Archive for 4月, 2016

Date: 4月 21st, 2016
Cate: バッハ, マタイ受難曲

リヒターのマタイ受難曲(その1)

カール・リヒターのマタイ受難曲は、日本では古くから評価が高い。
特に旧盤(1958年)の評価は群を抜いていたといえる時期もある。

この旧盤のドラマティックともいいたくなる表現の緊迫感からすると、
新盤(1979年)のマタイ受難曲は、どこかなまぬるく感じもした。

だから20代はリヒターのマタイ受難曲は旧盤だけがあれば、それでいい、
新盤は必要なのだろうか……、とさえ思っていた。

それがいつのころからか新盤のほうに手が伸びるようになってきた。
旧盤の演奏をやりすぎ、といわないけれど、そんな印象につながるようなものを感じていた。

なぜそう感じるように変ってきたのか。
その理由というか、きっかけがよく思い出せずにいる。
きっかけらしいきっかけはなかったのか。
何かあったけど、忘れてしまったのか。

ひさしくどちらも聴いていない。

Date: 4月 21st, 2016
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その4)

ポータブルCDプレーヤーを持っていたこともある。
最初のポータブル機(ソニーのD50)ではなく、
各社からいくつも登場して、電車の中でもよくみかけるようになったころに購入した。

ポータブルCDプレーヤーであれば、
ウォークマンとは違い、CDを買ってくれば(持っていれば)すぐに聴ける。
録音済みテープを自分で制作する手間はいらない。

でも持ち歩くことはほとんどしなかった。
そうなると自然に使う頻度も極端に減ってくる。

2002年にiPodを買った。
カセットテープに録音するよりは簡単に曲をiPodに収録できる。
CDをMacでリッピングしておけば、カセットテープの収録時間を気にすることなく、
どんどん増やしていける。

iPodはポータブルCDプレーヤーよりも小さい。
ポータブルCDプレーヤーはジーンズのポケットには入らないが、iPodはすんなり入る。

ウォークマン、ポータブルCDプレーヤー、iPod。
これらの中ではiPodが持ち歩いた時間が長い。

iPodを手に入れたときは、ウォークマンを譲ってもらったときと同じようによく使っていた。
けれど、自然と使わなくなっていった。

それでも割と持ち歩いていたのは、友人に聴かせたいCDがあるからだった。
そのころアルゼンチンのハーモニカ奏者ウーゴ・ディアスのCDがビクターから発売になった。

ウーゴ・ディアスを知る人は、私のまわりにはほとんどいなかった。
その人たちにiPodでウーゴ・ディアスを、なかば強引に聴かせていった。
聴けば、ほぼみんな驚いていた。

外出先や移動中に自分で聴くためというよりも、
こうやってその時々で、自分でいいと思ったCDを入れていて、友人・知人に聴かせていた。

言葉でウーゴ・ディアスについて語るのも楽しいことだが、
その場で聴いてもらうことには及ばない。

特にハーモニカという楽器に対するイメージは、
日本の場合は小学校の音楽の授業によって形成されているところがある。
それをウーゴ・ディアスの「音」は、いとも簡単に破壊してくれる。

だからみな「すごい!」と驚く。

Date: 4月 21st, 2016
Cate: audio wednesday

第64回audio sharing例会のお知らせ(muscle audio Boot Camp vol.2)

5月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

自分のシステムをチューニングするとき、ほとんどの場合、かけるディスクは一枚である。
CDであってもアナログディスクであっても、かけかえることはほとんどしない。

CDの場合であれば、何かを変更するときはストップボタンは押さずにポーズボタンを押す。
つまりCDはCDプレーヤーの中で回転し続けているわけだ。
アンプのボリュウムも最初に設定したところから動かさない。

一度絞って、元の位置に戻せば同じことじゃないか、
CDにしても何枚かのディスクをかけかえることに不都合はないじゃないか、
そう考える人もいるだろうが、
細かなチューニングになればなるほど、変動要素はできるかぎり減らしたいし、コントロールしたい。

