Archive for 3月, 2013

Date: 3月 23rd, 2013
Cate: plus / unplus

plus(その9)

いまはどうなのかは知らないけれど、
私がいたころ、ステレオサウンドでのアナログプレーヤー関連の試聴では、
試聴しているあいだターンテーブルは基本的には廻し続けていた。

レコードをかけかえるときもターンテーブルは廻っている。
これは井上先生の指摘によるもので、
特にダイレクトドライヴ型プレーヤーでサーボ回路を搭載しているプレーヤーにおいては、
一度回転をとめてしまうと、電源を入れたままであっても、
回転をはじめてサーボが安定するまでにわずかとはいえ時間を要する。

このへんのことがわかっているメーカーとそうでないメーカーとでは、
サーボ回路が安定する時間に差が生じる。

アナログプレーヤー、ターンテーブルの試聴では、
このこともチェックするわけだが、
カートリッジの試聴でサーボ回路を搭載したダイレクトドライヴ型を使用した場合、
レコードのかけかえごとにターンテーブルの回転をストップしてしまうと、
カートリッジの違いを聴いているのか、
カートリッジを交換しなくても、針圧、インサイドフォースキャンセラーなどを調整しているとき、
その調整による音の変化を聴いているのか、それともサーボが安定するまでの変化量を聴いているのか、
そこのところが曖昧になるのを防ぐ意味で、
つねにターンテーブルの回転をとめることはしなかった。

つまり変動要素をひとつでも減らすため、でもあった。

Date: 3月 22nd, 2013
Cate: SME

SME Series Vのこと(その6)

別項「賞からの離脱」で、いま”Best Buy”についている。

菅野先生が、ステレオサウンド 43号で”Best Buy”をあえて直訳に近い形で、最上の買物とされている。
最上の買物といっても、人によって、これもまたさまざまであろう。
けれど、私が「最上の買物」ときいて、
数あるオーディオ機器の中から真っ先に挙げたいのは、
SMEのSeries Vとタンノイのウェストミンスターのふたつである。

なぜなのか、は、これまで、この項を読まれた方ならわかってくださるだろう。

Date: 3月 22nd, 2013
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その4)

グレン・グールドはある時期以降、録音の中だけの存在と、自らなっていった。
グレン・グールドによる演奏を聴くには、いかなる人であろうとも、
レコードを買ってきて、オーディオ機器で再生して聴く、
もしくはラジオから流れてくるのを待つ、ということになる。

自分の意思で、グレン・グールドの演奏を聴きたいと思ったときに聴くのであれば、
レコードを買ってくるしかない。
そして、自分専用ともいえるオーディオ機器の存在かなにがしか必要となる。
それは、どれほどの大金持ちであろうとも、権力者であろうとも、
何人もグレン・グールドによるバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、
その他の演奏を聴きたいのであれば、レコードとオーディオがどうしても必要となることには、
かわりはない。

そして、グールドが望んでいた(と書いていいのだろうか、すこし迷うところもある)、
もしくは思い描いていた、彼自身の聴き手は、
彼のレコードを、誰かといっしょに聴く、というのではなく、
あくまでもスピーカーの前にいるのは、
グレン・グールドの演奏が聴きたくて、グレン・グールドのレコードを買ってきた人ひとり、
という状況なのではないだろうか。

グレン・グールドのレコードは必ずひとりで聴かなければならない、
というものではないにしても、
グールドの演奏の性格からして、
そしてコンサートをドロップアウトしたグールドの録音への取り組み方を思えば、
おのずと、グールドのレコードはひとりで聴くのが望ましい。

Date: 3月 21st, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その6)

人はさまざまである。
私には無理なことでも、たやすくできる人がいる。
だから、オーディオ評論家として書くときと、
広告の紹介文を書くときとで、完全に割り切って文章を書くことができる人もいよう。

そんなふうにはっきりと自分を分けられる人だとして、
その人が書いたオーディオ評論の文章を信じられるかというと、私は逆にできない。

なぜなら、そんなふうに完全に割り切って書ける人に、
オーディオの、音楽のもつ、ほんとうに大切なところが理解できているとは、私には思えないからだ。

音楽の機微、音の機微を、そんなふうに割り切れる人がどう感じているのか、
それをまったく想像できない。

想像できない以上、私にとってその人の書いた文章はまったく信用できないことになる。

私とまったく正反対に、このことを受けとめる方もいるかもしれない。
そういう人だから、その人の書いたものは信用できる、と。

これもまた人それぞれだから、私がとやかくいうことではない。
ただ、もう一度書いておくが、
私は、そんな人たちの書いた文章は信用していない。

Date: 3月 20th, 2013
Cate: 数字

数字からの解放(その4)

