Archive for 12月, 2016

Date: 12月 14th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その19)

専門家は、ならばわかっている人なのだろうか。
もう30年ほどの前のことだ。

東京藝大でヴァイオリンを学んできた人がいた。
私よりもいくつか年上だった。
両親もクラシックの専門家だった、ときいていた。

生れたときからずっとクラシックに囲まれた環境で、
東京藝大でヴァイオリンなのだから、彼をクラシックの専門家と誰もが思っても不思議ではない。

でも彼は私に言った。
「ベートーヴェンにオペラはない」と。

ベートーヴェンにはフィデリオという歌劇がある。
クラシックを聴いてきた人ならば、誰もが知っていることである。

彼のいう「ベートーヴェンにオペラはない」は、
フィデリオという作品を知った上で、フィデリオをオペラとして認めていない、という話ではなく、
フィデリオという作品自体を知らない、というだけであった。

彼を貶めるつもりはまったくない。
彼が東京藝大で学んできたことは、おそらくヴァイオリン独奏なのだと思うからだ。
彼自身はオーケストラの一員としてのヴァイオリン奏者を目指していなかったのかもしれない。

そういう彼にとっては、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタには強い関心があっても、
それ以外の作品となると、さほどでもなかったのかもしれない。

友人の友人に、やはり東京藝大で作曲を学んできた人がいる。
私と同じ年である。
彼は卒業制作として、エレキギターを使った作品を発表したそうだ。
すると他の人たちは、きょとんとしていて、
「その楽器、なんというんですか」と訊ねてきた。
エレキギターだと答えると、
「それがエレキギターというものですか、初めて見ました、聴きました」と返ってきた。

又聞きではなく、友人の友人本人から直接聞いた話だ。
私よりもずっとずっと上の世代ならば、こんなこともあり得ると思えるのだが、
1980年代でもそうだったのである。

彼は自嘲気味に「藝大の学生は専門バカばかり」といった。
それから30年ほど経っているから、エレキギターを見たことも聴いたこともない学生はいないであろう。

でも30年前には確かにいたのである。
育った環境が違えば、そうなのである。
エレキギターの音は、テレビの歌番組から流れていた。
それでも知らない人がいるということは、環境の違いとしかいいようがない。

彼以外の学生は、みなクラシック一筋の人たちだったようだ。

彼らはそういう意味では専門バカなのだろうが、
少なくともわかったつもりの人たちではなかったようだ。
知らないこと、わからないことがあったから、彼に「その楽器は?」と訊いているのだから。

Date: 12月 14th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その17)

これからなされていく「第九」の録音で、私が聴きたいと思う演奏(指揮者)は、
もう現れてこないかもしれない──、そんな予感とともに、
パブロ・カザルス指揮のベートーヴェンの「第九」は聴きたい。
どうしても聴きたい。

録音は残っている、という話は聞いている。
ほんとうなのかどうかはわからない。
残っているのであれば、たとえひどい録音であろうと、カザルスの「第九」はぜひとも聴きたい。

カザルスの第七交響曲を聴いて、打ちのめされた。
第八交響曲もよく聴く。

第七、第八と続けて聴くこともある。
続けて聴くと「第九」を聴きたいという気持は高まる。
どうしようもなく高まっていく。

それはカザルスの演奏だから、いっそうそうなるともいえる。

カザルスのベートーヴェンの交響曲を聴いていると、
「細部に神は宿る」とは、このことだと確信できる。

カザルスとマールボロ管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲は、
細部まで磨き抜かれたという演奏ではない。
むしろ逆の演奏でもある。

なのに「細部に神は宿る」は心底からそう思うのは、
細部までカザルスゆえの「意志」が貫かれているからだ。
細部まで熱いからだ、ともいえる。

音が停滞することがない。
すべての音が、次の音を生み出す力をもっている、と感じるから、
カザルスのベートーヴェンを聴いて、
「細部に神は宿る」とはまさしくこの演奏のことだと自分自身にいいきかせている。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(続audio sharing例会でのこと)

