Archive for 6月, 2015

Date: 6月 17th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その2)

ヤマハのA1は、ステレオサウンドでは44号の広告が最初だった。
そして45号の新製品紹介で取り上げられている。

45号のヤマハの広告では、
A1のことを”Disk straight DC Amp.”と呼んでいる。

A1のフロントパネルにある三つのプッシュボタンは、
フロントパネル右側からPOWER、SPEAKER、DISCの潤で並んでいる。

POWERは電源スイッチ、SPEAKERはスピーカーのON/OFFスイッチ、
DISCボタンを押すと、
MC型カートリッジ用ヘッドアンプ、イコライザーアンプ、ハイゲイン・パワーアンプという構成になる。
ヒンジドパネル内におさめられているトーンコントロール、フィルター、入力セレクター、テープセレクターは、
DISCボタンが押されている状態ではすべてパスされる。

CA2000の設計方針とは違ったものとなっている。
フロントパネルのデザインも違うだけでなく、天板の放熱用の穴も、
CA2000とA1とでは違う。
A1は、ヤマハにとって新しいプリメインアンプの形態を提案(模索)するためのモデルでもあった。

そういえるのはステレオサウンド 44号の広告を読んでいるからだ。
A1の写真を大きく扱っているページには、こうある。
     *
手に入れるまではどうしようもなく落ちつきを失わせてしまい、手に入れてからは限りない満足感を増大して行くようなオーディオは、(信念とも呼べる)哲学と(稚気とも呼べる)狂気とから生まれてきます。
理想を求めて素材から創造せずにおれず、独想的でリーゾナブルで明らかに傑出している回路・設計技術で創造せずにおれず、十分に丁寧で贅沢で堅牢な構造・構成で物を創造せずにはおれず、そうして常に世界の最高のレベルを超える特性で創造せずにはおれず、しかもそうしたことがどの一個をとっても偽りなく公表通りのものでなければならないという。《Fidelity》についてのヤマハの狂気と哲学──。
その音は息をのむほどの品位と感動性を持っていなければならず、そのデザインは遠くから眺めても接して覗いてもあくまで個性的に美しくなければならず、その仕上げは外見はもとより触れるほどに精妙でなければならず、そうしてロマンを限りなく広げるユニークで実用的な機能性を持っていなければならず、しかも満足感に見合った適正な価格で提供するという、《Luxury》についてのヤマハの哲学と狂気──。
ヤマハのオーディオは、今でも──そしてこれから、ヤマハのphilosophyとenthusiasmに基く、突き抜けたFidelityと惜し気ないLuxuryという二つの支柱によって、他から容易に差別できる実に《魅力的な個性》を持ち続けるでしょう。
そして今、ヤマハは、ヤマハが果たすべき責任とヤマハに寄せられる期待をあらためてしっかりと自覚し、突き抜けた忠実性と惜し気ない贅沢性という二つの面から今までの作品もこれからの作品も見直し、限りないFidelityの上に夢のようなLuxuryを惜し気もなく注ぎ込んだグループと、そうして限りないFidelityを限りなく信じ難く突きつめたグループとに分けて、いまさらのようにヤマハの狂気と哲学を加速します。
もとより、FidelityとLuxuryはヤマハのあらゆる作品を不可分に支えるスピリットであり、一本の線で明確に分類するといったことは不可能なことに違いありませんが、ベーシックにFidelityとLuxuryの両者を存分に実現した上で、そのいずれかをさらに意識的にアクセントして行こうかという発想です。
一つは、日本というやや狭隘な環境をはるかに飛躍して、Globalにというレベルと雰囲気を指向し、世界性を持って世界中のオーディオ・ファイルを狂喜させ、そしてLuxuriousに徹して趣味性と個性とを大胆に追求して世界中のオーディオ・ファイルを歓喜させようかという、Global&Luxurious group──。一つは、ひたすらオーディオの本質をオーソドックスにピュアに堀り下げ、オーソドックスにバランスのとれたキャラクターで、あらゆる人にEssentialに愛用され、そして、さらにさらに忠実度の壁を突き抜けて桁違いの次元を拓き続け、その絶対的に信用できるFidelityによってあらゆる人に愛用されようかという、Essential&Fidelity groupです──。
この秋、ヤマハは、GL groupとEF groupとに分けて、あらゆるジャンルに20機種に近い新製品を登場させます。それらは──それぞれが魅力的な個性を鮮やかにして、大方の期待をはるかに裏切る高次元に登場することになるでしょう。そこに──ヤマハオーティオのエレクトロニクス・エンジニアリングの限りない情熱と鹿知れぬ未来性を垣間見ていただけることでしょう。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: 単純(simple)
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シンプルであるために(ミニマルなシステム・その16)

