Archive for 9月, 2017

Date: 9月 12th, 2017
Cate: バイアス

オーディオとバイアス(ブラインドフォールドテスト・その3)

(その2)の最後に、
聴く前の思い込み、バイアスは、
そこで鳴った音がいい音であれば、いつのまにか消えてしまっている、
と書いた。

聴く前の思い込みが、そこで鳴った音で消え去ってからが、
そこで鳴った音、その音を鳴らしたオーディオ機器の音を評価することができる、ともいえる。

そう思いながらも、まったく反対のことも思っている。

昔からいわれ続けているのは、
可能性の高いオーディオ機器、能力が高いオーディオ機器ほど、
ポンと置いて接続しただけでいい音が出ることは、まずない、ということ。

スピーカーは、特にそうである。
優れたスピーカーであればあるほど、そうともいえる。

そういうスピーカーであっても、ポンと置いて……、という例もまた昔からよくいわれている。
だからこそ、使いこなしが大事だ、と何度も多くの人がいい続けてきているわけだ。

ポンと置いて接いで鳴らして、ひどい音が鳴ってきた。
それですぐ(文字通りのすぐ、である)に、そのスピーカーを手放した人も知っている。
そこまで極端でなくとも、しばらく鳴らしてもいい音にならないから、と手放す。

そういう人もいれば、絶対にいい音で鳴ってくれるはずだ、という思い込みで、
そのスピーカーと正面から取り組む人もいる。

長島先生とジェンセンG610Bとの関係は、まさにそうである。
他人からすれば執念といえるほどの思い込みによって、
そのスピーカーが、他のスピーカーでは絶対に鳴らし得ない音を鳴らすようになる。

強烈なバイアスが、オーディオには必要でもある。

Date: 9月 11th, 2017
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その4)

オーディオマニアとは、思い入れをいくつももっている人だ、と私は思っている。
あるディスクへの思い入れ、
ある演奏家への思い入れ、
ある楽器への思い入れ、
もっともこまかなところへの思い入れもあるからこそ、
オーディオに関心のない人からは理解されないほどオーディオ(音)に情熱を注ぐ。

オーディオ雑誌は、そういう人たちへの本であってほしい、
と私は勝手に思っている。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌が、ある時代、
多くのオーディオマニアが熱心に読んでいたのは、そこのところを大事にしていたからではないのか。

だから、読み手は、思い入れのあるステレオサウンドというのが、何冊かある、といえる。

雑誌に思い入れ? という人もいよう。
私もすべての雑誌に思い入れがあるわけではない。
思い入れのある雑誌のほうが、圧倒的に少ない。

だがステレオサウンドは、オーディオ雑誌である。
どっぷりオーディオに浸かってきた人たちが読む雑誌である。

そこに思い入れが感じられなくなってしまえば、
単なる情報誌である。

Date: 9月 11th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その14)

夕方、オーディオ仲間、友人のAさんの家に行っていた。
数年前までアメリカに住んでいたAさんは、アメリカに倉庫を借りていて、
そこにいろいろ保管している。

その一部を今夏アメリカで整理して、日本に送っている。
その中に、JBLのユニットがあり、それを見に行っていた。

075、375+537-500、N800である。
そのどれも何回となく見ているし、音も聴いている。
人によっては、ただ見に行くだけなの? と思うかもしれない。

音は聴いていない。見に行っただけである。
いまではスマートフォンで、そこそこきれいな写真が簡単に撮れ、
すぐに送信できるし、してもらえる。

行って直接見ることは、触れることでもある。
ひさしぶりに触った375+537-500。
見る・聴く機会はけっこうあっても、触れるのは20数年ぶりだろうか。

2441+2397の組合せよりも、375+537-500の方が重い。
ホーンが木製か金属製かの違いがある。
それに537-500にはスタンドも付属している。

375も2441も、重量は変らないが、
ホーンシステムとしての重量バランスは、
2441+2397は悪い。アンバランスである。

375+537-500はホーンが重たい分、重量バランスはずっといい。
トータル重量と重量バランスに関しては、
カタログに記載されている数値を見れば、想像がつくことではあっても、
こうやって自分の手で持ち上げてみると、思い出される感覚がある。

大切にしたい感覚だと思う。

Date: 9月 10th, 2017
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その5)

