Archive for 4月, 2016

Date: 4月 11th, 2016
Cate: 老い

歳を重ねるということ(音楽を聴きついで……)

ようやく五十を過ぎた……、とおもうことがいくつもある。
そのひとつである。

五味先生の「オーディオ人生(10) ラフマニノフ 交響曲第二番」がそのひとつだ。
     *
 若い時分──私の場合でいえば中学四年生のころ──私はベートーヴェンに夢中になった。それはベートーヴェンが偉大な音楽家であると物の本や人の話で聞いていて、さて自分でその音楽を聴き、なるほどベートーヴェンというのはすごいと得心した上で、血道をあげたわけである。もし誰もがベートーヴェンなど褒めなかったら、果して、それでもベートーヴェンに私は熱中したであろうか? つまり絶讚する他者の声とかかわりなしに「気違いじみて大袈裟な音楽だ」とゲーテの眉をしかめたあの『運命』を、本当に素晴しいと私は思ったろうか、という疑問を感じる。むろん紛れもなくハ短調交響曲は傑作だから幾多の人々を感動させたので、ベートーヴェンの作品だからではない。言うまでもなく、感動はベートーヴェンの名前ではなく作品そのものにある。少々早熟な中学生の私が当時興奮して当然だったとは思う。しかし、齢五十を過ぎて今、よく十代の小悴にこの作品がわかったものだと私は自分であきれるのだ。五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから。
 同じ《傑作》でも、チャイコフスキーの『悲愴』は今はつまらない。当時どうしてこんな曲に感激したか不思議なくらいだ。要するに若かったのだろうが、何にせよベートーヴェンの名を抜きにして当時の私のベートーヴェンへの傾倒は考えられない。つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。
 もう一つは、若気のあやまちというべき惹かれ方である。だれにもおぼえがあるだろうとおもう。メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』に、ドボルザークの『セロ協奏曲』に同じ時期私は聴き惚れ陶酔した。どちらも第一楽章にかぎられてはいたが、メンデルスゾーンとドボルザークはその頃の私にはベートーヴェンと同じ高さに位置する偉大な音楽家であった。敢えていえば夢中になったベートーヴェンでもそのヴァイオリン協奏曲よりラローの『スペイン交響曲』のほうが実は傑作だとひそかに思っていたのだ。シュナーベルによるベートーヴェンのピアノソナタ全集が当時出ていたが、愛聴したのは『月光』や『告別』『熱情』であって、作品一〇六や一〇九、一一〇などまるで面白くなかったことを告白する。ついでにいえば、シュナーベルの『月光』よりパデレフスキーのほうが演奏としては好きだったことを。ひどい話だが、事実である。熱中したベートーヴェンでこの態だった。『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである。
     *
この文章を、「オーディオ巡礼」が出た時に読んだ。
まだハタチにもなっていなかった。
五十は、遠い遠い未来のこととしかおもえなかったときに読んでいる。

《つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。》
私もそうだった。
十代の私には、まず五味先生の音楽についての文章が必要不可欠だった。
その五味先生が
《五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから》
と書かれているし、
《『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである》
とも書かれているわけだ。

五十になるまで俟つしかない、と思っていた。

Date: 4月 11th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その4)

オーディオマニアである以上、マルチアンプシステムにできるだけ早く挑戦してみたい、
そんなふうに高校生のころの私は思っていた。

HIGH-TECHNIC SERIES-1は、そんな私に、マルチアンプシステムこそが……、と思わせてくれた。
けれどこのHIGH-TECHNIC SERIES-1から約半年ほど経ってから、ステレオサウンド 47号が出た。

