Archive for 10月, 2013

Date: 10月 23rd, 2013
Cate: 数字

100という数字(その5)

いまスピーカーシステムは、高性能化している、といわれる。
たしかに周波素特性は低域、高域の両端に伸びているし、
しかもただ伸びているだけでなく、一部のスピーカーシステムでは、
以前では考えられなかったほど平坦な周波数特性も実現している。

なにも周波数特性だけではない。
パルスを使った測定で明らかになる累積スペクトラムでも、
見事としか、他にいいようのないくらいに高性能化しているモノもある。

その意味では、はっきりとスピーカーシステムは、高性能化している──、
私もそう思っているし、そういうことがある。

けれどスピーカーはカートリッジと同様、変換器である。
変換器の性能として語られるのは、周波数特性、歪率……といった項目だけでいいのだろうか。

変換器としての重要な項目は、変換効率なのではないだろうか。

真空管からトランジスターへと移行して、大出力が実現し得やすくなっている。
そのこともあって、スピーカーの変換効率は、他の項目を優先するために犠牲になってきている。

周波数特性と変換効率は、今のところ両立し難い。
変換効率を高くしていけば、周波数特性は狭くなる傾向にある。
周波数特性をワイドレンジにしようとすれば、変換効率を犠牲にすることにつながっていく。

アンプのパワーが、実質的には制限なしに得られる状況では、
スピーカーの変換効率は優先順位として下にきてしまうのは、仕方ないことになってしまう。

だが、スピーカーは、あくまでも変換器であり、
変換器にとって、変換効率の高さはどういうことを指すのだろうか。

Date: 10月 22nd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その2)

赤と青、と対照的なジャケットなのが、
クナッパーツブッシュの「パルジファル」とカラヤンの「パルジファル」である。

「パルジファル」の名盤といえば、このころまではずっとクナッパーツブッシュ盤だった。
他にもいくつかの「パルジファル」のレコードはあっても、
とにかく日本では「パルジファル」といえば、
バイロイトでのクナッパーツブッシュが唯一無二的存在として扱われてきた。

五味先生も、
《クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、
クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でもうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか想えぬ鳴り方をする箇所がある。》
と書かれている。

やっぱり「パルジファル」は、とにかくクナッパーツブッシュ盤を最初に聴こう、と思っていた。

そういうクナッパーツブッシュ盤の輝きは、カラヤン盤が登場した時でも、いささかも衰えてはいなかった。
ワグネリアンと自称する人、そう呼ばれる人にとって、カラヤンの「パルジファル」はどう映ったのだろうか。

クナッパーツブッシュとカラヤンは、どちらが優れた指揮者であるとか、
どちらが優れたワーグナー指揮者であるとか、そういったことを抜きにして語れば、
カラヤンはスマートであり、クナッパーツブッシュはそうではない、といえる。

カラヤンの「パルジファル」とクナッパーツブッシュの「パルジファル」もまた、そういえる。

Date: 10月 22nd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その1)

カラヤンが亡くなって、約四半世紀が経つ。
カラヤンが残した録音の正確な数は、決してカラヤンの熱心な聴き手ではなかった私には、
おおよその数すら知らない。

それにそう多くのカラヤンのレコードを聴いていたわけでもない。
カラヤンのベートーヴェン全集にしても、すべてを聴いているわけではない。

このことには、やはり五味先生の影響が関係している。
五味先生がカラヤンをどう評価されていたのかについては、いまここではあえて書かない。

五味先生の影響をまったく無しで、カラヤンの演奏を聴けているかについては、
いまでも正直自信が、いささかなかったりする。

そんなカラヤンの、偏った聴き手である私でも、いくつかのディスクに関しては、
カラヤンの素晴らしさを素直に認めている。

私が聴いてきたカラヤンのレコードの数はたかが知れている。
そのたかが知れている数の中から、カラヤンのベストレコードとして私が挙げたいのは、
ワーグナーの「パルジファル」である。

