(ハイパス)とハイカット(ローパス)では、ベッセル型は違ってくる。
ローカットフィルターの群遅延は、ベッセル型よりもバターワース型のほうが良好である。
UREIはトゥイーターのローカットフィルターにはベッセル型を採用していない。
Model 813のネットワークの解説がここでのテーマではないので、
あまり細かいことは省くが、Model 813のネットワークは、
昔のスピーカーの教科書に出てくような設計ではない。
カットオフ周波数も、フィルターの種類も次数も、
ハイカットとローカットでは違うところばかりである。
同軸型という物理的な制約の多いユニットに対して、
昔の教科書的なネットワークをもってきても、
それまで多くの人が知らなかった可能性を抽き出すことはできない。
別項でも書いているように、スピーカーシステムはほんとうにコンポーネント(組合せ)だと、
Model 813について詳細を知るほどに、強く感じる。
組合せだけに、それをまとめる人のセンスが如実に、
音だけでなくアピアランスを含めてのスタイルにあらわれている。
昨晩、友人宅でヴァン・ヘイレンの、いわゆるハイレゾ音源を聴いた。
ヴァン・ヘイレンのディスクは、LPもCDも一枚も買ったことはない。
とはいえ、聴いたことがないわけでもない。
ヴォン・ヘイレンが、ハードロックなのか、ヘヴィメタル、
どちらのバンドなのかもよくわかっていない私が聴いた感想である。
ヘッドフォンで聴いた。
そのことによってよけいにそう感じたのが、
ひじょうにクリアーで、きちんと録音されている、ということだった。
そのことが意外だったし、きわめて冷静に聴いていることも意外だった。
音が塊として、こちらに迫ってくる──、
ヴァン・ヘイレンの音楽をきちんときいたことがほとんどない私にとって、
ハードロック、ヘヴィメタルと呼ばれる音楽は、そういうものだと認識していた。
なのに、なんと分離のいい音なのだろう。
分離のいいままで、すべての音がひとつの塊として鳴ってくれれば……、と思っていた。
聴かせてくれた友人も、同じに感じていると話してくれた。
ここでも、別項「Jazz Spirit Audio(audio wednesdayでの音量と音・その2)」で書いたこと、
現象なのか心象なのかについて考えさせられるし、
心象としての再現で、私がつよく求めるエネルギーの再現において、
今回のヴァン・ヘイレンは、違うベクトルなのかもしれない。
「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」で、私が「おやっ」と思ったのは、
40〜41ページに登場するカスタムオーディオアーティストのデヴォン・ターンブルの部屋である。
レコードラックの上に、オーディオ雑誌が置かれている。
そこにはステレオサウンドが数冊と管球王国も数冊。
それ以上に目に入ってくるのは、無線と実験が並んでいることだった。
写真は部屋のすべてを捉えてはいないから、
無線と実験がどれだけあるのか、数えることはできないが、25冊以上はある。
記事中には、
日本とパリで、ウェスターン・エレクトリックなどの古い機器と出合って、とある。
秋葉原にも通っていた、ともある。
無線と実験は、そのころのものなのか。
おもしろいと素直に思う。
オーディオはほんとうにおもしろい。
オーディオマニアも、実におもしろい。
ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」といえば、
ジョージ・セル指揮ウィーンフィルハーモニー(デッカ盤)が真っ先に浮ぶし、
ジョージ・セルといえば、この「エグモント」が最初に浮ぶくらいに、
私の中では「エグモント」とジョージ・セルの結びつきは強すぎるくらいに固い。
このセルの「エグモント」は長島先生が、よく試聴用レコードとして持参されていた。
もちろんLPである。
この「エグモント」は、とあるジャズ喫茶の、いわばリファレンスレコードでもある。
それまで私が聴いてきたセルのレコードは、
ほとんどがクリーヴランド管弦楽団を指揮してのものだった。
セルとウィーンフィルハーモニー、
