Archive for 10月, 2016

Date: 10月 8th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その2)

飛行機に初めて乗ったのは18のときだったから、いまから35年前。
びっくりしたというか、意外に感じたのは、音楽を聴くために用意されていたモノだった。

これも聴診器といえるモノだった。
いわゆるチューブで、ひじ掛けにある穴に挿し込むだけである。
イヤフォンやヘッドフォンではない。
振動板がチューブ内にあるわけではない。

最初はなんて原始的なモノ。
こんなのでまともに音が聴けるのか、と、
すでにいっぱしのオーディオマニアのつもりでいたこともあって、バカにしていた。

それでも機内では退屈なので使ってみると、
意外というか、原理を理解してみれば当然といえるのだが、
まともな音がしていた。

飛行機といえば、古い時代を描いている映画で爆撃機が登場すると、
操縦席と尾部とのやりとりは、電気をいっさい使わない伝声管による。
飛行機だけでなく、軍艦でも伝声管は登場する。

伝声管とは金属の管である。
マイクロフォンもスピーカーも、アンプも必要としない。
それでも数百mの距離、かなりの明瞭度で声を伝えられる、とのこと。
いまでも軍艦では、電源が喪失した場合のバックアップとして伝声管を備えているともきく。

人の声をできるだけ遠くまで届ける技術として、
伝声管はローテクノロジーといえるわけだが、決してロストテクノロジーではない。

Date: 10月 7th, 2016
Cate: 日本のオーディオ
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日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その1)

SPならばアクースティック蓄音器によって、電気を通していない音を聴くことができる。
アクースティック蓄音器が成立していたのは、SPがモノーラルレコードであったから、ともいえる。

もしステレオSPが最初から登場していたら、
アクースティック蓄音器はどういう構造になっていただろうか。

ステレオSPは実験的に作られている。
その復刻盤が30年ほど前に発売され、日本でも市販されていたので、
ステレオサウンドで記事にしたことがある。
とはいえステレオSPは特殊なディスクで、SPはモノーラルと決っている。

SPはLPになり、1958年にモノーラルからステレオになった。
パイオニアは1961年に、SH100を発売している。
当時の価格は2,650円。

パイオニアのSH100ときいて、どんな製品なのか、さっぱりという人がいまでは多いはずだ。
私も実物は見たことがない。
でも、これだけはなんとか完動品を探して出して、その音を聴いてみたい。

SH100はカートリッジとトーンアームが一体になっていて、
出力ケーブルのかわりに、聴診器がついている。

つまりステレオLPをアクースティック再生するピックアップシステムである。
ターンテーブルを回転させるのに電気は必要になるが、
信号系には電気を必要としない。しかもステレオ再生である。

こんな製品は、日本だけでなく海外にも存在しない、と思う。

SH100の存在は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」パイオニア号で知っていた。
でも当時は、こんなモノをつくっていたんだ……、ぐらいの関心しか持てなかった。

PIM16KTに関することを確認するためにパイオニア号を読んでいて、
SH100の存在に改めて気づいた。
こんな面白いモノに、いままで興味をもたなかったことを少し恥じている。

パイオニア号には、こう書いてある。
     *
 この年、世のカートリッジ屋さんに衝撃を与えるものがパイオニアから出て来た。それはステレオホンSH−100という、全くアコースティカルなメカだけでステレオLPレコードを再生しようとする、いわばサウンドボックスの現代ステレオ版であった。45/45の音溝から拾い上げられた振動は二枚のダイアフラム──それが巧妙なバランサーで位相を合せられ、聴診器のようなビニールパイプで耳穴に導かれるシクミであった。
 左右のバランスや音量は水道のコックのようなネジで調整するという、なんとも原始的というかシンプルというか、あきれたメカニズムなのである。ところがこの電気とか電子のお世話にならない珍兵器が、信じられないくらいよい音であった。いわばダイレクトヒアリングだから当然なのだが、当時技術部におられた西谷某氏のアイディアを松本会長が周年で製品化したと伝えられるが、あるピックアップメーカーの社長は、自分たちは何をしてきたか、自問して2〜3日ぼう然としてしまったと当時述懐していた。
     *
SH100の音は、音響インピーダンスのマッチングがとれている音といえるはずだ。