CHORDのHUGOで直接鳴らしたい(つまりパワーアンプなしで)スピーカーは、
その13)で書いているようにフルレンジである。

タイムロードのブースでは小口径のフルレンジのスピーカーを鳴らしていたけれど、
私が鳴らしたいフルレンジのスピーカーは、
高能率のフルレンジで、口径も小口径のモノではなく、大きめの口径のモノである。

たとえばJBLのD130、グッドマンのAXIOM80、ローサー(ラウザー)のユニット、
いまや過去のスピーカーユニットと呼ばれているモノばかりであり、
これらの能率は100dB前後あり、いまの感覚では非常に高能率のユニットということになる。

ローサー(ラウザー)のユニットに関しては、VOXATIVのモノがある。
VOXATIVのAmpeggio SignatureにHUGO(もしくはHUGO TT)を接いだら、どんな音が聴けるのだろうか。

AXIOM80とHUGOの組合せも、個人的には非常に興味がある。
AC電源に頼ることなく鳴らすことができるわけで、
このことのメリットがAXIOM80の「性能」をどう鳴らすのか。

こういった高能率のフルレンジユニットとHUGOの組合せ、
タイムロードでの小口径の低能率のフルレンジユニットの組合せ、
得られる音量に違いはあるけれど、どちらもミニマルなシステムということになるのか。

ここではスピーカーの能率だけでなく、スピーカーシステムとしてのサイズも大きく違ってくる。
HUGOは手のひらにのるサイズだ。
HUGO TTにしても大きいといえるサイズではない。

HUGOと小口径のフルレンジのスピーカーとでは、サイズ的バランスもとれている。
それが高能率のフルレンジユニットとの組合せでは、ひどくアンバランスになる。

このアンバランスさは、ある意味、過剰なものといえる。
D130、AXIOM80などのユニットがもつ高能率も、パワーアンプを省略するための過剰なものといえる。

こういう過剰な要素をもつシステムは、ミニマルなシステムといえるのだろうか。
それとも充分な音量を得るために必要なものということで、過剰とはいえない、という見方もできる。

けれど、それならば素直にパワーアンプを用意すればいい、という見方もでき、
やはりHUGOに高能率のフルレンジユニットをもってくるのは、
アンバランスであることを認めなくてはならない。

そういうシステムが果してミニマルなシステムなのか、という問いが生れる。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その4)

ステレオサウンドで初めて見たウエスギ・アンプの印象は、
コントロールアンプのU·BROS1については、「こんなに大きいんだ」であり、
パワーアンプのU·BROS3は「意外に小さい」だった。

U·BROS1は横幅が53.2cmもあった。しかも外部電源である。
国産アンプの多くは横幅45cmくらいだった。
アメリカ製の19インチ・ラックマウント型でも48.3cmまでなのだから、
U·BROS1は横幅に関しては、当時もっとも大きかったコントロールアンプといえた。

U·BROS3は、横幅42cm、奥行き30cmのシャーシの上にトランス、真空管が配置されていて、
シャーシの塗装の色とラックスのトランスの形状も関係して、
実際のサイズよりも小さく見えた。

この小さく見えたという印象は、
ステレオサウンド 41号、45号の黒田先生の試聴記から感じていた「ひかえめ」でもあった。

U·BROS3のサイズは、
少し遅れてイギリスから登場してきたマイケルソン&オースチンのTVA1もほぼ同じである。
TVA1の横幅は45.7cm、奥行きが27.9cmとなっている。