それに序曲だけは聴いたことのある「エグモント」の全曲盤でもある。
鳴り出してきた音は、
このレコードが、ジャズ喫茶のリファレンスレコードなのだ、ということが納得できるものである。
もっとも最初に聴いた時には、まだそのことは知らなかったけれど、
後にそうだ、と聞いて、納得したものである。
セルの「エグモント」は、なかなかCDにならなかった。
1980年代後半に、音楽之友社が独自にCD化したのが最初だった。
CD化されない名盤を独自に……、という企画を、当時の音楽之友社は行っていた。
解説は、確か黒田先生が書かれていた、と記憶している。
このCDもいまは手元にない。
手離して十年ほど経ってくらいに、無性に聴きたくなった。
けれどCDは入手できなかった。
CD化されていたけれど、すぐに廃盤になったのか、
それとも音楽之友社のCD以降、デッカからは出ていなかったのか、
そこまで調べていないけれど、「えっ、いまもないのか」と思ったことははっきりと憶えている。
音楽之友社のCDは、いま聴くと印象が多少は変るのかもしれないが、
当時の印象は、LPで聴いたほどには強烈なものではなかった。
悪いわけではない……、
けれど、何かが欠けている気がする……、
そんな印象がどうしても拭い去れなかった。
いまはユニバーサルミュージックからCDが出ている。
輸入盤はないみたいだ。
12月のaudio wednesdayで、久しぶりに聴いて(かけて)みたいとおもう。
昨年の10月に(その1)を書いている。
Casa BRUTUS 200号に「A ROOM WITH SOUND 音のいい部屋」という記事が載っていることを書いた。
今日書店に行ったら、Casa BRUTUS特別編集ムック
「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」が平積みされていた。
手にとってみると、既視感のある写真がいくつかあったので、
思わず奥付の発行日を確かめてしまった。
つい最近出たムックである。
ほぼ一年前のCasa BRUTUSの記事のタイトル、ほぼそのままのムックである。
ということは「A ROOM WITH SOUND 音のいい部屋」は評判が良かったのだろう。
このムック「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」の売行きがよければ、
もしかすると来年のいまごろまたムックとして企画されるかもしれない。
それにしても書店に行くと、「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」だけでなく、
オーディオ関係のムックは意外と出ている。
ということは、いい音で聴きたい、という関心が少しずつ拡がりつつあるのか。
そういえば立川にあるシネコンCINEMA CITYでは、極上爆音上映を行っている。
つい最近、シン・ゴジラの極上爆音上映があった。
行きたいと思っていたら、いい席はほぼすべて予約で埋まっていた。
端っこの席ぐらいしか残っていなかったため、結局行かなかったのだが、
極上爆音上映は人気があるようだ(もちろん上映する映画によるだろうが)。
ここでも、いい音への関心が高まりつつあるのか、と思う。
そう思うけれど、機能的な音楽の聴き方ゆえかとも考える。
サプリーム 144号に皆川達夫氏も書かれている。
そこから、ここでのテーマに関係してくるところを引用しておく。
*
どう仕様もないぐらい鳴りの悪いスピーカーが、あなたの手にかかるとたちまち音楽的なものに生まれ変ってゆく現場をみて、わたくしのような素人にはそれがひとつの奇蹟のように思えたものでした。それもそんな大騒ぎするのではなく、アンプのツマミをふたつ、みっつさわり、コードを2、3回はめ直すだけで、スピーカーはまるで魔法がかかったように生きかえってゆく。そんなことはわたくしだって何回もやっていたのに、どうして瀬川さんがさわるとちがってしまのうだろうと、どうにも納得がゆかなかったのです。