マーク・レヴィンソンは、LNP2、JC2をよりよいアンプとして完成へと近づけていくために、
常に改良を加えていたことは、よく知られている。

型番こそLEMO製のコネクターを採用した時点で、末尾に「L」がつけられるようになったぐらい。
しかも、これは日本市場だけの型番の変更であり、並行輸入対策でもあった。
アメリカや他の国で売られていたLNP2、JC2などは末尾に「L」はついていない。

マークレビンソンのアンプが、他のメーカーのような型番のつけ方をもしやっていたとしたら、
LNP2は、MK5とかMK6でも足りずに、もしかするとMK10ぐらいまでいっていたのかもれない。

そこまで改良が加えられてきたLNP2、
マーク・レヴィンソンはひとつひとつ使用部品の音を丹念に聴き分けていっていた、という。
このレベルになると、測定結果には違いは出ない、といっていい。

トランジスターを互換性のある別の品種のものに換えれば、
わずかとはいえ測定結果に違いは出る。
けれどどこか一箇所のコンデンサーなり抵抗を交換したとき、
音はわずかではあっても確実に変化する。けれどおそらく、このときの音の違いは測定結果としてあらわれない。

もしかすると最初のうち、マーク・レヴィンソンは部品を交換しては測定をしていたのかもしれない。
けれど、どんなに精密な測定を行ったとしても違いが出てこない。
それで音が変らなければそこで済んでしまうことなのだが、
そこに少しでも音の変化があれば、無視できない。

部品を交換しては音を聴き、判断する。
そしてまた部品を交換し……。
こういうことを何度も何度もくり返し、ひとつのアンプを洗練させていく。

この気の遠くなるような行為が、マーク・レヴィンソンを数字から解放したのかもしれない。

Date: 3月 20th, 2013
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その16)

ステレオサウンド 48号、146ページのに掲載されている、
ふたつのグラフを見ても、ケーブルやアンプやターンテーブルでは音は変らない、と発言している人は、
それでも「音は変らない」とこれからも言い続けるのか、
それともケーブルやアンプで音は変らないけれど、
カートリッジが同じでもターンテーブルが違えば「音は変る」となるのか。

「音は変らない」という人の言い分は、いつも決っている。
サインウェーヴでの測定結果に違いない。だから「音は変らない」。
わずかな違いが測定結果に見られても、今度は、その程度の違いは人の耳では聴き分けられない、という。

実に都合のいい言い分ばかりだから、
ステレオサウンド 48号、146ページのグラフを見ても、
「この違いは人の耳では聴き分けられない」というだろう。

「音は変らない」といい続ける人は、もういいだろう。
その人の耳にとって音が変らないのだから。

先に進もう。

Date: 3月 20th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その9)

長島先生による「2016年オーディオの旅」「オーディオ真夏の夜の夢」、
どちらもCD登場以前に書かれている。

「2016年オーディオの旅」が掲載されているステレオサウンド 50号には、
岡先生による、オーディオのこれまでの歩みと、これからの歩み的な記事があり、
そこでDAD(Digital Audio Disc)のことにふれられている。

アナログディスク全盛の時代はしばらく続いていくものだというふうに、
私は勝手に思っていたし、デジタル化されたディスクが登場するのは、
なにかまだ先のことのようにも思っていた。

これは私だけではなかった、とおもう。
ステレオサウンドの読者の多くが、デジタル化されたディスク(CD)が登場して、
プログラムソースのメインとなっていくのは、もう少し先、
短くても5年、もしかすると10年くらいかかるものだと漠然と思われていたのではないだろうか。

実際には、そんな根拠のない予想よりもずっとはやかった。
ステレオサウンド 50号は1979年3月に出ているから、
3年半後にCDは世に出てきた。
このはやさも、CD登場に対して、
ある種のアレルギー的な反応を示された方が少なくなかったことにも関係しているのではないだろうか。
単に音だけのことではなかったようにも、いまは思う。

まだまだそんな時代だったときに、長島先生はCDによるデジタル化の先を書かれている。
当然、長島先生も、あと数年でCDが登場することはわかっていたうえで、
CDの次を予測されていたことになる。

その予測が固体メモリーであり、光ファイバーによる配信は、さらにその次の段階ともいえよう。

そして、電子書籍についても書かれている。

Date: 3月 19th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その1)

