Archive for 8月, 2017

Date: 8月 25th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その23)

私が物心ついたときには、流行歌・歌謡曲は、
テレビから流れてくるもの、テレビで聴く音楽、という印象がすでにあった。

私が生れた熊本では、小学低学年までは民放局は一局だけだった。
上京するまでは二局だった。
新聞のテレビ欄に載る隣の福岡県の民放局の多さをうらやましく思っていたころでもある。

それでも当時は歌番組がつねに流れていた、という印象がある。
夏には懐かしのメロディをやっていたと記憶しているし、
大晦日には、とんでもない視聴率を誇っていた紅白歌合戦、
その他にもNHKでも民放でも、歌番組は人気盤組であった。

ベストテン、スター誕生など、歌番組もバラエティがあった。
そんな時代だったから、流行歌・歌謡曲は、
まずテレビで知り、テレビで歌詞とメロディを憶えた。

その前の時代となると、テレビではなくラジオ、
その前が、(その22)で書いたように映画館だったのだろう。

映画館からラジオにうつり、
映画館まで出掛ける必要がなくなった。
ラジオを買うためのお金は必要でも、
買ってしまえば、番組は無料で聴くことができる。

ラジオが一台あれば、映画館で聴く流行歌・歌謡曲よりも、
ずっと多くの曲が聴けて、しかもくり返し放送されるものは何度も聴ける。

テレビが各家庭に普及して、音だけの世界に歌手が歌っている姿が映し出される。
映画館で聴いていた流行歌・歌謡曲の時代とは違ってきている。

映画館で流行歌・歌謡曲を聴こう、という人はとっくにいなくなっていた。
私には、そんな感覚はすでになかった。

映画館で聴く流行歌・歌謡曲を、
テレビはずっと身近にしたといえる。

けれど、こと音に関してはどうだろうか。
ウェスターン・エレクトリックのトーキーシステムで聴く流行歌・歌謡曲と、
テレビ(ラジオ)についている小さいなフルレンジスピーカーで聴く流行歌・歌謡曲とでは、
流行歌・歌謡曲に親しむ、という表現のもつ意味も違ってくるはずだ。

Date: 8月 24th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その5)

ここ(つまりその5)で書こうと考えていたことと、少し違うことを書くことにする。

別項で、商売屋と職能家、と書いた。
川崎先生は、どこも同じで、商売屋と職能家がいる、といわれる。
そうなのだろう。

けれど職能家よりも商売屋が目立つ業界は衰退に向っている、といえる。
オーディオ業界がそうなのかどうかは、あえて書かない。

ここを読まれている方がひとりひとり考えてほしいことだからだ。

今年は、忖度という言葉が、流行語のひとつになるのは間違いないだろう。
忖度(そんたく)とは、他人の気持ちをおしはかること、という意味なのに、
今年における使われ方は、いい意味ではないところである。

悪い意味での忖度。
オーディオ評論家は忖度の権化のように捉える人もいよう。
昔からオーディオ評論家がやってきたことは、悪い意味での忖度。

ここまでいわれると、必ずしもそうではない、と私は否定するが、
そう思われても仕方ないところがあるのも……、と思わないわけでもない。

ただそれでもいいたいのは、オーディオ評論家が忖度を進んでやってきた、と捉えるのは、
若干の事実誤認があるといえる。

悪い意味での忖度を行ってきたのは、
オーディオ評論家よりもオーディオ雑誌の編集者であるし、
先だともいえるからだ。

オーディオ雑誌の編集者が、
クライアント(メーカー、輸入元)に対して忖度する。
そのことによって原稿が、編集者によって手直しされたり、
手直しを求められたりする。

そんなことが続けば、オーディオ評論家がオーディオ雑誌の編集者に対して忖度する。
こんなふうに書いては、また編集者から手直しされるか書き直しか、と思えば、
最初から編集者が「よし」とするものを書こうとするはずだ。

Date: 8月 23rd, 2017
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その41)

のどあたりに音源が定位するタイプのホーンであれば、
コーン型ウーファーとの組合せでは、ホーンをぐっと前につきだせば、
実音源と仮想音源の位置、どちらも合せること可能である。

ただホーンに大型のモノ、カットオフ周波数が数100Hzのモノとなれば、
コンプレッションドライバーとウーファーのボイスコイル位置を合せるということは、
ホーンの突き出し量にともない、
ホーンの固定方法をどうするかを考えなければならない。

