Archive for 5月, 2016

Date: 5月 11th, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(SNSをみていて感じたこと)

大衆文学・通俗文学への対義語として、純文学というわけだが、
このことから少し離れて「純文学」を捉えてみるとともに、
そこからピュアオーディオを考えてみると……、と思うことがある。

文学作品が本になる。
これを手にとって、われわれは読む。
そんなふうに純文学に接する。

純文学の本には、挿し絵もない。
ページをめくっていっても、文字だけが印刷されている。
当然だが、その文字はすべて活字である。

手にする本に、作者の肉体を感じさせる要素はない。
手書の文字が印刷されていれば、作者の肉体のようなものを感じとれようが、
活字にはそんなことを感じさせる要素はない。

つまり印刷物で接する純文学には、肉体という、いわば夾雑物がない、
だからこその「純」文学といえるのではないか。
こんな捉え方もできなくはないはずだ。

こんなことを考えるのは、そこに肉体を感じさせるのか感じさせないのか。
私のオーディオは、そこから始まったともいえるからである。

「五味オーディオ教室」は、まさにこのことから始まる。
     *
 電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
     *
たしかにそのとおりであって、オーディオいう再生系のどこにも、
演奏者の肉体の介在する余地はない。にもかかわらず、「音に肉体の復活」を錯覚できるのもまた事実である。

この「肉体の復活」は、夾雑物ととらえることもできよう。
そう捉えるか、「肉体の復活」を錯覚したいのかは、聴き手による。

私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっているから、
「肉体の復活」をとるわけだが、そんなものは夾雑物だから……、と考える人もいる。

演奏行為は肉体による運動である。
ゆえにその肉体を音から感じとりたい、と思う人、
音だけを感じとりたい人とがいる。

音楽には打ち込み系と呼ばれるジャンルがある。
もちろん打ち込み系であっても、人がなんらかの操作をした結果であるのだから、
肉体運動がないわけではない。
それでもアクースティック楽器を演奏しての行為と比較すれば、かなり稀薄である。
しかも打ち込み系ではライン録りでもある。

楽器が演奏される空間が介在しない。
アクースティックな響きは、ここには存在しない。

つまり、この種の音楽は、いわば夾雑物がない(ほとんどない)音楽という捉え方もできる。
肉体を拒否するということは、肉体が存在する空間もまた拒否するということ。

これこそが「ピュア」オーディオである──。

私にとってのオーディオは、肉体の介在を求めるオーディオだから、
夾雑物を排除した「ピュア」オーディオではないわけだが、
だからといって、「ピュア」オーディオの世界、それを指向(嗜好)する人のことを否定はしたくない。

SNSをみていて、感じたことである。

Date: 5月 10th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(AT-ART1000・その4)

ステレオサウンドにいたときに感じていたのは、
そして私が先生と呼ぶオーディオ評論家の方たちから聞いていたのは、
優れたスピーカーのエンジニアが必ずしも優れたスピーカーの鳴らし手ではない、ということだった。

なにも、このことはスピーカーだけにかぎらない。
スピーカーと同じトランスデューサーであるカートリッジに関しても、そうだ。

Phile-webの記事を読むかぎり、AT-ART1000の開発担当者のひとりである小泉洋介氏は、
カートリッジの使い手としてはどうなんだろう……、とどうしても思ってしまう。

まったく面識のない人のことを、
たったこれだけの記事でカートリッジを使いこなしの技倆がない、とはいわない。
けれど、小泉洋介氏が考えているカートリッジの使いこなしと、
私が考えているカートリッジの使いこなしとでは、ずいぶん違うものであることは、確実にいえる。

私のカートリッジの使いこなし(アナログプレーヤーの使いこなし)は、
ステレオサウンドの試聴室で鍛えられた、といっていい。
特に井上先生の試聴で、それまでのカートリッジの調整がいかに徹底したものでなかったことを知った。

もちろん、それまでもきちんと調整はできていた。
針圧だけでなく、オーバーハング、インサイドフォース・キャンセラー、ラテラルバランスの調整など、
問題なくできていた。