巻頭に「続・五味オーディオ巡礼」が載っている47号である。
     *
 言う迄もなく、ダイレクト録音では、「戴冠式」のような場合、コーラスとオーケストラを別個に録音し、あとでミクシングするといった手はつかえない。それだけ、音響上のハーモニィにとどまらず、出演者一同の熱気といったものも、自ずと溶けこんだ音場空間がつくり出される。ボイデン氏の狙いもここにあるわけで、私が再生音で聴きたいと望むのも亦そういうハーモニィだった。どれほど細部は鮮明にきき分けられようと、マルチ・トラック録音には残響に人工性が感じられるし、音の位相(とりわけ倍音)が不自然だ。不自然な倍音からハーモニィの美が生まれるとは私にはおもえない。4ウェイスピーカーや、マルチ・アンプシステムを頑に却け2ウェイ・スピーカーに私の固執する理由も、申すならボイデン氏のマルチ・トラック毛嫌いと心情は似ていようか。もちろん、最新録音盤には4ウェイやマルチ・アンプ方式が、よりすぐれた再生音を聴かせることはわかりきっている。だがその場合にも、こんどは音像の定位が2ウェイほどハッキリしないという憾みを生じる。高・中・低域の分離がよくてトーン・クォリティもすぐれているのだが、例えばオペラを鳴らした場合、ステージの臨場感が2ウェイ大型エンクロージァで聴くほど、あざやかに浮きあがってこない。家庭でレコードを鑑賞する利点の最たるものは、寝ころがってバイロイト祝祭劇場やミラノ・スカラ座の棧敷に臨んだ心地を味わえる、という点にあるというのが私の持論だから、ぼう漠とした空間から正体のない(つまり舞台に立った歌手の実在感のない)美声が単に聴こえる装置など少しもいいとは思わないし、ステージ——その広がりの感じられぬ声や楽器の響きは、いかに音質的にすぐれていようと電気が作り出した化け物だと頑に私は思いこんでいる人間である。これは私の聴き方だから、他人さまに自説を強いる気は毛頭ないが、マルチ・アンプ・システムをたとえば他家で聴かせてもらって、実際にいいと思ったためしは一度もないのだから、まあ当分は自分流な鳴らせ方で満足するほかはあるまいと思っている。
     *
HIGH-TECHNIC SERIES-1には、瀬川先生の、フルレンジから出発する4ウェイ・システム構想も載っていた。
どのフルレンジユニットから始めて、どう4ウェイまでいくのか、
マルチアンプへの移行はどの時点で行うのか、
そんなことをHI-FI STEREO GUIDEをみながら、あれこれ空想していたころに、
47号の五味先生の、この文章である。

そうなのか……、と思ってしまう。
まだマルチアンプの実際の音を一度も聴いたことのない高校生である。
もし聴いていたとして、その音が優れなかったとしても、
それは調整に不備があってのことで、マルチアンプシステムそのものを疑わなかったであろう、
そんな私も、47号の五味先生の文章によって、考えをあれこれめぐらせるようになった。

Date: 4月 10th, 2016
Cate: audio wednesday

audio sharing例会(今後の予定)

喫茶茶会記には三つの空間がある。
いわゆる喫茶室としての空間、それからアルテックのスピーカーシステムが置いてあるL Room、
その奥にS Roomがある。

L Roomには窓がない。
そのことは以前から知っていたけれど、真っ暗になることは今日まで知らなかった。
照明を落としてしまうと、どんなに目を凝らしても何も見えない。

照明があるところで目を閉じているのとは違う暗さが得られることに、今日やっと気づいた。
このL Roomで、照明を落として真っ暗な状態で、
マーラーの交響曲を聴く、ということをやりたい、と思っている。

各人が聴きたいマーラーの交響曲のCDを持ち寄って、真っ暗な中でかなりの音量で聴く。
一曲目はバーンスタインの第五交響曲(ドイツ・グラモフォン盤)でいきたい、と考えている。
最後にかけるのはジュリーニの第九番。
この二曲だけは決めておいて、あとはリクエストに応じて、という具合に。

いつにするかはまだ決めていない。
候補としては8月3日を考えている。
この日の05時45分は新月である。

「新月に聴くマーラー」である。

Date: 4月 9th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その3)

1977年に出版されたラジオ技術選書「スピーカ・システム(山本武夫 編著)」にも、
直列型ネットワークの記述がある。
そこには、こう書いてあった。
     *
直列型と並列型は2ウェイ構成で、負荷が完全な定抵抗であればおなじ遮断特性が得られます。しかし3ウェイの場合には、中音スピーカ用のバンドパス・フィルタの低域カットと高域カットの二つのクロスオーバ周波数が接近していると、相互の影響が現われ正しい特性が得られません。クロスオーバ周波数を2kHzと5kHzとしたときの特性例を図9−15に示しますが、並列型と直列型では特性が異なります。
     *
図9-15をみると、直列型と並列型とでは特性に違いがあることが確認できる。
それに「負荷が完全な定抵抗であれば」ともある。
実際にはスピーカーユニットは定抵抗とは呼べないインピーダンス特性をもつ。
ということは、直列型と並列型で同じ遮断特性が得られるわけではないことは、
すでに伝わってくるし、
スピーカーユニットが並列なのか直列なのかによっても、
インピーダンス特性に違いが生じるであろうことは予測できる。
となると、実際のスピーカー動作時の遮断特性は、
並列型と直列型とでは違いが大きくなっている……、そう誰もが考える。