ホーンの大半がエンクロージュアから突き出すかっこうになるから、
そのままではホーンは斜め下を向く。
それに1977年ごろに、
マランツのスピーカーシステムの設計をまかされたエド・メイがいっていること、
その40)でも書いたことが、ここでも問題になる。

コーン型とドーム型といった、ダイレクトラジエーター同士であっても、
音源位置を合せようとすると、フロントバッフルに段が生じる。

ホーン型とコーン型とでは、ホーンの突き出し量は、
ダイレクトラジエーター同士の段差よりもはるかに大きい。

ここでの反射は、とうぜんずっと大きくなる。
もちろんどんな方法にもメリット、デメリットがある、と何度も書いているように、
それでも音源の位置合せをすることによるメリットが、
反射を増えることによるデメリットよりも、聴き手にとって価値・意味があれば、
そして聴き手本人がそれで満足しているのであれば、口出しすることではない、とわかっている。

それでもホーンが大きく前に突き出している恰好は、
私は正直見たくない。
実験的に試してみても、それをそのまま自分のシステムとして使いたいと思うことはない。

Date: 8月 22nd, 2017
Cate: オーディオマニア

8月16日(商売屋か職能家か)

17歳のときに、オーディオを仕事としよう、と決めた、と前回書いた。
実際にオーディオを仕事としていた時期がある。

けれどいまは、オーディオで収入を得ているわけではない。
なのに「仕事は?」ときかれると、
「オーディオマニア」とこたえるのが私だ。

川崎先生のことばを借りれば、商売屋か職能家であるか、だ。
オーディオで収入を得ていないから、商売屋ではない。
オーディオの商売屋ではない。

「仕事は?」ときかれ、「オーディオマニア」とこたえていたのは、
無意識のうちに、オーディオの職能家とおもわれたかったからなのだろう。

オーディオで収入を得ていた時期があり、そこから離れてずいぶん経つことで、
商売屋と職能家の違いについて、正しく捉えられるようになってきたのだろうか。

これから先「仕事は?」ときかれたら、
「(職能家としての)オーディオマニア」とこたえよう。
もちろん(職能家としての)のところは、口には出さなくとも、そうこたえよう。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(漢字のこと)

親指シフトキーボードでのかな入力で、ほとんどの文を書いている。
当然、漢字に変換するかどうかを判断しながら、
また迷いながら選択していく。
時に辞書で漢字そのものの成り立ちを調べることもある。

そうやって書いている。
感じるのは、漢字は電子部品でいえば、ひとつのモジュールである。
OPアンプともいえよう。

そこにかな、カタカナ、アルファベットなどが加わる。
さながら、これらは抵抗、コンデンサー、コイルなどの電子部品のようにも感じることもある。

時に、ある種の回路図を考えているのか、と錯覚しそうになる、と書いてしまうと、
ややおおげさかとも思うが、それでもどこかそういう要素があるようになってきつつある。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: ディスク/ブック

スメタナ 交響詩「わが祖国」(その1)

ラファエル・クーベリック指揮の「わが祖国」は六枚のディスクが残されている。
六枚すべてを聴いているわけではない。

自分で買ったディスクもあれば、
どこかで聴いたディスクもある。
じっくり六枚の「わが祖国」を比較試聴したわけではない。

そんな私にとって、クーベリックの「わが祖国」といえば、
1984年のライヴ録音が、もっとも心に深く残っている。

バイエルン放送交響楽団を指揮してのオルフェオ盤は、
スメタナ没後100年、クーベリック生誕70年を記念して行われた演奏会を録音したものだ。

もう「わが祖国」を通して聴きたい、と思うことはなくなった。
それでもクーベリックの、この盤の「モルダウ」だけは、
つよく聴きたくなる時が、ふいにおとずれる。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: audio wednesday

第80回audio wednesdayのお知らせ(結線というテーマ)

9月のaudio wednesdayは、6日である。
テーマは8月に行う予定だった「結線というテーマ」である。

実というと、実験のために必要なモノを前日に用意していたにも関わらず忘れてきてしまった。
やってやれないこともなかったが、
とりあえずやってみたオカルト的要素のやや強い実験が、
予想以上に効果的だったため、それだけで時間か過ぎてしまった。

なので三回目の正直で「結線というテーマ」で行う。

どういうことかといえば、
サイズ考」でネットワークについて書いている。
そこで書いていることを、喫茶茶会記のスピーカーでも試そうというものだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 21st, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(モチベーションの維持)

