Date: 11月 15th, 2017
Cate: 瀬川冬樹
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文行一致(その4)

サプリーム 144号、
池田圭氏の「写真の不思議」に、こうある。
     *
 昭和56年になって彼は僕の住いから歩いて5分とかからないマンションへ引越してきた。「家内とも3人の子達」とも別れ、リスニングルームを主体とした新築の家をも捨ててであった。その内情の委しいことを僕は知らないが、珍しく移転を知らせて呉れたので僕は電話をし、僕も行くから君も気軽に来て呉れよと誘った。
 トリオから出版している「サプリーム」誌が、僕を中心として中野雄氏が司会役で、オーディオ愛好家を招待して鼎談を連載する企画を飯室種夫氏がたてた。その最初の人が彼で内容は皆様ご存知の通りである。彼は無口で僕一人の饒舌が多かったが、時々彼は鋭い言葉を発して僕の心胆を寒からしめた。そういう癖は、彼の文章、談話に縷々現われる。唐突に思い切ったことをいう人であった。
 彼の晩年は語るも哀れであった。僕は鼎談会の後日彼をマンションに訪れた。それは一九三二年に録音されたベル研究所のステレオの復刻盤とそれを僕がWestrex 10Aで再生し録音した38cmトラックのテープを聞かせるためであった。彼は演奏することを避けた。部屋にはベル研のレコードを演奏するにふさわしいプレヤーも、またテレコも見当たらなかった。しかし彼が好んで音作りをしたというJBLの4343形スピーカーは揃っていた。そして愛用したライカが小さいテーブルに数台置いてあって、仏壇には燈明が灯してあった。元気のない上に軽い咳をつき鼎談会のときとは打って変って衰えが見えていた。にもかかわらず「西武デパート」の相談室へは注射を打って通っている由であった。「そうしないと日銭に困るんですよ」それは半ば怒りをこめた含み声であった。
 その形相は僕がこれまで何人かの癌によって死亡した人に現われるものが感じられた。ステレオサウンド社の原田勲氏もしきりに入院をすすめられたが彼は承知しなかったようである。
 もう駄目だと思った。彼は体の具合のいいときにベル研のステレオ・レコードの音を僕のスタジオで聞きたいと洩らしたりした。やがて夕食頃ともなったので別れを告げた。
 その年の9月26日に僕は北海道に行くことになっていた。その前日どうしても彼を見舞いたいと思った。僕は何時も旅に出るとなると身に危険を感じるからである。
 病室に入ると彼は何故か腰かけていた。暗い影は更に深くなっていた。「北海道から帰ったら、また来るから、もし急用のときは電話して呉れ」と言って改めて名刺を枕元に置いて別れた。
 僕の生き永らえている愉しみは、いい音でいい音楽を聞くにある。人はよくいう「人生の幸福は一家の団欒にあり」と。そのような倖せがどのようなものであるか僕には見当がつかない。オーディオの実験研究に安眠さえとれないくらいである。なすべきことが山積しているのである。

 彼の通夜、そして次の通夜、11月20日の葬儀と引き続き、僕のスタジオで撮影した彼の47歳とは思われぬ若さと、不思議に明るいポートレートを見ながら、苦悩を隠し果せる(おおせる)撮影の不思議を思った。と同時にあのような幼児性は何処からくるかを考えていた。
 特に彼の晩年は悲しいことの連続だった。にもかかわらずあのような表情を見せたのは、あの撮影の瞬間、瀬川冬樹の脳裏に浮かんだ彼の愛好した音楽の旋律がそうさせたのかも知れない。その心に浮かんだのはバッハのであったか、モーツァルトであったか。それは判らない。
     *
貝山知弘氏は、文行一致だった、と書かれているわけではない。
指向した世界が、文行一致である、と書かれている。

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