ジェラルド・モーリス・エデルマンは「記憶された現在」といっている。

味覚にしても聴覚、嗅覚、視覚など知覚のすべては、
その瞬間瞬間だけのものではなく、
過去の経験に頼っているという意味での「記憶された現在」である。

味覚だけに限っても、(その3)で書いている菅野先生のコカ・コーラの件、
その2)で書いた、私の三ツ矢サイダーの件、
どちらも「記憶された現在」だと思える。

エデルマンの「記憶された現在」も仮説なのだろうと思う。
「記憶された現在」を否定する仮説も、とうぜんあるように思う。

それでも、いまのところ「記憶された現在」には、感覚的に納得できる。

同じ場で同じ音を聴いているにもかかわらず、
まるで正反対の音の印象が出ることは、決して珍しいことではない。
聴く人が二人以上いれば、こんなことはよくある。

これも「記憶された現在」として捉えれば、なるほど、と思えるわけだ。

ケーブルで音は変らないと言い張る人がいることも、
「記憶された現在」という観点からみれば、違う側面が見えてくるのではないだろうか。

これまで聴いてきた記憶、
さまざまなオーディオ機器を比較試聴してきた記憶、
どこか、誰かの部屋で聴いた音の記憶、
そういった音の記憶の蓄積が、いつ音を聴いている瞬間瞬間に呼び起こされ、
いまそこで聴いている音に関係してくる、
もしくはひとつになって聴こえてくる。

そして、いま聴いた音もまた記憶になっていく。

Date: 9月 10th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その24)

瀬川先生の「オーディオの系譜」に、こう書いてある。
     *
 日本のオーディオ界と欧米オーディオ界との交流が少しずつ密になるにつれて、私自身も海外のオーディオ専門家と直接合って、彼らの意見を聞き議論する機会が増えはじめた。そして驚いたことは、アメリカやイギリスやその他の欧州諸国のオーディオの専門家たちが、「日本のスピーカーの音は非常に個性的だ」と、まるで口をそろえたようにいうことだった。
 どんなふうに個性的かを、とても具体的に語ってくれたのは、例えばアメリカの業界誌『ハイファイ・トレイドニューズ』の編集長、ネルソンだった。彼はこういった。
「はじめて日本製のスピーカーの音を聴いたとき、私の耳にはそれはひどくカン高く、とても不思議な音色に聴こえた。ところがその後日本を訪問して、日本の伝統音楽(例えばカブキ)や日本のポップミュージック(演歌など)を耳にしたとき、歌い手たちの発声が日本のスピーカーの音ととてもよく似ていることに気づいて、それで、日本のスピーカーがあんなふうに独特の音に作られている理由がわかったように思った。だが、日本のスピーカーが欧米に進出しようとするなら、欧米の音楽が自然な音で鳴るように改良しなければならないと思う」
 全く同じ意味のことを、イギリス・タンノイの重役で、日本にも毎年のように来ているリヴィングストンもいう。「日本のスピーカーは、日本の伝統音楽や日本のポップミュージックを再生するために作られているように私には思える。だが、もしも西欧の音楽(クラシックでもポップスでも)を、われわれ(西欧の人間)が納得するような音で再生するためには、日本のスピーカーエンジニアたちは、西欧のナマの音楽を、できるだけ多く聴かなくてはならないと思う」
 同じくイギリスのスピーカーメーカー、KEFのエンジニアであり社長であるクックは、もっと簡単に「日本のスピーカーの音はとてもアグレッシブ(攻撃的)だ」とひとことで片づける。
 これらの話は、もうあちこちで何度も紹介したのだが、しかし、彼らのほかにも、私が会えた限りの欧米のオーディオの専門家の中に、日本のスピーカーの音を「自然」だという人はひとりもいなかった。
     *
また、こうも書かれている。
     *
 もう何年か前、まだ4チャンネルの話題が騒々しかったころ、イギリスの有名なオーディオメーカー数社の人たちが、研究のため、日本のあるレコード会社を訪れて、4チャンネルの録音を聴かされた。そのときのあまりの音量の大きさに、中のひとりが、「(オレたちがオーディオの専門家と知っていて、あえてこの音量で聴かせるというのは)きっとジョークに違いない」といったという、それこそイギリス人一流のジョークが伝わっているほどだ。日常、非常に穏やかな音量でレコードを鑑賞するという点で、イギリス人は世界でも一、二を争う国民かもしれない。
 そうしてもうひとつ、彼らは、生の音、むき出しの音、品のない音、攻撃的にきつい音をひどく嫌う。日本のスピーカーの音を「攻撃的(アグレッシブ)だ」と指摘したKEFの社長レイモンド・クックの話は、既に書いたが、彼らイギリス人の耳には、JBLのモニターの音も、アグレッシブとまではゆかないにしても、やや耳ざわり(ハーシュ)に聴こえる、という。
     *
1980年ごろに書かれたもののであり、1970年代の日本のスピーカーはアグレッシヴと、
海外のオーディオ関係者の耳には聴こえていたことがわかる。