1980年代のステレオサウンドを読み返してもらえれば、なぜそうするのかは載っている。
CDであればストップボタンを押してしまうと、ディスクの回転は止る。
プレイボタンを押しても、すぐにサーボ回路が安定するとは限らない。

それに一度ディスクを取り出してしまうと、
前とまったく同じ状態でディスクがホールドされるとは限らない。

アンプのボリュウムも絞ってしまうと、完全に同じ位置に設定できるとは思わない方がいい。
だいたい同じ位置にはできても、わずかにズレてしまう。
聴感上の音量の変化は判断材料として重要である。
その差はわずかであることが多いからこそ、ボリュウムもそのままにしておく。

他にも注意する点はいくつかある。
そういう注意を払いながら、音を聴いていく。

これを次回のmuscle audio Boot Campで再現しようとは考えていない。
同じディスクの同じところを、しつこく聴くわけだからだ。
やっている本人は楽しくても、隣で聴いている人には苦痛になるだろうし、
しんどいことだと思う。

なのでチューニングをやりながらの音出しであっても、数枚のディスクをかけていくだろうし、
音量に関してもまったくいじらない、ということはやらない予定でいる。
ただし要望があれば、変更の可能性もある。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 20th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その6)

ステレオサウンド47号「続・五味オーディオ巡礼」を何度も読み返していた高校一年だった私は、
スピーカー内蔵ネットワーク方式で、マルチアンプのよさを出すには……、
反対にマルチアンプ・システムでネットワーク方式のよさも出すには……、
そういうことを考えていた。

多くの人が考えるように、
トゥイーター用のローカットフィルターとウーファー用のハイカットフィルターの干渉を、
どれだけ抑えられるか、について考えていた。

1980年ごろになると国産スピーカーの中に、
ネットワークをエンクロージュア内で分離させているモノが登場してきた。

エンクロージュアの裏側にある入力端子、
この端子の裏側で2ウェイならば二組、3ウェイならば三組のケーブルが、
それぞれのユニットのネットワーク(フィルター)までのびている、というようにだ。

国産のスピーカーシステムで、バイワイヤリングを最初に採用したモデルはどれなのだろうか。
私が見て聴いた範囲では、
ダイヤトーンのフロアー型システムDS5000(JBL・4343と同じ寸法の4ウェイ・システム)だった。

そのころはまだバイワイヤリングという言葉はなかった。
バイワイヤリング方式そのものは、東芝が実用新案をとっていたと、ずいぶんあとになって知った。

エンクロージュア内部でネットワークをそれぞれの帯域ごとに分離させているのであれば、
それをエンクロージュアの外側までのばしていったのが、いわゆるバイワイヤリングの考えである。

バイワイヤリング対応のスピーカーを、
シングルワイヤリングからバイワイヤリングにすれば、ほとんどの場合、音の分離は向上する。
バイワイヤリングでこれだけの効果が得られるのならば、
3ウェイではバイ(二組)ではなく三組に、4ウェイでは四組のスピーカーケーブルで、
アンプと接続できるようにすれば、バイワイヤリングよりもさらに音の分離はよくなる……、
誰もがそう考えるであろう。

私もそう考えた。
JBLの4343のネットワークを回路定数はそのままで、
各帯域ごとに(つまり四つに)分離して、スピーカーケーブルも四組使う、
そんな接続で鳴らしたら……、
4ウェイのマルチアンプ(四組のパワーアンプ使用)とまではいかなくとも、
バイアンプ(二組のパワーアンプ使用)と同等か、
うまくすればもっといい音が得られるのではないか。

そんな都合のいいことを想像していた時期がある。

けれどステレオサウンドの試聴室で、さまざまなバイワイヤリング対応のスピーカーを、
シングルワイヤリングとバイワイヤリングでの音の違いを体験していくうちに、
バイワイヤリングが、シングルワイヤリングよりもすべての面で優れているわけでないことにも気づく。