Date: 10月 7th, 2016
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(忘れられつつあること・その7)

電子ボリュウムの操作性の悪さ、と書いているので、
もしかしたら電子ボリュウムすべてが操作性が悪いと受け取られたかもしれない。

そんなことはない。
電子ボリュウムでも操作性に不満を感じないモノは、当り前に存在している。
すべての電子ボリュウム採用のオーディオ機器に触れているわけではないから、
どちらが多いのかを正確には把握していないが、問題のないモノの方が多いのではないだろうか。

電子ボリュウムの操作性は、一般的なポテンショメーターよりも劣るわけではない。
むしろ良くすることが可能な技術であるはずだ。
にも関わらず、操作性の悪さを残したままのモノが存在しているということ。

そのひとつがテクニクスのSU-R1であり、
しかもテクニクスのスタッフが、
レコードかけかえの作法をきちんを行っていたから、露呈したわけである。

私がテクニクスのスタッフが、仮に入力セレクターを使っていたら、何も書かなかった。
入力セレクターの切替えでやることを批判も否定もしない。
その人の考え方次第であるからだ。

瀬川先生は流れるような動作で、ボリュウム操作までを行われる。
対照的に語られるのが岩崎先生のレコードのかけかただ。

カートリッジを盤面数cm上から、文字通り落とされる。
だから、場合によってはカートリッジがバウンドすることもあった、と、
複数の人から聞いている。

けれど岩崎先生は、瀬川先生と同じように器用な指さばきで、
レコードの任意の位置に針をていねいに降ろす技術をもっていたうえでの、
そういうレコードのかけかたをされていたわけである。

作法を身につけずに、豪快といえるレコードのかけかたをされていたわけではない。

今回、この項を書いていると、
ほんとうに忘れられつつあることが見えてきたような気がする。

Date: 10月 7th, 2016
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(忘れられつつあること・その6)

レコードのかけかえごとのボリュウム操作は、
こまめにボリュウムを変えない人にとっては、非合理なこととうつるはずだ。

ボリュウム操作にこだわっていることを、
瀬川先生のマネをしていると捉えられるかもしれない。

けれど私くらいの世代(上の世代)にとって、
それはレコードをかける作法といえるのであって、身につけておくべきことと捉えていた。

オーディオは、レコードのかけかえは、
個人のリスニングルームという、いわは密室内でのことだから、
レコードのかけかえごとにボリュウム操作をするしないは、
それによって誰かに迷惑をかけるわけでもないし、誰かを不愉快にさせるわけでもない。

だから合理的だということで入力セレクターの切り替えで、
針の導入音を鳴らさないようにするのも、ボリュウムの上げ下げで鳴らさないようにするのも、
どちらをとっても自由である。

ただ私は、オーディオショウという場で、
ボリュウム操作性の悪いSU-R1を使いながらも、
入力セレクターの切替えではなく、
ボリュウム操作を選択していたテクニクスのスタッフに好感を持ったということである。

それから常にレコードのかけかえごとにボリュウム操作をするわけではない。
たとえばカートリッジ、トーンアームの調整をする際は、
ボリュウムのツマミはまったくいじらない。

トーンアームの高さ、針圧、インサイドフォースキャンセル量の調整では、
一枚のレコードに固定して、ターンテーブルは廻したままで、
針圧を少し変化させては針を降ろす。

入力セレクターも使わないから、導入音がする。
この導入音も調整時には判断要素として重要なことのひとつである。

Date: 10月 6th, 2016
Cate: 進歩・進化

メーカーとしての旬(その2)

それぞれのメーカーに旬といえる時期があることは、
私だけでなく、オーディオを長くやってきた人ならば感じていることのはず。

メーカーとしての旬についてだけ書くつもりは、特になかった。
別のテーマで書いているうちに、旬について触れようとは考えていた。

それなのにこうやって「メーカーとしての旬」というタイトルをつけて書き出したのは、
iPhoneは終った、といったことをここ数年目にしたり耳にしたりすることが増えてきたからだ。