今年のaudio sharing例会では、音を出すことを第一にやってきた。
十二回すべての音出しはできなかったが、九回は行えた。

参加してくれた人たちを見て、ある変化があった。
些細なことではあるが、12月のaudio sharing例会では、
CDプレーヤーの上にCDのケースを置く人がいなかった。

1月に行ったときは、違った。
私はオーディオ機器の上には雑共振の元となるモノは置かない。
CDのケースひとつ置かない。

これはステレオサウンドの試聴室で、井上先生から学んできたことのひとつである。

そんなこと……、と思われるかもしれない。
だがきちんとセッティングされたシステムでは、
CDプレーヤーの上にCDのケースを置いただけで、聴感上のS/N比ははっきりと劣化する。

このことは逆にいえば、CDのケースを上に置いてもその差がはっきりと聴きとれなければ、
そのシステムのセッティングにはかなりの不備がある。

この項で書いているNoise Control/Noise Designにおいて、
聴感上のS/N比には敏感でなければならないし、
CDのケースを上に置くなど、もってのほかといえる。

これまでCDプレーヤーの上に置かれたCDのケースは、他のところに移動していた。
そうした私を見てのことかもしれないが、いまでは誰もCDプレーヤーの上に擱かなくなった。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その18)

この項でとりあげている「わかったつもり」は、実にやっかいな問題である。

わかったつもりで留まっている人は、そこかしこにいる。
読み手にも残念ながらいる。
書き手には、当然のようにいる。
そしてオーディオ雑誌の作り手(つまり編集者)もだ。

わかったつもりで留まるのは、何度も書いているように楽である。
読み手をわかったつもりにさせるのも楽である。

楽であるからこそ、読み手をわかったつもりのレベルに留まらせておくほうが、
作り手にとっては好都合なのだ。

わかったつもりのレベルで、本をつくっていけるのだから。
とはいえ、オーディオ雑誌の編集において、オーディオがわかる、とはどういうことなのか。

オーディオの世界は広いし深い。
私は、オーディオのすべてをわかっているとは、到底言えない。
わかっていないことの方が、わかっていることよりも多いし、
いまわかっていることは、はっきりとわかっていることといえるけれど、
それはほんのわずかなのかもしれない。

私より、オーディオの技術的な知識の豊富な人はいる。
そういう人でも、技術的な知識が豊富なだけであって、
オーディオのことがどれだけわかっているかとなると、話は違ってくる。

ようするに誰もよくわかっていないのだ、私を含めて。
だからこそ、みなオーディオに真剣に取り組んでいる、ともいえる。

その17)の最後に引用した
《そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。》
黒田先生が書かれていること、
感覚的に理解できるようになることこそが、わかるの出発点のはずだ。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その5)

数日前のDeNAのキュレーションサイトの全面閉鎖。
このニュースを見て、(その3)に書いたような人は、
また「インターネットはくずだね」と声高に言うんだろうな、と思っていた。

閉鎖になったDeNAのキュレーションは、どれも見たことがなかったので、
そこで公開されていた記事について触れないが、
今回の問題はインターネットだけの問題なのだろうか。

DeNAのキュレーションサイトについて言及しているサイトのいくつかには、
編集者不在の問題が書かれてあった。
編集者がいないから……、はあまりにも短絡的すぎる。

ならば編集者がいたら、今回の問題は発生しないと断言できるのだろうか。

インターネットの記事は、コピー&ペーストでできるから、こんなことになるわけではない。
いまや雑誌もDTPによってつくられている。
コピー&ペーストの問題は、インターネットにも紙の雑誌にも、
つまり編集者がいることになっている雑誌にもある。

今回の問題で考えなければならないのは、編集者の存在・不在ではなく、
情報の単一性のはずだ。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その6)

一ヵ月ほど前、ラジオから山下達郎の「アトムの子」が流れた。
CDは持っていない。
ラジオから、偶然流れてくるのを何度か聴いている。

聴くたびに、思うことがある。
「アトムの子」という曲そのもののことではない。

ここでのアトムとはいうまでもなく、手塚治虫によるキャラクターであるアトムである。
だからこそおもうことがある。

「アトムの子」よりも「ブラック・ジャックの子」といえるだろうか、と。

「ブラック・ジャック」は連載開始の1973年から読んできた。
まだ小学生だった。
ブラック・ジャックに憧れて医者になろうとは思わなかったけれど、
ブラック・ジャックの生き方に、どこか憧れていた。