そうした表情のわたくしに、あなたは半分いたずらっぽく半分照れながら、「これはあまり大きい声では言えませんが、オーディオの専門家だからといって誰にでも出来るというものではないんですよ」と、心に秘めた自信のほどを冗談めかしに垣間見せてくださったのも、今ではなつかしく、そして悲しい思い出になりました。
*
オーディオ店のイベントに招かれるオーディオ評論家と呼ばれている人たち。
満足のいく音で鳴っていることは、そんなに多くはない、ときいている。
そういうときに、瀬川先生ならば、皆川達夫氏が書かれているように、
《アンプのツマミをふたつ、みっつさわり、コードを2、3回はめ直す》ことで、
スピーカーの音を生き返らせたはずである。
アンプをFMアコースティックに替える、なんてことは、
オーディオ評論家、オーディオの専門家でなくとも、できることだ。
瀬川先生がいわれている、
《オーディオの専門家だからといって誰にでも出来るというものではない》と。
その意味では、アンプをFMアコースティックにかえるという手を選択した人は、
自分の力量を正確に把握している、ともいえるし、
それはプロフェッショナルとしての最低条件でもある。
アンプを替えずに、スピーカーの音をよくしていくことができないことを自覚しているのだから、
オーディオのプロフェッショナルといえるのかもしれない。
だとしても、オーディオの専門家として、
瀬川先生とは違うところに立っているオーディオの専門家でしかない。
サプリーム 144号、
池田圭氏の「写真の不思議」に、こうある。
*
昭和56年になって彼は僕の住いから歩いて5分とかからないマンションへ引越してきた。「家内とも3人の子達」とも別れ、リスニングルームを主体とした新築の家をも捨ててであった。その内情の委しいことを僕は知らないが、珍しく移転を知らせて呉れたので僕は電話をし、僕も行くから君も気軽に来て呉れよと誘った。
トリオから出版している「サプリーム」誌が、僕を中心として中野雄氏が司会役で、オーディオ愛好家を招待して鼎談を連載する企画を飯室種夫氏がたてた。その最初の人が彼で内容は皆様ご存知の通りである。彼は無口で僕一人の饒舌が多かったが、時々彼は鋭い言葉を発して僕の心胆を寒からしめた。そういう癖は、彼の文章、談話に縷々現われる。唐突に思い切ったことをいう人であった。
彼の晩年は語るも哀れであった。僕は鼎談会の後日彼をマンションに訪れた。それは一九三二年に録音されたベル研究所のステレオの復刻盤とそれを僕がWestrex 10Aで再生し録音した38cmトラックのテープを聞かせるためであった。彼は演奏することを避けた。部屋にはベル研のレコードを演奏するにふさわしいプレヤーも、またテレコも見当たらなかった。しかし彼が好んで音作りをしたというJBLの4343形スピーカーは揃っていた。そして愛用したライカが小さいテーブルに数台置いてあって、仏壇には燈明が灯してあった。元気のない上に軽い咳をつき鼎談会のときとは打って変って衰えが見えていた。にもかかわらず「西武デパート」の相談室へは注射を打って通っている由であった。「そうしないと日銭に困るんですよ」それは半ば怒りをこめた含み声であった。
その形相は僕がこれまで何人かの癌によって死亡した人に現われるものが感じられた。ステレオサウンド社の原田勲氏もしきりに入院をすすめられたが彼は承知しなかったようである。
もう駄目だと思った。彼は体の具合のいいときにベル研のステレオ・レコードの音を僕のスタジオで聞きたいと洩らしたりした。やがて夕食頃ともなったので別れを告げた。
その年の9月26日に僕は北海道に行くことになっていた。その前日どうしても彼を見舞いたいと思った。僕は何時も旅に出るとなると身に危険を感じるからである。
病室に入ると彼は何故か腰かけていた。暗い影は更に深くなっていた。「北海道から帰ったら、また来るから、もし急用のときは電話して呉れ」と言って改めて名刺を枕元に置いて別れた。
僕の生き永らえている愉しみは、いい音でいい音楽を聞くにある。人はよくいう「人生の幸福は一家の団欒にあり」と。そのような倖せがどのようなものであるか僕には見当がつかない。オーディオの実験研究に安眠さえとれないくらいである。なすべきことが山積しているのである。