私もそう考えた。
それに「スピーカ・システム」を読んだころは、
ステレオサウンドからHIGH-TECHNIC SERIES-1が出ていた。
マルチアンプをとりあげた一冊だ。

マルチアンプシステムを、ひとつの理想として考えれば、
ネットワークの方式として並列型と直列型とでは、並列型のほうがよく見えてくるというものだ。

この時点では、私の中には、マルチアンプシステムとスピーカー内蔵のネットワークを、
別のものとして考えるという発想が、まだなかった。
だから、よりマルチアンプシステムに近いのはどちらか、という視点でしか、
並列型ネットワークと直列型ネットワークの違いを捉えていなかった。

Date: 4月 8th, 2016
Cate: audio wednesday

第64回audio sharing例会のお知らせ(muscle audio Boot Camp vol.2)

5月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

先日行ったmuscle audio Boot Campでの6dBスロープ直列型ネットワークの音を聴いた喫茶茶会記の店主、
福地さんの依頼で喫茶茶会記のスピーカーシステムのネットワークも、
4月中に6dBスロープ直列型ネットワークに変更する。

いい機会なので、喫茶茶会記のスピーカーシステムのチューニングを行う予定だ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 8th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その2)

私がオーディオに興味をもったころのスピーカー関係の技術書には、
ネットワークの説明のページには、並列型と直列型の回路図が載っているものが多かった。

並列型、直列型というのは、アンプから見たユニットの接続の違いによる。
2ウェイの場合、ウーファーとトゥイーターが並列に接続されていて、アンプとユニットのあいだに、
ネットワーク(ハイカットフィルターとローカットフィルター)が挿入されている。

直列型はウーファーとトゥイーターが直列に接続されている。
ネットワークを構成するコンデンサーとコイルは、
6dBスロープの場合は、ウーファーに対してコンデンサーが、トゥイーターに対してコイルが並列に接続されている。
並列型の場合はウーファーに対してコイルが、トゥイーターに対してコンデンサーが直列になっている。

ようするにコンデンサー、コイルの接続ではなく、
スピーカーユニットの接続がアンプ側から見て並列なのか直列なのかである。

たとえばトゥイーターを複数個、ウーファーをダブルにする場合など、
ほとんどの場合は並列接続をする。
直列接続にする人はそう多くないであろう。

ユニットの直列接続は、並列接続よりも音が悪いという印象がなんなとくあるのではないだろうか。
ユニットの複数使用は、それぞれのユニットをできるだけ同じ条件で鳴らしたい、とまず考える。
そうなると必然的に直列よりも並列に接続した方が、
ふたつのユニットの条件は揃ってくる。

これはウーファー同士、トゥイーター同士の話である。
ましてウーファーとトゥイーターという、まったく別のユニットを直列に接続することは、
そこに技術的メリットは感じとりにくい。

並列型ネットワークであればバイワイヤリングが可能になる。
ウーファー用のハイカットフィルターと、トゥイーター用のローカットフィルターを分離させることで干渉を抑え、
ウーファーからの逆起電力の影響をトゥイーターが受けにくくなる、などの説明がされている。

直列型のネットワークは、バイワイヤリングはできない。
ユニットが直列になっているからだ。
つまりウーファーとトゥイーターの干渉は、並列型のネットワークよりも増すと考えられる。

スピーカー関係の技術書で直列型ネットワークの回路図を見て、
なぜこんな回路があるんだろうか……と疑問を感じたし、並列型ネットワークが優れているとしか見えなかった。

Date: 4月 7th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(番外)

muscle audio Boot Campの開始は夜七時からなので、
その前に喫茶茶会記に到着して準備をする。
昨日もそうやっていた。
セッティングが終り、確認のための音を出すと、左チャンネルの2441が鳴っていない。
ユニットは問題ないことは確かめた。
となるとアッテネーターのAS10ということになる。

