Archive for 6月, 2016

Date: 6月 23rd, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その6)

ステレオサウンド 57号でマッティ・オタラは、
100ぐらいのわかっていない歪が存在していると思う、と発言している。
そうかもしれない。

静的特性の歪ではなく、動的特性の歪に関しては、
意外にもそうなのかもしれない。
まだまだわかっていない歪が、かなりの数あっても不思議ではない。

57号ではTIMの他に、IIMについての説明もある。
     *
長島 TIMはスピーカーを除外したアンプ内のNFBの不正確な部分がクローズアップされたもので、これに対して、IIMはアンプにスピーカーをつないだ状態で、NFBの不正確さを追求したものと解釈していいわけですね。
マッティ・オタラ そのとおりです。このIIMを発見したきっかけというのは、スピーカーを聴いていると、400Hz〜1kHzのところにホーンで聴いているようなこもった感じがある。周波数特性はフラットなんでしょうがその辺が盛り上がった感じに聴こえる。どうしてだろうと思って、アンプやスピーカーを替えて聴いてみた。いいスピーカーといいアンプで聴くと、それがフラットに聴こえるんですけど、悪いスピーカーと悪いアンプでは、もちろんそうなっているのですが、スピーカーの悪さにマスクされてそれほど変わらない。いいスピーカーと悪いアンプで聴くと、まさしくアンプのこれが出てくるんです。これがIIMの発見のきっかけでした。ですから、悪いスピーカーを使っているのだったら、いいアンプを使う必要はないわけです(笑)。
 PIMは簡単にいいますと、フェイズ(位相)と振幅の直線性が一致しないという点を問題にしているわけです。
     *
マッティ・オタラはTIMにしてもIIMに関しても、
まず理論があって、これらの現象を発見したのではなく、
あくまでも音を聴いて疑問を感じ、その疑問の発生原因を追及していくことで、
動的歪を発見している。

このことはとても重要なことであり、科学にとって観察することが、
それも正しく観察することから始まる、ということを改めて教えてくれる。

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その14)

ステレオサウンドがオーディオの雑誌なのか、オーディオの本だったのかは、
別項で書いている「オーディスト」のことにも深く関係している、と私は感じている。

ステレオサウンドは2011年6月発売の号の特集で、オーディストという言葉を使っている。
大見出しにも使っている。
その後、姉妹誌のHiViでも、何度か使っている。

「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」。
その意味を調べなかった(知らなかった)まま使ったことを、
おそらく現ステレオサウンド編集長は、何ら問題とは思っていないようだ。

当の編集長が問題と思っていないことを、
こうやって書き続けることを不快と思っている人もいるけれど、
この人たちは、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている人としか、
私には映らない。

オーディオ評論の本としてのステレオサウンド。
そう受けとめ、そう読んできた人たちを「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」と呼んで、
そのことを特に問題だとは感じていないのは、
もうそういうことだとしか私には思えない。

いまステレオサウンドに執筆している人たちも、誰一人として、
「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」が使われたことを問題にしようとはしない。
つまりは、問題にしていない執筆者も、
ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えているわけで、
オーディオ評論の本とは思っていない──、そういえよう。

Date: 6月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その13)

これは断言しておくが、
いまのステレオサウンド編集部は、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている。
というよりも、オーディオ評論の本とは捉えていないはずだ。

でも、それは致し方ない、とも一応の理解を示しておく。
私もステレオサウンド編集部にいたころは、そのことに気づかなかった。

なぜ気づかなかったのか。
理由はいくつかあると思っているが、
もっとも大きな理由は、オーディオマニアにとってステレオサウンド編集部は、
とても楽しい職場であることが挙げられる。

もちろん大変なことも少なくないけれど、
オーディオマニアにとって、あれだけ楽しい職場というのは、
他のオーディオ関係の雑誌編集部を含めても、ないといえよう。

このことが、ステレオサウンドは、以前オーディオ評論の本であったこと、
いまはオーディオの雑誌であるということに気づかせないのではないか。

そうはいってもステレオサウンドが、真にオーディオ評論の本であった時代はそう長くはない。
おそらくいまの編集部の人たちはみな、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であった時代を同時代に体験していないはずだ。