1980年代、菅野先生がステレオサウンドにおいて「きたなオーディオ」という表現を使われたことがある。

「きたなオーディオ」、つまり「汚いオーディオ」ということである。
音のため、音質最優先という名目で、見た目はまったく考慮しない。
とにかく音さえ良ければ、それで良し、とする一部の風潮に対してつけられてものである。

この「きたなオーディオ」には、
この時代になると、ただ見た目が悪い、ということだけにはとどまらない。
たとえば最新の、仕上げのよいオーディオ機器を、
高価なラックにきちんとおさめて、セッティングにも気を使っている。
どこにも1980年代のころの「きたなオーディオ」の要素は見当たらないように思える。

けれどスピーカーケーブルが部屋の真ん中を這っている。
スピーカーケーブルではなくとも、ラインケーブルが部屋の中央を這っている。

専用のオーディオルームに、比較的多く見られる、この状態も「きたなオーディオ」ともいえる。
しかも、部屋の真ん中にケーブルを這わせている人が使っているのは、
不思議なことに太く、高価なケーブルのことが多い。

私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室ではスピーカーケーブルは、
試聴室の真ん中に這わせていた。
これは六本木という、外来ノイズのひどいところにおいて、きちんと試聴するための手段であったし、
試聴室という、いわば実験・テストの場でのケーブルの這わせ方でもある。

ケーブルを最短距離で這わせようとすれば、
たしかに部屋の真ん中を這わせることになる。
ケーブルを視覚的に目立たせないように部屋の隅を這わせていくと、
当然ながらケーブルは長くなる。
高価なケーブルがますます高価になっていくわけだ。

Date: 3月 19th, 2013
Cate: よもやま

嬉しい知らせ(すこしだけ書けば)

5月になれば告知できるようになるであろう、嬉しい知らせについて、
ほんのすこしだけ書いておくと、
すでにフライングで、これについてfacebook、twitterに書かれている人がいる。

だから、このことか、と気づかれている方もおられよう。
ならば、私もここで書けば、ということになるのだが、
それでも、ここまでで、いまはとめておく。

Date: 3月 19th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その5)

私がその人たちに直接問わなくても、
オーディオ界には、本人にそのことについて問うたり、忠告をした人がいることはきいている。

あまり具体的なことを書くと、特定されそうだからぼかして書くことになるが、
そのときの、その人たちの返事はつぎのようなものだったそうだ。

オーディオ評論家として自分と、
広告の紹介文を書く自分とははっきり分けている。
だから広告の仕事をした国内メーカー、輸入代理店の製品を紹介するときも、
オーディオ評論家として恥ずべきことは何もない。

そういうことなのだそうだ。
いともたやすく、人はふたつの面を分けられるのだろうか。

ふたつがまったく別の仕事だったら、それも可能だろう。
業種が違い、業界が違う。仕事内容もまた違うのならば。

けれど、この場合は、どちらもオーディオ業界での仕事であり、
どちらも物書きという仕事である。

Date: 3月 18th, 2013
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(あとすこし「土」について)

1966年、それまでなかった「土」としてステレオサウンドが創刊され、
その「土」のうえに、オーディオ評論家という、やはり、これもそれまでなかった才能が花咲いた。

この、それまでなかった「土」は、オーディオ評論家だけを芽吹かせたわけではない。
それまでいなかった読み手をも芽吹かせた──。

グレン・グールドが、
新しい聴き手(New Listener)、新しい新しい聴き手(New New Listener)について語っていたことを、
ここで思い出していただきたい。

グレン・グールドという存在は、
単にピアニストとしてきわめて優れていただけではなく、
彼自身が、新しい聴き手、新しい新しい聴き手を芽吹かせるための、
それまでなかった「土」でもあったところに、
彼自身がそれまでいなかった音楽家であったといえる。

グレン・グールドの聴き手のすべてが、
グレン・グールドのいうところの新しい聴き手とはいえない。
ただただスノッブな聴き手もいるわけだが、
それでもグレン・グールドという、それまでなかった「土」は、新しい聴き手を芽吹かせているはず。

それと同じ意味で、
新しい読み手(New Reader)、新しい新しい読み手(New New Reader)が芽吹いてきた──、
そうおもいたい……。

Date: 3月 18th, 2013
Cate: よもやま

嬉しい知らせ

昨夜、嬉しい知らせが届いた。
ここに、そのことについて書きたいのだけれど、
まだ告知してはいけない、ということなので、これ以上は何も書けない。

それでも、そのニュースをきいて、ほんとうに嬉しかった。
その嬉しさだけは、書いておきたかった。

私が嬉しがっているほどには、喜ばない人もいるだろう。
それでもいい、私にとっては、とても嬉しい知らせだし、
私と同じように、むしろそれ以上に喜んでいる人がいることを知っている。

