Archive for 6月, 2014

Date: 6月 24th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その11)

各メーカーのレコードの反り対策で、
多くの人が知るのといえば、シュアーのV15 TypeIVから搭載されたブラシがある。

1978年ごろのシュアーの広告には、ヤマハのレシーバーCR1000の写真が使われていた。
キャッチコピーはこうだった。
《これをブラシと呼ぶのは、これをラジオと呼ぶようなものだ。》

最初の「これ」とはV15 TypeIVの先端についているブラシのことであり、
二番目の「これ」はCR1000のことを指す。

CR1000は当時180000円していた。
プリメインアンプのCA1000をベースに、CT800を上回る性能のチューナーとを組み合わせたもの。
たしかに、CR1000をラジオと呼ぶ人はいない、と思う。

V15 TypeIVの先端についているブラシは、
何も知らない人は、レコード盤上のホコリ除去、もしくは静電気除去のためのものと思うだろう。
シュアーは、このブラシのことをダイナミック・スタビライザーと呼んでいた。

このブラシは導電性のある素材が使われているから、静電気の除去もできるが、
シュアーが広告で大きく謳っていたのは、レコードに反りに対してのことであり、
広告には《カートリッジの上下運動の安定化を計り、レコードの反りに起因する難問題を克服》とあった。

Date: 6月 24th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その10)

ビクターの吸着力が、ラックス、マイクロよりも低く設定されているのは、
ビクターの考え方として、あくまでもレコード盤の制動のためであり、
これ以上吸着力を高めても制動という点ではあまり変りがないため、らしい。

つまりはビクターは吸着によってレコードの反りを矯正しようという考えはなかった、とみるべきかもしれない。
その点、ラックス、マイクロ、それからオーディオテクニカは反りの矯正ということも考えている、とみえる。

ステレオサウンドの試聴室でマイクロのSX8000IIを数年間使ってきて、
吸着機構に不満を感じたことはなかった。
ボタン操作ひとつで吸着とその解除が確実に行える。

ステレオサウンドの試聴で、特に指定がないかぎり、つねに吸着しての使用だった。

SX8000IIがあれば、レコードの反りに神経質になることはない。
だがSX8000IIはそうそう誰にでも買える価格ではなかった。

SX8000IIはターンテーブルユニットの型番で、モーターユニットはRX5500II。
このふたつにアームベースAX10Gと空気バネ式のベースBA600を組み合わせると1518000円、
2000年には1970000円になっていた。

これだけのシステムが買える人でも、吸着に抵抗感をもっている人もいたはず。

吸着に頼らずにレコードの反りに対応するための工夫は、1970年の終りからいくつか登場しはじめていた。

Date: 6月 24th, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その12)

ヨッフムによる「レクィエム」は、ドイツ・グラモフォンから廉価CDとして出た。
ジャケットもそっけない、いかにも廉価盤と思わせるものだった。

モーツァルト生誕250年の年、ドイツ・グラモフォンからヨッフムの「レクィエム」が出た。
今回のCDは廉価盤ではなくなっていた。
冒頭の鐘の音から始まる。
オルガンによる前奏、人びとのざわめきが聴こえる。

そしてヨッフムの演奏が聴こえてくる。
この日の演奏が、通常のコンサートホールでの演奏と大きく異るのは、
途中途中に司祭による典礼の朗読がはさまっていることだ。

廉価CDでは、この典礼の朗読もすべてカットされ、
いわゆる通常のライヴ録音としてのモーツァルトのレクィエムとして編集されている。

同じ日の同じ演奏なのに、この二枚のCDを聴くと、印象の違いだけでなく、
こちら側の聴き手としての態度も同じではなくなっている。

マスタリングの違いもあるようで、二枚のCDの音はまったく同じというわけではない。
それでもおさめられているのはヨッフムの演奏であることには変わりない。

それでも「冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのする」のは、
モーツァルト生誕250年に出たCDである。

鐘の音、オルガンの前奏、人びとのざわめき──、
これらが静まった後にはじまるヨッフムの第一音は、決して同じには聴こえない。

Date: 6月 24th, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その11)

モーツァルトのレクィエムで、もうひとつ例をあげればヨッフムの演奏がある。
モーツァルト生誕200年記念ミサでの演奏をおさめたものである。

このヨッフムの演奏は、瀬川先生の「夢の中のレクイエム」で知った。
     *
もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。
     *
「虚構世界の狩人」におさめられているので読まれた方も多い、と思う。

この「レクィエム」を聴きたい、と読んでいて思っていた。
にもかかわらずアナログディスクで買わなかったのは、
私が上京したときにはすでに廃盤になっていたのか──、
私がヨッフムのこの「レクィエム」のディスクを買ったのはCDになってからだった。