U·BROS3、TVA1どちらもKT88のプッシュプルのステレオアンプであるが、
出力はU·BROS3が50W、TVA1が70Wと、
U·BROS3は、ここでもひかえめといえる。

そして、ひかえめなところを感じさせるのはU·BROS1とU·BROS3のペアが鳴らす音もだった。
41号、45号の上杉先生のアンプの音は聴いていないが、
黒田先生の試聴記は、ほぼそのままU·BROS1とU·BROS3のペアにもあてはまるものだった。

その点では納得したものの、今度は疑問のようなものも生じてきた。
それはウエスギ・アンプの音と、
ステレオサウンド 60号での上杉先生のあの発言がすぐには、結びつかなかったからだ。

Date: 6月 17th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その1)

ヤマハのプリメインアンプにA1というモデルがあった。
1977年に登場している。

最初にA1の広告を見たのはFM誌だったと記憶している。
2ページ見開きのカラー広告で、A1を真正面から撮った写真が大きくレイアウトされていた。

A1のフロントパネルは、三分割するようにスリットが入っていた。
ツマミはボリュウム用がひとつだけ。
あとは正方形のプッシュボタンが三つ。
あとの機能はヒンジドパネルの中におさめられたスイッチで行う。

これらがそれぞれのセクションごとに分割された印象を与えるフロントパネルとなっていた。
ボリュウムは左端で、この部分は正方形のプロックの中にある。

ボリュウムのブロック以外の部分が上下に二分割され、
下側がヒンジドパネルで、上側にプッシュボタンが三つ並ぶブロックとなっていた。

A1以前のヤマハのプリメインアンプといえば、CA1000III、CA2000であり、
A1登場後もCA1000III、CA2000は現行製品であった。

それまでヤマハのプリメインアンプといえばCA2000、CA1000IIIのイメージが強く、
普及クラスのプリメインアンプにしても、同じ流れのものであった。
そこにA1がいきなり登場した。

FM誌で初めてA1を見た中学生の私は、驚いた。
CA2000とずいぶん違うモノが登場したこと、それが新鮮な印象であったことに驚いていた。

Date: 6月 16th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その3)

