Archive for 8月, 2016

Date: 8月 25th, 2016
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その2)

見事ではなく美事とすれば、
ステレオサウンドが50年を迎えることは、
オーディオ雑誌として季刊誌としては、見事とはいえようが、
いまの(というかここしばらくの)ステレオサウンドは美事といえるだろうか。

私は美事であってほしいと願っている。
願っているのだから、美事ではないと思っているわけだ。

これを書いている私も、あと10年すれば、
オーディオマニアとして50年を迎えることになる。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(映画と音)

映画「シン・ゴジラ」の公開にあわせて、
Huluは7月1日から、ゴジラの映画を一作目から順次公開していった。
ゴジラの公開のあとには、ガメラの公開が始まった。

ゴジラもガメラも、最初の数作を除いて、小学生のころ、映画館で観ている。
あのころの映画は、冒頭でタイトルが大きく映し出される。

タイトルの下には、決って”Litton-Westrex”のロゴがあった。
小学生には、それが何を意味するのかはわからなかったし、知ろうともしなかった。

仮に身近な人に、あれは何? ときいたところで誰も知らなかった、と思う。

いまはもちろん知っている。
そうか、このころの映画は、冒頭で表示されていたのか、
知らず知らずのうちにWestrexの名前を見ていたか、と思うと同時に、
いつのころからか、Litton-Westrexはなくなり、代りにDolbyである。

いまやほほすべての映画といっていいだろう、
映画のエンドクレジットにはDolbyのロゴが表示される。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 200号に期待したいこと(その2)

〆切本」が8月下旬に発売になる。
90人の書き手の〆切にまつわる話を収録したもの。おもしろそうな本だと思う。

9月になったら発売されるステレオサウンド 200号。
200号に、〆切話が載っていたら……、とちょっと期待してしまう。

瀬川先生、岩崎先生は遅かった、と聞いている。
それでも大関クラスで、横綱は五味先生だったそうだ。

私がいたころでも、〆切に関する話はいくつかある。
原田勲会長からきいた瀬川先生と五味先生の話は、実に興味深いものだった。

もしかするとステレオサウンド 200号に乗っているかもしれないから、
どういう違いがあったのかについては書かない。

Date: 8月 24th, 2016
Cate: ジャーナリズム
1 msg

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その4)

情報がBGM化していく時代のような気がしてならない。

情報はinformationだから、background informationでBGIか。
でも情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、BGMとなる。

音楽の聴き方も、ある意味BGM(background media)的になりつつあるような気もする。
こう書いておきながら、こじつけようとしているのではないか、という自問もある。

それでもウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・レイプ」とは、
こういうことを指しているのではないか、ともやっぱり思えてしまう。

その2)で書いているように、
ウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・セックス」と「メディア・レイプ」は、
30年近く前に読んではいるけれど、タイトルだけが印象として残っているだけである。

ウィルソン・ブライアン・キイがどういう糸で「メディア・レイプ」と使ったのか。
不思議なくらいに思い出せない。

だから、ここでの「メディア・レイプ」は、
ウィルソン・ブライアン・キイのそれとは違う意味で使っている可能性がある。
それでもBGM(background media)とメディア・レイプはいまつながりつつある、
もしくは融合しつつある──、と考えるのは根本から間違っていることなのだろうか。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: prototype

prototype(L400とDitton 99)

L400とはJBLのコンシューマー用スピーカーの型番。
Ditoon 99は型番からわかるようにセレッションのスピーカーのことである。

L400? Ditton 99?
そんなスピーカー、あったっけ? となるのが当然である。
どちらもプロトタイプ留りで、市販されることはなかった。

L400については、ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界」’77年で、
岩崎先生が、その存在について語られている。
型番からわかるように、4343をベースにしたコンシューマー板である。
つまり4ウェイのシステムである。

L400については、当時の輸入元だった山水電気の西川さんに訊いたことがある。
プロトタイプは確かにできあがっていた、とのことである。

Ditton 99については「コンポーネントステレオの世界」’78年の巻末、
「新西洋音響事情」でセレッションの社長アルドリッジが語っている。

1978年春に登場予定だったDitton 99は、
38cm口径ウーファーに、20cm口径ミッドバス、上二つのユニットはドーム型が受け持つ、
これも4ウェイのシステムである。