そのころになって、ようやく直列型ネットワークのことを思い出すにいたる。

Date: 4月 19th, 2016
Cate: 五味康祐

「シュワンのカタログ」を読んだ者として

4月14日以降、「実家はどうなの?」ときかれる。
熊本は私の故郷である。
いまたいへんなことになっている。

なにか書こうと思っても、五年前とは違って書けずにいた(書かないでいた)。
今日もそうだった。
ある人にきかれた。その人は続けて言った。

「熊本にいる女性タレントが、甘いものが食べたい、とブログに書いて批判を浴びているけど……」と。
その女性タレントのブログを読んでいないけれど、
こういう状況においても、というよりも、そういう状況だからこそ嗜好品を求めるものではないだろうか。

同じことを同じタイトルで五年前にも書いた
五年前に引用した五味先生の文章をもう一度引用しておこう。
     *
レコードを聴けないなら、日々、好きなお茶を飲めなくなったよりも苦痛だろうと思えた時期が私にはあった。パンなくして人は生きる能わずというが、嗜好品──たとえば煙草のないのと、めしの食えぬ空腹感と、予感の上でどちらが苦痛かといえば、煙草のないことなのを私は戦場で体験している。めしが食えない──つまり空腹感というのは苦痛に結びつかない。吸いたい煙草のない飢渇は、精神的にあきらかに苦痛を感じさせる。私は陸軍二等兵として中支、南支の第一線で苦力なみに酷使されたが、農民の逃げたあとの民家に踏み込んで、まず、必死に探したのは米ではなく煙草だった。自分ながらこの行為にはおどろきながら私は煙草を求めた。人は、まずパンを欲するというのは嘘だ。戦場だからいつ死ぬかも分らない。したがって米への欲求はそれほどの必然性をもたなかったから、というなら、煙草への欲求もそうあるべきはずである。ところが死物狂いで私は煙草を求めたのである。(「シュワンのカタログ」より「西方の音」所収)
     *
熊本はまだ余震が続いている。
そういう状況に人はおかれて、何を欲するのか。

それは贅沢な行為なのだろうか、わがままな要求なのだろうか。

Date: 4月 18th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その1)

極道という言葉がある。
辞書には、いい意味のことは書いてない。
日常的に、この言葉が使われるのも、いい意味ではない。

極道(ごくどう)とは、悪事や酒色・ばくちにふけること。品行・素行のおさまらないさま。
人をののしっていう語、とある。

極には、きわめる、きわまる、このうえない、という意味をもつ。
だから極意、極地という言葉がある。

その意味でいえば、道を極めるのが極道ということになり、
この極道を否定的な意味ではなく肯定的な意味としてとらえる人もいる。

オーディオだけに限らずマニアと呼ばれる人は、
そういう意味での極道者と自認している人も少ないはずだ。

何かを極めよう、ということは、そういうことであろう、と思ってきたけれど、
このごろになって極めようとしてきたのだろうか、とも思うようになってきた。

修道という言葉がある。
道を修める、と書く。

極めると修める。
オーディオでやってきたことはどちらなのか、
いまやっていることは、これからやろうとしていることはどちらなのか。

Date: 4月 17th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(QUADの場合)

パワーアンプにはヘッドフォン端子がついている機種の方が少ない。
プリメインアンプとなると、国産機種に関しては、以前は大半の機種についていた。
コントロールアンプは、となると、ついているモノもあればついていないモノもある、といった感じだった。

国産のコントロールアンプはついている機種が多かった。
海外製も意外と多かった。

それが音質向上を謳い、トーンコントロールやフィルターといった機能を省く機種が増えるに従い、
ヘッドフォン端子も装備しない機種が増えていった。

たとえばマークレビンソンのLNP2やJC2にヘッドフォン端子がないのは、
特に疑問に感じたりはしない。
マークレビンソンの成功に刺戟されてか、1970年代後半に多くの小規模のアンプメーカーが誕生した。
AGI、DBシステムズ……、これらのコントロールアンプにもヘッドフォン端子はついてなかった。
それも当り前のように受けとめていた。

不思議に思うのは、QUADの場合である。
管球式の22、トランジスターになってからの33、44、
いずれにもヘッドフォン端子はついていない。
パワーアンプにも、当然ながらついていない。