鍛えられた、というのは、そこから先のことである。
そこのところを、私はカートリッジの使いこなしだと考えている。

そこから先の使いこなしに関しては、耳と指先だけの世界でもある。

Date: 5月 10th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(AT-ART1000・その3)

オーディオテクニカのAT-ART1000の《2~2.5gの間で最適な針圧を個体ごとに割り出して明記》とは、
製造されたばかり、新品の状態での測定による値である。

いくらかはエージングをすませての測定だろうが、ほとんど使い込まれていないことには変りない。
この測定の条件も針圧とともに明記されているのだろうか。

カートリッジは使い込むモノである。
使っていくうちにこなれてくる面ももつ。
新品時に最適だった針圧が100時間ほど使用したあとでも最適なのだろうか。

カートリッジの使用頻度も違ってくる。
毎日最低でもレコード一枚をかける人と、
気が向いたときにAT-ART1000でかけるという人とでは、こなれ方も違ってくる。

それに日本は四季がある。
穏やかな日もあれば、暑い日、寒い日があり、
さらっとした日もあれば、ひどくじめじめした日もある。

気温も湿度も一年のうちに大きく変化する。
使い手によっては、AT-ART1000の測定された環境(気温、湿度)と違う環境で使われる。

一年中、リスニングルームのエアコンは切ることなく、
屋内温度、湿度を常に一定にしている人は、確かにいる。

その人でさえ、AT-ART1000の測定された環境と同じ温度、湿度に設定しているとは限らない。
私の知っている人の中でJBLのスピーカーを鳴らしていた人は、
カリフォルニアの気候に近づけたいというこで、常に除湿器フル稼動で20%くらいを保っていた。

温度にしても寒がりな人、暑がりな人がいて、
真夏、薄着では寒いと感じるほど冷房を効かせる人も知っている。

そういう人もいれば湿度が低いのは喉にも肌にも悪いといって加湿器を使う人もいるし、
冷房も暖房も効かせ方はほどほどにという人もいる。

もっとこまごまと書いていってもいいが、このへんにしておく。
いいたいのはカートリッジを取り巻く環境はさまざまだし、使われ方もそうだし、
カートリッジそのものも含めて変動していく、ということだ。

Date: 5月 10th, 2016
Cate: 香・薫・馨

陰翳なき音色(ゲーテ格言集より)

ゲーテ格言集に、こう書いてある。

「明瞭さとは明暗の適当な配置である。」ハーマン。傾聴!
(ハーマンは「北方の魔術師」と言われた思想家。)

暗なき音色は、明瞭ではないわけだ。

Date: 5月 9th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その9)

4月のaudio sharing例会では、まず喫茶茶会記で使用しているネットワークを使った。
12dB/oct.の800Hzのクロスオーバー周波数のものである。市販品だ。

アンプはマッキントッシュのMA2275のあとに、
First WattのコントロールアンプB1、パワーアンプSIT2に交換するなどの試聴の手順は、
(その1)に書いたとおりだ。

12dBの並列型ネットワークから6dB並列型ネットワークに変更。
このときの音の変化も大きく、
聴いていた人から「明るくなった」という声があった。

6dB直列型ネットワークは、どんな音を聴かせてくれたのか。
まず声がいい。これはみんなが感じていたことで、
5月のaudio sharing例会でも12dB並列型から6dB直列型にかえて、
声がよくなった、という感想が聴けた。

4月のaudio sharing例会では下がアルテックに上がJBLというシステム。
このシステムにも関わらず、聴いていて、ほんとうにJBLが鳴っているのか? と思っていた。

アルテックのA7やA5は、”The Voice of the Theatre System”の愛称で呼ばれる。
上がJBLなのに、これも”The Voice of the Theatre System”ではないか、とさえ思っていた。