前月、iPhone 7が発表され発売になった。
秋になる数ヶ月前から、新しいiPhoneの予想記事が増える。
断片的に流れてくる情報から、新しいiPhoneの全体像を探っていく。
けっこう当っている。
そのためiPhoneの発表そのもので、驚くような発表はなくなりつつある。

今回のiPhone 7に搭載されたFeliCa機能についても、
少し前から予想記事が出ていた。

ヘッドフォンジャックがなくなるのも、前からわかっていたこと。
ホームボタンに関してもそうである。

断片的な情報に馴らされてしまっている感もある。
同時に、新しいiPhoneにケチをつける人も増えてきたように感じている。

スティーヴ・ジョブスがいないからAppleは終った。
ティム・クックではiPhoneを革新的にするのは無理だ、とか。
iPhoneも、Androidスマートフォンと変らない、とか。

こんなことを嬉しそうに(そう見える)話したり書いたりする人にとって、
Appleの旬は過ぎ去ってしまった、iPhoneの旬は終った、と映っているのだろう。

facebook、twiterなどのSNSをやっていると、
どうしてもこんな書き込みを目にする。うんざりした気分になってくる。
そして、こういう人たちは、進歩・進化をどう捉えているのだろうか、とも思う。

だからあえて「メーカーとしての旬」とタイトルにつけて書くことにした。

Date: 10月 6th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ラックスと広告・その2)

1997年にステレオサウンドから「ラックスマンのすべて」というムックが出ている。
この本の後半に「私とラックスマン」というページがある。

ステレオサウンド執筆者のラックス観といえる記事である。
朝沼予史宏氏が書かれている。
     *
 大学を卒業後、私はマイナーなジャズ専門誌の編集者になった。そこで、長年ファンだったオーディオ評論家の岩崎千明氏を担当したことが、私の現在に至るオーディオ人生の発端となったといえるだろう。
 が、これから岩崎さんと親しくお付き合い願えると喜んだのも束の間、会社が廃業することになった。失業した半編集者4人で、新しいジャズ専門誌を創刊しようという話がまとまり、企画書を作り、方々をあたった結果、ある小さな出版社が面倒を見てくれることになった。
 私はどうしても岩崎さんの原稿を取りたいと思ったが、何しろ貧乏な出版社で大物筆者に原稿を依頼する予算が無い。それを応援してくれたのがラックスだった。「2ページ分の広告料で、ウチは縦3分の1ページの広告を入れるから、残りは岩崎さんに自由に書いてもらいなさい」という嘘のような話がまとまった。私は会社側に説明して、原稿料を奮発してもらい、岩崎さんの連載エッセイをスタートすることができた。
 当時のラックスにはオーディオ文化の向上に役立つことなら、人肌脱いでやろうという、よい意味のパトロン感覚があったような気がする。
 私はお陰で岩崎さんの原稿を取るという作業を通じ、氏のオーディオに対する精神に間近に触れることができた。それは何ものにも替え難い体験であり、自分のオーディオ観を形成する上での大きな力になった。
     *
これがジャズランドである。
ジャズランドは一時二万部を超える刷り部数だったが、
出版社が不渡りを出したため印刷の段階でストップがかかり、発行日が10日ほど遅れる。
このことで部数は激減し、廃刊になっていく。

朝沼予史宏は続けて、こう書かれている。
     *
廃刊決定が目前に迫った時、これ以上はスポンサー筋に迷惑はかけられないと思い、私は辞表を提出した。翌年、岩崎さんが亡くなられた。
     *
朝沼予史宏氏が最初に勤務された会社が倒産しなかったら、ジャズランドは創刊されなかった。
面倒を見てくれる会社がなかったら、ジャズランドは創刊されなかった。
ラックスの応援がなかったら、岩崎先生の、これらの短編はなかった。

Date: 10月 6th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ラックスと広告・その1)

岩崎先生の「オーディオ彷徨」の後半に、
それまで読んできたものとは、少し趣の異る、しかも少し短い文章が続く。
オーディオ評論というよりも、エッセイともいえるし、
どこか短編小説的でもある。