アルドリッジは「我々もこのモデルには大きな期待を寄せています」と語っていた。

Ditton 66は30cm口径のウーファーに同口径のABR(パッシヴラジエーター)付きの3ウェイだった。
Ditton 99はウーファーがひとまわり大きくなる。
ABRは使われないのか、それとも付きなのか。
ABR付きだとしたら、Ditton 66よりも背の高いプロポーションになる。

けれど1978年春になっても出なかった。
代りに出たのはDitton 66の改良版といえるDitton 662だった。

ただDitton 662も、Ditton 66の改良版だったのか、と疑問に思うところもある。
セレッションはDitoon 662のあとに、SL6を1982年に出す。
SL6が話題になり、その陰にかくれるように1983年にひっそりと、
Ditoon 66 SeriesIIが登場しているからだ。Ditton 662 SeriesIIではなく、66に戻っている。

売れないと判断があって、L400もDitton 99も登場しなかったのだろう。
そうだとしたら、なぜ売れないと判断したのだろうか。
もしくは他に理由があったのだろうか。

私はどちらも聴いてみたかった。
特にDitton 99は、聴きたかった。
Ditton 66のことを考えていたら、Ditton99のことを思い出してしまった。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その8)

ステレオサウンド 42号についていたアンケートハガキ(ベストバイ・コンポーネントの投票)、
この記入は考え方次第で、楽にもなるし、考え込むことにもなる。

知っている範囲で、欲しいと思うコンポーネントのブランドと型番を、
各ジャンルで書いていくのであれば、楽である。
自分で買えるかどうかはこの際考えない。

とにかく「欲しい」と思うモノを記入していく。
その結果、どういう組合せになるだろうか。

ひとりの人間が「欲しい」と思うモノだから、
スピーカーにしてもアンプにしても、カートリッジにしても、
音の傾向がまるで違うモノが並ぶことは、原則としてはあり得ないはずだ。

けれど実際は違う。
編集部にとってアンケートハガキは、興味深いものである。
編集部に戻ってくるハガキの数は、読者のすべてではないことはわかっている。
送ってくる人よりも送らない人のほうが圧倒的に多い。

それでも最新号が書店に並んで数日後、
ぽつぼつとアンケートハガキが戻ってくるのに目を通すのは、楽しかった。

読者の選ぶベストバイ・コンポーネントの集計は、私が担当していた。
だからよくわかっている。
アンケートハガキには、投票機種の記入だけでなく、
現用機種の記入欄もあったから、そこから読みとれることはいくつもあるといえる。

感じたのは、意外にも組合せとしてちぐはぐに感じられるモノが並んでいるハガキがあること。
それも少なくなかった、ということ。

42号でのアンケートハガキでの記入で、
私がいちばん考えたのは、組合せとしてどういう音を聴かせてくれるのか、だった。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その3)

B&Oのスピーカーシステムは、それまでにわずかとはいえ聴いたことがある。
Beovox MS150などを、ステレオサウンド試聴室で聴いている。
惚れ込むまではいかなかった。

B&Oはデンマークのメーカー。
でもそのスピーカーの音に、北欧的なものを感じることはできなかった。
同じトランスデューサーでもカートリッジのMMCシリーズの方が、
なるほどB&Oは北欧のメーカーなんだ、ということを認識させてくれていた。

MMCシリーズの音を、無意識にBeovoxシリーズにも期待していたのだろう。
勝手な期待とは違う音が出てきただけのこと、ともいえよう。

そんなことがあったからCX100から、MMCシリーズに通ずる音が鳴ってきたのには、嬉しくなった。
10cm口径のコーン型ウーファーを上下に配し、中間にドーム型トゥイーターをはさむという、
いわゆる仮想同軸配置をとる、このスピーカーのエンクロージュアもまたアルミ製である。

ヴィソニックのDavid 50もアルミ製のエンクロージュアで、10cm口径のウーファー。
しかもエンクロージュアの横幅は、ユニット幅ぎりぎりにおさめられている。

LS3/5Aも10cm口径ウーファーだが、エンクロージュアの横幅は19cm、
CX100は11cmと、David 50も10.7cmとここにも共通するところがある。