上杉先生がステレオサウンド 41号に発表されたのは、KT88のプッシュプルアンプである。
黒田先生の試聴記は次のとおりである。
     *
 力士は、足がみじかい方がいい。足が長いと、腰が高くなって、安定をかくからだ。そんなはなしを、かつて、きいたことがある。本当かどうかは知らぬが、さもありなんと思える。上杉さんのつくったパワーアンプの音をきかせてもらって、そのはなしを思いだした。なにもそれは、上杉さんがおすもうさん顔まけの立派な体躯の持主だからではない。そのアンプのきかせてくれた音が、腰の低い、あぶなげのなさを特徴としていたからである。
 それはあきらかに、触覚をひくひくさせたよう音ではなかった。しかしだからといって、鈍感な音だったわけではない。それは充分に敏感だった。ただ、そこに多分、上杉佳郎という音に対して真摯な姿勢をたもちつづける男のおくゆかしさが示されていたというべきだろう。
 高い方の音は、むしろあたたかさを特徴としながら、それでいて妙なねばりをそぎおとしていた。むしろそれは、肉づきのいい音だったというべきだろうが、それをききてに意識させなかったところによさがあった。上の方ののびは、かならずしも極端にのびているとはいいがたかったが、下の方のおさえがしっかりしているために、いとも自然に感じられた。そこに神経質さは、微塵も感じられなかった。
 座る人間に対しての優しいおもいやりによってつくられたにちがいない、すこぶる座り心地のいい大きな椅子に腰かけた時の、あのよろこびが、そこにはあった。ききてをして、そこにいつまでも座っていたいと思わせるような音だった。
     *
45号には、このパワーアンプとペアとなるコントロールアンプとして、
マッキントッシュC22型といえるアンプを発表されている。
ここでも黒田先生が試聴記を書かれている。
     *
 幾分ひかえめなところがあるとしても、いうべきことを正確に、しかもいささかもいいよどむことなくいう人をまのあたりにするというのは、きわめて心地よいことだ。このプリアンプをきいての印象を、もし言葉にするとすれば、そういう人に会った時の感じとでもいうべきかもしれない。
 決してでしゃばらない。決してあざとくおのれの存在を主張しない。どうです、このヴァイオリンの音、きれいでしょう(試聴したレコードのひとつに、ジュリーニがシカゴ交響楽団を指揮してのマーラーの第九交響曲の終楽章があったのだが)、きいてごらんなさいよ、こんなにつややかで──などと、おしつけがましくなったりしない。
 しかし、ここからが肝腎なところだが、このプリアンプの音は、決して消極的ではない。すべての音は、ついにねころんだり、すわりこんだりすることなく、すっきりと立って、ききての方向に、確実な歩みで、近づいてくる。そういう折目正しさは、このプリアンプの魅力といえよう。
 ただ、このプリアンプの、そういうこのましさを十全にいかそうとしたら、積極性を身上とする、つまり音のくまどりを充分につけてくれるパワーアンプを、相手にえらんだ方がいいということは、いえるにちがいない。しかし、この場合にも、スギタルハオヨバザルガゴトシという、正論があてはまる。
 さまざまなひびきに、実に素直に、無理をせず、しなやかに、対応する。それはもちろん、大変な魅力だ。無駄口をたたく軽薄さからは、遠くへだたったところにある。ただ、相手の選択をひとつまちがうと、そういう魅力は、優柔不断という欠点になってしまう危険もなくはない。すっきりと立ちあがった音を、手前に歩かせるのは、むしろ、パワーアンプの役割というべきだろう。だとすれば、音をすっきりと立ちあがらせるこのプリアンの特徴は、そのままにこのプリアンプの美点となる。
     *
ふたつの試聴記を読めば、共通するものがはっきりとあることが読みとれる。
ウエスギ・アンプに対する私の印象は、このふたつの試聴記によるところから始まっている。

私が聴いた最初のウエスギ・アンプは、U·BROS1とU·BROS3のペアである。
ステレオサウンドに常備してあった、このペアを聴いた。

Date: 6月 16th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その2)

上杉先生のステレオサウンド 60号での発言については続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookでのコメントを読んでいて、書きたいことが出てきた。

コメントには、
上杉先生の発言には、酷くがっかりしたとあった。それはいまも変らない、とのことだ。
けれど、ウエスギ・アンプの音を聴くと、妙に納得できてしまう、との書いてあった。

あの発言にがっかりする人、毛嫌いする人、
さまざまな人がいるのはわかっていた。
受けとめ方は人それぞれである。

大事なのは、それでもウエスギ・アンプの音を聴いて、「妙に」とはついていても納得されたことである。
上杉先生の発言にがっかりした人、毛嫌いした人の中には、
ウエスギ・アンプの音に対して先入観をもってしまう人もいたはずだ。
そういう人は、ウエスギ・アンプの音を聴いて、どう感じ、どう思ったのだろうか。

コメントをくださった方のように納得されたのだろうか、
それともまったく違う意味での納得された可能性だって考えられる。

私はというと、上杉先生の発言にがっかりしたり毛嫌いしたことはなかった。
けれど実際にウエスギ・アンプの音を聴いて、また違う意味で、私は納得していた。

ステレオサウンド 60号が出た時、
ウエスギ・アンプの音は聴いたことがなかった
ステレオサウンドにも、アンプのテスト記事、ベストバイにもウエスギ・アンプは登場していなかった。
例外的に47号のベストバイで、井上先生がU·BROS1について、
《暖かく、それでいて独特のプレゼンスの豊かさをもつ管球ならではの音》と書かれていたくらいだ。

そのころ私が読むことができた上杉先生のアンプの音に関する記事は、
ステレオサウンド 41号と45号で発表されたアンプの製作記事での、
黒田先生による試聴記だけだった。