それで充分である。

Date: 3月 18th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その4)

オーディオメーカー、輸入代理店の広告にオーディオ評論家が登場することを、
どう思うのかは、人によって異っているだろう。

私は、というと、その広告が面白いならば、結構なことだと思っている。
なにしろ名前を出して、ときには顔写真も載せて、広告に出るということは、
そこで登場しているオーディオ機器、そのブランドを高く評価しているからであり、
そこにギャラが発生しているとはいえ、
まったく評価していないオーディオ機器、ブランドの広告に登場する人は、ほとんどいないはず。

それに、オーディオ評論家が登場する広告から、
そのオーディオ評論家の素顔に近い面も見ることができることだってある。
それもあって、私は、あの時代の広告は面白く、興味深いものと捉えている。

そんな私だけど、問題にしたいことがある。
それは広告の紹介文をオーディオ評論家が書いていることである。
もちろん、その紹介文を名乗っているのであれば、なんら問題とはしない。
けれど、すくなくとも1980年代から、私の知るかぎり割と最近まで、そういうことが続いていた。

オーディオ評論家の方すべてがそういうことをしているわけではない。
依頼があっても、そういうことはオーディオ評論家がやるべきことではない、とことわっている方を知っている。

だが中には、たやすく仕事として引き受けているオーディオ評論家(と呼べるのだろうか)が、
数人いる。
どの人が、どこの広告の紹介文を書いていたのかは、1990年代あたりまでは知っている。
それについて、こまかなことは書かないけれど、
この人たちは、恥を知っているのだろうか、と問いたい。

Date: 3月 17th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その3)

ずっと以前、オーディオの広告は、読み物でもあった。
それがいつしか文字が少なくなり、いまでは見るものへとなってしまったのが大半である。

どちらの広告が優れているとかではなく、広告の形態もずいぶん変化してきていることを改めて実感する。

ステレオサウンドの1970年代から80年代にかけての広告も読み物としての面白いものがあった。
私としてはステレオサウンドで育ってきたから、
ステレオサウンドを贔屓にしたい気持は人一倍強いけれど、
読み物としての広告ということに関しては、
1970年代のスイングジャーナルに掲載されたオーディオの広告のほうが読みごたえがある、と認めざるをえない。

とくに毎月出版されるスイングジャーナル本誌よりも、
別冊として出ていたモダン・ジャズ読本での国産メーカーの広告のいくつかは、
よくこれだけの広告(というよりもメーカーがページを買い取ってつくった記事)を出していたな、と感心する。

モダン・ジャズ読本のためだけにつくった広告である。
これらの広告にもオーディオ評論家が登場されている。

これらの広告がどういうふうにつくられていったのか、その詳細については何も知らない。
メーカーの広告の担当者が、オーディオ評論家との打合せを行いつくっていったのか、
それともどこかの編集プロダクションにまかせていたのか、
そのへんのことはわからないけれど、それらの広告は、広告であるわけだが、
広告で終ってしまっているわけではなく、そういうところに時代のもつ熱気を感じるといえないだろうか。

Date: 3月 17th, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その4)

マーラーが見てきた景色は、マーラーの目を通した景色である。
マーラーが見ていた景色を、同じところから見ることが仮にできたとしても、
マーラーが生きていた時代と、いま私が生きている時代とでは、いろいろ違うことがある。

暗騒音にしてもマーラーの時代といまとではずいぶん違うことだろう。
空気も違うことだろう。
街を歩く人びとの服装も、マーラーの時代といまとではもちろん違う。
街並も、いまも現存している建物もあるだろうが、やはり変ってきている。

そうなるとマーラーが見ていたものと私がそこに立って見ているものが、必ずしも完全に一致することはない。

マーラーというフィルターを通して、マーラーだからこそ感じとれたものを含めて、
その風景を、ときにマーラーの音楽の聴き手であるわれわれは、感じとれることもある。

マーラーが生きてきた時代、マーラーの人生がどうだったのかは、
マーラーに関する書籍が、世界でいちばん多く出版されている、といわれている日本に住んでいるわけだから、
関心のある方は、すべてではないにしても、マーラーの聴き手であれば何冊かは読まれているだろう。
だから、それについてここでは書かない。

マーラーの音楽の中に入っている「景色」とは、いわゆる景色だけではない。
マーラーが、その人生で見てきたものがみな入っている、と解釈できると思う。

だから交響曲第一番の第一楽章が夜明けを描いていることは、
なんというアイロニーなであり、象徴的であろうか、とおもってしまう。