接続は何度も確かめた。間違っていない。
このAS10は未使用のモノだ。
30年以上使われていなかったモノだ。

元箱におさまって保管されていたモノだから、外観は新品そのもの。
なんの問題もなさそうである。
右チャンネルに割り当てたAS10は問題なく動作している。

接点不良とも思えず、それでもスイッチ類を何度か動かしてみるけれどまったく音が出ない。
アッテネーターがないと、ウーファーの416-8Cよりも2441の出力音圧レベルが高いから、
かわりのアッテネーターが必要となる。

秋葉原に行って調達することも考えた。
それでも動くはずだ、という確信めいたものもあったため、
一度結線を外してもう一度接続してみた。

たったこれだけなのに、なんの問題もなくすんなり音が出た。
一安心だ。

音がでなかった理由は、はっきりとしない。

このAS10は岩崎先生が所有されていたモノだ。
なので、扶けてくれたのかも……、と勝手におもっている。

Date: 4月 7th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その1)

昨夜(4月6日)は、muscle audio Boot Campと銘打った音出しの一回目だった。
(audio sharing例会の音出しとしては三回目)

すでに何度か書いてきているように、
ウーファーはアルテックの416-8C、上の帯域を受け持つドライバーはJBLの2441、
ホーンは2397という構成。
アッテネーターはラックスのAS10、
ネットワークは喫茶茶会記で使っている12dBスロープのものを使用した。

アンプ、CDプレーヤーは前回の同じである。
ラックスのD38u、D/AコンバーターにMytekのManhattan、アンプはマッキントッシュのMA2275。

このシステムで何枚かのCDを聴いた後に、アンプは交換する。
audio sharing例会の常連であるAさんが持ってきてくださったFirst WattのコントロールアンプB1、
パワーアンプSIT2に交換する。

B1、SIT2ともに、増幅回路は半導体一石である。
SIT2の出力は10W。
音出しは、first Wattのペアで行うことになった。

つづいてネットワークを私が自作した6dBスロープに変更した。
最初はベークライト板の上にコンデンサー、コイルを配置して……、と考えていたが、
今回はネットワークの実験を行うわけで、そのためにはバラックのほうが都合がいいということもあって、
ベークライト板の使用はやめて、いわゆるバラック状態だった。

なので自作というよりもお手製といったほうがいいかもしれない。

見た目はあまりよくない。
回路もこれ以上部品を省略できないわけで、マニア心をくすぐるとはとてもいえない。

喫茶茶会記の12dBネットワークは800Hzクロスオーバー、
私の6dBネットワークはコイルの値の関係で約710Hzクロスオーバーである。
使用部品も伊良部違っているから、厳密な12dBと6cBの比較試聴とはいえないところもある。

前回の「マッスルオーディオで聴くモノーラルCD」の際に、6dBスロープでやっている。
クロスオーバー周波数もわずかに違うが、ほぼ同じといえる。
だから6dBネットワークの手応えは感じていたが、実際の音の違いはより大きかった。

この状態でCDを数枚聴く。
このままコマかな調整を行うのもいいかなと思いはじめていたが、
一応最初の予定どおりにネットワークの配線を変えることにした。

一般的な並列型から直列型への変更である。
ネットワークを構成する部品はまったく同じ。コンデンサー、コイルの値もとうぜんそのまま。

この音の変化は大きかった。

Date: 4月 6th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その19)

オーディオメーカーが新製品を開発しようとしている。
メーカーにはいくつかの部がある。

会社によって違いはあろうが、
たとえば商品企画部、設計開発部、デザイン部、製造部といったところだろう。

けれど、ほぼすべてのメーカーに、製品開発に関係する部としての編集部はないはずだ。
新製品が完成して売り出すには、広報資料やカタログをつくる必要があるから、
そこで編集部は必要となっても、それ以前の過程における編集部の存在はなかった。

いまこんなことを書いているが、ついこの間まではこんなことは考えてもみなかった。
製品開発に編集部なんてことは、まったく思いつきもしなかった。

それでも、いまは考えが変ってきている。
実は製品開発においても「編集」部は必要なのではなかろうか、と。

Date: 4月 5th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その3)

