Archive for 1月, 2013

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その1)

毎日ブログを書いている。
ある読み手を想定して書いている。
その読み手とは、10代の私である。

オーディオに興味をもち始めたころの私に対してのブログでもあるわけだ。
それ以外の読み手のことは想定していない。

読み手の想定など、ということは実際には無理である。
私は最初に手にしたステレオサウンドは41号だったのだが、
創刊号から読んでいる人もいれば、10号ぐらいからの人、20号ぐらいからの人、30号ぐらいからの人といたわけで、
創刊号から読んでいた人にしても、皆が同じ年齢というわけでもなく、
オーディオのキャリアも異る。

41号といえば創刊から10年、
いまステレオサウンドは創刊から46年が経過している。
いま書店に並んでいる185号が最初のステレオサウンドという人もいることだろう。
創刊号からずっと買い続けている人もいる。
つまりさまざまな読み手がいる。

そのすべての読み手を満足させる本をつくることができるのか、といえば、無理であろう。
だから、どうするのか。

同じことはブログについてもいえる。
テーマによって、想定する読者を変える、というのもひとつの手ではある。
けれど、私は、もういちど書くけれど、10代のころの、オーディオに興味をもち始めた私、
もうすこし具体的に書けば「五味オーディオ教室」を読んでオーディオの世界にはいってきた私に対して、
ブログを書き続けている。

13歳の私は、「五味オーディオ教室」を読んだ数ヵ月後にステレオサウンド 41号と、
別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ。
わくわくしながら読んだ。

そこに書いてあることすべてを理解できていたわけではないが、
読むのが楽しかったし、少しでも多くのことを理解しようとくり返し読んだ。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 4343, JBL

4343とB310(その23)

SUMOのThe Goldの前に、SL600を鳴らしていたのはアキュフェーズのP300Lだった。
そのP300Lでも、すこしだけアルテックの405Aを鳴らしてみた。
そのときの音の違いから、SL600にThe Goldを接いで鳴らしたら……、と期待に胸ふくらましながらの一週間だった。

3日目ぐらいから何度The Goldに接ぎかえようと思ったことか。
問題ないはず、という確信はあったものの、
それでも最初に決めた1週間を405Aで通したのは、
意外にも405Aで聴く、人の声の気持ちよさに魅かれるところがあったためである。

ほーっ、やっぱり小さくてもアルテックなんだなぁ、と感じつつの1週間がすぎ、
いよいよThe GoldでSL600を鳴らす日が来た。

いままで何の不安も感じさせなかったから大丈夫だ、ということはわかっていても、
それでも最初にSL600を接いで電源スイッチをいれるときは、すこし緊張した。

いい音だった。
P300Lに、これといった大きな不満はなかった。
SL600はパワーアンプを選り好みするという印象を持っている人が少なくないので意外な感じもするのだが、
特別なパワーアンプを持ってこなければ、うまく鳴ってくれない、というスピーカーシステムではない。
とはいえ、The Goldけで鳴らしたSL600の音はよかった。

SL600のほうが405Aよりも周波数レンジも広い。
405Aに感じた粗さもない。
けれど人の声、それも男性の声のリアリティが、405Aほど濃厚に出ない。

SL600での男性の声がよくないわけではない。
うまく鳴っている。鳴ってはいるいるけれど、405Aで感じられた、気配のようなものがすこし足りない。
SL600だけで聴いていればそんなことを思わなかったであろう。

でも1週間、405Aで聴き続けた時間がすでに存在していた。

Date: 1月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その4)

五味先生は書かれている。
     *
電気エネルギーを、スピーカーの紙(コーン)の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。すくなくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。
     *
ここに、答のすべてがある、と初めて読んだときも、
いま(もうどれだけくり返し読んだことか)読んでも、そうおもう。

五味先生にとって肉体を復活を錯覚できる音とは、どういう音なのか。
具体的に書かれているところがある。
そこには「肉体」ということばは出てこないけれど、
そこに書かれている音こそが肉体の復活を錯覚できる音ととらえて、間違いないといえる。

