歳を重ねるということ(音楽を聴きついで……)
ようやく五十を過ぎた……、とおもうことがいくつもある。
そのひとつである。
五味先生の「オーディオ人生(10) ラフマニノフ 交響曲第二番」がそのひとつだ。
*
若い時分──私の場合でいえば中学四年生のころ──私はベートーヴェンに夢中になった。それはベートーヴェンが偉大な音楽家であると物の本や人の話で聞いていて、さて自分でその音楽を聴き、なるほどベートーヴェンというのはすごいと得心した上で、血道をあげたわけである。もし誰もがベートーヴェンなど褒めなかったら、果して、それでもベートーヴェンに私は熱中したであろうか? つまり絶讚する他者の声とかかわりなしに「気違いじみて大袈裟な音楽だ」とゲーテの眉をしかめたあの『運命』を、本当に素晴しいと私は思ったろうか、という疑問を感じる。むろん紛れもなくハ短調交響曲は傑作だから幾多の人々を感動させたので、ベートーヴェンの作品だからではない。言うまでもなく、感動はベートーヴェンの名前ではなく作品そのものにある。少々早熟な中学生の私が当時興奮して当然だったとは思う。しかし、齢五十を過ぎて今、よく十代の小悴にこの作品がわかったものだと私は自分であきれるのだ。五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから。
同じ《傑作》でも、チャイコフスキーの『悲愴』は今はつまらない。当時どうしてこんな曲に感激したか不思議なくらいだ。要するに若かったのだろうが、何にせよベートーヴェンの名を抜きにして当時の私のベートーヴェンへの傾倒は考えられない。つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。
もう一つは、若気のあやまちというべき惹かれ方である。だれにもおぼえがあるだろうとおもう。メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』に、ドボルザークの『セロ協奏曲』に同じ時期私は聴き惚れ陶酔した。どちらも第一楽章にかぎられてはいたが、メンデルスゾーンとドボルザークはその頃の私にはベートーヴェンと同じ高さに位置する偉大な音楽家であった。敢えていえば夢中になったベートーヴェンでもそのヴァイオリン協奏曲よりラローの『スペイン交響曲』のほうが実は傑作だとひそかに思っていたのだ。シュナーベルによるベートーヴェンのピアノソナタ全集が当時出ていたが、愛聴したのは『月光』や『告別』『熱情』であって、作品一〇六や一〇九、一一〇などまるで面白くなかったことを告白する。ついでにいえば、シュナーベルの『月光』よりパデレフスキーのほうが演奏としては好きだったことを。ひどい話だが、事実である。熱中したベートーヴェンでこの態だった。『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである。
*
この文章を、「オーディオ巡礼」が出た時に読んだ。
まだハタチにもなっていなかった。
五十は、遠い遠い未来のこととしかおもえなかったときに読んでいる。
《つまり十代の私には、音楽作品を鑑賞する上で、あるいは夢中になるのに、或る程度の世評は必要不可欠だったのを今にして悟るのである。》
私もそうだった。
十代の私には、まず五味先生の音楽についての文章が必要不可欠だった。
その五味先生が
《五十をすぎて、ようやく第五交響曲に燃焼させたベートーヴェンの運命のようなものが私には見えてきたから》
と書かれているし、
《『ハンマークラヴィーア』や作品一一一の真価──前人未踏ともいうべきその心境を聴き取るにはそれから二十年の歳月が(人生経験がではない)私には必要だったのである》
とも書かれているわけだ。
五十になるまで俟つしかない、と思っていた。