モンローのなだらかなカーブにオーディオを感じた
ゴムゼンマイの鳥の翼は人間の夢をのせる
暗闇の中で蒼白く輝くガラス球
ぶつけられたルージュの傷
雪幻話
のろのろと伸ばした指先がアンプのスイッチに触れたとき
ロスから東京へ機上でふくれあがった欲望
20年前僕はやたらゆっくり廻るレコードを見つめていた
不意に彼女は唄をやめてじっと僕を見つめていた
トニー・ベッネットが大好きなあいつは重たい真空管アンプを古机の上に置いた
さわやかな朝にはソリッドステート・アンプがよく似合う
薄明かりのなか、鳩のふっくらした白い胸元が輝いていた
音楽に対峙する一瞬その四次元的感覚

タイトルだけを並べてみた。
すべて月刊誌ジャズランドに掲載されたものである。
でも、当時の私はジャズランドという雑誌のことはまったく知らなかった。
すでに休刊になっていた雑誌だった。

けっこう後になって知るのだが、これらはすべてラックスの広告であった。
自由な時代といったらいいのか、おおらかな時代といったほうがいいのか。
少なくとも、ここに窮屈さは微塵も感じない。

このラックスの広告に朝沼予史宏氏が関わっていることは知るのは、
もっと後のこと、1997年になってからだった。

Date: 10月 6th, 2016
Cate: オリジナル

オリジナルとは(愛聴盤とは・その2)

これから先の人生で、
カスリーン・フェリアーの”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”の初期盤を、
手にすることがあるかもしれない。
その音を聴いて、「やっぱり初期盤だね」と口走るかもしれない。
高価であっても購入するかもしれない。

そうなっても私にとって愛聴盤なのは、
ディスク番号は414 623-2のCDである。
30年以上、このCDで聴いてきている。

20代後半のある時期、私はすべてのオーディオ機器を手離した。
それでもしんどい時期が続いて、持っていたディスク(LPとCD)も手離した。

カスリーン・フェリアーの”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”だけは、
どうしても手離せなかった。

あの時、これだけは手離してだめだと感じていた。
手離さなくてよかった、と思っている。

こうおもうのも、五味先生の影響なのかもしれない。

「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」を読んだことが深く影響していたからなのかもしれない。
     *
 フランクのソナタは、言う迄もなく名曲である。LP初期のころ、フランチェスカッティとカサドジュのこのイ長調のソナタを聴きに、神保町の名曲喫茶へよく私は行った。昭和二十七年の秋だった。当時はLPといえば米盤しかなく、たしか神田のレコード店で一枚三千二百円だったとおもう。月々、八千円に満たぬ収入で私達夫婦は四畳半の間借り生活をしていた。収入は矢来町にある出版社の社外校正で得ていたが、文庫本を例にとれば、一頁を校正して五円八十銭もらえる。岩波文庫の〝星〟ひとつで大体百ページ、源泉徴収を差引けば約五百円である。毎日、平均〝星〟ひとつの文庫本を校正するのは、今と違い旧カナ使いが殆どだから大変な仕事であった。二日で百ページできればいい方だ。そういう収入で、とても三千円ものレコードは買えなかった。当時コーヒー代が一杯五十円である。校正で稼いだお金を持って、私はフランクのソナタを聴きに行った。むろん〝名曲喫茶〟だから他にもいいレコードを聴くことは出来る。併し、そこの喫茶店のお嬢さんがカウンターにいて、こちらの顔を見るとフランクのソナタを掛けてくれたから、幾度か、リクエストしたのだろう。だろうとはあいまいな言い方だが私には記憶にない。併し行けば、とにかくそのソナタを聴くことができたのである。
 翌年の一月末に、私は芥川賞を受けた。オメガの懐中時計に、副賞として五万円もらった。この五万円ではじめて冬用のオーバーを私は買った。妻にはこうもり傘を買ってやった。そうして新宿の中古レコード屋で、フランクのソナタを千七百円で見つけて買うことが出来た。わりあい良いカートリッジで掛けられたレコードだったように思う。ただ、一箇所、プレヤーを斜めに走らせた針の跡があった。疵である。第三楽章に入って間なしで、ここに来るとカチッ、カチッと疵で針が鳴る。その音は、私にはこのレコードを以前掛けていた男の、心の傷あとのようにきこえた。多分、私同様に貧しい男が、何かの事情で、このレコードを手離さねばならなかったのであろう。愛惜しながら売ったのだろう。私の買い値が千七百円なら、おそらく千円前後で手離したに違いない。千円の金に困った男の人生が、そのキズ音から、私には聴こえてくる。その後、無疵のレコードをいろいろ聴いても、第三楽章ベン・モデラートでピアノが重々しい和音を奏した後、ヴァイオリンがあの典雅なレチタティーヴォを弾きはじめると、きまって、架空にカチッ、カチッと疵音が私の耳にきこえてくる。未知ながら一人の男の人生が浮ぶ。
 勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ。第一、当時LPを聴くほどの者が、千円程度の金に困るわけがあるまい。疵が付いたから売ったか、余程金の必要に迫られたにせよ、他の何枚かと纏めて売ったにきまっている。しかし、私には千円にも事欠く男の生活が思いやられた。つまりは私自身の人生を、そこに聴いていることになる。こういう血を通わせた聴き方以外に、どんな音楽の鑑賞の仕方があろうか、とその時私は思っていた。最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。忘れもしない、レコード番号=コロムビアML四一七八。——白状するが〝名曲喫茶〟のお嬢さんは美貌だった。彼女の面影はフランチェスカッティ盤に残っている。それへ私の心の傷あとが重なる。二十年前だ。二十年前の、私という無名な文学青年の人生が其処では鳴っているのである。これは、このソナタがフランク六十何歳かの作品であり、親友イザイエの結婚に際し祝いとして贈られた、などということより私にとって大切なものだ。(「オーディオ巡礼」所収)
     *
五味先生が書かれていることに、自分を重ねてのことではない。
18のころに、この文章を読んだ。