アトムのように生きていきたいと思う人もいれば、
私のようにブラック・ジャックのように……、とおもう人もいるだろう。

2008年9月から、このブログを書き始めて、数回「アトムの子」を聴いている。
そのたびに「ブラック・ジャックの子」といえるだけのことを書いているだろうか、と思う。

Date: 12月 12th, 2016
Cate: James Bongiorno

THE MOATのこと

ボンジョルノがGASを離れてSUMOを設立して発表したモデルは、
パワーアンプのThe Power、The Goldのほかに、THE MOATがあった。

THE MOATはパワーアンプではない。
ブリッジ接続アダプターである。
つまり入力はアンバランスで出力はバランスになっている。
ゲイン0dBのユニティアンプで構成されている。

THE MOATのmoatは、堀、環濠という意味である。
ブリッジ接続アダプターの名称としてぴったりだとは思わない。

おそらくmoatは、日本語の「もっと」だと思っている。
会社名を相撲が好きだからという理由で、SUMOとするくらいのボンジョルノだから、
パワーアンプをブリッジ接続することでパワーアップできるのだから、
もっとパワーを、という意味を込めての「THE MOAT」のはずだ。

そう確信するのにはひとつ理由がある。
THE MOATは左右のバランス出力のほかに、センター出力も持つ。
センターチャンネル用のレベルコントロール(±6dB)がついている。

パワーを「もっと」だけでなく、再生チャンネル数も「もっと」のはずだ。

1979年ごろのボンジョルノは、センターチャンネルを加えた再生を試していたのだろう。

Date: 12月 12th, 2016
Cate: 1年の終りに……

2016年をふりかえって(その2)

あと三週間ほどあるから、
もっと大きなニュースが飛び込んでくる可能性がまったくないわけではないが、
オーディオ業界で今年もっとも大きなニュースといえば、
サムスンによるハーマンインターナショナル買収合意の件だ。

このニュースを、ステレオサウンドはどう取り扱うのか。
それを楽しみにしていたけれど、201号の内容をウェブサイトで確認した限りでは、
記事にはなっていないようである。

やっぱりな、と思ったし、そういうものか……、とも思った。
ニュースは11月14日だったから、
週刊誌、月刊誌にとっては十分な時間であっても、
季刊誌のステレオサウンドにとっては一本の記事をつくるには不十分な時間だったのかもしれない。
来年春の202号に載るのかもしれない(載らないと思っているけれど)。

SNSでは、このニュースに対して悲観的なコメントが圧倒的だったけれど、
少なくともこのニュースのおかげで、ハーマンインターナショナルという企業の、
オーディオマニア的な立場からは見えていなかったところの一部を知ることはできた。

このブランドの、この部門も持っていたのか、ということも知ることができた。

日本にあるハーマンインターナショナルの体制も数年前に大きく変っている。
そのこともあって、インターナショナルオーディオショウからハーマンは撤退した。
大阪のオーディオショウではJBLを聴けても、
東京のオーディオショウではJBLが聴けないという状況が、当り前になりつつある。

ユーザー、オーディオマニアの望むところとは無関係に、企業は変化していっている。
時に非常に大きく変化することがある。

サムスンによる買収で、まったく何も変化しないということはありえない。
何が変化していくのか、変化しないのか。
どう変化していくのか。

その変化を、オーディオ・ジャーナリズムは読み手に伝えてくれるのだろうか。

Date: 12月 11th, 2016
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その21)

平面バッフル(私にとっては立体バッフル)について考えていっていると、
ピストニックモーションのスピーカーユニットの効率の悪さを改めて実感することになる。

93dB/W/mで、入力された信号の1%が音になる。
いまでは93dBを切るスピーカーが当り前になっているわけだから、
スピーカーに入力された信号の99%以上は音になっていないわけである。