それにCX100もDavid 50も、さまざまな使い方に対応できるようブラケットも用意されていた。
壁にかけることもできた。机の上に置くのもいい。

専用スタンド上に置いて、
スピーカー壁から十分に離したセッティングを要求するスピーカーとは、ここが違う。

しかも高価なアンプも要求することもない。
もちろんアンプのグレードを高めていけば、それに対応していくが、
それこそBOSEが101MM用に発売した1701で、魅力的な音が損なわれてしまうことはない。

細やかでいながら、芯のしっかりした音は、David 50と共通するところであろう。

瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」で書かれたことをもう一度引用しておく。
     *
たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
     *
CX100は、まさにぴったりといえたし、そのクォリティは、ほどほどに、というレベルを超えていた。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その2)

ヴィソニックの小型スピーカーというよりも、
ミニスピーカーといった方がぴったりくるサイズのモデルは、
David 30、David 50、David 60、David 80、David 100があった。
ウーファー口径は30と50が10cm、60は13cm、80は17cm、100は20cm。
トゥイーター口径は30と50が1.9cm、60が2.5cm、80と100が3.7cm(スコーカー)と1.9cmで、ドーム型。

エンクロージュアはアルミ製だったはずだ(残念なことに現物を見たことがない)。
ネットもアルミ製だった。

Davidシリーズは30が302に、50が502、60が602、80が803に型番が変更になった。
まずオーバーロードインジケーターが付いた。
おそらくいい音がするものだから、
ついパワーをいれすぎてユニットを飛ばす人が少なかったのだろう。

David 50が502になり、トゥイーターがカタログ上では2.0cmになっている。
クロスオーバー周波数は1.8kHzから1.4kHzに下がっている。

David 50は1976年、David 502は1978年、
1979年にはDavid 5000になり、エンクロージュアの形状も変更になっている。
トゥイーターは2.5cmになり、クロスオーバー周波数は2.5kHzになっている。

このころにはDavidシリーズの他に、Expulsシリーズ(フロアー型)も展開するようになった。

David 50の系譜は聴いてみたかった。
けれど私がステレオサウンドで働くようになったころはまだ現行製品だったが、
セレッションのSL6が登場し、小型スピーカーが大きく変ろうとしていた時期と重なったためか、
どのモデルも聴く機会はなかった。

ステレオサウンド編集部にいると、次から次と新製品に触れる機会がある。
そうこうしているうちにDavid 50のことはすっかり忘れていた。

思い出させてくれたのは、B&OのCX100の登場だった。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(藝術新潮より)

まず、これをお読みいただきたい。
     *
八百長、提灯持ち的記事 レコード、電蓄などに関する記事で時々八百長的、提灯持ち的印象を与えるのがある。原稿料は雑誌社が出すのか、メーカー側が受け持つのかと疑いたくなるものさえある。優秀品をよしとするのは一向に差し支えないが、度を過すと逆効果だ。質問欄なども公平で的確なのがある一方、雑誌によつて紐付き的解答もなしとしない。筆者と会社のコネを知つている者にはすく察しがつくが、一般読者はだまされる。商品のカタログ・データをそのまま持ち出しての推薦は無価値同然、これは店員のすることだ。読者もこれはホンモノか、これはヒモツキかと見抜く力が必要である。
     *
藝術新潮に載っていた。
1964年1月号であるから、52年前の文章だ。

誰が書いたのかはわからない。
載っているのは「日本版LP 1月新譜抄」の隣に、コラムとして、である。

「日本版LP 1月新譜抄」のところにも筆者の名前はない。
ただこれは西条卓夫氏が書かれたものであることはわかっているし、
そのことを知らなくとも読んでいれば、すぐに察しがつく。

コラムには「メーカー、レコード界への注文」とつけられている。
上に引用したのは、その一部でしかない。

電蓄をオーディオと、
よつて、知つている、を、よって、知っているに書き換えれば、
ほとんどの人が52年前に書かれたものだとは思わないはずだ。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その1)

「時代の軽量化」。
二ヵ月ほど前に、ふと思いついた。
思いついたけれど、ふつうに考えれば「時代の軽量化」よりも「軽量化の時代」だろう。
そう思いつつも、「時代の軽量化」が、頭に残っていた。