短い時間での調整だから、下のアルテックと上のJBLがまったく違和感なく鳴ってくれるとは、
鳴らす前から考えてはいなかった。

12dB並列型から6dB並列型にネットワークをかえても、
少しは改善されてはいたが、この点に関しては気になってくる。
けれど6dB直列型では、ここが大きく変ってきた。

もちろん上はJBLだから、純正アルテックの”The Voice of the Theatre System”の音とはいわないが、
下のアルテックと上のJBLの馴染みが、いい感じで鳴ってくれるのだ。

たとえ同じブランドのユニットであっても、
ウーファーは紙の振動板でコーン型、
上はホーン型でアルミニウムの振動板で、形状はドーム型なのだから、
理屈で考えれば、ふたつのユニットがすんなりつながってくれるはずがない、といえる。

それでも時には、マルチウェイがひとつのユニットかのように鳴ることがあるのもわかっている。
6dB直列型ネットワークにすると、
ふたつのユニットのつながりが、有機的になったかのようにさえ感じられる。

音を出す前から、直列型ネットワークの良さは各ユニットのつながりにあると予想はしていた。
実際には私の予想以上のつながりの良さだった。

Date: 5月 9th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(AT-ART1000・その2)

Phile-webの記事には、こうも書かれている。
     *
前述のような方式のためにコイルの適正な位置が極めて重要になるAT-ART1000において、針圧は非常にクリティカルな要素だ。そこで本機では、ひとつひとつの個体を測定・調整することで、2~2.5gの間で最適な針圧を個体ごとに割り出して明記。ユーザーはその針圧に合わせてセッティングすることで、最良の音質を楽しむことが可能となる。
     *
《コイルの適正な位置が極めて重要になる》のはそのとおりである。
だからといって、《2~2.5gの間で最適な針圧を個体ごとに割り出して明記》する必要があるだろうか。
そのことが意味することを、オーディオテクニカはどう考えているのだろうか。

オーディオテクニカは、どこまで最適針圧を明記するのか。
小数点一桁までか、それとも小数点二桁までなのか。

たとえば購入したAT-ART1000の最適針圧が2.1gだったとしよう。
購入した人は針圧計を取り出して、ぴったり2.1gになるように調整するはずだ。
2.11gと明記してあったら、小数点二桁まで測定できる針圧計を用意して2.11gに合わせる。

これでほんとうにコイルの位置がオーディオテクニカが意図した位置にくるといえるだろうか。

オーディオテクニカがAT-ART1000の測定しているのとまったく同じトーンアームの高さであれば、
そういえなくもない。
けれどトーンアームの水平がどこまできちんと出せているかは、使い手によって違ってくる。
それに聴感上完全に水平にするよりも少し上げ気味にしている人もいる。

アナログプレーヤーの調整のレベルは、実にバラバラである。
きちんと調整できている人もいれば、そうでない人も多い。

オーディオのキャリアが長いから、きちんと調整てきているとは限らない。
高級なアナログプレーヤーを所有しているから、調整も万全とはとてもいえない。

そのことは別項「アナログプレーヤーの設置・調整」で書いている。

そういう状況で使われるのがカートリッジであり、
そこに最適針圧を明記したとしても、針圧だけはきちんと調整されたとしても、
オーバーハング、トラッキングアングル、インサイドフォース・キャンセラー、水平(左右の傾き)などが、
きちんと調整されているという保証は、どこにもない、といえる。

トラッキングアングルがずれていたら……、
インサイドフォースのキャンセル量が多かったり少なかったりしたら……、
カートリッジの水平がきちんと出ていなかったりしたら……。

そこに針圧だけをこまかく指定することを、オーディオテクニカはどう考えているのだろうか。
この針圧の明記にも、カートリッジに対する認識不足が感じられる。

Date: 5月 8th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(AT-ART1000・その1)

High End 2016でオーディオテクニカがAT-ART1000を発表した。

AT-ART1000の最大の特徴は、オーディオテクニカがダイレクトパワーシステムと呼ぶ構造にある。
簡単にいえば針先の真上に発電コイルがあるわけだ、

古くはウェストレックスの10A、ノイマンのDSTがあり、
日本でもノイマンのコピーといえるモノ、
MC型ながら針交換が可能なサテン、ビクターからはプリントコイルを採用したシリーズ、
池田勇氏によるIkeda 9などがある。