スピーカーの変換効率は、昔から決して高いものではなかった。
ここでいいたい効率の悪さとは、単に数値上の変換効率だけではなく、
バッフル、エンクロージュアなどで、スピーカーユニットの前後を遮らないと、
低音に関しては、スピーカーユニットの前後の音が打ち消し合ってさらに音圧は低下することだ。

ピストニックモーションのスピーカーユニットは、前後の音の位相が180度異るため、
打ち消し合うことになる。
低い変換効率が、打ち消しが生じればさらに低くなる。

実際にはスピーカーユニットのサイズがあるため、
すべての周波数において打ち消しが生じるわけではないが、
波長が長くなるに従って、そのままでは打ち消しは無視できなくなる。

だからこそ平面バッフルに取りつけ、そのサイズが低域再生に直接関係してくるし、
エンクロージュアでユニット背面の音を囲ってしまうわけだ。

この点、ハイルドライバーは前後で同位相の音なので、打ち消し合うことは生じない。
つまりスピーカーユニット(特にウーファー、フルレンジ)が、
ピストニックモーションではなく、前後で同位相の動作方式であれば、
平面バッフル(立体バッフル)ということについて考える必要はなくなる。

けれど実際にはハイルドライバーでも、
ジャーマンフィジックスのDDDユニットであっても、
現在のコーン型ウーファーと同等の低域再生能力はもっていない。

だから、こうやってあれこれ考えている。

Date: 12月 11th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その16)

ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーのあとも、「第九」の新譜は聴いてきた。
すべてを聴いていたわけではない。
聴きたいと思った指揮者の「第九」は聴いてきた。

けれど2011年のリッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、
2012年になって輸入盤が入ってきたクリスティアン・ティーレマン/ウィーンフィルハーモニー、
これ以降なされた録音の「第九」を聴いていない。

ベートーヴェンの「第九」を聴いてみたいという指揮者がいないというのが、
シャイー、ティーレマンで留っている理由である。

聴いてみたい、と心が動かない。
そうなってしまったのは、老化なのだろうか、とも思う。

このまま、新しく録音された「第九」を聴かずに、
いままで聴いてきた「第九」をくり返し聴いていくのだろうか。

Date: 12月 10th, 2016
Cate: 1年の終りに……

2016年をふりかえって(その1)

2016年も、あと三週間ほどで終る。
今年は、毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会(次回からはaudio wednesday)で、
音を鳴らしたことが、今年の個人的な「今年をふりかえって」の筆頭に来る。

2011年2月から始めた。
来年1月で丸六年になる。
来てくれる人は少ない。

音を鳴らすようになったからといって、増えたりもしなかった。
話題の新製品の試聴を行っているわけではないし、
そんなところだろう、と受けとめている。

来てくれる人は、毎回楽しみにしてくれていると、思っている。
楽しまれている、とも思っている。

今年は九回、音出しを行った。
実験的な要素を、どこかに加えての音出しだった。

先日行った12月のaudio sharing例会でも、実験的なことをふたつほどをやっている。
今年やった実験的なことで大きかったのは、
やはり直列型ネットワークである。

ここでもウーファーとトゥイーターのどちらを優先する接続をするかに対して、
バイワイアリングでも直列型ネットワークでも、ウーファーを優先するということは、
変わりないということが、はっきりした。

ただし直列型ネットワークの場合の、ウーファーを優先する場合の接続方法は、
最初に考えていたのとは逆になる。

音を聴いて判断したうえで、もう一度回路図を見て考え直せば、
直列型ネットワークで、どちらの接続方法がウーファーを優先することになるのかは、
試聴結果と一致する。

九回の音出しをやりながら、
ステレオサウンド試聴室での試聴時の気持を思い出していた。

Date: 12月 9th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続々・吉野朔実の死)

駅の改札を出ると、その奥に書店がある。
ふだんは帰り道にある別の書店に寄ることが多い。

この書店には数えるほどしか寄っていない。
今日はふと寄ってみた。
さほど広い書店ではない。
一周するのにも時間はかからない。
そのまま出ようと思っていたが、
レジの近くに平積みになっているコーナーを見てから帰ろう、と思い直した。