タイトルにしよう、とその時に思ったものの、
何を書くのか、まったく思いついていない。

「時代の軽量化」が思いついたものだから。
それでも書き始めないことには、「時代の軽量化」は頭の中に眠ってしまうことになる。

ぼんやりとではあっても考え続けていれば、なんとなくつかめそうなことがあるのに気づく。
まだはっきりとは捉えきれていないが、「時代の軽量化」かもしれないと感じてもいる。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その1)

1970年代後半、ミニスピーカーのちょっとしたブームがあった。
アメリカのADC、西ドイツのブラウン、ヴィソニックなどが積極的に製品を出していた。

瀬川先生はヴィソニックのDavid 50を高く評価されていた。
ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」で、こんなふうに書かれている。
     *
 たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
 スピーカーをおそろしく小さく作った、という実績ではテクニクスのSB30(約18×10×13cm)が最も早い。けれど、音質や耐入力まで含めて、かなり音質にうるさい人をも納得させたのは、西独ヴィソニック社の〝ダヴィッド50〟の出現だった。その後、型番が502と改められ細部が改良され、また最近では5000になって外観も変ったが、約W17×H11×D10センチという小さな外寸からは想像していたよりも、はるかに堂々としてバランスの良い音が鳴り出すのを実際に耳にしたら、誰だってびっくりする。24畳あまりの広いリスニングルームに大型のスピーカーを置いて楽しんでいる私の友人は、その上にダヴィッド50(502)を置いて、知らん顔でこのチビのほうを鳴らして聴かせる。たいていの人が、しばらくのあいだそのことに気がつかないくらいの音がする。
     *
「私の友人」と書かれている。
実際に友人で、そういう人がいたのだろう。
でも、瀬川先生自身もまったく同じことをやられていた、とつい先日ある方から聞いた。

世田谷に建てられたリスニングルームに移られる前のこと。
瀬川先生のリスニングルームをうかがったら、何も言わずに音を聴かせてくれた。
4343とは思えぬ、いい感じで弦の音が鳴ってきた。
帰り際に、種明かしをしてくれたそうだ。

実は鳴っていたのは4343の上に置いているヴィソニックだった、と。
この話をしてくれた人も、ヴィソニックを買ってしまった、とのこと。

ヴィソニック(Visonik)は、2000年代までは小型スピーカー(Davidシリーズ)を出していたが、
いまはヴィソニックというブランドでは作っていないようだ。

www.visonik.deとURLをブラウザーに直接入力してみると、
AUDIUMというスピーカーメーカーのサイトに行くようなっている。
Davidシリーズは、既にない。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その68)

ステレオサウンド 52号については、あとひとつだけどうしても書きたいことがある。
166ページに載っているグラフだ。

このグラフはJBLの4343のクロスオーバー特性である。
ウーファー、ミッドバス、ミッドハイ、トゥイーター、
四つのユニットのそれぞれの周波数特性(ネットワーク経由の特性)が測定されている。

4ウェイのスピーカーシステムでは、
三つのクロスオーバーポイントがあると思いがちだが、
実際には四つであったり五つであったりする。

三つのクロスオーバーは、
ウーファーとミッドバス、
ミッドバスとミッドハイ、
ミッドハイとトゥイーターではあるが、
それぞれのユニットの受持帯域の広さと、それからネットワークのスロープ特性によっては、
ウーファーとミッドハイ、ミッドバスとトゥイーターがクロスするポイントが生じることもある。

52号のクロスオーバー特性をみると、4343の場合、
ウーファーとミッドハイ(しつこく書くがミッドバスではない)は、800Hz付近でクロスしている。
通常のクロスオーバーポイントは-3dBであるが、
4343のウーファーとミッドハイのクロスオーバーポイントは、レベル的には-17dBくらいである。
とはいえ確実にウーファーとミッドハイはクロスしている。

ここで気づくのは、やはり800Hzなのか、ということ。
ミッドバスのない4333のウーファーとスコーカーのクロスオーバー周波数は、
カタログでは800Hzと発表されている。

いうまでもなく4343のウーファーとミッドハイ、
4333のウーファーとスコーカーは同じユニット(2231Aと2420、ホーンは少し違う)。

ミッドバスとトゥイーターは、4kHzより少し低いあたりでぎりぎりクロスしているかしていないか、
そんな感じである。
もちろんミッドバスのレベルを上げれば、ぎりぎりクロスすることになるだろう。