JBLの音がやや耳ざわりで、日本のスピーカーがアグレッシヴということは、
そうとうに個性的な音を鳴らしていた。
もっとも、この傾向は、瀬川先生が亡くなられた1981年以降もしばらく続いている。

確かにそういう音を、あの時代の日本のスピーカーは出していた。
けれど、それ以前はどうだったのか。

アメリカやイギリス、ドイツなどの古い時代のスピーカーを聴く機会はあっても、
日本のスピーカーの、その時代のモノを聴く機会は私にはほとんどなかった。

なので、はっきりとしたことはいえないのだが、
輪島祐介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んでいて結びついていったのは、
現在「演歌」と呼ばれる歌が登場し、流行りだした時代とオーディオブームの到来、
そしてアグレッシヴといわれる音のスピーカーの登場は無関係ではないような気がしてきた。

Date: 9月 10th, 2017
Cate: コントロールアンプ像

トーンコントロール(その5)

SE-P900とAudio Paletteとでは、
3バンドと6バンドという違いはあるが、どちらもパラメトリックイコライザーである。

価格は10倍以上違っていた。
知名度は、どちらも高いといえる。

なのにオーディオ雑誌での取り上げ方は違っていた。

たしかにマーク・レヴィンソンは話題作りがうまい男である。
でもチェロと輸入元のRFエンタープライゼスに対して、
ソニーはひじょうに大きな会社である。

それでも違いが生じたのは、そういったことよりも、
扱いやすさ、もっといえばとっつきやすさに関係していたのではないだろうか。

SE-P900に触れたことはない。
その使い勝手についてあれこれ書けるわけではないが、
パラメトリックイコライザーという、
いわばプロの現場から生れてきたといえる、ふたつの製品であっても、
SE-P900とAudio Paletteでは、まとめ方が違う。

Audio Paletteはイコライザーの中心周波数は固定である。
イコライザー帯域幅も固定である。

SE-P900は写真で見ているだけであるから、はっきりとはいえないが、
ツマミからすれば左右独立で調整が可能のようだ。
それは中心周波数、帯域幅、レベルともに左右独立と思われる。

さらに低域と高域はピーキング特性とシェルビング特性を選べるようになっている。
3バンドとはいえ、かなりこまかな調整ができる、といえよう。

SE-P900の操作性とAudio Paletteの操作性を見ていると、
まとめ方のうまさがAudio Paletteにはあり、
そのうまさとは、
パラメトリックイコライザーにふだん接していない人に対してのアプローチでもある。

Date: 9月 10th, 2017
Cate: コントロールアンプ像

トーンコントロール(その4)

3バンドのトーンコントロールということで思い出す機種がまだある。
エスプリ(ソニー)のSE-P900である。

1981年の発売、
ソニーはSE-P900をアコースティックイコライザーと呼んでいたから、
トーンコントロールと称しては失礼かもしれないが、
3バンドのパラメトリックイコライザーである。

当時のソニーの広告を見ればわかるが、かなりの力作といえる。
価格は200,000円だった。

この年の秋、テクニクスからSH8065が登場した。
33バンドのグラフィックイコライザーで79,800円、
翌年にSH8075が100,000円で登場している。

パラメトリックイコライザーとグラフィックイコライザーはひとくくりにできないが、
3バンドで20万円、33バンドで10万円。

そういう製品だけに、SE-P900の広告では、次のように謳っていた。
     *
感性を生かしたカラーレーションを試みてほしい。
と主張する以上、このイコライザーのクオリティ
TA−E900と同等(ベストペア)に仕上げてあります。
     *
TA-E900とはエスプリ・ブランドのコントロールアンプで、600,000円していた。
SE-P900は、もっと話題になってもおかしくない製品だった。
けれど、ほとんど話題になることはなかった、と記憶している。