そういう人たちに向って、いまのステレオサウンドは……、ということは、
酷なことである、というよりも、理解できないことなのかもしれない。

ステレオサウンド編集部が私のブログを読んでいたとしても、
私がステレオサウンドに対して書いていることは、
「何をいっているだ、こいつは」ぐらいにしか受けとめられていないであろう。

編集部だけではない、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であったことを感じてなかった読者もまた、
「何をいっているだ、こいつは」と感じていることだろう。

ならば書くだけ無駄なのか、といえば、決してそうではない。
私と同じように、
ステレオサウンドが以前はオーディオ評論の本であったことを感じていた人はいるからだ。

Date: 6月 22nd, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その5)

アンプにNFBをかけることで、特性は改善される。
周波数特性はのび、各種の歪も減る。ゲインも安定化される。

メリットはかなりある。
けれどデメリットもあることはずっと以前からいわれてきている。

NFBをかけすぎたアンプの音は死んでいる。
はっきりとした理由はわからない時代から、そういわれてきた。

1970年代がそろそろ終ろうとしているころに、TIMという、
新しい歪のことが、日本の技術誌の誌面にも登場するようになってきた。

TIMとはTransient Intermodulationの略語である。
フィンランドの物理学者マッティ・オタラ(Matti Otala)が、1963年に発見した歪である。
1968年からTIM歪の理論づけをはじめ、1970年にほぼ終了。
1972年にTIM歪抽出の論文を発表、1974年アンプのTIM歪測定法を発表。
1975年に、TIM理論を発表。

その後、1976年にIIM (Interface Intermodulation)を、
1979年にはPIM (Phase Intermodulation)を発見している。

このころマッティ・オタラの時の人だった。
ちなみにマッティ・オタラは、もともとの本名ではなかったそうだ。
ステレオサウンド 57号でのインタヴュー記事(ききて:長島達夫氏)によると、
国によって発音が違ってこないように、
コンピューターの順列組合せでつくった名前から絞りに絞って決めた名前だそうだ。

結婚を機に改名しているため、マッティ・オタラが本名となっている。
マッティ・オタラは1939年生れ、2015年に亡くなっている。

57号のインタヴュー記事には、TIM発見のきっかけのエピソードが載っている。
放送局に勤めるマッティ・オタラの友人が80dBものNFBをかけたパワーアンプを作って、
彼の家に持ち込んだ。

それは非常に硬い音のするアンプだったそうだ。
友人は、音が硬いのはNFBに原因があるのではなく、他のところにあるはずだから、
一緒に探してほしい、ということだったが、何の問題も発見できなかった。

数日後、今度は友人宅に行って、ふたたびそのアンプの音を聴いている。
はるかにいい音になっていたそうだ。

ただし、友人は50W出力のアンプとして設計したのに、30Wの出力しかとれていない、と。
友人は、トランジスターのエミッターとコレクターを逆に接続していたため、
出力が設計よりも小さな値になっていたわけだ。

つまりアンプのNFBをかける前のゲインは設計値よりも低く、
当然その分NFB量も減っていたわけだ。

そこでエミッターとコレクターを正しく接続しなおしたら、また音は硬くなった、とある。
1963年のころの話だから、マッティン・オタラが
「80dBもNFBもかけたら音は良くならないよ」と言っても、友人は信じなかったそうだ。

この時点では、なぜNFBをかけすぎると音にとって有害なのか、
そのシステムを解明していたわけではなかったけれど、経験上感じていたようだ。

マッティン・オタラのTIMについての論文は、検索すれば見つかると思う。
英文で見つかるはずだ。

TIM歪と従来の歪との大きな違いは、
TIM歪はいわは動的歪であり、従来の混変調歪、高調波歪は静的歪といえ、
NFBは静的歪に対しては非常に有効であっても、
適切に扱わなければ動的歪の発生原因となる。