三人くらいだったか、きかれたことがある。
どうやってモチベーションを保っているのか──、と。

毎日書くためのモチベーション。
このことをきいてきた人は、
毎日書くためにはモチベーションが必要と思っているのであろう。

書き始めのころはモチベーションも保てるだろうが、
二、三年と毎日書いていけばモチベーションの維持は難しい。
そう考えるのは当り前と思う。

個人サイト、ブログなどでオーディオのことを書き始めた人は、どのくらいいるのだろうか。
かなりの数のはずだ。

私が目にしたのは、おそらくその一割くらいかもしれない。
書き始めたころは毎日、もしくはかなり頻繁に更新していた人であっても、
三年ほど経つと更新頻度ががくっと落ちる、というのを目にしている。

もっと短い人だって少なくない。
頻繁にオーディオ機器を購入している人であれば、
書くためのネタに困ることはていが、
そうそうオーディオ機器をポンポンと買える(替える)わけでもてい。

中には、頻繁に更新するためにオーディオ機器を購入しているのか、と思える人がいる。
その人を滑稽とはいわない。
私にはマネできないことだから。

毎日、こうやって書いている。
何も特別なこととは思っていない。
だから書くためのモチベーションは必要ない、といえるし、
書き続けるためにはモチベーションから切り離す必要があるとも考える。

日々の営みとして、書いている。
そこまでもっていくのにもモチベーションは要らない。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(続・死と……)

死は賜(し)であるならば、
自殺をしてはならぬわけが、ようやくわかる。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(死と……)

死は賜(し)なのか、とふと思う。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 広告

LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その2)

ステレオサウンド 75号のLOUIS VUITTONの広告も、
形式としては74号と同じであり、伊東潤一氏が書かれている。

一井吴夫氏、伊東潤一氏がどういう人なのか知っているけれど、
あえて書かないでいる。

75号に登場するトランクは、大人ならば片手で持てるサイズである。
74号の大型のトランクは、当時、価格をきいたことがある。
はっきりと憶えてないから、その数字を書きはしないが、大変に高価だった。

それに比べれば75号のトランクは、小型ゆえに現実味が、多くの人にあることだろう。

74号では「コンポーネントをルイ・ヴィトンに収めてしまった」、
75号では「小型ルイ・ヴィトンに詰め込んだぼくの身の回りの文化」、
キャッチコピーにも、その違いがあらわれている。

75号のLOUIS VUITTONのトランクには、
ソニーのポータブルCDプレーヤー、パワーアンプはナカミチのPA300II、
スピーカーはヴィソニックのDavid 6000、
コントロールアンプは、シュアーのポータブルミキサーFP31(改)となっている。

74号では部屋に置かれたLOUIS VUITTONのトランクだったが、
75号ではジャガーの助手席に置かれている。

スピーカーのサイズこそどちらもそう変らないが、
システム全体の大きさと重量は大きく違う。

けれどどちらも聴く時にはトランクを開け、
聴かない(持ち運ぶ)時には、トランクを閉め鍵をかける。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その22)

1970年の終りから1980年代にかけて登場してきた真空管アンプメーカー、
それもアメリカのメーカーのいくつかは、
ラインアンプを真空管の一段増幅で構成しているものがあった。

(その21)で書いた、FET一石のゼロバイアスのヘッドアンプ的な構成のラインアンプ。
どちらもこれ以上、部品点数を減らすことはできない、という回路構成。

こちらに関しても、シンプルな回路ゆえに音の劣化が少ない、
つまり音がいい、という人がやはりいる。

いいたいところはわからなくもないが、
真空管一段構成のラインアンプも、ほんとうにシンプルといえるのか。

その前に考えたいのは、FET一石のヘッドアンプも、
真空管一段増幅のラインアンプも、入力と出力の位相が反転している、ということ。

つまりどちらも逆相アンプである。

システム全体が正相であるか逆相であるか、
そのことによる音の違いははっきりとある。

本来的にはプログラムソースを含めての、システム全体が正相であるべきで、
録音によっては逆相のものもあるし、
部分的に逆相(マルチマイクロフォン録音で、一部のマイクが逆相)もあるし、
録音そのものは正相であっても、LP、CDが逆相になっていることもある。

トータルの位相管理は、1960年代からいわれていることである。
マランツの管球式パワーアンプModel 9には、だから位相反転スイッチが設けられている。

このシステム全体の位相管理での正相・逆相を、
何度説明しても、左右チャンネルが逆相になっていることと混同する人がいる。

あくまでも左右チャンネルは同相で鳴っていての、
その上でのシステム全体の正相・逆相のことである。

Date: 8月 20th, 2017
Cate: 広告

LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その1)