日本にはアンチ・カラヤンの人がいる。
そういう人たちからすればカラヤンのベートーヴェンは……、ということになるし、
おそらくカラヤンのワーグナーに関しても、カラヤンのベートーヴェンと同じ扱いになっていることだろう。

カラヤンの「パルジファル」のレコードが出た時、私は18だった。
若造だった。
「パルジファル」の全曲盤をたやすく買えるわけでもなかった。
五味先生の影響も受けていた私にとって、
カラヤンの「パルジファル」は、狐にとって手の届かない葡萄と同じだったのかもしれない。

カラヤンの「パルジファル」なんて……、と思い込もうとしていた時期が、私にはあった。

Date: 10月 22nd, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その5)

バーナード・ベレンソンの「ルネッサンスのイタリア画家」も、
黒田先生が書かれている、この部分に関係してくる。
     *
 そのときをきっかけに、ときおりお招きをうけて、藤沢の岡さんのお宅にうかがうようになった。岡さんのお宅にうかがうのは、いつだって、スリリングなことであった。いまもなお岡さんのお宅にうかがうと、かならず、驚きをポケットにしまっておいとますることになる。岡さんは、仰々しいこと、もっともらしいことを嫌悪なさるので、いつでもさりげなくではあったが、実に多くのことを教えて下さった。おそらく、ご自身、大変なご苦労のすえさがしあてられたにちがいない参考文献を、なにげなくみせて下さったりした。すかさずその本のタイトルと出版社をメモさせていただいたことが、これまでに何度あったことか。
     *
世の中には、実にもったいぶる人が少なからずいる。
そういう人は、何事に関してももったいぶる。
もったいぶることが、賢いことだとでも思っているのかどうかはわからないけれど、
もったいぶることにつきまとういやらしさを、そういう人はまったく感じていないのだろうか。

岡先生は、そういう人ではないことは、
書かれているものを読んでいれば伝わってくるし、
黒田先生の文章からもはっきりと読みとれる。

岡先生は「マイクログルーヴからデジタルへ」の中でも書かれているし、
ステレオサウンド連載のクラシック・・ベスト・レコードの中でも、
オペラについての経験量の不足と、不勉強であることを度々書かれている。

これをそのまま信じていた人もいるだろうが、
岡先生の「不勉強」は、岡先生の律義さ・誠実さである。
これに関するところも黒田先生の文章から引用しておく。
     *
 岡さんのすばらしさ、そして岡俊雄氏のすごさは、ここにある。岡さんは、いかなる場合にも、しったかぶりをしない。しらないことはしらないという。ご自分が「不勉強」と思えば「不勉強」と書く。その律義さというか頑固さが、岡さんを、さらに犯さんの本をつらぬいている。この本を読んでのすがすがしさ、さわやかさ、気持のよさは、そういう岡さんの頑固さによる。そして、このすがすがしさ、さわやかさ、気持のよさは、岡さんに直接おめにかかっているときにいつでも感じるものである。
     *
岡先生が「不勉強」と思われているゆえの「不勉強」であり、
クラシック・・ベスト・レコードをずっと読んできた読者ならば、
岡先生のどこが「不勉強」なのかと思われてきたはずだ。

Date: 10月 21st, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その4)

岡先生とはどういうひとだったのか。
黒田先生の文章からいくつかひろってみよう。
     *
 あるとき、岡さんのお宅で、バーナード・ベレンソンの「ルネッサンスのイタリア画家」という本をみせていただいていた。その本のことはしってはいたが、実物をみるのははじめてであった。いい本であった。ほしいと思ったが昭和三六年にでている本であるから、手に入れるためには古本屋を丹念にみてまわる必要があった。それから数日して、岡さんから電話をもらった。高田馬場のさる古本屋に、新本同様の状態のベレンソンの本があると、ぼくに教えて下さるための電話であった。さっそく出かけて買ってきたのはいうまでもない。値段も思いのほか安かった。岡さんという人はそういう人である。ご自身も好奇心が旺盛であるから、他人の好奇心に対しても理解が深い。
 しかし、そのベレンソンの本のときは、ぼくが雑事にまぎれて古本屋まわりをできないでいるうちに、岡さんに先を越されて、岡さんの親切に感謝し、岡さんの熱意に感激しながらも、恥しかった。岡さんのすごさをあらためて思わないではいられなかった。
     *
岡先生は1916年、黒田先生は1938年の生れであるから、
22の歳の開きがあり、親子ほどの、といってもくらいである。