SE-P900の三年後に登場したチェロのAudio Paletteは、あれだけ話題になったのに……、
といまはおもう。

Date: 9月 10th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスクのクリーニング(その3)

アナログディスクそのものを完全に理解しようとするならば、
化学的知識も非常に重要になってくる。
アナログディスクそのもののケア、クリーニングに関してはそうである。

アナログディスクは化学的物質であり、
それゆえに生き物的であるともいえる。

といっても私も化学的知識に詳しいわけではない。
なので受け売りなのだが、
アナログディスクの主材料の塩化ビニール(PVC)と酢酸ビニール(PVA)の化学的な結合は、
多くの炭素鎖が結び合っている状態であり、このチェーン結合は、
再生時に針先から単位面積当りかなりの圧力と、瞬間的ではあっても100度をこえる熱を受ける。

これによりチェーン結合が短く破壊される。
この状態の穴すぐディスクは硬くなり、弾力性を失った状態である。

これを防ぐのが、安定剤である。
この安定剤と化学的な結合をしやすいのが、蒸留水とアルコールであり、
化学的な結合ということは、安定剤の破壊ということである。

乾式のクリーニングでは取りきれない汚れに対しては湿式は有効である。
湿式では蒸留水とアルコールを使うことが多く、そういうリスクがある。
そのことを知らずにクリーニングをくり返すことの、長期的な怖さは頭に入れておくべきである。

化学に詳しくない私でも、この程度のことは頭に入っているわけだから、
化学の専門家がこれらのことを踏まえてクリーニング液を作っているのであれば、
問題はないのかもしれない。

その見極めは、だから肝心であり、
そのためには化学的知識がそれなりに求められる。

Date: 9月 9th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その27)

オーディオの想像力の欠如をそのままにしていたら、冒険はできない。

Date: 9月 9th, 2017
Cate: audio wednesday

第81回audio wednesdayのお知らせ(1982年10月4日)

10月のaudio wednesdayは、4日。
タイトルを見てピンと来た人は、いるはず。

35年前の10月4日に、グレン・グールドは亡くなっている。
つい先日、ソニーミュージックから最初のゴールドベルグ変奏曲のボックスが発売になった。
もちろん買ってしまった。

10月4日。
だからグレン・グールドを聴くことをテーマにしたい。
といっても小難しいことを語りながら聴こう、なんてことは考えていない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 9th, 2017
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その5)

今回試したアースの共通インピーダンスに着目した結線は、
実は昨秋、ラインケーブルで、その音を聴いてもらっている。

もっともどういう結線にしているのかはほとんど説明せずに、
ただ共通インピーダンスに着目して、という簡単な説明だけで、
マッキントッシュのMA2275のパワーアンプ部だけを使い、
ポテンショメーターでの音出しだった。

この時使ったポテンショメーターも、特に高価なものではない。
むしろ廉いモノだ。ケーブルも同じく1mあたり数百円クラスのモノである。

高価なパッシヴフェーダーが市場にはいくつかある。
高価なケーブルも、もっともっともある。
それらをあれこれ組み合わせる前に、着目してほしい点がある、ということだ。

このアースの共通インピーダンスに関しては、別に新しい問題ではない。
昔からいわれていたことでもある。

1980年代後半のラジオ技術で、富田嘉和氏が書かれていたことを読んでいる人ならば、
そして、富田氏がそれらの記事で推薦されたいた二冊の本、
「GROUNDING AND SHIELDING TECHNIQUES IN INSTRUMENTATION」と
「NOISE REDUCTION TECHNIQUES IN ELECTRONIC SYSTEMS」、
この二冊を読んでいる人ならば、思いつく結線方法である。

これらを読んでいなくとも、真空管アンプを自作したことのある人、
電源部のワイアリングにおいて、伊藤アンプの配線をじっくり見ている人ならば、
基本中の基本といえることである。

真空管アンプの電源部と違い、
ラインケーブルにおいてもスピーカーケーブルにおいても、
アースの共通インピーダンスのことを無視した結線でもハムが出るということはない。
だからなのか、つい見過されてしまう。

Date: 9月 8th, 2017
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その4)