カートリッジの歴史の中で、このタイプのカートリッジは登場すれば話題になる。
つまり誰もがカートリッジの理想形として描くものでありながら、
いくつかの問題をどう解決するのか、その難しさと、
使い手にも技倆が求められるということもあって、主流とはならなかった。

そういうカートリッジに、いまオーディオテクニカが挑戦した、ということで、
期待したい、という気持は強い。
けれどこのカートリッジの紹介記事(音元出版のPhile-web)を読むと、気になることがいくつかある。

書かずにおくことがいいとは思わないし、
期待しているだけに書いておく。

記事中に、
《なお、AT-ART1000の開発を担当した一人である小泉洋介氏によれば、本機に近い方式を採用していた他社製品が1980年代にあったというが、今回のAT-ART1000では、スタイラスチップ上にコイルを配置することを可能としたため、インピーダンスを3Ωとすることができたのが大きなポイントのひとつとのことだ。》
とある。

具体的なブランド、製品名は書かれていないが、ビクターのカートリッジを指している。
ビクターのMC1は、多くのMC型がカンチレバーの奥(支点近く)に発電コイルを配してるのに対し、
軽量のプリントコイルを採用することで、針先からごくわずかのところに配している。

ビクターはこの方式を改良していく。
MC1から始まったシリーズの最終モデルMC-L1000では、文字通りダイレクトカップルといえる構造を実現している。

MC-L1000の構造こそ、針先の真上に発電コイルがあるカートリッジである。
カンチレバーの先端に針先がある、
この針先はカンチレバーを貫通している。カンチレバーの上部に少し出っ張る。
この出っ張り部分にプリントコイルを接着したのがMC-L1000である。

AT-ART1000の紹介記事の担当者は、MC-L1000のことを知らないのだろうか。
調べようともしなかったのか、Phile-webの、他の編集者も誰も知らなかったのか。

AT-ART1000の紹介記事の担当者は、オーディオテクニカの開発担当の小泉洋介氏の言葉をそのまま記事にしたのだろう。
つまり小泉洋介氏もMC-L1000の存在を知らなかったということになる。

どちらの担当者も認識不足といえる。
この認識不足が、AT-ART1000の完成度に影響していないのであれば、わざわざ書いたりしない。

Phile-webに掲載されている内部構造の写真を見ると、かなり気になる点がすぐに目につく。
AT-ART1000はこのまま製品化されるのか。
その点の処理のまずさは、カートリッジの歴史に詳しい人であれば気づくことである。
この点に関しては、AT-ART1000は未処理といっていい(写真をみるかぎりは)。

気になっていることは、まだある。

Date: 5月 7th, 2016
Cate: フィッティング

フィッティング(その2)

昨年(2015年)は、映画「Back to the Future Part II」で描かれた未来だった。
2015年は前作「Back to the Future」から30年後の未来という設定で、
そこで描かれた未来の服は自動的に着ている人の体格に応じてフィットし、
ナイキのスニーカーは自動で靴ひもがしまるモノだった。

まさにフィッティング技術の、ひとつの未来形だったと思う。

オーディオ機器で身につけるモノといえば、ヘッドフォン、イヤフォンがある。
ヘッドフォンよりイヤフォンは、自分にフィットするモノであってほしい。

知人の女性は耳穴が小さく、
ほとんどのイヤフォンは痛いというし、カナル型でイヤーピースを一番小さなタイプにしても無理だという。
彼女の子供も母親譲りでやはり耳穴が小さく、イヤフォンは無理とのこと。