そのときのCDはヨッフムによる演奏だけをおさめたもので、冒頭の鐘の音はカットされていた。
瀬川先生が聴かれたヨッフムの演奏をそのまま収録したCDの発売は、またなければならなかった。

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その10)

「西方の音」の中に「死と音楽」がある。
五味先生は書かれている、ラインスドルフのモーツァルトのレクィエムについて。
     *
 ケネディが死んだとき、葬儀がモーツァルトの『レクィエム』で終始したのは知られた話だが、この時の実況レコードがビクターから出ている。ラインスドルフの指揮でオケはボストン交響管弦楽団だった、といった解説がこれほど無意味なレコードも珍しい。葬儀の厳粛さは、ケネディが大統領だったことにそれ程深い関わりはあるまい。ましてそれが暗殺された人だった暗さは、この大ミサの荘厳感の中ではおのずと洗われていた。しかし、夫を喪った妻ジャクリーヌの痛哭と嘆きは、葬儀のどんな荘厳感にも洗われ去ることはない。当日の葬儀には数千人の参拝者が集まったそうだが、深いかなしみで葬儀に列し、儀式一切を取りしきっていたのはジャクリーヌという女性ただ一人だ。ケネディを弔うためのレクィエムではなく、彼女のための鎮魂曲だった。私はそう思ってこのレコードを聴いてきた。
 こんど、私がレクィエムをもとめねばならぬ立場になって、さとったことは、右の実況録音のレコードは妻ジャクリーヌのためだけのものであり、これを商品化し、売り出すことの冒瀆についてである。たしかに、売り出すことで葬儀に参列せぬ大勢の人は、たとえば私のように彼女の胸中をおもい、同情し、ケネディの冥福を祈りはするだろう。しかしそれがケネディ自身にとって一体何なのか。彼女の身にとっても。死者を弔う最も大事なことをアメリカ人は間違っている。私の立場でこれは言える。レクィエムを盛大にするのは当然なことだ。録音して永く記念するのもいい。当日の参列者がこのレコードを家蔵するなら微笑ましいだろう。しかし、何も世界に向って売り出すことはない。死者を弔うとは、のこされた妻のかなしみに同情の涙を流すことなどであるわけはないが、その業績を褒め称えることが、未亡人へのいたわりになるなら、飼い猫に死なれた人にあれは可愛い猫でしたと褒めるよそよそしさと、どれだけ違うか。しかも、死者に対し、その遺族への思いやりを示す以外の弔い方など本当はあるわけはないのである。葬儀の実況レコードを売って、その利益金で家族を補助しようというなら話は別である。世の中はもう少し辛辣にできている。そういう補助の必要ない大統領のレコードだから、売れる。けっきょく、アメリカ人はケネディを暗殺したことで間違い、未亡人をいたわることでもさらに大きな誤りを犯した。アメリカという国は、モーツァルトのこの『レクィエム』一枚をとってみても誤謬の上を突っ走っている国だとわかる。
     *
ラインスドルフのモーツァルトのレクィエムも、だからライヴ録音である。
私は「死と音楽」をハタチのころには読んでいたから、
いまにいたるまでラインスドルフの、この実況録音は聴いていない。
おそらく聴くことはない。

数年前に、この録音のことで電話してきた知人がいる。
このときの実況録音はいまもCDで入手できる。

このCDのことを、すごいCDを見つけた、という感じで知人は話してくれた。
かるく興奮しているのは電話越しにもわかった。

私は彼に「知っている」と答え、聴くつもりはない、とつけ加えた。
五味先生が書かれているのを読んでいないのか、とも、
「西方の音」を読んでいる、という彼に言った。

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その9)

マイクロからSX8000IIが発表された。
前作SX8000がエアーフロートによるベアリングを採用、
II型になりレコードの吸着機構も搭載されるようになった。
外観もずいぶん変った。

SX8000はステレオサウンド試聴室のリファレンスプレーヤーとなることはなかったが、
SX8000IIはすぐさまリファレンスプレーヤーとして常備されることになった。

SX8000IIが、私にとって初めて実際に触るレコード吸着のプレーヤーシステムだった。

SX8000IIは外部に専用ポンプもつ。
けっこうな大きさで、このポンプ一台でターンテーブルプラッターを浮かし、レコードの吸着も行う。
もちろん電動ポンプである。

電動ポンプという点ではビクターのTT801+TS1と共通するが、
ビクターが常時レコードを吸着しつづけているのに対し、
マイクロは吸着が完了したら、そのためにポンプは動作しない。
ターンテーブルプラッター浮上のためのみに働く。