Date: 6月 16th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(録音の現場でも)

ステレオサウンド 34号に「レコーディングにおける音楽創造を探る」という記事がある。
スイスのレーベル、クラーヴェスの録音エンジニアでありバス歌手でもあるヤーコプ・シュテンプフリと、
ペーター=ルーカス・グラーフへのインタヴューと、
瀬川冬樹、黒田恭一、坂清也の三氏が、
グラーフのリサイタルとクラーヴェスがグラーフの来日公演にあわせて行った国内録音に立ち会い、
クラーヴェスの音づくりについて語っている座談会から成っている。

座談会には、当時日本側の担当者(日本ポリドール)の佐々木節夫氏も参加されている。
佐々木氏の発言が、再生側のオーディオの使いこなしに関してもひじょうに興味深い。
     *
こんな話があるんです。じつはシュテンプフリに、〈ステレオサウンド〉という雑誌が取材してくださるんだけど、オーディオ・ファンが愛読しているからひょっとすると貴方のマイク・アレンジなんかを図にしてのせるかもしれないが、かまわないかと聞いてみたのです。そうしたら、それは一向にかまわないけれど、なんの意味もないんじゃないか。同じマイク・セッティングをしたって俺の音と同じ音は絶対に録れないし、第一ひとのマネをすることほど馬鹿げたこともないだろう、と答えたんですね。
     *
クラーヴェスの日本で録音は立川市民会館大ホールで行われている。
ここでヤーコプ・シュテンプフリと同じマイク・セッティングをしたところで、
同じ録音器材を使ってみても、シュテンプフリと同じ音で録れるわけではない。

「音は人なり」と、オーディオの世界では昔からいわれ続けている。
録音の世界も「音は人なり」であるわけだ。

Date: 6月 15th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その8)

つきあいの長い音の「ふるさ」とは、古さ、旧さではなく、故さであろう。

Date: 6月 15th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その7)

つきあいの長い音は、ふるいつきあいの音でもある。

Date: 6月 15th, 2015
Cate: バランス

音のバランス(色のこと)

文字通り、いろいろな色がある。
ざっと周りを見渡しても、いったいいくつの色があるのか数えるのが無理なくらいの数の色が見える。
外に出れば、部屋の中にはない色もある。

これだけ多くの色があるわけだから、好きな色もあれば嫌いな色もある。
嫌いな色というわけではなかったけれど、私はオレンジ色は好んではいなかった。
オレンジ色のモノをあえて選んだり、オレンジ色の服を身につけることはなかった。

そんな私が、別項「オーディオのロマン」で書いたオレンジ色のフレームの自転車を購入した。

それまでオレンジ色には、まったくといえるほど関心のなかった。
JBLのロゴのバックがオレンジ色なのも、どうして、この色なんだろう……ぐらいに感じていた。
オレンジ色の服を着るなんてことは絶対にないだろうぐらいに思っていた。

そんな私がオレンジ色のデ・ローザのフレームに出逢って一目惚れした。
それからオレンジ色の服(オレンジ色のジーンズも持っていた)を身につけるようにしていた。

10数年前だったか、川崎先生が何かで、嫌いな色のモノを身につけろ、といわれていた。
どうしても嫌いな色の服を着るのがいやだったら、下着でいいから嫌いな色を身につけろ、ということだった。

オレンジ色のフレームとの出逢いがあったことで、
オレンジ色が私の生活の中に入ってきた。

好きな色、関心のある色ばかりで身の回りを揃えてしまうよりも、
川崎先生の「嫌いな色を身につけろ」に倣うことで、バランスを身につけることができるのではないか。

Date: 6月 15th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その1)

別項で音の品位について書いている。
マッキントッシュのXRT20に対する、瀬川先生と菅野先生の違いから、
音の品位について書くために、ステレオサウンド 60号をぴっぱり出している。