これが他のメーカーであれば、その理由を考えたりはしないのだが、
QUADとなると、考えてみたくなる。

QUADのことだから、設計者のピーター・ウォーカーのポリシーゆえなのだろうが、
ついていても不思議でないQUADのコントロールアンプにつけない、その理由となっているのは、
どういうことなのだろうか。

正直、はっきりとした答は見えてこない。
それでもQUADの場合について、考えるのは無意味ではないはずだ。

Date: 4月 16th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その3)

GASからは最初にパワーアンプAmpzillaが登場した。
しばらくしてペアとなるコントロールアンプThaedraが出た。

Thaedraにはヘッドフォン端子が最初のモデルからついていた。
II型になってAmpzillaにもヘッドフォン端子がついたということは、
コントロールアンプとパワーアンプの両方にあることになる。

メーカー側がペアで使ってほしいと思っていても、
セパレートアンプであれば必ずしもペアで使われるとは限らない。

ゆえにコントロールアンプとパワーアンプの両方につけるのだろうか。

GASだけではない。
マッキントッシュのセパレートアンプもそうだった。
C26、C28といったコントロールアンプにヘッドフォン端子はついている。
MC2300にはなかったが、MC2105、MC2205などにはヘッドフォン端子がある。

機能が重複しているわけだ。
もっともマッキントッシュのコントロールアンプを他社のパワーアンプと(もしくはその逆)、
GASのThaedraと他社のパワーアンプ(もしくはその逆)の組合せも考えられるわけだし、
実際にそういう組合せで鳴らしている人もいるのだから、
その場合、機能は重複しないとはいえ、ペアで使う人が多いのもマッキントッシュのアンプの特徴でもあるし、
GASに関しても、ユニークなパネルフェイスはペアで使いたくなるところだし、
実際にボンジョルノ設計のアンプはメーカーがGASとSUMOであっても、驚く音を聴かせてくれる。

マッキントッシュもGASも、ペアでの使用を前提としたうえで、
ヘッドフォン端子をコントロールアンプとパワーアンプに設けることは、
機能の重複ではあっても、性能の重複ではない、と考えているからではないだろうか。

Date: 4月 15th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その2)

1985年12月にSUMOのThe Goldを買った。
すでに製造中止になっていたから、中古である。
アンプ本体のみだった。

当時はステレオサウンドにいたから、輸入元であったエレクトリのKさんに、
回路図と取り扱い説明書をお願いした。

英文と邦訳、両方の取り扱い説明書と回路図、それからカタログもいただいた。

取り扱い説明書を読むと、ヘッドフォンの接続に関して書かれているところがある。
いまでこそ接続端子を交換して左右チャンネルのアースを分離できるようになったが、
ヘッドフォンはヘッドフォン端子を使うかぎりは、左右チャンネルのアースは共通になっている。

SUMOのパワーアンプはブリッジ出力(バランス出力)なので、
左右の出力端子の黒側(マイナス側)はアースではないので、
一般的なパワーアンプと同じやり方ではヘッドフォンは接続できない。
アンプの故障の原因となるからだ。

ていねいにも取り扱い説明書には、ヘッドフォンのアースは、
アンプ本体のシャーシーに接続しろ、と書いてある。

The GoldやThe PowerなどのSUMOのパワーアンプにヘッドフォンを接続するには、
そういうやり方しかないのだが、それにしても……、と感じた。

こういうことを取り扱い説明書に書いてあるということは、
少なくともアメリカでは、これらのパワーアンプの出力端子にヘッドフォンを接続する人たちが、
少なからずいる、ということだろう。

取り扱い説明書はThe GoldとThe Power、共通だった。
The Goldは125W、The Powerは400Wの出力をもつ。
そういうパワーアンプでヘッドフォンを鳴らす。

どういう音がするのだろうか、と思うとともに、
そういえばThe Gold、The Powerのジェームズ・ボンジョルノは、
GAS時代にも、やはりAmpzillaにヘッドフォン端子をつけていたことを思い出した。

初代のAmpzillaにはなかったヘッドフォン端子が、
Ampzilla IIではDYNAMICとELECTROSTATICの二組の端子が、フロントパネルに設けられている。
Ampzillaの出力は200W。