耳の各部のサイズや形状は人によって相当に違うようで、
指紋と同じくらい違うものである、ときく。

しかも左右の耳穴の形・大きさが違うことは珍しいことでもないそうだ。

そういう耳の形だから、
NECは人間の耳穴の形状によって決まる音の反響を用いた新たなバイオメトリクス個人認証技術を開発している。

ということは既製品のイヤフォンの中から、自分にぴったりのモノを選ぶのは、
音をふくめての選択となるわけだから、かなり困難なことである。

だからカスタムメイドのイヤフォンが登場してきたし、この種のサービスを提供するところもある。
この手のものが、もっときめ細かいサービスを提供するようになっても、
解消されるのはサイズ・形状に関することであり、
ヘッドフォン、イヤフォンのとってもっとも大事なフィッティングは、いまのところ見落とされているのか、
あるいは無視されているのか、わからないがまだである。

けれどヘッドフォン、イヤフォンの世界から少し離れたところ(補聴器においては)、
すでに電子的コントロールによるフィッティング技術がある。

Date: 5月 6th, 2016
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その12)

オーディオの入門用として最適の組合せとは、どういうことなのか。

BBCモニター、復権か(その15)」で書いたことを、ここでも考えている。

菅野先生が、ステレオサウンド 70号の特集の座談会でいわれたことである。
特集・Components of the yearの座談会で、ダイヤトーンのDS1000について発言されている。

《スピーカーというのは、ものすごく未完成ではあるけれど、
ものすごく完結していなくては困るものだと思うんです。》

スピーカーをオーディオコンポーネント(組合せ)と置き換えてみる。
《組合せというのは、ものすごく未完成ではあるけれど、
ものすごく完結していなくては困るものだと思うんです。》

音の入口から出口まで、ひとつのブランドで統一することはできても、
オーディオマニアは、いわゆるワンブランドシステムに、どこかお仕着せ的なものを感じてしまうのかもしれない。

出てくる音が大事なのだから、誰かとまったく同じになるワンブランドシステムでも、
他の人には出せない音を出せれば、それが求める音であればけっこうなことのはずなのに、
そうは思えない人種がオーディオマニアだとすれば、私はまさにそうである。

ワンブランドシステムと、他社製品を組み合わせたシステムとであれば、
前者のほうが完成度は高い、といえることがある。
音だけでなく、アピアランスも揃うだけに視覚的なまとまりという点でも、
ワンブランドシステムには、そこにしかない良さを持っている。

この項で書いている瀬川先生が、ステレオサウンド 56号で提案された組合せ。
KEFのModel 303(スピーカーシステム)に、サンスイのAU-D607(プリメインアンプ)、
パイオニアのアナログプレーヤーにデンオンのカートリッジ。

組合せの価格は約30万円。
このクラスは、力のあるメーカーがワンブランドシステムをつくりあげれば、有利な価格帯のような気がする。
にもかかわらず、瀬川先生の組合せに感じた(いまも感じている)魅力は難しい、と思ってしまう。

《組合せというのは、ものすごく未完成ではあるけれど、
ものすごく完結していなくては困るものだと思うんです。》

瀬川先生の組合せは、まさにそうだと思う。

Date: 5月 5th, 2016
Cate: audio wednesday

audio sharing例会(今後の予定)

今年のaudio sharing例会は、できるかぎり音を出していこうと考えている。
今年は2月以外は音を出している。

来月もできればそうしたい。
今後の予定としては一ヵ月ほど前に書いた「新月に聴くマーラー」のほかに、
マークレビンソンのLNP2を、いま改めて聴くことを考えている。

例会常連のKさんは、バウエン製モジュールとマークレビンソン製モジュール、
両方のLNP2を所有されている。
昨夜のaudio sharing例会が終ったあと、
「 LNP2だったら持ってきましょうか」といってくださった。

私は何度かバウエン製モジュールのLNP2の音を聴いているが、
噂だけはきくものの、実際に聴かれたことのある人はそう多くないはずだ。

KさんがLNP2を二台とも持ってきてくれれば、LNP2の比較試聴ができる。
なんだかんだいってもLNP2は1970年代後半、もっとも注目されていたコントロールアンプであり、
マークレビンソンの成功は、オーディオ界に多くのアンプメーカーが誕生するきっかけのひとつにもなった。