マッティ・オタラはNFBをアスピリンにも例えている。
軽い頭痛であればわずかなアスピリンでおさまる。
けれど10kgのものもアスピリンを摂取したら非とは死んでしまう、と。

ちなみに57号(1980年時点)で、最適なNFB量は、
アンプの回路、使用するパーツによって変ってくるため一概にいえないとことわったうえで、
1970年の時点では22dB、1980年では12dB程度だといっている。

57号の表紙はハーマンカードンのパワーアンプ、
Citation XX(サイテーション・ダブルエックス)であり、
このアンプの回路設計はマッティ・オタラであり、NFB量は9dBとかなり低く抑えられていた。

57号の記事で、興味深いのはウィリアムソン・アンプについてである。
管球式アンプとしては、多量のNFBをかけて話題になったが、NFBは20dBである。

マッティ・オタラによると、ウィリアムソンの1933年の論文には、
NFBについては24dBを選択した、とある。
30dBをこすNFBをかけると、当時の測定器では測定できないほど静特性は改善される。
けれどウィリアムソンが24dBに抑えたのは、
ウィリアムソンは感覚的にTIMを発見していたのではないか、ということ。

Date: 6月 22nd, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その4)

1981年といえばいまから35年前になってしまう。
そのころ出たステレオサウンドは58号、59号、60号、61号である。

58号の掲載の岡先生の「クラシック・ベスト・レコード」に、次のことを書かれている。
     *
 デジタル・マスターのレコードがふえるにしたがって、アナログ録音にくらべてものをいうひとがふえてきた。いちばんよくきかれる声は、高域の帯域制限によって生ずる情報量のすくなさ、ということを指摘する声である。音楽再生における情報量の大小をいう場合、その物理量をはっきり定義した、という例はほとんどなく、大体が聴感でこうかわったという表現を情報量という言葉におきかえられている。線材やパーツをかえると音がかわるということがさかんにいわれていたことがあったとき、この問題を好んで論ずるひとの合言葉みたいに情報量がつかわれていた。つまり、帯域の広さと情報量の多さが相関をもち、それがよりハイ・フィデリティであるという表現である。
 しかし、はたして実際にそのとおりかということになると、客観的データはすこぶるあいまいである。むしろ、録音・再生系の帯域を可聴帯域外までひろげることによって生ずる、超高域の近接IMがビートとなって可聴帯域の音にかかわりあうとか、TIMによる信号の欠落、あるいは非直線性の変調歪などが、聴感上情報量がふえるような感覚できこえるのではないかと考えたくなる。
 一昨年、ビクターの音響研究所がおもしろいデータを発表したことがある。プログラムをさまざまな帯域制限を行ったソースを用いて、数多くのブラインドのヒアリング・テストをした結果では、信号系の上限を15kHz以上の変化はほとんど検知されなかったという。音楽再生でハイ・エンドがよくきこえたとか欠落したとかという場合、むしろ帯域バランスに起因することが多い。中・低域がのびていると、高域はおとなしくきこえるし、低域が貧弱だと高域が目立つということはだれもが体験しているはずである。性能のよいグラフィック・イコライザーをつかって実験してみると、部分的なバランスを2dBぐらいかえてもからっと音のイメージがかわることがある。デジタル・システムはアナログ(テープ)にくらべて、低域の利得とリニアリティが丹前よく、かつ変調歪によって生ずる高域のキャラクターがより自然であるという点で、聴感上、ハイ・エンドがおとなしくなる、といったことになるのではないかと考えられる。高域の利得が目立っておちていると思えないことは、シンバル、トライアングルなどの高音打楽器が、アナログよりも解像力がよく、しかも自然にきこえる例でも明らかであろう。
     *
岡先生は、いまのハイレゾ・ブームに対して、どういわれるだろう……。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その4)

気(き)は「け」とも読む。
ならば気(き)→気(け)→化(け)、
つまり気が化けて鬼(き)となる。

その3)を書いたあとで、そう気づいた。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その12)