Ampzillaはヘッドフォンを接続しようと思えば、簡単にできる。
だかThe Power、The Goldとなると、リアパネル側にまわらなければできない。

私の感覚ではそうまでしてヘッドフォンをThe Goldで鳴らそうとは考えないけれど、
そこまでやる人がいる、ということでもある。

あきらかにAmpzilla、The Power、The Goldの出力は、数時だけで判断するとヘッドフォンには過剰である。
けれど、それはあくまでも数字の上だけの過剰さなのか、とも思う。

当時でもヘッドフォン端子を切り取って、ヘッドフォンのケーブルの末端をばらしてしまえば、
つまりスピーカーケーブルと同じにしてしまえば、そのままSUMOのアンプに接続できる。
そうすればバランス駆動で鳴らせる。

どんな音がしたのだろうか。

Date: 4月 14th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その1)

1978年にステレオサウンド別冊として出た「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」。
ここでの試聴方法を、瀬川先生が書かれている。
     *
 ヘッドフォンのテストというのは初体験であるだけに、テストの方法や使用機材をどうするか、最初のうちはかなり迷って、時間をかけてあれこれ試してみた。アンプその他の性能の限界でヘッドフォンそのものの能力を制限してはいけないと考えて、はじめはプリアンプにマーク・レヴィンソンのLNP2Lを、そしてパワーアンプには国産の100Wクラスでパネル面にヘッドフォン端子のついたのを用意してみたが、このパワーアンプのヘッドフォン端子というのがレヴェルを落しすぎで、もう少し音量を上げたいと思っても音がつぶれてしまう。そんなことから、改めて、ヘッドフォンの鳴らす音というもの、あるいはそのあり方について、メーカー側も相当に不勉強であることを思った。
 結局のところ、なまじの〝高級〟アンプを使うよりも、ごく標準的なプリメインアンプがよさそうだということになり、数機種を比較試聴してみたところ、トリオのKA7300Dのヘッドフォン端子が、最も出力がとり出せて音質も良いことがわかった。ヘッドフォン端子での出力と音質というは、どうやらいま盲点といえそうだ。改めてそうした観点からアンプテストをしてみたいくらいの心境だ。
 また、念のためスピーカー端子に直接フォーンジャックを接続して、ヘッドフォン端子からとスピーカー端子から直接との聴き比べもしてみた。ヘッドフォンによってかなり音質の差の出るものがあった。そのことは試聴記の中にふれてある。
     *
トリオのKA7300Dは78,000円のプリメインアンプ。
約40年前のこととはいえ、KA7300Dは高級機ではなく中級機にあたる。

フロントパネルにヘッドフォン端子がついていて、出力100Wクラスの国産パワーアンプとなると、
あれか、とすぐに特定の機種が浮ぶ。
このころのオーディオに関心のあった人ならば、すぐにどれなのかわかるはず。
コントロールアンプのLNP2(当時118万円)と比較すれば、安価なパワーアンプともいえるが、
KA7300Dよりは高価なモノだ。

そのパワーアンプの、スピーカーを鳴らしての評価は高いほうだった。
スピーカーを鳴らした音は聴いたことがある。けれどヘッドフォンを鳴らした音は聴いたことがない。
だから瀬川先生の文章を読んで、そうなのか……、と思った。

このメーカーはヘッドフォン端子をつけるにあたって、きちんと音を聴いていたのだろうか。
とりあえずつけておけばいいだろう、という安易な考えがあったのか、
それともこのメーカーが試聴用として使用したヘッドフォンならば、十分な音量を得られたのだろうか。

そうだとしても、特定のヘッドフォンにのみ、ということでは汎用アンプとしては、
むしろつけない選択もあったはずだ。

このパワーアンプでも、スピーカー端子にヘッドフォンを接げばいい音がした可能性は高い。
ヘッドフォンを鳴らすのにパワーはそれほど必要としない。
ごくわずかな出力ですむ。

ということは出力段がAB級動作であっても、
ヘッドフォンを鳴らす出力においては、ほぼすべてのアンプがA級動作をしているといってもいい。
それにアンプにとっての負荷としてみても、
ヘッドフォンとしては低い部類のインピーダンスであっても、
スピーカーとくらべれば高い値である。