《「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。》
この一節が、そのときから心に残っている。

世間でいわれる名盤と自分にとっての愛聴盤とは違う、ということを教わっていた。

《それがレコードの愛し方というものだろうと思う。》
そうだと思う。

Date: 10月 6th, 2016
Cate: audio wednesday

第70回audio sharing例会のお知らせ(理屈抜きで聴くオーディオ・アクセサリー)

11月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

テーマは、オーディオ・アクセサリー。
ケーブルを始めとして、さまざまなオーディオ・アクセサリーを持ち寄って聴いていく。

ケーブルで音が変化することは認めている人でも、
あれはオカルトっぽいよ、と怪しむアクセサリーも集まる予定である。

オーディオ・アクセサリーには、それぞれメーカーの技術的説明がある。
それを信じる信じないではなく、11月のaudio sharing例会では、
とにかく理屈抜きで、まず音の変化を自分での耳で確認してみよう、がテーマである。

人によっては、このアクセサリーでの音の変化は認められないということがあるだろうし、
オカルトだと思っていたアクセサリーでの音の変化が大きく感じられることもあるかもしれない。

理屈は後から、その人自身で考えてもらえればいい。
とにかく11月の会では、理屈抜きで聴くが、主要なテーマである。

なので今回は強制ではないが、
アクセサリーをできれば何か持ってきていただければ、と思っている。
ケーブルでもいいし、その他のアクセサリーでもいい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 5th, 2016
Cate: 進歩・進化

メーカーとしての旬(その1)

別項でラックスのCL32、ヤマハのNS1000Mのことを書いていて、
そこには関係のないことだったから書かなかったけれど、
メーカーには旬がある、とずっと以前から思っていた。

旬はピークとは違う。
食べ物の旬と同じで、そのメーカーがノリにのっている時期があって、
旬が過ぎても、また旬がきたりする(来ないことも少なくない)。

ラックスにこれまでいくつの旬があったのははっきりといえないところがあるが、
少なくとも1970年代後半は旬だった、といえよう。

ヤマハに関しても同じことがいえる。
NS1000Mだけでなく、CA2000、CA1000III、CI、BI、C2、B2、CT7000などが現役だったころ、
確実にヤマハは旬を迎えていた。