高価になりつつあるケーブルの中には、
怪しげ、懐疑的にならざるをえないモノもある一方で、
ひじょうに興味深い構造のモノもあって、
アンプとケーブルを比較すると、
増幅よりも伝送のほうが難しいのかもしれないとおもうほど、
構成部品の少なさからは考えられないほど、音の違いが存在する。

もっともケーブルの違いにより、アンプの動作が影響を受けていることも無視できないのだが、
ケーブルによる音の違いという現象は、おもしろいと思う。

今回audio wednesdayでやったスピーカーケーブルの結線方法による音の変化は、
スピーカーケーブルをあれこれ変えることによる音の変化とは、ベクトルに違いがある。

どちらが優れているとかの問題ではなく、
現状のスピーカーケーブルの結線の仕方では、
解決できない(改善できない)領域がある、ということだ。

同じことはラインケーブルにいえ、
アースの共通インピーダンスの問題に目を向けると、
コネクターの見直しが必要となってくる。

今回、一度に結線方法をすべて変更しなかったのは、
段階ごとの音の変化を聴いてほしかったのが理由だ。

結線を変えるこちらとしては、一度にすべてやってしまったほうが楽である。

音がどのように変化したのかは、ここでは書かない。
ひとつだけ現象面だけ書いておくと、
通常の結線でも、MA7900のレベルは70%で聴いた。
三段階目の音も70%で聴いている。

ここで感じたのは、床を伝わってくる振動がはっきりと増えたことだ。
同じ70%の音量でも、通常の結線の音では、
さほど振動を意識することはなかった。

それが、振るえている、振るえている、と感じるほどになった。

Date: 9月 8th, 2017
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その3)

(その2)に書いたこと、
そんなこと普通の読者はできない、と思う人もいる。
私より若い世代の人には、きっといると思うし、
私よりもずっと若い世代になればなるほど、そう思う人の数は増えるのかもしれない。

ステレオサウンド編集部にいたときから、私は記憶力では編集部一だった。
「あの記事は?」ときかれれば、「○号です」と即座に答えられたし、
この号では、あの筆者は、こういうことを書いていた、とも答えられた。

私が一般的でないのだろうか。
必ずしもそうとは思っていない。

同世代、少し上の世代のオーディオマニアと話していると、
意外に(といっては失礼なのだが)みんな憶えているものだ。
思い出すきっかけをこちらから与えれば「あぁーっ、そうだった」と思い出す人は多い。

そういう人たちは、みな思い入れをもってステレオサウンドを読んでいた時期がある。
その時期が短いか長いか、もっと以前にずれているのか、もう少し後なのか、という違いはあっても、
それぞれにそうであり、思い入れの特に深い号というのが、何冊かは必ずある。

53号といってもすぐに思い出せなくとも、
表紙が、SUMOのThe Goldだった号といえば、たいてい思い出してくれる。

そのくらい表紙と内容とが、深く結びついていた──、
と私は思っている。
そして思い入れをもって読むことができたのだった。

思い入れをもっていた人ほど、
いまのステレオサウンドには否定的である。
それも当然だと思う。

いまのステレオサウンドがつまらない、
もっといえばダメになったのは、ここに強く顕れているし、感じられる。

雑誌という定期刊行物にとって表紙とは何なのか。
こうなってしまったのは、どこに原因があるのかは、
作っている人たちがいちばんよくわかっていることだから、
ここで指摘するようなことはしない。

Date: 9月 7th, 2017
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その10)

audio wednesdayには、喫茶茶会記に来られたお客さんが、
隣の部屋で何やら音楽が鳴っている、なんだろう……、ということで、
関心をもって覗きに来られることがあるのは、以前も書いている。

昨晩も22時ごろに、30代なかば、20代なかば、ふたりの男の人が関心を持ってくれた。
たまたま喫茶茶会記に来ていた人たちで、
オーディオに特に関心のない人たちでもあった。

彼らにも「THE DIALOGUE」を聴いてもらった。
他にも何枚かのディスクを聴いてもらった。

彼らがオーディオマニアになるか、
オーディオに関心をもってくれるようになるのかはわからないが、
昨晩の「THE DIALOGUE」の音は、少なくとも彼らの心を捉えたという手応えはあった。

Date: 9月 7th, 2017
Cate: Noise Control/Noise Design, 五味康祐

「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」(Noise Control/Noise Designという手法)

別項「Noise Control/Noise Designという手法」も、
「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」から発している考えである。