ビクターでは吸着力はレコード盤は重量換算で4kgぐらい(レコード盤全体で4kgくらいの荷重)、という。
それほど強い吸着力ではないため、吸着を解除しなくともレコードを難なく取り外せるらしい。
ラックスは50kgぐらい、で、吸着を解除しないとレコードは取り外せない。

マイクロはどのくらいの吸着力なのかはわからないが、かなりのものである。
一度吸着してしまえば、レコードを取り外すためには吸着を解除しなければならない。
これだけの吸着力のおかげで、多少の反りがあってもぴたりとターンテーブルプラッターと一体化する。

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その9)

バーンスタインのライヴ録音といえば、1961年のグレン・グールドとのブラームスのピアノ協奏曲がある。
このディスクが出る以前から、バーンスタインとグールドのテンポの解釈の相違があり、
バーンスタインが演奏前に、今回はしぶしぶグールドのテンポに従う、といった旨を話した──、
そのことだけが伝わってきていた。

だから、このディスクには、バーンスタインのその部分も収録されている。
英語で話しているわけだが、ライナーノートには邦訳がついていてた。
それを読んでもわかるし、それがなくともバーンスタインの口調からも、
決してしぶしぶグールドのテンポにしたがったわけではないことは伝わってくる。

一部歪曲された話が伝わり広まっていたことが、このディスクの登場ではっきりした。

ブルーノ・ワルター協会から、このディスクが発売される時、
このバーンスタインのコメントがことさら話題になっていた。

もしこのライヴ録音が、バーンスタインのコメントを収録せずに、
バーンスタインがそういったことを話したことを知らない聴き手が聴くのと、
前説が収録されたディスクを、そういったことを承知している聴き手が聴くのとでは、
このライヴ録音のドキュメンタリーの意味合いはかなり違ってくるだろう。

ライヴ録音におけるドキュメンタリーについて考えていくと、いくつかのレコードのことが浮んでくる。
たとえばラインスドルフのモーツァルトのレクィエムのことも。

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その8)

レナード・バーンスタインがドイツ・グラモフォンから1980年に出したベートーヴェンの交響曲全集は、
ライヴ録音ということも話題になった。

このライヴ録音については「バーンスタインのベートーヴェン全集(その7)」でふれているのでくり返さないが、
一般的なライヴ録音とは違っている。

バーンスタインのベートーヴェンの「第九」には、もうひとつ、ライヴ録音がある。

1989年12月25日に、東ベルリンのシャウシュピールハウスで、
ベルリンの壁崩壊を記念して行ったコンサートをおさめたライヴ録音である。
オーケストラはバイエルン放送交響楽団とドレスデン・シュターツカペレの合同を主として、
ニューヨークフィハーモニー、ロンドン交響楽団、レニングラード・キーロフ劇場オーケストラ、
パリ管弦楽団といったオーケストラのメンバーも加わってのものだ。

このふたつのバーンスタインの「第九」の意味合いは同じとはいえない。

1979年のウィーンフィルハーモニーとの「第九」は、
録音のために聴衆が集められてのライヴ録音であり、
いわばスタジオからコンサートホールに場所を移して、聴衆をいれての公開スタジオ録音ともいえる。

1989年の混成オーケストラによる「第九」は、文字通りのライヴ録音であり、
演奏終了後の拍手だけでなく、開始前の拍手もCDでは聴ける。

つまり、1989年のバーンスタインの「第九」は、通常の音楽CDとは少し違う側面もある。
「第九」の終楽章のFreude(歓喜)をFreiheit(自由)に変えている点からして、
1979年の「第九」よりドキュメンタリーとしての側面が色濃くなっている、ともいえよう。

そういう録音をおさめたCDだから、
輸入盤には、ベルリンの壁のカケラがついてくるヴァージョンもあった。

Date: 6月 22nd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その7)

グレン・グールドがコンサート・ドロップアウトした理由については、本人が語っているし、
これまでにも多くの人が言ったり書いたりしてきている。

コンサート・ドロップアウトするということは、
コンサートを行わない、ということであり、ライヴ録音を残さない、ということでもある。

この、ライヴ録音を残さない──、
このことがグールドのコンサート・ドロップアウトに関係していると考えることはできないのか。

音楽の録音にはスタジオ録音とライヴ録音とがある。
コンサート・ドロップアウトしたグールドの演奏を伝えるのはスタジオ録音されたものによる。

スタジオ録音もライヴ録音もマイクロフォンがありテープレコーダーがあって成り立つ。
ライヴ録音ではないという意味のスタジオ録音には、
文字通り録音スタジオでの録音も含まれるし、どこかのホール、教会を借りての録音も含まれる。