シェフィールドのダイレクトカッティング盤の「音」が、
いまの私にとって、何かのアンチテーゼとしてのものだとすれば、
その何に対してなのか、と自問する。

現在の、ハイレゾと呼ばれているものに対して、ではない。
昨今ブームだといわれているアナログディスク再生に対してのアンチテーゼとして、
私はシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたいのである。

私と同じように、いまアンチテーゼとしてシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたい、
と思っている人もいるかもしれない。
その人たちが、私と同じように、現在のアナログディスク再生に対してのアンチテーゼとして、とは限らない。
別の「何か」に対してのアンチテーゼとして、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤を求めることだって考えられる。

それにもともとアンチテーゼなんてものを感じていないから、
そんなものを求めたりはしない、という人もいよう。

それはそれでいい、と思っている。
私はそう感じて、いま聴きたいと思う音がある、というだけである。

と同時に、私と同じものに対するアンチテーゼとして、
私とは違うものを求める人がいるのはなぜなのか、とも考える。

これは音に対する、他のこととを関係してくるように思うのだが、
自分の声は自分だけの「声」がある、ということではないだろうか。

ほとんどの人が体験しているように、自分の声を録音して再生してみると、
自分の声ではないように感じる。
けれど誰かの声を録音・再生すれば、その人の声と判断できる音で鳴ってくる。

つまり、そこで再生している自分の声が、他の人が聞いている自分の声ということになる。
つまり声を発している当人に聞こえている自分の声は、その人にだけしか聞こえていないわけだ。

私が聞いている私の声を、誰かに聞かせることはできない。
他の人の場合も同じだ。

もっとも身近な音である自分の声が、他の人が聞いているようには聞こえないわけである。
自分が聞いている自分の声と、他人が聞いている自分の声とのギャップ、
このことが音を聴くという行為と、まったく無関係であるとは思えない。

Date: 4月 4th, 2016
Cate: 五味康祐

桜の季節に(坂口安吾と五味康祐)

坂口安吾がいなかったら……、と思ってしまう。

いつのころの週刊文春だったか、1953年の芥川賞で「喪神」が選ばれたのは、
坂口安吾の強い推しがあったからだ、という記事が載っていた。
他の選考委員は「喪神」に否定的だった、ともあった。