海外のメーカーもまったく同じだ。
旬がある。
JBLも1970年代後半に、やはり旬を迎えていた。
このときの旬はすごかった(大きかった)、といえよう。

旬の長さは、同じではない。
短いときもあればけっこう続くときもある。

創業として長いメーカーは、いくつもの旬を迎えてきた。
旬を迎えるごとに、メーカーは変化していくのか。
そのメーカーのつくり出す製品はどう変化していったのか。

そのメーカーだけでなく、旬を迎えたメーカはまわりはどういう影響を残していったのか。
それらのことをふりかえりながら、書いていこうと考えている。

Date: 10月 5th, 2016
Cate: オリジナル

オリジナルとは(愛聴盤とは・その1)

愛聴盤とは、きわめて個人的なモノというより、コトだと思っている。

愛聴盤は、必ずしも世間で名盤といわれているのと同じではない。
あるレコードとであう。
その日から、いまに到るまで、短くない時間、傍らにそのレコードがあり、
決して頻繁にではなくとも、なにかことあるごとに聴いてきたレコードが、
誰にでもあるはずだし、それこそが愛聴盤のはずだ。

私にとっての愛聴盤の一枚は、カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデルのアリア集だ。
私は、このディスクをCDで知った。
輸入盤だから、”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”で、
ディスク番号は414 623-2である。

輸入されたばかりのころ買った。
1985年のことだ。
まだまだCDの音には未熟なところが残っていた。
それでも、このCDからの音に耳(心)を奪われた。

LPも欲しくなった。もっといい音で聴きたいというおもいがあったからだ。
期待して聴いた。CDの方がフェリアーの声がよかった。
どちらが心にしみてくるかといえば、CDだったのが意外だった。

このことがあった数年後、レコード芸術にイギリスのレコード店の広告が目に留った。
いわゆる初期盤、オリジナル盤を扱うレコード店である。

当時はインターネットはない。郵便でのやりとりだった。
リストが送られてくる。欲しいモノにチェックして返送する。
在庫があれば購入できるし、入金の案内がまた郵便で届く。
入金すれば、しばらくしてレコードが届く。

そうやってLPを買っていた。
ここでフェリアーのLP(初期盤)を探したかというと、しなかった。
初期盤であれば、CDよりもいい音で聴けるであろうとは思いつつも、
このときすでに”KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、私の愛聴盤になっていたからである。

Date: 10月 5th, 2016
Cate: ショウ雑感

2016年ショウ雑感(その19)

インターナショナルオーディオショウで、そういうことまで聴きとれるのか。
難しいともいえるし、そうでもないといえる。

昨年、試作品のNS5000を聴いていて、欲しいという気持が芽生えてきた。
一年経って、どれだけ音が磨き上げられるのか。
その音を聴いて、欲しいと言う気持がもっと強くなるのか。

これも瀬川先生が言われていたことなのだが、
本当に欲しいスピーカーは、どんな条件で聴いても直感でわかるもの、である。

女性にも例えられていた。
運命の人というのは、初対面で、
たまたまその人の体調が悪かったり、化粧ののりが悪かったりしていても、
直感で運命の人とわかるように、スピーカーも同じである、と。

昨年、NS5000でディスクがかけかえるごとに欲しい、という気持は高まっていった。
今年は逆だった。
欲しい、という気持がまったく湧いてこなかった。
聴くほどに、優秀なスピーカーですね……、と冷静になっていく。

こうなるのを昨年から危惧していた。

念のためくり返し書いておくが、
完成品のNS5000は優秀なスピーカーである。
聴感上のS/N比もわかりやすい方向で向上している。

一年間、販売店などで試聴会を開き、さまざまな意見を聞いてきて、
仕上げてきた結果としてのNS5000の世評は、試作品のNS5000よりも高いはずである。

Date: 10月 4th, 2016
Cate: ショウ雑感

2016年ショウ雑感(その18)

アキュフェーズのブースでヤマハのNS5000を聴いて最初に感じたのは、
聴感上のS/N比が向上している、ということだった。
同じことを、ヤマハのブースでも感じた。