ステレオサウンド 26号からある連載が始まった。
わずか四回で、それも毎号載っていたわけではない、
しかも地味な、といえる企画ともいえた。

タイトルは「オーディオ評論のあり方を考える」である。
26号の一回目は岡先生、28号の二回目は菅野先生、30号三回目は上杉先生、
31号が最後の四回目で岩崎先生が書かれている。

瀬川先生、長島先生、山中先生が書かれていないのが残念だが、
この記事(企画)は、どこかで常に読めるようにしてほしいと、ステレオサウンドに希望したい。

そしてできるならば、200号で、
ステレオサウンドに執筆されている方全員の「オーディオ評論のあり方を考える」を載せてほしい。

難しいテーマである。
書けそうで書けないテーマでもあるからこそ、
その書き手のバックグラウンド・バックボーンの厚さ(薄さ)が顕在化してくるはずだ。

華々しい企画で200号の誌面を埋め尽くそうと考えているのならば、
こういう企画は無視させるであろう。

だから問いたいことがある。
ステレオサウンドは何の雑誌なのか、である。

オーディオの雑誌、と即答されるはずだが、
ほんとうにステレオサウンドはオーディオの雑誌なのか、と思う。

私も10代のころ、まだ読者だった頃はそう思っていた。
けれどステレオサウンドで働くようになり、
それも瀬川先生不在の時代になって働くようになってわかってきたのは、
それもステレオサウンドを離れてからはっきりとわかってきたのは、
ステレオサウンドはオーディオ評論の本であった、ということだった。

こういう捉えかたをする人がどれだけおられるのかはわからない。
でも、同じようにステレオサウンドをオーディオ評論の本として捉えていた人、
ステレオサウンドにははっきりとオーディオ評論の本と呼べる時代があった、と感じている人は、
絶対にいるはずだ。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その11)

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたことを憶い出す。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私はそういう瀬川先生が始められた「オーディオ評論」を読んできた。
菅野先生もステレオサウンド 61号に書かれている。
     *
この彼の純粋な発言とひたむきな姿勢が、どれほどオーディオの本質を多くの人に知らしめたことか。彼は常にオーディオを文化として捉え、音を人間性との結びつきで考え続けてきた。鋭い感受性と、説得力の強い流麗な文体で綴られる彼のオーディオ評論は、この分野では飛び抜けた光り輝く存在であった。
     *
少なくとも、ある時期のステレオサウンドに載っていたオーディオ評論は、
「オーディオは文化」という共通認識の上に成り立っていた。

けれど、どうもいまは違ってきているようだ。
「オーディオは文化」と捉えていない人が、オーディオ評論家と呼ばれ、
オーディオ評論と呼ばれるものを書いている。
それがステレオサウンドに載っている……、そう見ることもできる。

それはそれでもいいだろう。
長島先生がいわれるところの、瀬川先生が始められたオーディオ評論とは違うものだからだ。
別のところから始まったオーディオ評論があってもいいとは思う。

だが、「オーディオは文化」と捉えていない人が、
瀬川先生について書いているのを読むのと、一言いいたくなる衝動が涌いてくる。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その10)

約一年前に別項「輸入商社なのか輸入代理店なのか(その10)」で、
「オーディオは文化」と捉える人とそうでない人がいることについて書いた。

「オーディオは文化」なのか。
私はこれまでずっとそう思ってきたし信じてきている。
けれど、世の中にはいろんな人がいるわけで、
オーディオマニアであっても「オーディオは文化」とは捉えない人がいるし、いてもいい。

あくまでも文化といえるのは音楽であって、
それを再生するオーディオ機器は文明とはいえても、文化とは認められない。
そういう考えはあってもいい。

たとえばコンピューターにおけるソフトウェアとハードウェアについて、
コンピューターに詳しくない人に対して、
ある人は「ソフトウェアは文化、ハードウェアは文明」と答えた話を読んだことがある。

同じことはオーディオにもあてはめようと思えば可能である。
だから「ソフトウェア(録音物)は文化、オーディオ機器(ハードウェア)は文明」
という捉えかたを全否定する気はない。