つまりスタジオ録音とライヴ録音は、録音される場所の違いで分けることはできず、
聴衆の存在が、このふたつをわけている。

聴衆のいるいないに関係なく、録音はひとつの記録である。
スタジオ録音もライヴ録音も音の記録である。

同じ記録であるものの、ライヴ録音にはドキュメンタリーとしての側面が強い場合がある。

Date: 6月 22nd, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その8)

レコードの吸着システムは、個人的には使ったことがなかった。
ラックスのPD300が登場した時も、吸着そのものには興味を持ったけれど、
PD300というプレーヤーそのものに興味を持てなかった。

なにもPD300はダメなプレーヤーだということではなくて、
PD300がラックスでなく他のメーカーの製品であったなら、興味の持ち方も変っていたかもしれない。

ラックスだったから、興味をもつことはなかった、のは、
どうしてもラックスのプレーヤーといえばPD121の印象が私にとっては強すぎるからだけで、
PD121のラックスが、こんな格好のプレーヤーをつくるのか、
という、こちら側の勝手な思い込みのようなものが裏切られた感じがしただけのことである。

プレーヤーキャビネットの前面右側に吸着機構のレバーがついているのも、気にくわなかった。

PD300はステレオサウンド 58号の第二特集The Matchの中で取り上げられている。
PD300の比較対象として選ばれていたのは、やはり吸着機構をもつビクターのTT801+TS1。

PD300が手動ポンプ、TT801+TS1は電動ポンプ、
それからベルトドライブとダイレクトドライブという違いがある。

それ以外にも吸着そのものに対する考え方、その機構・動作にも違いがあるが、
ここでは関係ないので省略する。

オーディオテクニカのAT666はPD300よりも関心をもっていた。
ターンテーブルシートだから、手持ちのプレーヤーに使えることも、
ターンテーブルシートの価格としては高価に感じても、吸着機構付きだからと思えば、そうでもなかったからである。

でもこれも結局は試すこともなかった。
前述したようにチューブの装着・脱着が、
アナログディスクを聴く時には、ターンテーブルを停止させることがない私には、
ことさら面倒に感じからである。

ステレオサウンドの記事を読んでも、まだまだ吸着技術そのものが未熟なようにも思えていた。

Date: 6月 22nd, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その7)

カートリッジの針先がトレースするのは、
塩化ビニールを主材料とした円盤に刻まれた溝である。
ラッカー盤とは異り、平面性においては理想的にはほど遠い。

保管の仕方が悪ければ反ってくるし、
新品のレコードであっても反っているモノもあったし、
見た感じでは反っていないようであっても、
カートリッジの針先から見れば反りが完全にないディスクはないのではなかろうか。

反りがあれば、その部分ではトレースが阻害される。
まったく反りがない、どんな保管の仕方をしても反りが生じないレコードばかりであれば、
トーンアームは、いまの形態とはまたく異っていたかもしれない。

トーンアームはレコードには反りが多少なりともあるものとしての設計である。

反ったレコードはターンテーブルプラッターに吸着してしまえばいい、という考え方は以前からある。
現実の製品もいくつか存在していた。
ラックスは1980年にPD300というアームレスターンテーブルを発表した。
手動ポンプによるレコード吸着だった。

1982年ごろにはオーディオテクニカから、手動ポンプによる吸着機構をもつターンテーブルシートAT666が出た。
上級機のAT666EXは乾電池を使った電動ポンプ。
AT666はどんなプレーヤーでも吸着機構が使える反面、
吸着時にはポンプとシートをチュープでつないでレコードの吸着後チュープをはずして、という、
やや使い勝手の悪さがあるのは止むを得ないといえよう。

Date: 6月 21st, 2014
Cate: audio wednesday

第42回audio sharing例会のお知らせ

7月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 21st, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その6)

アナログプレーヤーはメカニズム主体のオーディオ機器であり、
メカニズム主体であることがアナログプレーヤーの魅力ともなっている。

手抜きの感じられない精緻でしっかりしたメカニズムは、それだけで頼りになる印象を使い手に与える。
このプレーヤーなら信じられる──、
そういうおもいを抱かせてくれるプレーヤーを欲してきたし、使ってもきた。

そんな私だから、トーンアームに関しても電子制御という方式に対しては、
これまではそっけない態度をとってきた。
触ったこと・聴いたことがない、ということも関係しているが、それだけではない。
やはりメカニズムだけで、そこに電子制御ということを介入させないでほしい──、
そういう気持が強かった。

