Archive for 12月, 2014

Date: 12月 25th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その2)

駅員と乗客の会話はもう少し続く。
そして、中ほどに、こう書かれてある。
     *
目的地がわからない旅人──、そんな馬鹿なこと、ありうるはずがないと、思われがちだ。本当にそれは、馬鹿げたことか、ありえないことか。
     *
乗客は旅人である。
どこかの駅から、どこかの駅に行こうとしている。
だが旅人は、どこに行きたいのか、自分でも掴めずにいる。

駅にいけば、それも旅に出ようとしているわけだから、
通勤のための最寄りの駅ではなく、もっと大きな駅であるはずだ。

大きな駅にはいくつもの汽車がいる。
乗客を待っている。
目的地が決っていなければ、どの汽車にのっていいのかすらわからない。

《旅は、なにものかに呼ばれて、はじめて可能だ。》

「風見鶏の示す道を」の中ほどに、こう書いてある。

目的地とは、なにものかに呼ばれているところでもあるのかもしれない。
なにものが呼ぶのか。

レコードである。
聴きたい音楽である。

Date: 12月 24th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その1)

私が初めて読んだ黒田先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」巻頭の「風見鶏の示す道を」である。
サブタイトルとして、音楽が呼ぶ夢の顕在としてのコンポーネント、とある。

《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》

ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。

駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
     *
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
     *
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。

38年前に、この文章を読んでいた。
ちょうどいまの季節である。
二度三度読み返した。

13歳の中学生には、わかったようで、この人(黒田先生)が何を書きたいのか、
ほんとうのところはつかめずにいた。
それでもなにかしら惹かれるところがあって、そのあとも何度か読み返している。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(オタリ MX5050・その2)

オタリの存在を知ったのは、当時出版されていたサウンドメイトという雑誌だったはず。
カラーグラビアページで紹介されていた、と記憶している。

誰の文章だったのかも憶えていない。
どの機種だったのかもさだかではない。
ただ日本のオープンリールデッキでもっとも信頼性が高いのはオタリだ、と、
その記事は中学生の私に植え付けてくれた。

1981年春に上京して最初に住んだのは三鷹だった。
三鷹から国鉄で一駅、隣の吉祥寺駅で井の頭線にのりかえて、
永福町あたりで山水電気の社屋があらわれたときは、ここがサンスイなんだ、と驚いた。

当時オタリは荻窪にあった(いまも本社である)。
環状八号線沿いにあった。
なにかの用事で荻窪に行った時に、偶然オタリのビルの前を通った。

荻窪にあることは知っていたけれど、住所まで憶えていたわけではなかったので、
山水電気同様、いきなり、目の前にあらわれた、という感じだった。

山水電気のあとだっただけに、意外に小さな会社なんだ、と思ったのを憶えている。
録音機器専門メーカーだから、総合メーカーの山水電気とは規模が違って当然である。

山水電気はなくなり、オタリは健在である。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(オタリ MX5050・その1)

長野県の松本・安曇野・塩尻・木曽の地元紙の市民タイムスに、
「録音機 40年の生産に幕」という見出しで、
オタリのオープンリールデッキMX5050の最後の一台が生産され、
近くアメリカに出荷されるという記事が載っている。

この記事の写真が、twitterでリツィートされていたのを見た。
正直、寂しい気持になるというより驚いていた。
まだ生産していたことにである。

私のもうひとつのブログ、the re:View (in the past)で、
1960年代後半からのオーディオ機器の広告をスキャンしたものを公開している。
いまやっと1970年分を作業中である。

このころの広告に、カセットデッキはほとんど登場してこない。
テープデッキ関係の約九割はオープンリールデッキである。
数年後にはカセットデッキ、カセットテープに家庭用デッキの主役を奪われるし、
私がオーディオに興味をもちはじめたころはカセットの時代だっただけに、作業しながら、少し意外な気もしている。

オタリは業務用メーカーである。
プロフェッショナル機器のブランドとしては、アメリカのアンペックス、スイスのスチューダーに憧れていた。
同時に日本のメーカーのオープンリールデッキならば、オタリに憧れていた。
特に理由はなかった。

というよりも、オタリの名を知ったころは、それほど詳しかったわけではなく、
なんとなくの憧れであった。

ステレオサウンド別冊のHI-FI STEREO GUIDE ’75-’76をみると、
オタリの製品は、MX5000S、MX5050、MX7000-2Sが載っている。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その7)

ステレオサウンドの試聴室でのことではないが、知人のリスニングルームでも同じことがあった。
彼もまた東京タワーが窓から見える都心に住んでいた。
(スカイツリーが完成する前の話である)

彼が使っていたアンプはマッキントッシュのアンプと国産メーカーのアンプだった。
国産アンプは、価格こそ非常に高価というわけではなかったが、
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれるところに属するアンプで、規模の小さなところが作っていた。