つまりアンプにとってヘッドフォンを鳴らすのは、
スピーカーを鳴らすよりもずっと簡単なことだ、と思えなくもない。
でも実際のところはそうではない。

Date: 4月 13th, 2016
Cate: ショウ雑感

2016年ショウ雑感(その1)

2016年のインターナショナルオーディオショウの概要が先日発表になった。

9月30日、10月1日、2日に開催される。
そして今年はテクニクスが出展する。

一昨年、昨年とオーディオ・ホームシアター展(音展)に、
テクニクスは出展していた。

一昨年はテクニクス復活のニュース直後ということもあって、
そこでの音出しに不満を感じたけれど、あれこれ言おうとは思わなかった。

でも昨年に関しては違う。
テクニクス復活から一年。
なのにオーディオ・ホームシアター展(音展)での音出しは、一昨年と同様だった。

お茶を濁す、とでもいおうか、逃げ腰の音出しであり、
とりあえず来場者に対して音を聴かせれば、いいわけが立つ──、
そんな印象しか残らないものだった。

会場となった場では満足な音出しはできない、ともいいたいのだろうか。
それとも他に理由があったのか。
ほんとうのところはわからない。

けれど、今年はインターナショナルオーディオショウに移ってくる。
一昨年、昨年のような音出しは、インターナショナルオーディオショウでは、相手にされない。

テクニクスはそのことがわかっていてインターナショナルオーディオショウに来るのか、
それともオーディオ・ホームシアター展(音展)と同じような音出しに終始するのか。

テクニクスの本気度が、ようやくはっきりするのであろう。

Date: 4月 13th, 2016
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その5)

ステレオサウンド 47号の「続・五味オーディオ巡礼」。
最後まで読めば、4ウェイのバイアンプ(マルチアンプ)による音を認められている。
ほぼ絶賛といってもいい書き方だ。

《仮りに私が指揮を勉強する人間なら、何を措いてもこの再生装置を入手する必要がある、と本気で考えていたことを告白する。》
とまで書かれている。
さらに《エレクトロニクスが技術で到達した現代最高のそれは音だと痛感したことを》
とも書かれている。

しかも、この4ウェイ・システムはJBLのそれだ。
アンプもすべてトランジスターである。

「続・五味オーディオ巡礼」を何度もくり返し読んだのは、
ここのところにもある。

やはり究極的にはマルチウェイ、マルチアンプ・システムなのか……、とも思ったし、
ハーモニーの拡がりにおいても、そうであろう、と。

でも五味先生は最後の最後に書かれている。
《4350が指揮者の位置なら、拙宅のはコンサートホールの最も音のいい席で聴いている感じがする。細部の鮮明さは到底4350にかなわないが、演奏会場の空間にひろがるハーモニイの美は、あやまたず我が家のエンクロージァは響かせている。》

《演奏会場の空間にひろがるハーモニイの美》、
これはオーケストラと指揮者がいるステージ上に拡がるハーモニーと同じとは限らない。

Date: 4月 13th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その3)

ワグナーの楽劇にかぎってレコード演出ということをおもうのは、
カルショウによるショルティの「ニーベルングの指環」があるからのようにも思う。

カルショウが行ったのは、レコード演出のひとつと呼べるものであった。
それは当時として効果的であり、
また「ニーベルングの指環」全曲を初めて、
しかも音だけのレコードで聴く者にとってはきわめて有効であっても、
レコードはくり返し聴くわけであり、
その後も新しい「ニーベルングの指環」が登場してくるようになると、
時代の変化とともに、行き過ぎた行為とも受けとれる。

カルショウが行った是非よりも、
なぜカルショウは、ここまでレコード演出と呼べる手法を行ったのか。

「ニーベルングの指環」はワグナーの作品であり、ワグナーはドイツ人であり、
「ニーベルングの指環」はドイツのオペラであり、イタリアのオペラではない。

ステレオサウンド 47号の音楽のページに「イタリア音楽の魅力」という記事がある。
黒田恭一、坂清也、河合秀朋(キングレコード第二制作室プロデューサー)三氏の座談会だ。