ただ「オーディオは文化」となると、そこには自ずとソフトウェアも含まれると考えられる。
そうなるとどうだろうか。

コンピューターにしてもソフトウェアだけでも、ハードウェアだけでも役に立たない。
両方揃って、はじめて道具として機能することを考えれば、オーディオもまた同じことである。
ならば「オーディオは文化」と捉えるのが道理としか私には思えないのだが、人はさまざまだ。

ステレオサウンドはどうだろうか。
私がいたときは「オーディオは文化」として捉えていた。
ステレオサウンド 49号で当時の編集長であった原田勲氏が、
《オーディオ機器の飛躍は、オーディオ文化の昇華につながる》と書かれている。

「オーディオは文化」としての編集方針があったのは明白である。
いまはどうなのかわからないが、少なくとも以前はそうだった。

ということは、そのころ熱心にステレオサウンドを読んできた人たち(私もその一人)は、
「オーディオは文化」と捉えてきた人たちであるはずだ。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(How High The Moon)

1992年に公開された映画「スニーカーズ」。
ロバート・レッドフォードが主演している。
公開当時、映画館で観たきり、いままでもう一度観ることはなかった。

でも、なぜか気になっていた。
数年ごとに、ふっと気になる映画。
でも、なぜ気になるのかが自分でもよくわかっていない映画だった。

それでもDVDを買ったり借りたりしてまで観よう、という気にはならなかった。
その程度の気にかかりではあるともいえる。

ほっといてもよかったのだが、改めて「スニーカーズ」を観た。
あるシーンで、ここかも、と思っていた。
これが気になっていたのかも……。

なぜなのかが自分でもわかっていないのだから、
これだったのか、という確信は持てないのだが、
そのシーンで登場した四脚の「How High The Moon」に気づいて、納得できた。

毎日書くということにも、同じところがある。
なんとなくき気になっているところ、
ややもするとどこかに置き忘れてしまいそうな、そんな些細と、その時は思えることを、
どこかで確認して、はっきりとさせるからだ。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その43)

●瀬川冬樹
 ステート・オブ・ジ・アートという英語は、その道の専門家でも日本語にうまく訳せないということだから、私のように語学に弱い人間には、その意味するニュアンスが本当に正しく掴めているかどうか……。
 ただ、わりあいにはっきりしていることは、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であるということ。その意味では、すでに本誌41号(77年冬号)で特集した《世界の一流品》という意味あいに、かなり共通の部分がありそうだ。少なくとも、43号や47号での《ベストバイ》とは内容を異にする筈だ。
 そしてまた、それ以前の同種の製品にはみられなかった何らかの革新的あるいは斬新的な面のあること。とくにそれが全く新しい確信であれば、「それ以前の同種製品」などというものはありえない理くつにさえなる。またもしも、確信あるいは嶄新でなくとも、そこまでに発展してきた各社の技術を見事に融合させてひとつの有機的な統一体に仕上げることに成功した製品……。

●長島達夫
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が一般に知られるようになったのは、マーク・レビンソンが自作のアンプにこの言葉を冠したのがきっかけになっていたように思う。この言葉を字義どおりに直訳してみると、「芸術の領域に達した」ということになるように思う。しかし、これは機械相手の場合、何か大仰すぎる表現であまりふさわしくない印象を受けてしまう。なぜ大仰でふさわしくない印象をもつのだろうか。それは多分、この言葉を冠する対象が道具としての器械だからだろう。これがもし「人」を対象にする場合なら、そのようには感じないのかもしれない。

●柳沢功力
“STATE OF THE ART”という言葉にこだわった、いいわけがましいことを書くのはやめよう。そう決めていたのだが、いざ書きはじめてみると、やはりこだわってしまう。選定のための票を投じ終えたいま、まだ、その言葉にこだわっているというのも、考えてみれば責任を問われそうな態度だが、どうも、その本来の意味が、ほくには理解できたようでもあり、できないようでもある言葉なのだ。
 たとえばこれがBEST BUY”ならこんなことはないだろう。それには〝お買い得〟というぴったりの日本語があるから、ところが”STATE OF THE ART”の方には、どうもぴったりの日本語が見当らない。