彼のリスニングルームではマッキントッシュのアンプでは何の問題も発生しないのに、
国産アンプではバズッたりして、音を満足に聴くことができなかった。

アンプが故障していたわけではない。
取り扱い元に送り返してチェックしてもらうと正常とのこと。
けれど、彼のリスニングルームに戻ってくると、使い物にならない。

よくマッキントッシュのアンプのことを古いとか、安物だとかいう人がある一定数いるように感じている。
マッキントッシュのアンプは最先端のアンプというイメージはない。
けれど、他のアンプが問題なく使えて、
マッキントッシュのアンプが使えなかった、動作がおかしくなったという話はこれまで聞いたことがない。

上の例のようにマッキントッシュのアンプは使えても、他のアンプはダメだという例はある。
(ただし最近のマッキントッシュに関しては未確認なのはつけ加えておく)

音質優先がほかのなによりも優先される事項であるよういわれることがある。
けれど使用環境は、同じ東京にいても大きく違う。
電源の状態、オーディオ機器を取り巻く環境は、場所によっても時間によっても違う。

個人が自分のためにつくったアンプならば、使用環境がその人の部屋ということで限定されるから、
やりたいようにやればいい。
けれどメーカー製のアンプとなると、そうもいかない。

知人にしても、間違った使い方をしていたわけではない。
メーカーが想定している使い方をしても、メーカーが想定していない環境であったから、
小規模の国産メーカーのアンプは使い物にならなかった。

Date: 12月 22nd, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その6)

いまは元麻布に移っているが、私がいたころは六本木五丁目、
外苑東通りに面したビルに、ステレオサウンド編集部はあった。
試聴室は三階にあった。

ビルの窓から身を乗り出せば東京タワーが正面に見えた、
まわりは夜ともなればネオンがまぶしい繁華街である、
目にこそ見えないけれど、オーディオ機器を取り巻く環境としては、かなり悪かった。

こういう環境では、思わぬ症状が発生することがある。
そのひとつに、アンプがバズって、満足な音出しが出来なくなる機種があった。

もう製造中止になった機種だが、
そのメーカーのアンプはいまではそんなことはないから、どのメーカーとは書かないが、
海外製のアンプの一部は、
国産メーカーのアンプよりも、以前のステレオサウンドの試聴室のような悪条件には弱いところがあった。

おそらく、海外にある、そのメーカーの試聴室では出なかったトラブルが出ることがあった。

オーディオ機器を取り巻く環境は常に一定ではない。
雑多なノイズがそれぞれ変動している。

それらの影響をまったく受けないのが理想だが、そんなモノはない。
できるだけ影響を受けないことが、リファレンス機器には要求される。

Date: 12月 22nd, 2014
Cate: コペルニクス的

オーディオにおける天動説(その2)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4は、「魅力のフルレンジスピーカーその選び方使い方」で、
巻末には佐伯多門氏による「フルレンジスピーカーの基礎知識」が載っている。

この記事中に、出力音圧周波数特性と電気インピータンス特性、
このふたつのグラフを上下に並べている図がある。

電気インピータンス特性のグラフでは、
インピーダンスがもっとも高い値を示すところに低音共振周波数(f0)と書いてあり、
そこからの垂線が出力音圧周波数のグラフと交わるところには、低域限界周波数とある。
同じような図と説明は、他のスピーカーの技術書にも載っている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4では、このグラフの隣のページには、
六つのフルレンジユニットの周波数特性のグラフががある。
ダイヤトーンのP610、パイオニアのPE8、フィリップスのEL7024/01、
JBLのLE8T、ラウザーのPM6、グッドマンのAXIOM80である。
HIGH-TECHNIC SERIES 4では、この他に37機種の実測データも載っている。

これらのグラフと、出力音圧周波数特性のグラフに書き込まれている解説を読んで気がついたことがあった。
グラフの説明では、低域限界周波数から下の帯域では、低音減衰(-12dB/oct)とある。
だがHIGH-TECHNIC SERIES 4に登場するフルレンジユニットの中には、そうでない機種がある。

AXIOM80、PM6がそうだし、JBLのD130もそうである。他にもいくつかある。
これらは古典的な高能率のフルレンジユニットである。いわば古い時代のユニットでもある。

HIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだ当時(1979年)、16歳だった私は違いがあることに気づいても、
それがどういうことを意味しているのか、深いところまではわからなかった。

Date: 12月 21st, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その5)

ステレオサウンドの試聴室に持ち込まれるスピーカーシステムのタイプは実に様々である。
大きさも小型のモノからフロアー型の、それもかなり大型のモノもある。
パワーアンプの出力と関係してくる出力音圧レベルもかなり低いものから100dBをこえるものもある。

