Archive for 5月, 2013

Date: 5月 17th, 2013
Cate: plus / unplus

plus(その10)

ダイレクトドライヴプレーヤーに導入されたサーボ回路は、
回路ムラという変動要素をできるだけ小さくするためのものである。
けれど実際には、サーボ回路が安定するまでに時間を要するという、
別の変動要素(この場合はサーボ回路という電子回路のウォームアップ)を生じさせている。

もっともサーボ回路は、速度の検出とかけ方が適切でなければ、
回転ムラに対しても有効とは成り得ないことも当然ある。

レコードの回転のためにモーターがまず加わり、
性能向上のためにいくつかの方式が加わってきた。
それによる性能向上・機能向上という大きなメリットの裏に、
小さなデメリットが必ず発生していることを見逃すわけにはいかない。

いまのところ100%メリットだけという、都合のいい技術は生れていない。
これからも先も、そんなものは生れてこないであろう。

同じことはスピーカーシステムにもある。
最初はフルレンジではじまったスピーカーは、
高域を伸ばすためにトゥイーターが加えられ、さらには低域をもっと伸ばすためにウーファー、
といった具合に、大きな流れとしてマルチウェイ化の道を進んできた。

フルレンジから2ウェイになり、3ウェイ、4ウェイとなれば、
うまくシステムとして設計されてまとめられていれば、
設計の意図通りに周波数帯域は拡大していくし、歪率も全帯域にわたって抑えられる。
また指向特性も周波数によって変化することなくカバーできる、などのメリットがある。

けれどシステムとしてのまとめは難しくなる。

井上先生はよくいわれていた。
2ウェイは二次方程式、3ウェイは三次方程式、4ウェイは四次方程式なのだから、
帯域分割が増えるほど、それを適切に解いていくのは難しくなっていく、と。
しかも、まだわれわれはこれらの方程式を完全に解いたわけではない。

つまりオーディオは矛盾のシステムといえるし、
矛盾を抱えながら、ときには矛盾を増やしながら進んできたシステムともいえる。

Date: 5月 17th, 2013
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その17)

使いこなしのこと(その17 続×十一 補足)」の最後のところで、
EMTの930st、927Dst、トーレンスのインナーターンテーブルのシルエットはコマであると書いた。

コマは、その加工精度が高いほど回転が安定し回転している時間も長くなる。
つまりターンテーブルをコマと見立てるのであれば、
ブレることのないシャフトをもつ、ターンテーブルプラッターのどこにも偏りが存在せず、
というのがターンテーブルの在り方となる。

コマは高速回転しているほど、
そして加工精度が高ければ高いほど、止っているようにも見える。
それは回転しているから静止しているようにも見えるわけである。

回転が遅くなってくると、コマはブレはじめる。不安定状態になる。
やがて倒れてしまう。

ターンテーブルとコマと完全に同一視してしまうのはどうかとも思いながらも、
安定した回転、静止したようにも見える回転状態を考えると、
アナログディスク再生の難しさのひとつは、
ターンテーブルプラッターが低速で回転していることにある、といえるのではないだろうか。

1分間で33 1/3回転(つまり3分間で100回転)は、コマの回転速度としては遅い。
コマとターンテーブルプラッターとの直径の違い、重量の違い、
シャフトが軸受けに収まっているかどうかという違いがあるのはわかっている。

それでも回転体としての安定ということについては、
加工精度と回転速度が大きく関係しいてることには変りはない。

LPの回転数は33 1/3回転と決っているのだから、
ここで回転数(回転速度)が遅いのがアナログディスク再生の問題ではないか、
といったところでどうにかなるわけではない。

それでも高速回転しているコマは、コマ同士をぶつけ合った際にも回転の弱いコマ、
精度の落ちるコマをはじき飛ばすことができる。
ということは高速回転することで、外乱要素に対しても強いのではないのか。

回転数が遅いほど、外乱要素を受けやすくなる──、
そんな気もしてくる。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(はっきり書いておこう)

岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。

人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。

岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。

他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。

点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。

このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。

点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。

点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。

面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。

なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その4)