坂口安吾が、あの時、芥川賞の選考委員でなかったならば、
「喪神」は芥川賞に選ばれなかっただろうし、五味先生のその後も大きく変っていたことだろう。

仮空の話である。
そんなことはわかりきっている。
その上で書いている。

坂口安吾がいなかったら、ステレオサウンドは創刊されていなかった可能性もある。
五味先生が藝術新潮に連載を持っていなかった可能性があるからだ。

ステレオサウンドが創刊されていたとしても、そこには五味康祐の名前はなかった可能性もある。
五味先生のいないステレオサウンドを想像してみたらいい。

「五味オーディオ教室」も出ていなかっただろう。

もしそうだったら、私はどんなオーディオマニアになっていただろうか。
オーディオマニアになっていただろうか。

なっていたとしても……、と思ってしまう。

Date: 4月 3rd, 2016
Cate: 五味康祐

桜の季節に

毎年この時期に思い出す五味先生の文章がある。
1972年発行の「ミセス」に載った「花の乱舞」だ。
     *
 花といえば、往昔は梅を意味したが、今では「花はさくら樹、人は武士」のたとえ通り桜を指すようになっている。さくらといえば何はともあれ──私の知る限り──吉野の桜が一番だろう。一樹の、しだれた美しさを愛でるのなら京都近郊(北桑田郡)周山町にある常照皇寺の美観を忘れるわけにゆかないし、案外この寂かな名刹の境内に咲く桜の見事さを知らない人の多いのが残念だが、一般には、やはり吉野山の桜を日本一としていいようにおもう。
 ところで、その吉野の桜だが、満開のそれを漫然と眺めるのでは実は意味がない。衆知の通り吉野山の桜は、中ノ千本、奥ノ千本など、在る場所で咲く時期が多少異なるが、もっとも壮観なのは満開のときではなくて、それの散りぎわである。文字通り万朶のさくらが一陣の烈風にアッという間に散る。散った花の片々は吹雪のごとく渓谷に一たんはなだれ落ちるが、それは、再び龍巻に似た旋風に吹きあげられ、谷間の上空へ無数の花片を散らせて舞いあがる。何とも形容を絶する凄まじい勢いの、落花の群舞である。吉野の桜は「これはこれはとばかり花の吉野山」としか他に表現しようのない、全山コレ桜ばかりと思える時期があるが、そんな満開の花弁が、須臾にして春の強風に散るわけだ。散ったのが舞い落ちずに、龍巻となって山の方へ吹き返される──その壮観、その華麗──くどいようだが、落花のこの桜ふぶきを知らずに吉野山は語れない。さくらの散りぎわのいさぎよいことは観念として知られていようが、何千本という桜が同時に散るのを実際に目撃した人は、そう多くないだろう。──むろん、吉野山でも、こういう見事な花の散り際を眺められるのは年に一度だ。だいたい四月十五日前後に、中ノ千本付近にある旅亭で(それも渓谷に臨んだ部屋の窓ぎわにがん張って)烈風の吹いてくるのを待たねばならない。かなり忍耐力を要する花見になるが、興味のある人は、一度、泊まりがけで吉野に出向いて散る花の群舞をご覧になるとよい。
     *
今年は、この「花の乱舞」と坂口安吾の「桜の森の満開の下」が重なり、
桜とは怖ろしいものだ、という感を深くする。

Date: 4月 3rd, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その2)

シェフィールドのダイレクトカッティング盤だけではない。
ときおり無性に聴きたくなる音がある。

それはシェフィールドのダイレクトカッティング盤でもあり、
ある特定のアンプやスピーカーシステム、スピーカーユニット、カートリッジであったりする。

それらはすべて製造中止になっているモノだ。
懐古趣味で、昔はよかった、と思い出したくてそれらを聴きたい、と思っているわけではない。
たいていの場合、特にアンプなどの電子機器は劣化もあるし、
そのころと現在とでは技術のレベルが大きく変っているところがあって、
あまりに期待しすぎると、こんな音だったかなぁ……、と感じてしまうことも少なくない。

そういうことがあるのをわかっていて、いまもう一度聴きたい、と思うのは、なぜなのか。
それも常に聴きたい、と思うわけではない。

ある時期は、あるアンプを、その時期がすぎればあるスピーカーの音を、
そしていまはシェフィールドのダイレクトカッティング盤を、というように、
その時々で、聴きたい、と思う対象は変っていく。

技術の変化は流れであって、その流れは音の変化を生んでいく。
時代時代に、大きな流れとしての、ひとつの音の傾向が主流となっていくこともある。
流行とまでは呼べなくても、主流と呼ぶのも、少し抵抗を感じながらも、
そういう音の流れ(傾向)は、たしかに存在しているし、存在してきた。

オーディオに関心をもつということは、そういうことに無関心でいることは難しい。
無関心、無関係でいることもできないわけではないだろうが、
それは私の求めるところではない。
多くの人がそうだろう、と思う。

そういう音の流れに対してのアンチテーゼがある、と思う。
昔は、そんなふうに思うことはあまりなかったけれど、
ときおり聴きたくなるモノ(音)をふりかえってみると、
アンチテーゼとしての「音」を、その時々で求めているようにも思えるのだ。

いまの私にとっての、アンチテーゼとしての「音」が、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤の「音」である。

Date: 4月 2nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その37)

五味先生は「続・五味オーディオ巡礼」の後半、こう書かれている。
     *
 JBLでこれまで、私が感心して聴いたのは唯一度ロスアンジェルスの米人宅で、4343をマークレビンソンLNPと、SAEで駆動させたものだった。でもロスと日本では空気の湿度がちがう。西洋館と瓦葺きでは壁面の硬度がちがう。天井の高さが違う。4343より、4350は一ランク上のエンクロージァなのはわかっているが、さきの南口邸で「唾棄すべき」音と聴いた時もマークレビンソンで、低域はスレッショールド、高域はSAEを使用されていた。それが良くなったと言われるのである。南口さんの聴覚は信頼に値するが、正直、半信半疑で私は南口邸を訪ねた。そうして瞠目した。
     *
この部分を読んで、やっぱりそうなのか、と思っていた。
そうなのか、と思った部分は、アンプのところだ。
マークレビンソンのLNP2とSAEのパワーアンプ、とあるところだ。