その差は20dBほどである。
20dBの違いは、出力に換算すると100倍の違いになる。

つまりリファレンスのパワーアンプとして、出力は極端に高くなくてもいいけれど、
ある程度の出力でなければならない。
それに高能率のスピーカーシステムを鳴らす時には出力はさほど必要としないけれど、
かわりに残留ノイズの低さが求められる。

しかも1980年代にはいり、スピーカーシステムのインピーダンスは低くなる傾向があった。
標準としての8Ωがあり、やや低い6Ωというのも登場してきた。4Ωも増えてきた。
そしてアポジーのリボン型スピーカーシステムのように、さらに低いインピーダンスも出てきた状況では、
低い負荷インピーダンスであっても、ある程度は駆動できることも条件となってくる。

これらの条件を満たして、魅力的な音を出すアンプであっても、
その魅力的な音が個性として強すぎる傾向のアンプは、リファレンスとしては適さない。

これまであげた条件を満たした優れたパワーアンプがあったとして、
その価格が一千万円近い、もしくはこえるようなアンプであれば、リファレンスとして適さない、ということになる。

私がいたころは持ち込まれるスピーカーシステムの価格は、低価格のモノもけっこうあった。
59800円のスピーカーシステムが隆盛だったころでもある。
こういう価格帯のスピーカーシステムを、いくらいい音がするからといって、
途方もない価格のパワーアンプで鳴らすことに、どういう意味があるだろうか。

実験という試聴であれば、そういう価格的なアンバランスも試してみるのもおもしろいが、
新製品紹介記事で、そんなアンプで鳴らして音が素晴らしかった、
と書いてあっても、読み手の参考になるだろうか。

Date: 12月 21st, 2014
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その4)

話すことと歌うこと。
同じ言語であっても、そのときの脳の部位が違うのだとしたら、
同じ日本語であっても、話しをきいているときと、歌を聴いているときとでは、
反応している脳の部位にも違いがあるのではないか。

同じなのかもしれないし、違うのかもしれない。
はっきりしたことは知らない。
けれど可能性としては考えられることであるし、
人によっても、もしかすると違うのかもしれない、とも思えてくる。

私のように日本語を話せない人による日本語の歌をに対して、
日本語としての瑕疵を感じない人もいれば、そこがすごく気になってしまうという人もいるからである。

すごく気になってしまうという人も、それが日本語だからなのかもしれない。
たとえばフランス語を解しないアメリカ人がフランス語の歌をうたったのを聴いたとする。

この場合でも、彼はフランス語としての瑕疵が気になってしまうのか。
もちろんここでの聴き手は、フランス語を解さない人である。

Date: 12月 21st, 2014
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その9)

いまカートリッジの発電方式としてリボン型に関心をもっているのは、
糸電話に関する記事を、10年ほど前に読んだからである。

糸電話は多くの人が小学校の理科の授業で実際につくり実験している。
それ以来糸電話のことはすっかり忘れていた。

けれど、ある日、あれこれ検索していて、リンク先もあれこれクリックしていっていたら、
糸電話の限界に挑戦している人のページにたどりついた。
そこには小学校での理科の授業とはまるで違う距離への挑戦だった。

数10mの長さでも糸電話は会話ができる。
さらに100mにのばしても会話はできる、とある。
もっと距離をのばせるのか。

もちろん糸の種類によって距離は変ってくるだろうし、
それだけ長い糸を用意できるかも問題になるし、
いちばんの問題は糸をピンと張れる場所をどうするか、である。

以前見た記憶では1kmまで会話ができる、とあったはず。
これを書くために検索してみたら、500mでも会話ができた、という記事があった。
1kmも記憶違いではない、と思う。

糸電話の構造は身の回りにあるものでまかなえる。
そんな簡単なモノなのに、伝達できる帯域幅は広くはないけれど、
えっ、と驚くような距離でも会話が可能なことを考えるに、
カートリッジの発電方式にうまく応用できないのか、と。

そういえば、と思い出したのが、ナガオカのリボン型カートリッジであった。

Date: 12月 21st, 2014
Cate: コペルニクス的

オーディオにおける天動説(その1)

いまでは、どんな人でも太陽が地球の周りをまわっているのではなく、
太陽の周りを地球がまわっていることは知っている。

知っているといっても、知識としてであって、
体感として、ではないともいえる。

だからずっとずっと昔の人は天が動いていると思っていた。
そこにコペルニクスが、太陽を中心とした地動説を唱えた。

オーディオにも天動説、地動説といえることがあるのだろうか、と思う。
たとえば電気は高い電位から低い電位へと流れる、とまず教わる。
けれど次に電子の流れは、実際には反対だと教わる。