目に留った装丁の本があった。
なんだろう、と手にとった本は、吉野朔実の、今日発売になったばかりのものだった。
いつか緑の花束に」だった。

帯には「吉野朔実から、あなたへ。」とある。
おそらく、これが吉野朔実の最後の本なのだろう。

これだけだったら、ここで書くつもりはなかった。
「いつか緑の花束に」には、未公開ネームが収録されている。

ネームとは、マンガになる前のいわばスケッチ的なもので、
コマやセリフの割振りが割に描かれている。

本は印刷されたものだから、それは肉筆ではない。
でも収録されているネームを読んでいると、どこか肉筆に近いといいたくなるものを感じる。

この肉筆とは、録音・再生の系では何になるのか。
そんなことを考えていた。

Date: 12月 8th, 2016
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(ある記事)

facebookで知った記事
ローカルビジネスのお手本:パナソニック流「街のでんきやさん」のすごい仕事術とは?』を読んで、
以前、この項で書いたことは、いまも健在なのだと嬉しくなった。

この項の(その18)でFORISの購入を、
家族にすすめたけれどダメだった話を書いている。
大型量販店やAmazonからは家電製品を買わないからこそうけられるサービスがある。

それをサービスといってしまうと、ほんとうのところが伝わり難くなってしまうだろうが、
ここでのサービスは、
客が売る側よりも上の立場だから──、という勘違いとは無縁のところでのサービスである。

Date: 12月 8th, 2016
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(松田聖子の声)

Noise Control/Noise Designという手法(audio sharing例会でのこと)」と関係することなのだが、
松田聖子の声が、わずかなことでよく変化する。

聴いていて、どれが松田聖子の声なのだろうか、と思っていた。
いまの松田聖子の声ではなく、以前の松田聖子の声についてである。

松田聖子の熱心な聴き手でない私は、LPもCDも一枚ももっていない。
つまり自分のシステムで松田聖子の歌(声)を聴いたことがない。

最初に聴いた、そして馴染みがあるといえるのは、
実家のテレビから流れてきた松田聖子の声である。
その音で、なんとなく松田聖子の声はこんなものだろう、という、
すこし高を括ったところがなかったわけではない。

audio sharing例会の常連、Kさんは松田聖子のCDを持参されることが多い。
それで聴く機会が増えた。

昨晩のaudio sharing例会でも松田聖子を聴いた。
ノイズコントロールの手法としていくつか試してみると、よく変る。
テレビで聴いてのイメージに近い声もあれば、これも松田聖子の声なのか、と感じる声もあった。

Kさんのなかには、確固たる松田聖子のイメージがあるのだろう。
あの声がいちばんいい、といわれる。
私は、というと、その声よりも、Kさんがあまりよいと感じていない音の方が、
もしかすると松田聖子の声に近いのかもしれない──、
そんなことを考えていた。

Kさんと私の、松田聖子の声(歌)に関する聴き方の違いは、
どちらの耳がいい悪いといったことではなく、
Kさんは松田聖子の歌(声)を好きであって、私にはそういう感情がまったくない、
というところにある、と考えていた。

昨晩鳴った音で、Kさんがいいと感じた音は、いわばKさんにとって「好い音」だったはずだ。
松田聖子に思い入れのない私は「好い音」ではなく、
「良い音」「善い音」「佳い音」のどれかををさがしていたことの違いが、
出てきた音に対しての評価の違いにつながっていた、と私は思っている。

音の聴き方は決してひとつではない。
聴感上のS/N比が……、音場感が……、音の透明度が……などなど、
そういった音の聴き方にとらわれてしまうより、
松田聖子の歌(声)であるならば、
松田聖子の歌(声)に惹かれる、魅了される、
もっといえば恋するといった聴き方をしたほうがしあわせではないだろうか。

Date: 12月 8th, 2016
Cate: audio wednesday

第72回audio sharing例会のお知らせ(audio wednesday)

2017年最初のaudio sharing例会は、1月4日(水曜日)。

テーマは決めていないが、これまで使ってきたaudio sharing例会を改めてaudio wednesdayとしたい。
といっても、常連の人たちは、これまで通りaudio sharing例会と呼ぶだろうが、
72回目から、audio wednesdayとする。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。