上杉先生のXRT20に対する発言を、ぜひここで引用しておきたい。
     *
上杉 プログラムソース別では何が魅力的かということになりますと、女性ヴォーカルの色気なんていうのは物すごく出ますね。
 ぼくは歌手ではないし、まして女性ではないから、そういうことはわかりませんけれども、恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ(笑い)。いくら芝居で「あなたが好きだ」と歌ってもだめだと思うんです。そうなるとぼくは余り細かいことはいいたくないんです、そういう感じで鳴るものですから。
     *
この上杉先生の発言の あとに《一同爆笑。しばし座談会は中断する。》とある。
そうだろう。

いまのステレオサウンド、
これからのステレオサウンドで、こういう発言が出てくることはおそらくないであろう。

Date: 6月 14th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その3)

国産CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を外すことは簡単なことであり、
しかも簡単に元に戻せる。

既製品に手を加える場合に、
この「元に戻せる」かが重要なポイントとなる。

元に戻せるのを可逆的、そうでないのを不可逆的ともいう。

既製品に手を加えることを認めない人は、
可逆的であろうと不可逆的であろうとダメということになり、
可逆的であれば手を加えることは認めるという人もいる。

例にあげたCDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線は可逆的である。
では誰にでもすすめられるかといえば、必ずしもそうではない。

少なくともCDプレーヤーの天板をとって中を見て、
すぐにどの配線が目的の配線なのかがわかる人であれば何の問題も心配もないけれど、
そうでない人、
つまり実際に指さして、これがその配線だよ、と教える必要がある人には、
可逆的なことであっても、やはりすすめてはならない、と私は考えている。

そして可逆的に見えても、実際には必ずしも可逆的ではないこともある。
たとえば天板を固定しているネジの締付けトルクでそうである。

井上先生から聞いた話では、
ハーマンカードンのCitation XX(パワーアンプ)が、
ネジの締付けトルクを製造時に管理した最初のオーディオ機器ということである。

そのことを知らない人がCitation XXの天板を取る。ネジを緩める。
中にまったく手を加えずに天板を閉じる。ネジを締める。
この時、ネジの締め方がゆるかったり、強かったりすれば、
取り外す前の天板の振動モードにわずかとはいえ違いが生じる。

締付けトルクのことがわかっている人が天板をとって閉じる行為は可逆的であっても、
そうでない人の行為は不可逆的となる。

Date: 6月 14th, 2015
Cate: バランス

音のバランス(その3)

トーンコントロールやグラフィックイコライザーのツマミをいっぱいに動かしてみる。
両極端にいっぱいに動かして音を聴く行為をくり返してつかめるのは、
周波数バランスの中点である。

音のバランスとは、そこだけにはとどまらない。

昔黒田先生からきいた話がある。
マイルス・デイヴィスに関する話だった。
マイルスはある時期、自宅のインテリアをすべて曲線で構成されたモノにしていたそうだ。
その次に鋭角で直線的なモノにすべて置き換えた(順序は逆だったかもしれない)。

マイルスはインテリアを両極端に振っている。
これはマネしようと思っても、なかなかマネできることではない。
でも、ここから学べることはある。

音のバランスも、そういうものだということだ。
マイルス・デイヴィスのように、シャープで鋭角的な音、エッジのきいた音を聴く時期があって、
その次にやわらかくあたたく丸みを帯びた音で聴く時期があって、
その中点をさぐることができるはずだ。

音を語っている表現はいくつもある。
太っている音と痩せている音。
この両極端の音をある程度意識的に出して聴く。

自分の好きな音、望む音ばかり鳴らしていると、
こういうふうに音を両極端に振ってみることはほとんどないのではないか。

そのやり方を否定はしたくない。
けれど音のバランスを追求していきたいのであれば、
思いつく限り音を両極端に、一度は振ってみる必要がある。

異相の音」を意識することになるはずだ。

Date: 6月 14th, 2015
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その3)

音の品位に関して、菅野先生と瀬川先生で違っているところは、どういうところで、どういうことなのか。
このことについての大きなヒントは、ステレオサウンド 60号の特集にある。

60号の特集は「サウンド・オブ・アメリカ」。
1920年代に建てられたという、90㎡の広さの旧宮邸を試聴室として、
当時のステレオサウンドの試聴室にはおさまっても、
サイズ的に大きすぎるスピーカーシステムを集めての試聴となっている。