電子の流れを捉えることができなかった時代は、高い方から低い方へ流れるものという,
いわば思い込みからそう決めてしまっていた。

その後、電子の流れは実は反対方向だったことが判明する。

このことを学校で教わった時、これも天動説・地動説のようなことなのか、と思った。

他にもあるような気がしている。
まだ気がついていないだけのことがあるのかもしれない。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(BRUTUSとGroove)

入門書、入門ということについて書いている。
偶然なのだが、マガジンハウスが出版しているBRUTUSの最新号の特集は、
読書入門。だった。

「読書入門」ではなく、「読書入門。」である。
BRUTUSを読む読者が、読書初心者、入門者であるはずはないわけで、
そういう読者に、あえて「読書入門。」をしている。
どういう構成と内容になっているのかは、実際に本を手に取って確認していただきたい。

Grooveという雑誌がある。
いまGroove別冊として「アナログレコードのある生活」という本が出ている。

この本を、編集部はアナログディスク再生の入門書として企画したのかどうかはわからないが、
この本は入門書としての役割を満たしていると感じた。

入門書について考えさせられる二冊である。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: ジャーナリズム

「言うべきこと」を書く

一年で1000本を書くことを目標としていても、今年は一年と二週間かかってしまった。
これが5001本目である。

ブログを書き始めた時に、10000本書くことを決めていた。
六年と三ヵ月ちょっとで、やっと中間点である。
すこし時間がかかりすぎと反省している。

1000本目を書いた後、「言いたいこと」を書く、とタイトルにつけた。
3000本目を書いた後は、「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)、というタイトルをつけた。

「言いたいこと」はもちろんはっきりと書いていく。
それだけではなく、「言うべきこと」を書いていく。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: ジャーナリズム, デザイン

TDK MA-Rというデザイン(ステレオ時代という本とその記事・その2)

TDL MA-Rで、Googleで検索すると、かなりのページがヒットする。
私が書いた「TDK MA-Rというデザイン」も2ページ目で表示される。

ステレオ時代のVol.3掲載のTDK MA-R開発ストーリーを担当した編集者は、
MA-Rのことについて、インターネットを使って調べたりしなかったのか、と思う。
一時間もあれば、Googleで検索してヒットしたページを見ていったとして、
検索結果の2ページ目に表示される私のブログを見て、そこにある川崎先生のブログへのリンクをクリックすれば、
MA-Rについての、いままで知られてなかったことにたどりつく。

ほとんど労力を必要としないことではないか。
キーボードをほんの少し叩き、マウスを動かしてクリックしていくだけのことである。
それすらもせずに、ただインタヴューしたことだけを記事にしたのが、
今回のTDK MA-R開発ストーリーではないのか。

川崎先生がMA-Rについて書かれたブログが、つい最近のことであったら、まだわかる。
ステレオ時代のVol.3はつい最近書店に並んだ本である。
担当編集者がMA-Rのことを調べる気があったなら、
川崎先生のブログを見つけられなかったということは考えにくい。

いい記事をつくろうという気がないのか、とも思ってしまう。
なぜ、いい記事にしようとしないのか。
その理由を考えてしまう。

結局のところ、商業誌であることを優先してしまっているからだ、ということになってしまう。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続・明白なことでさえ……)

間違いが書かれているブログのURLは、メールを送ってくれた人に問い合せればすぐにわかることだろう。
でも、URLを知ったら、読みに行く。
読んでしまったら、さらにあれこれ書きたくなるであろうから、あえて訊かなかった。

ThaedraとAmpzillaがGASの純正ペアであるが、
人によってはThaedraと組み合わせた音よりも、Thoebeと組み合わせた音のほうが気に入ることだってある。
それは理解できる。
けれど、それをもってして、
ThaedraではなくThoebeがAmpzillaとペアとなるべく開発されたコントロールアンプだ、
と言い切っていいわけではない。

あくまでも、自分にとっては純正のコントロールアンプとなるThaedraよりも、
Thoebeの方が望ましい結果が得られた──、
そんなふうに書かれれば、メールをくれた若い人を惑わすこともなかった。

おそらく、Thaedraではなく Thoebeが、と書いた人は思い込みが強いのかもしれない。
親しい人と話している分には、まあいいだろう、と思うけれど、
誰もが見れるブログで、思い込みが激しいまま間違ったことを書いてしまうと……、
ということを、その人はまったく考えないのだろうか。

同じ間違い・デタラメであっても、若い人が書くのと年配の人が書くのとでは、少し違ってくる。
ブログを書いている人の中には、自分のシステムの写真を公開している人も多い。

GASのアンプのことで間違ったことを書いた人も、そうかもしれない。
ときに、そういう写真が、この人はベテランなんだ、と読み手に錯覚を起こさせてしまうこともある。

書き手としての責任は、アマチュアであろうと存在する。
今回のことのように明白なことでさえ、間違ったことを思い込みで書いてしまうことを、
書いた本人は、なんとも思っていないのかもしれない。