ここではイタリア・オペラだけでなくカンツォーネについても語られている。
この記事のころは高校生だった。
何の根拠もなしに、イタリアよりもドイツが、その音楽においても上位にあるように思い込んでいた。

そんな時に「イタリア音楽の魅力」が読めたのはよかった、といまも思っている。
モノクロ7ページで、ここで使われている写真はレコード会社から提供されたものであり、
お金も取材の時間もかかっていない記事である。地味な記事ともいっていい。

そういう記事だが、これを読んでいなければイタリアオペラだけでなく、
イタリア音楽の魅力に気づくのがどれだけ遅くなっていただろうか。

Date: 4月 12th, 2016
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(続ステレオサウンド 47号より)

システムコンポーネントを略してシスコン。
私がオーディオに興味をもちはじめたころ、シスコンという言葉はよく使われていた。

システムコンポーネントはいうまでもなくメーカーによるシステム一式のことだ。
価格的、グレード的に見合ったアナログプレーヤー、プリメインアンプ、チューナー、スピーカーシステム、
いわゆるメーカー推奨の組合せ(システム)である。

これに対してユーザーが自由に選んでコンポーネントシステムをつくる。
そうやってつくられた組合せをバラコン(パラゴンではない)という呼称があった。

バラバラのコンポーネントを組み合わせるから、バラコンである。
ひどい言葉である。

バラコンという言葉を、幸いにしてというべきか、私のまわりにいる人は使っていない。
耳にしたこともなかった。

私がバラコンを耳にしたのは一度だけである。
瀬川先生が使われたときだけである。

瀬川先生は、バラコンという言葉を毛嫌いされていた。

いまバラコンという言葉が使われている。
言葉をざんぞい扱っている。こんな言葉は使いたくないし使うべきではない。

そういった趣旨のことを話された。
このとき、バラコンという言葉があるのを、使われているのを知った。

だからいっさい使っていない。

もう一度引用しておくが、瀬川先生はステレオサウンド 47号にこう書かれている。
     *
 だが、何もここで文章論を展開しようというのではないから話を本すじに戻すが、今しがたも書いたように、言葉の不用意な扱いは、単に表現上の問題にとどまらない。それがひいては物を作る態度にも、いつのまにか反映している。
     *
バラコンは、まさに《不用意な言葉の扱い》であり、
バラコンを使っているメーカーの《物を作る態度にも、いつのまにか反映している》はずだし、
同じことはオーディオマニアが組合せ(コンポーネント)をつくる態度にも、いつのまにか反映しているはずた。

Date: 4月 11th, 2016
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その14)

聴覚も触覚だとすれば、音楽の聴こえ方は、聴き手の身体状態と関係してくることになる。
たとえば前のめりになって聴くことがある。
そのとき身体(からだ)の状態はどうだろうか。

身体をこわばらせていないだろうか。
手はどうだろうか。握りこぶしをつくっていないだろうか。

こわばらせるは、強ばらせる、と書く。
文字通り、身体に力がはいっていると肌の感覚はどう変化するだろうか。

力を抜いた状態と強ばらせた状態で、肌の、何かの刺戟に対する反応は果して同じだろうか。

握りこぶしをつくっていたことに気づいた人は、
ためしに手のひらを広げてみたらどうだろうか。

それだけでも音の聴こえ方は変ってくる。
スピーカーから出てくる音は変化していなくとも、
聴き手の身体状態のあり方が変れば、音の受けとめ方が変ってくるのだから、
音が、結果として変って聴こえても不思議ではない。

音の聴き方をたずねられることが増えてきた。
凝視するような聴き方はしないこと、と答えている。

凝視すれば眉間にしわができる。
力を抜いた状態ならば眉間にしわなどできない。

音を耳だけで聴いていると思い込んでいる人には、
こんなことをいってもまるで通じない。

けれど、あきらかに音楽を受けとめているのは、触覚である。

昨夜、あるフルート奏者も同じことを話されていた。
音楽の聴き手側になったときに、身体に力がはいった状態と抜いた状態とでは、
音楽の聴こえ方が違ってくる、ということだった。