SAEの型番はわからないが、勝手にMark 2500だろうと思っていた。
LNP2とMark 2500で、JBLの4343を鳴らす──、
この時代のステレオサウンドを読んできた人ならば、それは瀬川先生の組合せと同じであることに気づく。

組合せだけで音は決まるわけではないことは重々わかった上で、
そうなのか、と思っていたし、
なにか五味先生と瀬川先生の共通点のようなものを感じとろうとしていたのかもしれない。

南口重治氏の4350Aの音は、どう変ったのか。
     *
 プリはテクニクスA2、パワーアンプの高域はSAEからテクニクスA1にかえられていたが、それだけでこうも音は変わるのか? 信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
 ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
 小編成のチャンバー・オーケストラなら、あらためて聴きなおしたゴールド・タンノイのオートグラフでも遜色ないホール感とアンサンブルの美はきかせてくれる。だが大編成のそれもフォルテッシモでは、オートグラフの音など混変調をもったオモチャの合奏である。それほど、迫力がちがう。
     *
この音がどうだったのかを、何度も読み返しては想像していた。
南口重治氏の音を想像するには、そのころの私にはとにかく読むしかなかった。
記憶せんばかりに読み返した。

《気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモ》、
この部分を、とくに想像していた。

いったいどういう音なのだろうか、どういうレベルの音なのだろうか、と。
同時に、五味先生への信頼も増していた。

五味先生はタンノイのオートグラフを、マッキントッシュのC22とMC275で鳴らされている。
高能率のスピーカー(ラッパ)を真空管アンプで鳴らす。

五味先生はオーディオ愛好家の五条件のひとつとして、「真空管を愛すること」とされている。
ステレオサウンドに以前に書かれていたことだし、「五味オーディオ教室」にも載っていた。

47号でも、こんなふうに書かれている。
     *
ヴァイオリンの合奏は、ただ高音が鳴ればいいというものではない。あの飴色の胴をした一挺一挺のヴァイオリンが馬の尻尾に擦られて調和を響かせねば、ユニゾンとはいえまい(高音をここちよく鳴らすだけならシンセサイザーでこと足りるのである。そして矢鱈シンセサイザー的ヴァイオリンがちかごろ多すぎる。いいトランジスター・アンプで、トゥイーターをうまく鳴らした時ほどそうだから皮肉な咄だ)。
     *
その五味先生が、南口重治氏の4350Aの音、
つまり高能率のラッパを真空管アンプで、というありかたとは違うありかたのシステムの音に、
《感嘆し降参した》と書かれている。

オーディオマニアの中には、五味先生のことを古いシステムに固執している人と捉えている人がいる。
新しい音を認めない人だ、と思い込んでいる人がいる。

そんなことはないのだ。

Date: 4月 1st, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その1)

ときどき無性に聴きたくなるものが、私にはいくつかある。
そのひとつが、シェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

1970年代後半、レコード会社各社からダイレクトカッティング盤が登場していた。
ほとんどすべてがオーディオマニア向けといってもよかった。

ダイレクトカッティングは演奏者にプレッシャー与えすぎるという理由で、
否定的なところもあったけれど、
うまくいったダイレクトカッティング盤の音は、たまらないものがある。

私の中では、ダイレクトカッティング盤といえば、
やはりシェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

各社のダイレクトカッティング盤をすべて聴いているわけではない。
むしろ聴いていない数の方が多い。
そういう偏った聴き方の中での評価でしかないけれど、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤の音は、
ダイレクトカッティング盤らしい音がしていた、と思う。

こんな説明ではダイレクトカッティング盤を聴いた経験のない人にはまったく通用しないのはわかっている。
でも、ダイレクトカッティング盤をうまく鳴らした音を聴いた人ならば、納得されるだろう。

たとえば音のふくらみ、というか、音量が増していくときのフワッとした自然さは見事だった。

シェフィールドのダイレクトカッティング盤は高かった。
6000円していたし、クラシックに関しては6500円だった。
買いたい、と思いながらも、結局一枚も買えなかった。

でも意外にもシェフィールドのダイレクトカッティング盤は聴く機会があった。
いまごろ、やっぱりどれか一枚買っておけばよかったなぁ、と後悔しているわけだが、
それよりも、なぜこうもシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたい、と思うようになってきたかだ。