しかも岡先生は神奈川・藤沢にお住まいだった。
黒田先生は東京・東中野だから、高田馬場まではわずかな距離である。
藤沢と高田馬場はけっこう離れている。

にもかかわらず、岡先生は、ご自身はすでに所有されているベレンソンの本を、
黒田先生のために古本屋まわりをされている。
それも数日しか経っていないのに。

黒田先生が「恥しかった」と書かれるのも、わかる。
「岡さんのすごさをあらためて思わないではいられなかった」と書かれたのも、よくわかる。

Date: 10月 21st, 2013
Cate: アナログディスク再生

「言葉」にとらわれて(トーンアームのこと・その2)

古くからあるワンポイントサポートのトーンアームは、
いまも現役のトーンアームに採用されることが多い。

それたけこの方式のメリットが多いということでもあるわけだが、
ワンポイントサポートの良さを活かすには、
トーンアームのバランスは、いわゆる前後方向はもちろん、左右方向(ラテラルバランス)もきちんととらなければ、
ワンポイントサポートは構造上、カートリッジに左右の傾きが生じてしまい、
左右チャンネルのアンバランスが起るだけでなく、クロストークが増えてしまう。

簡単な構造だからといって、使い方までもが簡単なわけではない。
だからといって、特に調整が困難なわけでもない。
どういう構造になっていて、その構造ゆえのメリット、デメリットを把握していれば、
どの点に注意して調整しなければならないか、はすぐに理解できるだろうし、
これが理解できなければ、ワンポイントサポートのトーンアームに手を出すのは、少し待った方がいい。

もちろん先に手を出して、実際に使いながら理解していく、という手もある。

オーディオクラフトのトーンアームは、
瀬川先生が高い評価をされていたこと、ステレオサウンドの“State of the Art”賞にも選ばれていること、
アームパイプをいくつも用意して、カートリッジへの適合性に十分配慮されているところ、
さらにはオーディオクラフトから出ていたOF1というアダプターを介さずに、
ダイレクトにオルトフォンのSPUを取り付けられるようにシェルの部分が加工されたストレートパイプまで出すなど、
マニア心がわかっているラインナップなど、
一度は使ってみたいトーンアームの代表格になっていた。

だがラテラルバランスの調整でつまずくのか、
うまく調整できずにいた人も少なくなかった、ともきいている。

Date: 10月 21st, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その3)

黒田先生の文章は、岡先生の人柄をじつよにく伝えてくれている。

ステレオサウンド 60号が出た時には、私はまだ読者だった。
岡先生の「マイクログルーヴからデジタルへ」は、
ラジオ技術を読んでいたから出版されることは知っていたし、
ステレオサウンド 60号とほぼ同時期くらいに買って読んでいた。

もちろんそれまでのステレオサウンド(41号からだが)も全号読んでいたので、
なんとなくではあったけれど、岡俊雄という人が、どんな感じの人なのかは私なりにイメージしていた。

会ったことのない人を、いわば勝手にイメージしていた者が、
ステレオサウンド 60号の黒田先生の文章を読んだわけである。

こういう人だったのか……、と読みながらおもっていた。
でも、読みとれていたことは、若さゆえもの未熟さもあって、少なかった、と後で気づく。

ステレオサウンドで働くようになって、岡先生とお会いする機会があった。
岡先生のお宅にも何度か伺っている。
岡先生の連載、クラシック・・ベスト・レコードも担当するようになった。

それまで文字だけでしか知らなかった岡俊雄という人のことを、
より知ることができる機会が増えたわけだ。

そして、いまステレオサウンド 60号の黒田先生の、岡先生について書かれた文章を読むと、
これほど岡先生の人柄を伝えてくれる文章は、他に読んだことがない、といえるし、
黒田先生の文章が伝えてくれることに嘘偽りはまったくない、ともいえる。