私が勝手におもっているだけのことなのだが、
実のところ、ステレオサウンドもそれほど売れるとは思っていないのではなかろうか。

定期刊行物でもないしムックでもないから広告は入ってこない。
そういう書籍を、いまあえて出すのはなぜなのか、と考えてしまう。

本は読者に向けてのものであるわけだが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
読者に向けてのものとして当然あるわけだが、それだけとは私には思えない。

それは深読みしすぎだといわれるだろうが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
いまステレオサウンドに執筆している人たちに向けてのものなのではなかろうか。

そして、さらにもっとも深読みすれば、ステレオサウンド編集の人たちに向けてのもののようにもおもえてくる。

なぜ、私がそうおもっているのかは、勝手に想像していただきたい。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その3)

「オーディオ彷徨」、それに瀬川先生の著作集がどれだけ売れるのか。
売れてほしい、とはおもう。
特に岩崎千明の名も瀬川冬樹の名もまったく知らない世代に読んでもらいたい、と思う。

だから売れてほしい。

けれどそう多くは売れない、とも思ってしまう。
それはしかたないことかもしれない。
おふたりが亡くなられて30年以上が経っている。
私がaudio sharingをつくったときですから、
「いまさら岩崎千明、瀬川冬樹……」といわれた。

私より年齢が上の人数人から、そういわれたものだ。
そのときから13年が経っている。

この13年間のオーディオ界の変化をどう捉えているのかは、人それぞれだろう。

ステレオサウンドがどれだけの売行きを見込んでいるのかは、私にはわからない。
実際の売行きがどうなるのかも、正直わからない。
ステレオサウンドの売行きの見込みよりもずっと売れるかもしれないし、そうではないのかもしれない。

どちらになるしても、「オーディオ彷徨」と瀬川先生の著作集は、
とにかくずっと売っていてほしい。
5年後も、10年後も、20年後もステレオサウンドに注文すれば入手できる。
そうあってほしい。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その22)

素朴とは、粗末で飾り気のないことをいう。
私がここでつかっている素朴には、粗末という意味は込めていない。
飾り気のない、ありのままというニュアンスで使っているわけであり、
飾り気のない、ありのままの意味では、化粧をしない顔、つまり素顔が、
やはり「素」がつく言葉である。

フィリップスのフルレンジユニットの音は、個性的だと書いた。
確かにいま思い出してみても個性的とはいえる。
けれど、その音が化粧の濃い、いわばややけばけばしいところを感じさせる音だったかというと、
けっしてそういうふうには感じていなかった。

化粧の濃い音だったわけではない。
むしろ化粧をほとんどしていない顔のような音だったのかもしれない。
あの音を、いま聴いたら、そう判断するような気がしてならない。

つまり日本人の顔しか見ていない目で見た時の、
非常に彫りの深い欧米人の顔を見た時のような、
いわば化粧をしていなくともメリハリのきいた顔とでもいおうか、
そういうところを感じさせる音が、フィリップスのフルレンジユニットの特徴だったような気がする。

そうだとしたら、フィリップスの、あの個性の強い音も実は素朴な音のひとつだったような気がするし、
対照的な日本人の顔的な素朴な音のフルレンジユニットは、やはりダイヤトーンのP610ということになる。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その21)

MC型カートリッジの性能はカンチレバー、針先、ダンパー、コイルなどによって決まっていくものであり、
コイルからの引出し線の引き出し方は性能ということには影響しないとも考えられる。
けれど、その性能の中に音を含めると、コイルの引き出し線の引き出し方は影響するといえるる。

このことについて長島先生は、こう解説されている。
     *
MCカートリッジは、強い磁界の中をコイル引出し線が通る場合、リード線の振動によって発電が行なわれ、この信号が出力に混入してしまうことがある。こうなると、種として高域にコイルリード線の鳴きの影響が生じ、再生音を濁らせる結果となりやすい。その点、このカートリッジのように、コイルリード線の振動部分をダンパーでダンプした構造にしておけば、そのような害はほとんど防止することができるのである。
     *
二重ダンパーを採用しているカートリッジであれば、細かな配慮をすることで、
この部分の問題をほぼ解消できるわけでもあり、
このコイルの引出し線がカートリッジ内部で振動によって発電する問題は、
そのままスピーカーエンクロージュア内部の配線材に関してもあてはまることである。