別項「とんかつと昭和とオーディオ(LOUIS VUITTONの広告)」で、
LOUIS VUITTONの広告にテクニクスのSL1200が登場していることを書いたのに対してのコメントが、
facebookであった。

それを読んで思い出した。
LOUIS VUITTONの広告にオーディオが登場しているのは、以前にもあった、ということ、
それもステレオサウンドに載っていた、ということだ。

ステレオサウンド 74号(1985年春号)と75号に、
LOUIS VUITTONの広告が載っている。

このころのステレオサウンドは、「ザ・テイスト」という広告ページを用意していた。
オーディオメーカー、輸入代理店、オーディオ店などを相手にした広告ページとは別に、
「ザ・テイスト」という別枠を用意することで、新たな広告主を取り込もうとしていた。

LOUIS VUITTONの広告も、「ザ・テイスト」に含まれている。
74号のLOUIS VUITTONの広告は、かなり大型のLOUIS VUITTONのトランクに、
オーディオ機器がおさめられている写真と、
一井吴夫(いちのいひろお)氏によるエッセイとが組み合わされている。

大型のトランスの中には、
B&Oのアナログプレーヤーに、マッキントッシュのセパレートアンプとチューナー、
マランツのCDプレーヤーに、スピーカーシステムはロジャースのLS3/5Aである。

これらを収まっているわけだから、大型のトランクは、そうとうに大型である。

こういうトランクを持てる人は、自身で運ぶわけではない。
だからお付の人が運ぶものだから、大型であろうと重量がどのくらいということは、
気にするようなことではないはずだ、きっと。

一井吴夫氏の文章にあるが、
もともとは銀座のLOUIS VUITTONの店に展示してあったもの。
そこではB&Oのアナログプレーヤー、マッキントッシュのプリメインアンプとチューナー、
ナカミチのカセットデッキにスピーカーはLS3/5A。

一井吴夫氏は、将来、大型スピーカーの入る、もっと大型のトランクを、
LOUIS VUITTONに特注してみたいと思っている、とも書かれている。

Date: 8月 19th, 2017
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その2)

伊藤先生の「真贋物語(その一)」は、
「くらえども」に続いて、
「(一)名物にうまいものなし」、「(二)目黒のさんま」、「(三)さしみ」、
「(四)ビフテキ」、「(五)とんかつ」とつづく。

それぞれについて書いていきたいところだが、
そうすればいつまでたってもとんかつのことにたどりつかなくなるから、
「(五)とんかつ」について書こう。

私は14歳のときに、「真贋物語(その一)を読んだ。
二冊目のステレオサウンドだから、伊藤喜多男という人がどういう人なのか、
まったく予備知識はなかった。

「真贋物語(その一)」を読んでいくと、
どうも明治生れの人だということはわかってくる。

そういう人が、ステレオサウンドというオーディオ雑誌に、
食べもののことを書かれている。
しかも真贋物語である。

なにか独特の説得力を感じていた。

伊藤先生が書かれているのは、それぞれの料理のことであり、
外食で味わうそれである。

14歳といえば親と暮している人が大半だろう。
外食することはあまりなかった。
ほとんど家で、母がつくる料理を食べていた。

とんかつを外で食べたのは、東京に出てきてから、と記憶している。
そんな14歳の私が、真贋物語を、くり返し読んでいたわけだ。

Date: 8月 19th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(続・引用することの意味)

音の聴き方には、微分的な聴き方と積分的な聴き方とがあり、
女性はどちらかというと積分的であり、男性、それもオーディオマニアは微分的である──、
けっこう以前からまことしやかにいわれている。

完全同意はしないものの、確かにそういう傾向はあるな、とは感じている。
オーディオマニア全員が微分的な聴き方をしていて、
積分的な聴き方をしていない、とはいわないが、
微分的な聴き方に終始している人が、いるのははっきりとした事実といえよう。

微分的な聴き方と積分的な聴き方。
どちらも求められるわけだが、
美を求めていくのであれば、積分的な聴き方は絶対に求められる。

前回書いたことと、結局は同じことを書いているだけで、表現を変えただけともいえる。
積分的な聴き方の判断を形づくっているものを、こうやって確認している。

くり返し読むだけではなく、こうやって引用し書いていくことで確認している。
インターネットで公開するしないは別として、
書いていくことで、その人にとっての発見が必ずあるはずだ。