●山中敬三
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉は、わが国でこそ耳慣れないが、以前からアメリカを中心によく使われていた。私は、ステート・オブ・ジ・アートという言葉の本来の意味合いは、意訳かもしれないが、その時代において技術的に最高を極めた製品、というのが適当な訳だろうと思っている。元来、この言葉の持つ意味合いはかなり難しいもので、この言葉が使われ始めた頃には、よほどの製品でない限り、そのようには表現されなかったのであるが、最近、特にアメリカのオーディオ製品のランクを表わす言葉として、新しい着想で作られた技術の最先端をいくものに対して頻繁に使われるようになったために、最近ではさほど値打ちがなくなって、さらにエッジ・オブ・ジ・アートなどという言葉が作られるほど、一般化してしまった感がある。
 私は、今回ステート・オブ・ジ・アートを選出するに当って、やはりその言葉の原点に帰るべきだという気がする。そうでなければこの言葉の意義はまったく失われてしまうし、これだけ製品数の多い現状では選考基準をちょっとでも落すと非常に広範囲になってしまって、いわゆる〝ベストバイ〟というものと何ら違いはなくなってしまうという心配さえある。

書き出しだけだが、みな”State of the Art”をどう解釈するについて書かれている。
よく似た企画の41号の「世界の一流品」ならば、こうはならなかった。

もっといえば、最初からステレオサウンド・グランプリという名称であったなら、
「ステレオサウンド・グランプリ選定にあたって」の書き出しは、まったく違うものになっていたはずだ。

もしかすると名称の候補にステレオサウンド・グランプリは最初からあったのかもしれない。
けれど、これではラジオ技術のコンポグランプリの後追い・二番煎じと思われかねない。
ステレオサウンドの性格からして、それは最も避けたいことである。

“State of the Art”は、その役目を見事に果している。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その42)

ステレオサウンド 48号の特集の冒頭には、
岡先生の「Hi-Fiコンポーネントにおける《第一回STATE OF THE ART賞》の選考について」がある。

この岡先生の文章は、
《まず、〝ステート・オブ・ジ・アート〟という言葉から説明しなければなるまい》
で始まる。

岡先生の文章のあとに、
岡俊雄、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、柳沢功力、山中敬三、
原田勲の九氏の選考委員の「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」の、
それぞれの文章が続く。

それぞれの書き出しを引用しておく。

●井上卓也
 今回は、本誌はじめての企画であるTHE STATE OF THE ARTである。この選定にあたっては、文字が意味する、本来は芸術ではないものが芸術の領域に到達したもの、として、これをオーディオ製品にあてはめて考えなければならない。
 何をもって芸術の領域に到達したと解釈するかは、少しでも基準点を移動させ拡大解釈をすれば、対象となるべきオーディオ製品の範囲はたちまち膨大なものとなり、収拾のつかないことにもなりかねない。それに、私自身は、かねてからオーディオ製品はマスプロダクト、マスセールのプロセスを前提とした工業製品だと思っているだけに、THE STATE OF THE ARTという文字自体の持っている意味と、現実のオーディオ製品とのギャップの大きさに、選択する以前から面はゆい気持にかられた次第である。

●上杉佳郎
 私は,今も昔もオーディオマニアであることに変りはないのだが、過去においてメーカーに籍を置き、アンプ回路の設計を担当していた経験があるし、現在でも私の会社の上杉研究所で設計開発を行なっている関係上、どうしてもユーザー側の立場よりも、設計者的立場に片寄って物を見てしまう傾向がある。
 そのために、今回の〝ステート・オブ・ジ・アート〟選考に当って、私が最も重視した点は、〝経時変化〟ということになる。この経時変化に注意した、などというと不思議に思われる方がおられるかもしれないので、少し説明しておきたい。

●岡俊雄
 ステート・オブ・ジ・アートというものう、単にオーディオ機器における〝名器〟と同義語に解釈することには問題があるだろう。
 やはり技術的初産としての高度に達成されたものでなければならないし、その達成のされかたに、何らかのかたちで、オリジナリティというものをもっていなければなるまい。もちろん名器的な性格はそのなかに自ずと含まれてくることは必然的である。
 そのことをつきつめて考えてゆくと、オーディオ機器における〝名器〟とは何か、〝ステート・オブ・ジ・アート〟とは何か、という論文を書かなければならないことになってしまう。

