ステレオサウンドの表紙に感じること(その3)
(その2)に書いたこと、
そんなこと普通の読者はできない、と思う人もいる。
私より若い世代の人には、きっといると思うし、
私よりもずっと若い世代になればなるほど、そう思う人の数は増えるのかもしれない。
ステレオサウンド編集部にいたときから、私は記憶力では編集部一だった。
「あの記事は?」ときかれれば、「○号です」と即座に答えられたし、
この号では、あの筆者は、こういうことを書いていた、とも答えられた。
私が一般的でないのだろうか。
必ずしもそうとは思っていない。
同世代、少し上の世代のオーディオマニアと話していると、
意外に(といっては失礼なのだが)みんな憶えているものだ。
思い出すきっかけをこちらから与えれば「あぁーっ、そうだった」と思い出す人は多い。
そういう人たちは、みな思い入れをもってステレオサウンドを読んでいた時期がある。
その時期が短いか長いか、もっと以前にずれているのか、もう少し後なのか、という違いはあっても、
それぞれにそうであり、思い入れの特に深い号というのが、何冊かは必ずある。
53号といってもすぐに思い出せなくとも、
表紙が、SUMOのThe Goldだった号といえば、たいてい思い出してくれる。
そのくらい表紙と内容とが、深く結びついていた──、
と私は思っている。
そして思い入れをもって読むことができたのだった。
思い入れをもっていた人ほど、
いまのステレオサウンドには否定的である。
それも当然だと思う。
いまのステレオサウンドがつまらない、
もっといえばダメになったのは、ここに強く顕れているし、感じられる。
雑誌という定期刊行物にとって表紙とは何なのか。
こうなってしまったのは、どこに原因があるのかは、
作っている人たちがいちばんよくわかっていることだから、
ここで指摘するようなことはしない。