あくまでもインターナショナルオーディオショウでの印象なのだから、
断定的なことはいえないが、ほぼ間違いなく聴感上のS/N比は向上している、とみていいはず。

聴感上のS/N比については、これまでも書いてきた。
基本的に聴感上のS/N比を向上させるのは、いいことというか、正しいことといっていい。

けれどヤマハのブースで聴いていて感じたのは、
わかりやすい聴感上のS/N比の向上のような気がした。

このことになると厳密な一対比較でなければはっきりとしたことはいえないのはわかっている。
それでも、そう感じたのは、
どのディスクも空調のきいたスタジオで演奏しているように聴こえるからだ。

音楽は肉体運動から奏でられる。
人はただ立っているだけでも熱を発している。
まして楽器を弾くという運動がくわわれば、発せられる熱量は増す。
人が多ければそれだけ熱量は増える。

にも関わらず完成品のNS5000で鳴らす音は、そこのところが希薄になっている。
演奏という肉体運動で熱量が増しても、それに応じて空調の効きも増して、
その熱量を抑え込んでしまう、とでもいおうか、そんな感じがした。

試作品のNS5000も、いわゆる熱い音を聴かせるタイプではない。
それでも完成品のNS5000ほど稀薄ではなかった……はず、と思いながら聴いていた。

わかりやすい聴感上のS/N比の向上は、
NS5000を優秀なスピーカーという領域に留めてしまったのではないだろうか。

優秀なスピーカーは、他にもいくつもある。
そこにNS5000というスピーカーが加わっただけではないのか。

Date: 10月 4th, 2016
Cate: 型番

パイオニアの型番(ユニット)

パイオニアのスピーカーユニットで、最も知られているのはPT-R7だろう。
PT-R7の型番は、Pioneer Tweeter-Ribbonの頭文字であることは、すぐにわかる。
末尾の7は、リボンの長さ(7cm)を示している。
なのでPT-R5のリボンの長さは5cm。

パイオニアのトゥイーターはすべてPTで始まる。
ウーファーはPioneer Wooferの頭文字PWで始まる。
スコーカーはPioneer Midrangeの頭文字PM、
コンプレッションドライバーはPioneer DriverでPD、ホーンはPioneer HornでPH。

ここまではわかるのだが、フルレンジユニットとなると、さっぱりだった。
パイオニアのフルレンジにはPEシリーズ、PIMシリーズ、PAXシリーズがあった。

最初のPはPioneerだということはすぐにわかる。
けれど次に続く文字の意味がわからない。

PEの「E」はおそらく拡張の”expand”ではないかと思う。
周波数特性をみてもPIMシリーズよりもレンジは広い。
では残りはどういう意味なのか。

PAXは同軸2ウェイにつけられている型番。
同軸の”coaxial”からaxをとったのだろうか。
少し強引すぎる気もする。
もしかするとPioneer Axiom(公理)で、PAXなのかもしれない。

最後までわからなかったのがPIMである。
Pioneer Mechanical 2wayの略ということ。
PioneerからPIとMechanicalのMで、PIMである。
電波科学1974年4月号に載っていると、PIM16KTを譲ってくださった方からの情報である。

Date: 10月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その30)

私が瀬川先生から、今回書いた話をきいたのは高校生のときだった。
いま思えば、その後体調を崩されて最初の入院をされている。

インターナショナルオーディオショウでは、
「スピーカーの存在が消える」を聞いても憶い出したが、
ヤマハのNS5000の音を聴いても、このことを考えていた。

NS5000の音──。
昨年のプロトタイプの音、今年の完成品の音。
ふたつの音のあいだには一年という時間があって、
正確には比較判断できるわけではないが、感じたことは違っている。

感じたことのひとつは、ここで書いていることに関係しているし、
この点で、完成品のNS5000の音にはがっかりしている。
もうひとつは別項「Noise Control/Noise Designという手法」に関係してくることである。

同時に、私の裡では「肉体の復活」とも深く関係してくるであり、
このことは「五味オーディオ教室」の冒頭に書かれていたことであり、
オーディオに興味を持ったときからの、考え続けていることである。

オーディオの世界において、
「スピーカーの存在が消える」「オーディオの存在が消える」のは、
オーディオらしさの消失ではないだろうか。

それを求めていくのも、ひとつの道とは思うが、
それは技術者、研究者が目指す道のひとつだとも思う。