●菅野沖彦
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が工業製品に対して使われる場合、工業製品がその本質であるメカニズムを追求していった結果、最高の性能を持つに至り、さらに芸術的な雰囲気さえ漂わせるものを指すのではないか、と私は解釈している。「アート」という言葉は、技術であると同時に美でもあり、
芸術でもあるという、実に深い意味を持っている。しかし、日本語にはこの単語の持つ意味やニュアンスを的確に訳出する言葉がないこともあって、実にむずかしい言葉ということができる。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その41)

当時は気づきもしなかったし、だから考えもしなかったけれど、
ステレオサウンド 49号の特集が「Hi-Fiコンポーネント《第1回STATE OF THE ART賞》選定」が、
もし違うタイトルだったら……、49号に対する印象は変ってきたと思う。

《STATE OF THE ART賞》はステレオサウンドが初めて行なう「賞」である。
オーディオ雑誌では、すでにラジオ技術がコンポグランプリを毎年行なっていた。
スイングジャーナルでは、毎年レコードのに賞を与えていた。

ラジオ技術のコンポグランプリが生れてきた背景は、
ステレオサウンドを離れてけっこう経ったころに知った。
そういう経緯で生れてきたのか、と思いながらも、
それが一回で終らずに続けられるようになったのは、それだけの影響があったためだろう。

影響があれば、出版する側にもメリットはある。
ならば他の出版社も、同じことをやろうとする。

ステレオサウンドの《STATE OF THE ART賞》も、そう捉えることができる。
けれど、少なくとも当時は、そんな印象は受けなかった。

それはコンポグランプリの事情についてほとんど知らなかったこともあるが、
それ以上に《STATE OF THE ART賞》という名称にある。

もしこれが、いまと同じ《ステレオサウンド・グランプリ》だったら、
こちらの印象は違ったものになっていたはずだ。

“State of the Art(ステート・オブ・ジ・アート)”という、
うまく日本語に訳せない言葉だからこそ、49号は成功した、といえる。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: 境界線, 録音

録音評(その4)

銀座に行くこと(そこで買物をすること)と輸入盤を買うことは、
当時の私にはしっかり結びついていることだった。

銀座は東京にしかないし、
当時、私が住んでいた田舎では輸入盤のLPはほとんどなかった、といえるからだ。

LP(アナログディスク)を買うならば輸入盤。
これは東京に出てくる前から、そう決めていた。
クラシックならば、絶対に輸入盤。
輸入盤が廃盤になっていて、それがどうしても聴きたいディスクであるときは、
しかたなく日本盤を買っていたけれど、
そうやって買ったものでも、輸入盤をみかけたら買いなおしていた。

これは刷り込みのようなものだった。
五味先生の文章、瀬川先生の文章によって、
クラシック(他の音楽もそうだけれど)は、特に輸入盤と決めていた。

それは音がいいから、だった。
もっといえば、音の品位が輸入盤にはあって、日本盤にはなかったり、低かったりするからだ。

輸入盤と日本盤の音の違いは、もっとある。
それに場合によっては、輸入盤よりもいい日本盤があることも知っているけれど、
総じていえば、輸入盤の方がいい。

その輸入盤の音の良さは、いわゆる録音がいい、というのとはすこし違う。
録音そのものは輸入盤も日本盤も、基本は同じだ。
もちろん日本に来るカッティングマスターは、
マスターテープのコピーであり、そのコピーがぞんざいであったり、
丁寧にコピーされていたとしても、まったく劣化がないわけではない。

それに送られてきたテープの再生環境、カッティング環境がまったく同じというわけでもない。
海外にカッティングしメタルマザーを輸入してプレスのみ日本で行ったとしても、
レコードの材質のわずかな違いやプレスのノウハウなどによっても、音は違ってくる。