岡先生とは、まさにそういう人だった。

Date: 10月 20th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その2)

ステレオサウンド 60号、
このころのステレオサウンドには黒田先生の連載「さらに聴きとるものとの対話を」があった。

60号は1981年9月に出ている。このころラジオ技術社から岡先生の本が出た。
本のタイトルは「マイクログルーヴからデジタルへ/優秀録音ディスク30年史上巻)だった。

黒田先生は60号の「さらに聴きとるものとの対話を」で、この本のこと、
そして岡先生のことを書かれている。
むしろ岡先生のことを書かれている、といってもよい。

黒田先生自身も書かれている。
     *
ここでのさしあたっての目的は、岡さんについて書くことではなく、岡さんの本について書くことである。それを承知の上で、岡さんのことをえんえんと書いてきたのは、ほかでもない、その本の魅力を書こうとしたら、どうしても著者の人間としての魅力から書きはじめなければならないと感じたからであった。
     *
岡俊雄という人が、どんな人だったのかよく知らない、という人はいまでは少なくない、と思う。
そういう人はもちろん、そういう人たちよりも上の世代で、
岡先生の書かれたものをその時代その時代で読んできた人も、
ステレオサウンド 60号の黒田先生の文章はぜひとも読んでもらいたい、と思っている。

黒田先生も書かれているように、岡先生は
「自己顕示欲などというあざといものは、薬にしたくもない。岡さんはいまの世にあってはめずらしいシャイな人」
だから、ステレオサウンドに書かれたものだけからは、岡先生の人間としての魅力はやや掴みにくいところもある。

Date: 10月 20th, 2013
Cate: アナログディスク再生

「言葉」にとらわれて(トーンアームのこと・その1)

トーンアームの回転支軸にはいくつかの方式があり、その中にワンポイントサポートがある。
日本語にすれば一点支持型ということになる。

構造としてはもっとも単純にできるのが、このワンポイントサポートであり、
構成部品が少ないということは、それだけ精度も出しやすく、共振する箇所もそれだけ少なくなる。

ワンポイントサポートは昔からある。
有名なところではグレイ(のちのマイクロトラック)の206という、
ごついつくりのトーンアームがある。
重針圧カートリッジ専用(オルトフォンSPU専用といってもいいだろう)のトーンアームで、
カートリッジを頻繁に交換する設計にはなっていない。

私も短いあいだだったが所有していたことがある。
SMEのトーンアームのスマートさとは正反対の、この武骨なトーンアームはまず重い。
この重さが、きちんと調整をしたのちに聴くと、
この音にはこれだけの重量が必要なのか、とそんなことを思いたくなるほど、
見た目通りの、腰の坐りのよい音を鳴らしてくれる。

日本製でよく知られるのはオーディオクラフトの製品である。
瀬川先生が自家用としても使われていた、このトーンアームは、
最初の垢抜けない外観から、少しずつ世代(改良)を重ねるごとに、よくなっていった。
SMEと比較してしまうと、まだまだ、といいたいところは残っていたけれど、
最初のAC300からすれば、ずいぶん洗練されたといっていい。

それだけでなくユニバーサルトーンアームとしての改良も加えられていった。
オーディオクラフトでは、AC3000MCのころから、システムトーンアームと呼ぶようになっていた。

Date: 10月 20th, 2013
Cate: 岡俊雄

岡俊雄氏のこと(その1)

私がインターネットに接続し使い始めたのは1997年。
このころはまだ検索が、いまほどのレベルに達していなかった。
いくつかの検索サイトを使っても、探しているサイトになかなかたどり着けなかったし、
なぜ、このキーワードで検索して、検索結果の順位を見ては、おかしいだろう、と思うことはしばしばあった。