だがアナログプレーヤーを構成するターンテーブルとトーンアームを、
まったく同じに考え捉えるわけにはいかない。

ターンテーブルは静止しているが如く静かにブレずに回転してくれればいい。
いかなる変動に対しても影響を受けることなく、毎分33 1/3回転、45回転を維持してくれればいい。
ターンテーブルは、いわば回転する土台である。

それに対してトーンアームはどうか。
トーンアームはカートリッジの支持体であり、
カートリッジレコードの外周から内周への移動を支える。

Date: 6月 21st, 2014
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その9)

その4)に自転車のカーボンフレームのコピーについて書いた。
アメリカ、ヨーロッパの有名ブランドのフレームも、
本国で作られるモデルもあるが、中国、台湾で作られるモデルもある。

けれどこれらのカーボンフレームに使われるカーボン繊維の多くは日本製である。

カーボンフレームやカーボンホイールをバラしていって、見事なコピーを作れても、
カーボン繊維そのものを作れる(コピーできる)わけではない。

いつの日かカーボン繊維も中国製、台湾製になるだろうが、
その時は日本のカーボン繊維は、いまよりも優れているのではないだろうか。

先のことはわからないから、
日本のカーボン繊維よりも中国、台湾のカーボン繊維が優れる時代も来るかもしれない……。

それでもいわゆる素材の、日本の強みというのは確かにある。
ふり返ってみれば、日本のオーディオは、新素材の積極的な導入でもあった。

ドーム型振動板にベリリウムを取り入れたのも早かった、
カートリッジのカンチレバーにもベリリウムは1970年代に取り入れられていた。

ベリリウムだけでなくボロン、チタン、マグネシウムも登場したし、セラミック、カーボン、人工ダイアモンドなど、
他にもいくつもあって、すべてを書き連ねないが、
実にさまざまな素材がオーディオ機器に取り入れられていった。

このことは日本のオーディオが海外のオーディオに先駆けて、ということとともに、
日本のほかの業種よりも、日本のオーディオは新素材の導入に積極的であったのではないか。

Date: 6月 20th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その5)

ソニーのPS-B80のステレオサウンドでの評価はどうだったかというと、あまり芳しいとはいえなかった。
51号のベストバイには選ばれているものの、柳沢功力氏のコメントを読んでもそうだし、
55号のベストバイには選ばれていなかった。
59号では岡先生と菅野先生が一点ずつ入れられていたものの、写真だけの掲載だった。

PS-B80より一年ほど前に登場していたPS-X9の方が、59号においても評価は高かった。

そういうわけでステレオサウンドだけを読んでいても、PS-B80の音については知ることが出来なかった。

PS-B80のプレーヤーシステムとしての評価はあまりいいものではないことはわかるのだが、
それを電子制御トーンアームのもつ可能性に重ねてみてはいけない。

電子制御トーンアームの可能性はどうだったのか。
読者としてもいちばん知りたかったのは、このことである。

1980年の11月ごろに、ステレオサウンド別冊としてAUDIO FAIR EXPRESSが出た。
当時晴海で行われていたオーディオフェアを取材した一冊である。

このムックの中に、「海外からのゲスト12氏 オーディオフェアについてこう語る」という記事がある。
ここに登場しているのは、オルトフォンの技術担当副社長イブ・ピーターセン、
SME社長A・ロバートソン・アイクマン、ロジャース社長ブライアン・P・プーク、
QUAD社長ロス・ウォーカー、コス取締役副社長グレゴリー・コーネルス、
スレッショルド社長ネルソン・パス、タンノイ社長ノーマン・クロッカー、
タンノイ広報担当取締役T・B・リビングストン、アルテック プロ機器担当副社長ロバート・T・デイビス、
JBL開発担当副社長ジョン・M・アーグル、KEF社長レイモンド・E・クック、
リン セールスマネージャ チャールス・J・ブレナン。

SMEのアイクマンはこう語っている。
     *
会場ではどうしてもアームやプレーヤーが気になるんですが、中でもリニアモーターを使ったパイオニアのアームですね。技術的な説明もひじょうによくされていたし、製品としてもたいへんに興味を感じました。技術的なチャレンジとしても意味のあるものですね。それから、ソニーの電子制御アーム、これも私にとって興味をいだかずにはいられないもののひとつでした。
     *
アイクマンが、電子制御トーンアームの、どういうところに興味をもったのかは、
この記事からはこれ以上のことはわからないが、
トーンアーム専門メーカーをひきいてきたアイクマンが興味をもつということは、
実際の製品の出来はともかくとして、可能性としては注目してもいい、
(私は実物も見ていないけれど)注目すべきものだった、ともいえよう。