そうであっても大元の録音は、輸入盤も日本盤も同一であり、
そこから先のプロセスに違いがあっての、音の違いである。

Date: 6月 18th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その15)

わかりやすいは、わかったつもりで留まる人にとっては楽しいことではあるのかもしれないが、
本当に楽しい、といえるだろうか。

ここで憶いだすのは、ステレオサンウド 58号に載った対談記事である。
粟津則雄、黒田恭一の二氏による「レコードで音楽を聴くということ」だ。

レコードで音楽を聴く、ということは、映像がない、音だけの世界で音楽と接するということであり、
それゆえの難しさが確実にある。
     *
黒田 オペラに限定していうと、むつかしいことがひとつあるんです。たとえば「ボエーム」を例にあげると、最後にミミが死ぬんですが、台本にはどこでミミが死ぬのか書かれていない。そのシーンで、ミミは「ドルミーレ」つまり「眠いわ」と、二小節のあいだでうたう。つぎに音楽がガラッとかわって、ロドルフォが「医者はなんといった?」とうたい、マルチェロが「もうじきくるよ」と答える。そしてつづいてムゼッタが聖母マリアへの祈りをうたう。
 聴いている人間が、どこでミミの死を知るのかというと、そのあとでショナールがミミの様子を見にいって、眠っているのではなく死んでいるのを発見して、「マルチェロ・エ・スピラータ」つまり「死んでいるよ」と叫ぶ。そこで知るわけですね。ミミの「ドルミーレ」からショナールの「エ・スピラータ」まで、時間にすれば一分以上ある。その間に、ミミは死んでいる。いったいどこの時点で、ミミは死んだのか。
 オペラ劇場で見ている場合でいうと、たとえばこの秋に来日するスカラ座がもってくる。ゼッフィレルリの演出だと──このあいだテレビで放映されましたが──、ベッドに寝ているミミの手が、バタンと落ちるんです。それによって、聴衆は、ミミの死に気づくわけです。とくに音楽に耳をすませていなくても、目で見て、ああいま死んだんだとわかります。
 レコードでは、そうはいきません。耳をすませていなくてはならない。いい演奏であれば
、どこでミミが死んだのか、コードのひびかせかたでわかるのです。しかしそれを聴きとるためには、それなりの聴きかたが必要になるわけですね。
 ヨーロッパの音楽ファンは、とくにオペラ好きではなくとも「ボエーム」ぐらいのオペラは、オペラ劇場で聴いています。だから、どこでミミが死ぬのか、目で知っている。そのうえでレコードを聴くのだから添付された台本に、ここでミミが死ぬといったト書きがなくたって、いいわけですよね。
粟津 ところがレコードだけだとそうはいかないわけだ。
黒田 ぼくの経験をいいますと、このオペラはエデーレ指揮でテバルディがうたったレコードで、最初に聴いたのですが、このレコードを聴いていて、どこでミミが死ぬのだろうとずっと考えていたんです。そのつぎにトスカニーニ指揮のレコードを聴いて、多分ここだろうとわかったわけですけれど、十何年か前にヨーロッパにいったときに、ゼッフィレルリの演出──現在のものとはちょっとちがっていますが──による「ボエーム」をみて、やっぱりここで死ぬんだな、とおれの聴きかたはまちがっていなかったな、とわかったんですね。
 そのプロセスは逆行してるということでしょう。つまりヨーロッパの人間だったら、オペラ劇場でみて、ぼくの、というか日本人の大多数の聴きての聴きかたは、まずレコードで聴いて、そのあとで実際の舞台をみる、ということですね。いいかえるとヨーロッパの人間と逆の接しかたをしているわけで、それが大きな特徴だと思う。
粟津 さらにいえば、レコードでそういう聴きかたができるということは、ヨーロッパの人間からみれば驚くべきことだといってもいいたろうね。
黒田 だから彼らにいわせると、そうしたレコードの聴きかたを幸福だといい、その幸福にひじょうに羨望を抱くんです。
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ステレオサウンド 58号は1981年春号である。
パイオニアがレーザーディスクプレーヤーの第一号機LD1000を出すのは、この年の秋である。