それはGoogleが登場するまで、あまり改善されなかったように感じていた。

Googleによる検索が完璧とはまだまだいえないし、改善してほしいところはあるものの、
その検索結果は感心することもある。

インターネットがあるところまで普及したおかげで、
1997年とは比較にならないほど、多くの情報が得られるようになった。
調べものをするときも、本を開く時間よりもインターネットに接続している時間の方が長くなっている。
本は、しかも所有していない本に関しては、
その本自体を探しにいかなければならない。

自分が求めている情報が、どの本に載っているのかがはっきりしていればまだいい。
けれど、たいていはどの本に載っているのか、まずそのことをから探していかなければならない。

だから、ほんとうに楽になった、と思えることが多くなっている。

しかもいまでは必ずしもパソコン(Mac)の前に坐る必要もなくなってきている。
iPhoneやiPadで検索する時間が増えてきている。
外出先からでもすぐに検索できる。
オーディオに関する情報も1997年とは比較にならないほど多くのことが、
インターネットにはいまではある。

しかも検索してもわからないことでも、
twitter、facebookなどのSNSで質問すれば、的確な答・情報が返ってくることもある。

それが当り前のことのようにおもえてきて、
このことのほんとうの有難みをつい忘れそうにもなる。
そして、もうひとつおもうのは、いま岡先生が生きておられたら、
インターネットをもっとも積極的に使われていたはず、ということだ。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その4)

(その1)にこう書いた。

癒されたいから、この音楽を聴く、
元気になりたいから、そういう音楽を聴く、
そういった、ある種のはっきりとした目的意識をもって、
音楽家にはっきりと求めるものを意識して──

ここでの「ある種のはっきりとした目的意識」は、はっきりとしているだけに限定的でもある。
限定的な聴き方をしてしまうと、
聴きのがしてしまう「何か」がおきるし、それが大きくなってしまう怖れが常にある。

だから私は音楽を聴くという行為に関しては、
「ある種のはっきりとした目的意識」は極力持たないようにしている。

とはいうものの、必ずしも音楽を聴くという行為について、
まったく目的意識をもっていない、かというとそうとも言い切れない。

ここでの「音楽を聴く」には、オーディオの存在がつねにある。
コンサート会場に行っての音楽を聴くではなく、オーディオを通しての音楽を聴くわけで、
オーディオという媒介するモノに対しては、態度が違ってくるからだ。

この点において、オーディオマニアだと自覚してしまうのだ。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(購入を決めたきっかけ・その5)

HiVi(このときはまだサウンドボーイ)編集長のOさんは、
以前は930stを、そして937Dstにされた人だから、
そして非常に凝り性の人ということもあって、EMTのプレーヤーに関しては非常に詳しい。

Nさんは、ステレオサウンドの編集後記を丹念に読んできた人ならば思い出されることとと思うが、
瀬川先生の927Dstを譲ってもらった人である。
私はNさんの部屋によく行っては音を聴かせてもらうとともに、
瀬川先生のモノだった927Dstを見て触れていた。

SさんはEMTのプレーヤーは所有されていなかったけれど、
EMTのプレーヤーの良さは認めている人だった。

こういう人たちがオーディオ談義をしていたところにトーレンスの101 Limitedは届いたものだから、
すぐに開梱され、EMTの930stと同じなのか、それとも違いがあるのかがチェックされていった。

この日、ステレオサウンド編集部に来た101 Limitedは、シリアルナンバー102番だったモノ。
サンプル用として二台の101 Limitedがはいってきて、
一台はシリアルナンバー101番、つまり101 Limitedのシリアルナンバーは101から始まっている。

シリアルナンバー102番の101 Limitedは、930stとブランド名が違うこと、
デッキ部分の塗装が金色になっていること、トーンアームのパイプの塗装が違うこと、
そういう違い以外はなく、930stそのものだという、いわばオスミツキがもらえた。

ノアの野田さんは、それを聞いて満足げだったようにみえた。

そして、その次にOさんの口から出て来たのは、
「少年、これ買えよ」だった。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その2)

トーキー用のスピーカーとは、いったいどういうものなのか。
このことについて考えていくことのはじまりとなったのは、
ステレオサウンド 46号に掲載された広告であった。