AGIもそのころ登場してきたアンプメーカーだ。
私のところにはブラックパネルの511がある。

いまから30年以上前、これらのアンプが現役だったころ、
瀬川先生が熊本のオーディオ店でアンプの試聴のイベントをやられた。
LNP2もあった、ブラックパネルの511もあった。
他にDBシステムズ、マッキントッシュ、パイオニア(Exclusive)、SAEなどがあった。

1970年台後半のアンプがいくつか集まれば……、と思っている。

Date: 5月 5th, 2016
Cate: フィッティング

フィッティング(その1)

以前のグラフィックイコライザーの素子数は少なかった。
もちろん素子数の多いプロ用機器はあったけれど、
コンシューマー用とくらべると価格がずいぶんと違っていた。

そのころは10バンド、11バンドという素子数が標準だった。
可聴帯域は20Hzから20kHzまでの10オクターヴだから、
10バンドであれば1バンドあたり1オクターヴということになる。

いまでは1/3オクターヴが当り前の時代である。
つまりグラフィックイコライザーの精度は三倍になったと考えることができる。

精度が三倍になるということは、どういうことなのか。
使い馴れていない人にとっては、
どこから手をつけていいのかとまどうことにつながるかもしれないが、
グラフィックイコライザーの精度があがるということは、フィッティングの精度のあがることである。

そのプログラムソースが録音された現場で再生できるのであれば、
音響的なフィッティングを考慮する必要はなくなるのかもしれないが、
現実にはそういうことはないのだから、音響的なフィッティングを考える必要がある。

グラフィックイコライザーをどう捉えるかは人によって違ってくるし、
どういう状況によって使うかによっても変ってきたとしても、
オーディオマニアがグラフィックイコライザーを導入するということは、
電子的コントロールで、音響特性の補整を行う意味においてである。

適切に使えれば、多素子のグラフィックイコライザーは、よりフィットした補整カーヴをつくれる。
グラフィックイコライザーの調整を自動化することは、dbxの20/20から始まった、といえる。

いまではずいぶんと進歩しているし、精度も高くなってきている。

グラフィックイコライザーは電子的に処理する者だが、
音響特性を音響的に補整するアクセサリーも市場にはいくつも登場している。

グラフィックイコライザーや音響アクセサリーだけであく、
ケーブルやインシュレーターといったアクセサリーも、
自分の部屋によりフィットする状態をつくりあげていくためのモノ、という見方もできる。

結局のところ、自分がおかれている環境にどフィットさせるかを、
オーディオマニアは違う表現で行ってきているともいえよう。

アクセサリーやイコライザーを導入しなくとも、
スピーカーの置き位置を変えていくことも、
その部屋にフィットする位置をさがしての行為であり、
理想のリスニングルームを実現できない以上、なんらかのフィッティングの手法は必要となり、
その手法を導入し、使いこなしていくことになる。

Date: 5月 4th, 2016
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その7)

内(うち)の古形は[うつ]で、[空(うつ)]の意である。
──物の本にはそうある。

研ぐために必要な水をどう持ってくるのか。
なにか器がなければ、水を必要とする場所まで持ってこれない。

器は空でなければ、水を運ぶ道具として機能しない。
空(うつ)であるから、水を運べる(移せる)。

Date: 5月 4th, 2016
Cate: audio wednesday

第64回audio sharing例会のお知らせ(muscle audio Boot Camp vol.2)

0時を過ぎてしまったから、今日(5月4日)は第一水曜日で、audio sharing例会である。
テーマはmuscle audio Boot Camp vol.2、
喫茶茶会記のスピーカーシステムのチューニングを行う予定だ。

すでに昨日(5月3日)になってしまったが、
夜10時ごろに喫茶茶会記に向っていた。
audio sharing例会の準備の一部をやっておくためだ(当日は時間の余裕があまりないため)。

具体的にはネットワークを12dB/oct.の並列型から、6dB/oct.の直列型に変更してきた。
前回使用したコイルをほどき、800Hzのクロスオーバー周波数になるように、
コンデンサーも並列接続で容量を合わせてきた。