スピーカーエンクロージュア内部にはスピーカーユニットからの洩れ磁束があり、
しかも互いに干渉しているわけでもある
そんな中をネットワーク本体からレベルコントロールまでの配線材は通っている。
しかもスピーカーエンクロージュア内部は、ウーファーの音圧によって振動の影響は大きい。
音量を上げれば、それだけ内部の振動も大きくなる。

さらにネットワークのコイルからのノイズの影響もある。
コイルはその性質上、定常状態を保とうと働く。
信号が流れていない状態から信号を流そうとすると、流すまいとしてパルス状のノイズを発生するし、
それまで流れていた信号をとめると、今度は流そうとして、今度もパルス状のノイズを出す。

そういういくつもの音に影響の与える環境の中を配線材は引き回されているわけだから、
配線材の引き回し方、固定の仕方は音のクォリティに関係してくるし、
引き回しがなくなれば、それだけ音質的には有利であるし、ずっと楽になるともいえよう。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その20)

長島先生によるステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2、
「図説・MC型カートリッジの研究」には「世界のMC型いろいろ」という記事で、
当時(1978年)市販されていたMC型カートリッジの代表機種の内部構造図が21機種、掲載されている。

この内部構造図は資料的価値も非常に高い。
この内部構造図は目次にもあるように、神部(かんべ)明さんによるものだ。
以前、神部さんにこのときのことを聞いている。

21のカートリッジすべてひとつひとつ分解して、細部の寸法を計測して描いたものだ、と。

この内部構造図を見比べていくと、ダンパーひとつとっても、
各メーカーによってずいぶん違うことがわかる。
いくつかのメーカーはダンパーを二枚用いる二重ダンパーを採用している。
具体的に名をあげれば、フィデリティ・リサーチのFR7、ハイレクトの2017、ナカミチのMC1000、
スペックスのSD909、EMTのTSD15、オルトフォンのSPUとMC20、フィリップスのGP922だ。

二重ダンパーといっても、TSD15の場合、二枚のダンパーを前後で重ねてるタイプではなく、
内側と外側の二重ダンパーなので、その他の二重ダンパーとは、やや異る。

これら二重ダンパーのカートリッジはふたつのグループにわけられる。
FR7、2017、SPU、MC20というグループとMC1000、SD909、GP922のグループとである。

この二つのグループの違いは、コイルからの引出し線をどう引き出しているかの違いであり、
FR7、2017、SPU、MC20は二重ダンパーの構造を活かし、
コイルからの線をいったん二枚のダンパーではさんだ上で引き出されている。

MC1000、SD909、GP922はコイルからそのまま引き出されているし、
二重ダンパー以外のMC型カートリッジもそうなっている。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その19)

限られたコストのなかで、物量投入が要求されるとなれば、
どこかを削っていかなければどうにもならない。
削れるところはどこか。
削っても、そのことに対して批判の声を受けにくいところ、
削ることによって、そのことが音質向上に寄与していると言い換えられるところ、
それはスピーカーシステムにとってレベルコントロールが、まずあげられる。

レベルコントロールを設けることによって、
国産のスピーカーシステムの場合、内蔵のネットワークの配置はリアバッフルであることが多く、
レベルコントロールはフロントバッフルあることが多いわけだから、
ネットワーク本体とレベルコントロールのあいだ(エンクロージュアの奥行きにほぼ相当する)は、
配線の引回しが必要となる。

レベルコントロールを廃すれば、レベルコントロールを構成する連続可変のアッテネーターを、
抵抗によるアッテネーターに置き換えられる。こちらは抵抗、二本で構成できる。
それにレベルコントロールのパネルもいらなくなるし、
ネットワーク本体とレベルコントロール間の配線材も不必要になる。
レベルコントロールを設けることによる手間も省ける。