シーメンスのスピーカーの輸入元であった關本の広告にはこうあった。
     *
「お気づきですか……足音」
映画における足音。
これは意外とむずかしいものです。
M.ブランドとE.M.セイントの〝波止場〟での1シーン。
会話に聞き入っていると聞こえない足音。
しかしサウンド・トラックには、ちゃんと録音されているのです。
足音の録音が、録音技術者のウデの見せどころであるように、
トーキー・サウンド・システムのスピーカの設計者にとっても同じこと。
しかしこの音、目立ってはならない音ですから、
はりあいこそありませんが、映画にはつきもの。
全体のムードにかかせないものです。
シーメンスには、この縁の下の力もち的足音に取組んで数十年。
映画〝F1〟におけるツインカム
フラット12の、
あのバカでかいエクゾースト・ノートを、より迫力あるものに、
しかし足音はさりげなく……。
この、大と小を一手に引き受けようと生まれてきた、
シーメンスのオイロダインやコアキシャルたち。
これぞ頑固なドイツ人の熱き情熱。
     *
同じ動作原理のスピーカーであっても、
家庭用スピーカーで聴くものといえば、ほぼすべて音楽といえる。
音楽といっても幅広いとはいえ、音楽であることには違いない。

中には音楽よりも自然音の再生だったり、鉄道の音、自衛隊の演習の音などだったりしたとしても、
そういう人だって音楽を鳴らすことが主目的であり、そのことをスピーカーに求めているはず。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その6)

オーディオショウ・オーディオフェア、メーカーのショールームに行こうと思う理由は同じこともあれば、
人によって微妙に違っているところもあるのが当然だろう。

ほとんどの人が、音を聴くため、というのがいちばんの理由になることだろう。
その音が、必ずしも万全の音で鳴っているとは限らない──、
どころか、むしろいい状態で鳴っていることが少なかったりするとすれば、
オーディオマニアにとって、ショウ(フェア)、ショールームに行く理由が薄れてしまう。

しかも、そこには多くの人が来ているのだから、
人気のあるブースでは人が集まり、万全でない状態の音はさらにそうでなくなっていく。

オーディオフェア時代でも、少しでもいい環境をということで、
晴海見本市会場近くのホテルを別に借りて、そこで試聴会を開いているメーカー、輸入商社もあった。
とはいえ、ここらのホテルの部屋はお世辞にも広いとはいえなかった。

この動きが、
のちの輸入オーディオショウ(現インターナショナルオーディオショウ)へとつながっていっているように思う。

輸入オーディオショウは最初のころは九段下のホテルだった。
そしていまは有楽町の国際フォーラムが会場となっている。

オーディオフェアのころからすれば、ずいぶんと条件は良くなっている。
それでもリスニングルームとして設計された部屋ではないし、
それぞれのブースには多くの人が入って、電源環境もいいとはいえないだろう。

まだまだ、というところは残しているものの、良くなっている。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その5)

音像に関して、自分でも少し気にしすぎではないかと思うくらい気になる時はすごく気になる。
四六時中そうではなくて、あまり気にならなくなるときもある。
けれど、どちらかといえば、気になる(気にする)方だと思う。

なぜ気になるのか、と自問すれば、
これは別項「EMT 930stのこと」でも書いているように、
再生音に関して、できるだけ不安定さをなくしていきたいと思っていることと深く関係しているようだ。

とにかく音楽に没頭したい、
音のことを気にせずに没頭するために、まず私が求めているのは音の安定なのだ、と気がついた。
音の安定があるからこそ、こまやかな音の表現は可能になるし、
脆い、儚げとでも表現したくなるような音を、腫れ物に触るように愛でる趣味は、基本的には私にはない。
そんな音を、繊細な音だと曲解・誤解することも、もうない。

そんな音を愛でていくのもオーディオの趣味のありかたとして理解はできても、
そういう音では、私が聴きたい音楽を鳴らすことはできない、とわかっているし、
そんな音を愛でることと、繊細な音とすることとは同じことで決してない。

見せかけだけの、上っ面だけの繊細さは、私はいらない。
だから音の安定を求めてやまない。