部品の準備が済んだので、とりあえず音を出してきた。
スピーカーの後ろに回り込んでの作業だったためスピーカーの位置は左右で少し違ったままでの音出しだった。
どんな感じに変るのかをおおまかに把握しておきたかったし、細かな調整は当日行うのだから、
音をとにかく出すことを優先した。

今回も直列型ネットワークの音に驚いた。
喫茶茶会記の店主、福地さにも驚き、喜んでくれた。
たまたま来店されていた若い方(オーディオには特に関心はないようだった)も、驚いていた。

ガチガチのオーディオマニアの反応よりも、こういう人の反応が興味深かったり、面白かったりすることがある。
今回もそうだった。

そして思うのは、オーディオは裏切らない、ということだ。
きちんとしたことをやれば、きちんと反応して音として出してくるからだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 3rd, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(吉野朔実の死)

うたたねから起き、手にしたiPhoneで目にしたニュースは、かなり衝撃だった。
「漫画家の吉野朔実さんが死去」とあったからだ。

人は必ず死ぬものである。
こうやって書いているあいだにも、世界のどこかで誰が亡くなっている。
その人のことを、その人の名前も何も、私が知らないというだけで、
誰かがつねに、世界のどこかで亡くなっている。

今年も少なからぬ著名人が亡くなっている。
音楽関係において、もだ。

衝撃を受けることもあれば、それほどでもないときもある。
ただどちらにしても、喪失感はそれほど感じていない。

他の人はどうなのかわからないが、
私は、熱心に聴いてきた演奏家が亡くなっても、衝撃をうわまわるような喪失感は感じてこなかった。

けれど吉野朔実の死には、衝撃だけでなく喪失感が強かった。
手塚治虫のときもそうだった。

音楽もマンガも同じところがある。
オリジナルとなるものがあり、それの大量複製を手にしている、という点だ。

違いもある。
本はそのまま読める。
読むための特別な機器を必要とはしない。
視力がかなり悪い人は補うものを必要とするが、それは複雑なものではない。

レコード(録音物)はそうではない。
オーディオという、かなり複雑なシステムを介在させなければ聴くことはできない。

この決定的な違いが、私にとって喪失感につながるかどうかに大きく関係しているように、
吉野朔実の死を知って、考えたことだった。

あらためて「録音は未来」だと思う……

Date: 5月 2nd, 2016
Cate: ショウ雑感

2016年ショウ雑感(その2)

正式名称は何というのだろうか。
宴会場の扉のところに用意されているもの。
その宴会場を利用している客の名前が書かれているもののことだ。

先日、ヘッドフォン祭に行ってきた。
それぞれのブースの入口には、そこの会社名が書かれたそれがあった。
いわゆる案内板の一種だ。

オーディオテクニカのブースにも、それはあった。
けれどそれには「オーディオテクニカブース」と本来あるはずなのに、
「オーディオテク二カブース」と書いてあった。

テクニカの「ニ」が漢字の「二」になっていた。

些細なことじゃないか、そんなこと書くようなことじゃないだろうと思う人もいるであろう。
でも、この間違いは些細なことであり、どうでもいいことなのだろうか。

それを用意したのは、おそらく会場である中野サンプラザだと思う。
間違いは誰にでもある。
問題なのは、誰も気づかないのか、だ。

ヘッドフォン祭の朱際者であるFUJIYA AVICの担当者は気がつかなかったのか。
こういう間違いをされたオーディオテクニカの人たちはどうだったのか。
気づいていたけれど、そのままにしていたのか。

「オーディオテクニカブース」であっても「オーディオテク二カブース」であっても、
「おーでぃおてくにかぶーす」と読める。
読めれば案内板として機能しているといえるのか。

「オーディオテクニカブース」を「オーディオテク二カブース」のままにしておくことと、
オーディオという趣味(行為)とのあいだに、なにも違和感を感じないのだろうか。