この特集にはアルテックのA5、MANTARAY HORN SYSTEMのほかに、A4も含まれている。
他にはJBLのパラゴン、4345、4676-1、インフィニティのIRS、クリプシュのKLIPSCHHORN II K-B-WO、
ウェストレイクのTM3、ESSのTRANSAR III、エレクトロボイスのパトリシアン800などがあり、
マッキントッシュのXRT20もそうである。

このXRT20のページにおける菅野先生と瀬川先生のやりとりこそ、
ふたりの音の品位についての違っているところが、はっきりとあらわれている。

瀬川先生はXRT20の音について、こう語られている。
     *
 ただ、ぼくは今聴いているとちょっと不思議な感じを抱いたのだけれど、鳴っている音のディテールを論じたら違うんですが、全体的なエネルギーバランスでいうと、いまぼくがうちで鳴らしているJBL4345のバランスに近いんです。非常におもしろいことだと思う。もちろん細かいところは違います。けれども、トータルなごく大づかみな意味ではずいぶんバランス的に似通っている。ですから、やはり現在ぼくが鳴らしたい音の範疇に飛び込んできているわけです。飛び込んできているからこそ、あえて気になる点を言ってみると、菅野さんのところで鳴っている極上の音を聴いても、マッキントッシュのサウンドって、ぼくには、何かが足りないんですね。かなりよい音だから、そしてぼくの抱いている音のイメージの幅の中に入ってきているから、よけいに気になるのだけれども……。何が足りないのか? ぼくはマッキントッシュのアンプについてかなり具体的に自分にとって足りない部分を言えるつもりなんですけれども、スピーカーの音だとまだよくわからないです。
     *
瀬川先生が「何かが足りない」といわれているものとは、いったいなんなのか。

Date: 6月 14th, 2015
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その2)

「コンポーネントステレオの世界 ’82」の鼎談では、音の品位に関して、
岡先生が《菅野さんのいっている品位という意味と、瀬川さんのいっている品位というのは、また違うんでしょう》
と発言されている。

菅野先生もそのことは認められていていて、
《違う場合もありますし、同じ場合もあります》と答えられ、続けてこう語られている。
     *
だから品位ということがもし普遍的に理解される概念をもつとすれば、コンポーネントには品位があってしほいわけです。しかしこの言葉は普遍的な概念としてとらえるのはむつかしいですから、何となくクォリティというほうが多少はとらえやすいような気がするんで、クォリティというふうにいっているわけです。
     *
その1)で引用した菅野先生の発言からわかるように、
この鼎談が行われたのは瀬川先生が亡くなられた直後である。

ここに瀬川先生がおられたら、音の品位についてどう語られたであろうか。

音の品位。
最近のステレオサウンドにはどのくらい登場するであろうか。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」のころ、音の品位がわからないと瀬川先生にたずねた若いファンは、
50をこえているであろう。
まだオーディオを趣味としている人なのか。
だとしたら、この若いファンは、音の品位を、その後どう捉え理解していったのだろうか。

たしかに音の品位について明快に語るのは非常に難しい。
もし私が若いオーディオマニアに、音の品位についてたずねられたらどうするか。
音を出して語れるのであれば、
音の品位を感じさせてくれるオーディオ機器(特にスピーカーシステム)を選んで聴いてもらう。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」の当時であれば、私ならばBBCモニターを選んで鳴らす。
瀬川先生もそうされたのではないだろうか。
他のスピーカーも選ばれたであろうが、BBCモニターは間違いなく鳴らされたであろう。

だがいまは2015年。
どのスピーカーシステムを選んで鳴らすだろうか。
クォリティの高いスピーカーシステムはいくつも頭に浮ぶ。

でも、ここでは音の品位であって、
クォリティ(品質)とは微妙に、でもはっきりと違う音の性質についてである。

いったい何があるのかと考えると、音の品位については、
昔と今とでは、どちらが理解されていたであろうか、ということについて考えざるをえない。