アンチテーゼとしての「音」(その3)
シェフィールドのダイレクトカッティング盤の「音」が、
いまの私にとって、何かのアンチテーゼとしてのものだとすれば、
その何に対してなのか、と自問する。
現在の、ハイレゾと呼ばれているものに対して、ではない。
昨今ブームだといわれているアナログディスク再生に対してのアンチテーゼとして、
私はシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたいのである。
私と同じように、いまアンチテーゼとしてシェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴きたい、
と思っている人もいるかもしれない。
その人たちが、私と同じように、現在のアナログディスク再生に対してのアンチテーゼとして、とは限らない。
別の「何か」に対してのアンチテーゼとして、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤を求めることだって考えられる。
それにもともとアンチテーゼなんてものを感じていないから、
そんなものを求めたりはしない、という人もいよう。
それはそれでいい、と思っている。
私はそう感じて、いま聴きたいと思う音がある、というだけである。
と同時に、私と同じものに対するアンチテーゼとして、
私とは違うものを求める人がいるのはなぜなのか、とも考える。
これは音に対する、他のこととを関係してくるように思うのだが、
自分の声は自分だけの「声」がある、ということではないだろうか。
ほとんどの人が体験しているように、自分の声を録音して再生してみると、
自分の声ではないように感じる。
けれど誰かの声を録音・再生すれば、その人の声と判断できる音で鳴ってくる。
つまり、そこで再生している自分の声が、他の人が聞いている自分の声ということになる。
つまり声を発している当人に聞こえている自分の声は、その人にだけしか聞こえていないわけだ。
私が聞いている私の声を、誰かに聞かせることはできない。
他の人の場合も同じだ。
もっとも身近な音である自分の声が、他の人が聞いているようには聞こえないわけである。
自分が聞いている自分の声と、他人が聞いている自分の声とのギャップ、
このことが音を聴くという行為と、まったく無関係であるとは思えない。