彼の通夜、そして次の通夜、11月20日の葬儀と引き続き、僕のスタジオで撮影した彼の47歳とは思われぬ若さと、不思議に明るいポートレートを見ながら、苦悩を隠し果せる(おおせる)撮影の不思議を思った。と同時にあのような幼児性は何処からくるかを考えていた。
特に彼の晩年は悲しいことの連続だった。にもかかわらずあのような表情を見せたのは、あの撮影の瞬間、瀬川冬樹の脳裏に浮かんだ彼の愛好した音楽の旋律がそうさせたのかも知れない。その心に浮かんだのはバッハのであったか、モーツァルトであったか。それは判らない。
*
貝山知弘氏は、文行一致だった、と書かれているわけではない。
指向した世界が、文行一致である、と書かれている。
前々から感じていたこと。
オーディオ雑誌の編集部には、
編集長という名のマネージャー(管理者)はいても、
編集長たるリーダー(統率者、指揮者)はいない。
こんなことを書くと、
また昔は良かった的なことを書いている、と思う人が絶対いる。
けれど昔は編集部にリーダーがいたのかというと、なんともいえない。
私がステレオサウンドの編集に携わるようになったのは、
62号の途中からである。
それ以前の号に関しては、直接見てきたわけではない。
断言はできないが、なんともいえない、というのが本音である。
ある時期までは原田勲氏はリーダー的だったはずだ。
だが本当のリーダーは編集部にいなかった。
これどういうことか、これ以上書かなくともわかってくれる人は少ないけれどいる(はずだ)。
1980年代後半は、MC型カートリッジの光悦が、
幻の存在のように扱われはじめた時期である。
1970年代のHI-FI STEREO GUIDEに、光悦は掲載されている。
当時は、会社名は武蔵野音響研究所で、光悦が型番だった。
特別に高価なカートリッジではなかった。
1970年代は32,000円だった。
1981年には50,000円と80,000円とがあった。
その光悦が、いつのころからか、高価なカートリッジとなっていった。
光悦そのものについて、ここで書くつもりはない。
ただそのころ光悦は発電コイルに銀クラッド線を採用していた。
銀メッキではない。
光悦のカートリッジもまたラジオ技術で取り上げられることが多かった。
たいてい五十嵐一郎氏が新製品として紹介記事を書かれていた。
そのころのラジオ技術は手元に一冊もないので記憶に頼るしかないが、
銀クラッドの光悦の、五十嵐一郎氏の評価はなかなか良かったはずだ。
銀線と銀クラッド線は違うのはわかっている。
銀クラッド線のケーブルは聴いたことがない。
銀クラッドの光悦も聴いたことがない。
ただ五十嵐一郎氏の文章を読んでいると、
銀線の音を好まれていたるのかも……、と思ったことが何度もある。
実際のところ、どうだったのだろうか。
D44000 Paragonのデザインは、アーノルド・ウォルフだということは、
昔から知られていたし、ウォルフがどういう人なのかも、ある程度は伝えられていた。
D44000 Paragonの原型といえるスタイルを考案したのは、
リチャード・H・レンジャー(Richard Howland Ranger)であることも、
昔から伝えられていた。
けれど、どういう人物なのかは、ほとんど伝えられていなかった。
当時のアメリカで有能なエンジニアだ、ということ、
彼が考案したパラゴンの設計をJBLが買い取って、製品化したぐらいの情報だった。
リチャード・H・レンジャーの年齢もわかっていなかった。
パラゴンを考案したとき、レンジャーは幾つだったのか、
それさえも当時はわからなかった。
いまでは、WikipediaにRichard H. Rangerのページがある。
写真もある。
レンジャーは1889年6月13日生れである。
1962年1月10日に亡くなっている。
パラゴンが世に登場したのは1957年である。
レンジャーは67か68歳である。
パラゴンの構想そのものは、パラゴン誕生の10年以上前からあった、といわれている。
10年前として、57か58歳。
あらためて、すごい、とおもった。