Date: 4月 19th, 2016
Cate: 五味康祐
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「シュワンのカタログ」を読んだ者として

4月14日以降、「実家はどうなの?」ときかれる。
熊本は私の故郷である。
いまたいへんなことになっている。

なにか書こうと思っても、五年前とは違って書けずにいた(書かないでいた)。
今日もそうだった。
ある人にきかれた。その人は続けて言った。

「熊本にいる女性タレントが、甘いものが食べたい、とブログに書いて批判を浴びているけど……」と。
その女性タレントのブログを読んでいないけれど、
こういう状況においても、というよりも、そういう状況だからこそ嗜好品を求めるものではないだろうか。

同じことを同じタイトルで五年前にも書いた
五年前に引用した五味先生の文章をもう一度引用しておこう。
     *
レコードを聴けないなら、日々、好きなお茶を飲めなくなったよりも苦痛だろうと思えた時期が私にはあった。パンなくして人は生きる能わずというが、嗜好品──たとえば煙草のないのと、めしの食えぬ空腹感と、予感の上でどちらが苦痛かといえば、煙草のないことなのを私は戦場で体験している。めしが食えない──つまり空腹感というのは苦痛に結びつかない。吸いたい煙草のない飢渇は、精神的にあきらかに苦痛を感じさせる。私は陸軍二等兵として中支、南支の第一線で苦力なみに酷使されたが、農民の逃げたあとの民家に踏み込んで、まず、必死に探したのは米ではなく煙草だった。自分ながらこの行為にはおどろきながら私は煙草を求めた。人は、まずパンを欲するというのは嘘だ。戦場だからいつ死ぬかも分らない。したがって米への欲求はそれほどの必然性をもたなかったから、というなら、煙草への欲求もそうあるべきはずである。ところが死物狂いで私は煙草を求めたのである。(「シュワンのカタログ」より「西方の音」所収)
     *
熊本はまだ余震が続いている。
そういう状況に人はおかれて、何を欲するのか。

それは贅沢な行為なのだろうか、わがままな要求なのだろうか。

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