4343のクロスオーバー特性。
少なくとも他のオーディオ雑誌では見たことがなかった。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(バッハ 無伴奏チェロ組曲)

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲)」で、誰の演奏だったのだろう……、について書いた。

そのことを書きながら、同時に考えていたのは、なぜ瀬川先生は書かれなかったのか、だ。
誰の演奏なのかについて書くだけの文字数的余裕は十分にある。
にも関わらず、誰の演奏なのかについての記述はないということは、
あえて書かれなかったのか……、とも考えていた。

だとしたら、それはなぜなのか、を考える。
そうやって考えていくのがおもしろい。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その4)

音は空気をともなう。
つねに空気をともなう。

空気があるから、われわれは音を聴くことができるわけだから、
当り前すぎることを書いているのはわかっている。

それでも、こういうことを書いているのは、
いわゆる音の違いは、この空気がどれだけ、そしてどのように音についてくることに、
深く関係しているように感じている。

音に空気がついてくる、ともいえるし、音が空気を巻き込む、ともいえる。

よく「低音の量感が……」という。
スピーカーによって変るのは当然だとしても、
低域特性がフラットなアンプによっても、量感は変ってくる。
このへんのことも、音にどれだけ空気がついてくるに関係しているように思っている。

音楽も、また同じように感じることがある。
空気をいっぱいつれてくる音楽もあれば、
空気をいっぱいつれてくる演奏もある。

ブルックナーを「長い」と感じてしまうのは、
私の場合、どうもこのことと無関係ではないようなのだ。

マーラーの音楽(ひとつひとつの音)がつれてくる空気は、多い。
多いがゆうえに濃い。
もちろんそうでないマーラーの演奏もある。そんなマーラーの演奏を、私はいいとは感じない。

ブルックナーだと、曲の構成に対して、音がつれてくる空気が足りないような気がする。
その足りない分を、何かで増している。
だから水増しして聴こえるのかもしれないし、「長い」と感じるのかもしれない。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その3)

誰の演奏(指揮)で聴くのかは大事なことだ。
だからブルックナーも、長いと感じながらも゛何人かの指揮者の演奏を聴いた。

私がいたころのステレオサウンドのオーディオ評論家では、
長島先生がブルックナーをお好きだった。

「長くないですか」、そんなことを長島先生にぶつけたことがある。
「若いなぁ」と返された。
シューリヒトのブルックナーを教えてくださった。

もちろん買った。
あのころは国内盤LPしかなかったと記憶している。

20代前半ということもあったのか、それでも長い、と感じた。
ジュリーニのブルックナーも、もちろん聴いている。
フルトヴェングラーでも聴いているし、あと数人聴いている。
あのころとしては新譜だったシノーポリのブルックナーも聴いた。

シノーポリのブルックナーに関しては、ちょど来日していたこともあり、
サントリーホールに聴きに行った。
それでもブルックナーに感じる水増ししたような長さを、
私の中からなくすことはできなかった。

マーラーも凡庸な指揮者とオーケストラの、凡庸な演奏な演奏を聴いたら、
長い、と思うかもしれない。

以前にも書いているように、もうインバルのマーラーは聴かない。
さんざんステレオサウンドの試聴室で聴いたのが、その大きな理由である。
インバル指揮のマーラーの第四と第五は、数えきれないほど聴いた。

あのころのインバルのマーラーは、フランクフルト放送交響楽団とだった。
いま東京都交響楽団とのSACDが出ている。

オーディオ的な関心で聴いてみたい気がまったくないわけではない。
それにフランクフルト放送交響楽団との第五では、
補助マイクなしのワンポイントマイクだけの録音もCDになっているから、
そういう聴き比べという意味では、まったく関心がないとはいわない。

でもそういうことを抜きにして、聴いてみたいとは思わない。
そんなこともあってインバルのマーラーは、第一、第四と第五だけしか聴いていない。
第九は聴いていない。聴いたら、長いと感じるのか。

感じたとして、その「長い」はブルックナーの交響曲に対しての「長い」と同じなのか。
完全に同じではないにしても、何か共通するものがあるとも感じている。