それにもうひとつメリットもある。

スピーカーシステムのエンクロージュアの中はいくつもの磁界がある。
スピーカーユニットすべてが内磁型であればそれほどではないけれど、
外示型の磁気回路で防磁対策がなされていなければ、
それにマルチウェイのスピーカーシステムはいくつものスピーカーユニットを取り付けているため、
それぞれの磁界が干渉しているともいえる。

そういう中をスピーカー内部の配線材は引き回されている。

Date: 5月 14th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その1)

いまは──、そして当り前すぎることを書くことになるが、
これからさきもずっと「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いていく。
もうすでに30年以上「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いてきているのに。

「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に終りは訪れない。
どれだけ待っていても終りは来ない。

ならば……、とおもう。
オーディオの世界を「豊か」にしていくことを。

Date: 5月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その5)

私はというと、ずっと若いころは、ストイックであることがかっこいいことであると強く思い込んでいたから、
スピーカーシステムは一組にかぎる。
ほんとうに惚れ込んだスピーカーシステムを鳴らしきることこそ……、そんなふうに思っていたこともある。

もちろん複数のスピーカーシステムを持ちたい、鳴らしたいという気持もあって、
でもあくまでもストイックで、そして理想主義であらねば、などと思っていたものだから、
複数のスピーカーシステムを鳴らしたいのであれば、
スピーカーの数だけ部屋を用意する。
とにかくひとつの空間には一組のスピーカーシステム、と決め込んでいた。

そんな若いときの私でも、
複数のスピーカーシステムを持っていたことがある。
メインのスピーカーシステムに対して、サブのスピーカーシステムとして、であった。
ロジャースのLS3/5Aを持っていた。

でも結局、そのころ住んでいた住空間では、LS3/5Aを満足に鳴らす環境は整えられなかった。
サブスピーカーなのだから……、という気持はあっても、
実際にLS3/5Aの音を聴くと、サブスピーカーとは思えなくなってくる。

そうなるとアンプもLS3/5A用に用意して……、そんなことを考えやっていくには、
若いころの私の経済力では無理があった、ともいえるし、
あまりにもメインのシステムに熱をいれすぎていた。

欲しいという友人に結局譲ってしまった。

後悔は譲った後にするから後悔なのだが、
やっぱりLS3/5Aは場所的に邪魔になるわけではなかったのだから、
持っておけばよかった、といまでもすこし思わないわけではない。

そんなことはあっても基本的にスピーカーシステムは一組だったけれど、
歳を重ねていけば考え方・捉え方も、音の聴き方も、その他のことも変っていく。
変っていかないところもあるけれど、スピーカーシステムの数については、
私の場合、変っていった。
と同時にスピーカーの存在をどう捉えるかも変っていった。

Date: 5月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その4)

いまスピーカーシステムを二組以上所有して、しかも鳴らしている人はどのくらいの割合なのだろうか。

同じ空間に二組以上のスピーカーシステムをおけば、相互に影響が出る。
ある一組のスピーカーシステムを鳴らしている時、
そのスピーカーシステム以外のスピーカーシステムは音を出していないわけだが、
いろいろな面で、出ている音に対して影響を与えている。

これに関しては以前から言われていたことであり、
だからひとつの部屋には一組のスピーカーシステム、
複数のスピーカーシステムを鳴らしたいのであれば、
スピーカーシステムの数だけの部屋を用意する、という人もいないわけではない。

それができるだけの人はそう多くはないだろうけれど、
それだけのことができる人でも、ほんとうに気に入ったスピーカーシステムが一組あれば、
それでいい、という人もいる。

というより、そういう人は、きっと他のスピーカーに浮気したくない、という気持が強いのかもしれない。
あるひとつのスピーカーシステムに、オーディオの情熱をすべて捧げる。
そのスピーカーと同じだけの能力をもつ他のスピーカーもいらないし、
サブ用のスピーカーすらいらない。

とにかく惚れ込んだスピーカーとだけ、と一途な人はけっして少なくない、と私は思っている。
こういう人は、スピーカーを音楽を聴いていく人生における、
いわば配偶者としてスピーカーをとらえているからこそなのかもしれない。

Date: 5月 13th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(現在よりも……)

表面的な意味ではなく、
それに単に製品の数の多さや価格のレンジの広さとか、そういったことでもなくて、
まったく違う意味での「豊かさ」が、
「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」のオーディオの世界にはあったように思えてならない。

Date: 5月 13th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その14)

アナログディスクは、どこまで低い音をカッティングできるかというと、
カッターヘッドがラッカー盤(マスターディスク)にカッティングできるのは8Hzまでフラットに刻める。

この8Hzという値はアナログ式のテープレコーダーよりも、
ずっと低い周波数まで記録できるということを表している。
ダイレクトカッティング以外では一度テープに記録して、ということが行われる。
そこではアナログ時代にはテープスピードが15インチ(38cm)、さらには30インチ(76cm)というものもあった。
テープスピードが速いほど音質的には有利になるわけだが、
こと低域に関してはテープスピードを増すことによって、不利になる面もある。

テープに録音するヘッドには必ずギャップが設けられている。
このギャップがあるからこそ録音、再生が可能になるわけだが、
このギャップがコンターエフェクトという、低域のうねりを生じさせる。
アメリカではヘッドバンプというらしい。

このコンターエフェクトは、テープスピードが上るほど、発生する周波数も上昇していく。
テープスピードが増すことで高域の録音・再生限界は上に移動するわけだが、
テープスピードが増したからといって、低域の再生限界が下に移動するわけではない。

こと低域の録音能力に関しては、テープよりもディスク録音が優っているといえる。
つまりダイレクトカッティング、もしくはデジタル録音をマスターテープとすれば、
アナログディスクは8Hzまでフラットにカッティングできるわけだ。

CD登場以前と記憶しているから、1981年か1980年だったか、
震度計が記録した波形をデジタル処理して音としてカッティングしたアナログディスクが出たこともある。

とにかくカッティング時には8Hzという、そうとうに低い周波数まで記録できる。
だからといって、8Hzまで再生できるというわけではない。

Date: 5月 13th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その18)

10万円のアンプでネジを一本増やすのに稟議書、という話は1980年代半ばごろの話であって、
時代が違えば、それに同じ1980年代でもメーカーが違えば、こまかな事情は少しは違ってくるだろう。

とはいえ大量生産される製品ほどコスト管理は非常にシビアだということがわかる。
1980年代半ばごろといえば、598のスピーカーシステムも同時代のものであるわけだから、
10万円のアンプよりも定価の安い598のスピーカーシステムともなれば、
もっとコストの制約は厳しいものになると考えられる。

それがどのくらい厳しいものだったのかは具体的には聞いていないけれど、
10万円のアンプでネジ一本に稟議書なのだから、
598のスピーカーシステムで、例えばスピーカーユニットの固定用のネジ(ボルト)の数を増やすのも、
メーカーによっては稟議書が必要となるか、
さらには稟議書だけでは無理で会議が必要となるのかもしれない。

例として挙げた1982年の598のスピーカー三機種のうち、
オンキョーD7R、ビクターZERo5Fineはウーファーの固定ネジの四本、
ダイヤトーンDS73Dは八本。

それが1987年の三機種はすべてウーファーの固定ネジの本数は八である。
アンプの天板の小体に使われるネジと、ウーファーの小体に使われるネジとでは、
大きさ、強度が違ってくる。当籤ウーファー固定用のほうが大きく長い。

ネジ一本のコストも、アンプ用よりも高い。
1987年の598のスピーカーシステムでは、スコーカーの固定ネジも八本(ビクターは六本)に増えている。

定価が数十万円、百万円を超える価格の製品であれば、ネジの本数の増加は大きな問題ではなくとも、
一本59800円のスピーカーシステムにとっては、ネジの本数は決して小さくなく問題のはず。

598のスピーカーシステムは、単に外観からわかるだけでも、
1982年よりも1987年の製品のほうがコストがかけられている、ともいえる。

そうなると削れるところは削っていくしかない、ということになろう。