それは20箇条「スピーカーとは音を出す器械ではなく、音を響かせる器械である。」にある。
     *
たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なごたくをならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置でかけても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのが、ヴィントガッセン扮するジークフリートの声だともわかるはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焰、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
 私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
 わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
ここで大事なことは、「ステージ」である。
ステージがあり、演奏者の足がステージに立っていること、こそ、
肉体の復活を錯覚させてくれる音であり、
どんなに精緻な音像を、現代のスピーカーシステムがふたつのスピーカー間に再現しようとも、
そこにステージはなく、
歌っている、演奏している者の足もなければ、
いくらスピーカーの存在がなくなったように感じられる音だとしても、
それは肉体のない音であり、言葉の上では同じような音とおもえても、まったく別物であるということに、
意外と気がついていない人がいるように感じられてならない。

Date: 1月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その3)

生の音(原音)にはあって、再生音には存在しないもの。
まっさきに浮ぶのは、肉体である。

私が聴くのは、その多くがクラシックで、あとジャズが少し、
それ以外の音楽ももちろん聴くけれど、
私が聴く音楽のほとんどに共通しているのは、
演奏者の肉体があって、ある空間に音が発せられているということである。

この演奏者の肉体は、再生音にはない。
再生系のメカニズムのどこにも肉体の介在する余地はないのだから、
再生音に肉体がないのは、至極当然のことである。

それに録音の過程においても、
マイクロフォンがとらえているのは演奏者が己の肉体を駆使して発した音であり、
録音系のメカニズムのどこにも肉体を記録できる箇所はない。

再生音には肉体がない──、
こう書きながら思い出しているのは、
これもまた「五味オーディオ教室」の最初に出てくることである。

私にとってのオーディオの出発点に、また戻ってしまうことになる。

Date: 1月 10th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その2)

このブログを書き始めの最初のころ「再生音に存在しないもの」を書いている。

これも、13歳のときに「五味オーディオ教室」を読んだときから、ずっと頭のどこかにありつづけている。

「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えるのも、
再生音には存在しないものがあるから、である。
けれど、それがなんなのか、がいまひとつはっきりとしてこない。
もしすこしでつかめそう、というより、指がそこに届きそうな感じはしているものの、
まだまだ、はっきりと把握するにはそうすこし時間はかかりそうである。

「再生音に存在しないもの」では五味先生の文章を引用した。
そこにはルノアールの言葉を、五味先生は引用されている。
「画布が光を生み出せるわけはないので、他のものを借りてこれを現わさねばならない」とある

「光は存在しない」ことは、再生音でいえばいったいなんなのか。
これがわからなければ、「他のもの」を借りてくることもできない、といえる。
何を借りてきていいのかもわからず、やみくもになにもかも借りてきたところで、なんになろうか。

何がいったいないのか、
借りてくる「他のもの」とはなんのなのか──、
このことについて考えていくときに、ずっと以前の大型スピーカーシステムにあって、
いまのハイエンドと呼ばれているスピーカーシステムにないものが、たしかにある──、
そんなふうにも思えてくる。

Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(CDプレーヤーのサーボのこと)

CDプレーヤーはサーボ回路を停止させてしまうと、
まったく機能しなくなる。音の出なくなる。
このへんが同じデジタル機器でもDATとの違いがある。

DATではサーボ回路を停止しても、すぐには音が出なくなるわけではない。
CDとDATでは16ビットというところは同じだが、サンプリング周波数は44.1kHzと48kHzという違いがある。
この違いが、CDとDATの音の違いに大きく影響している、というよりも、
サーボ回路なしでもほんのわずかとはいえ音を出すことが可能なDATと
サーボ回路なしではまったく音を出すことのできないCDでは、
信号読みとりの安定度に根本的な違いがある、ともいえる。

そんなCDプレーヤーだから、
サーボ回路とその電源部(アースを含めて)が重要となることは容易に想像がつくわけだが、
CDプレーヤーが登場したころ、よくいわれたいわゆるデジタル臭さがどこに起因しているのか、
それを音楽信号と相関性のないサーボ回路電流の変動によるノイズの発生にある、と指摘されたのは、
1980年代後半、ラジオ技術誌において、富田嘉和氏であった。

ここで見落してならないのは、音楽信号と「相関性がない」ノイズが発生している、ということである。
慧眼とは、こういことをいうのだと思ったことを、いまでも憶えている。

Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その4)

つまりはディスクの偏芯の問題である。
CDだけでなく、アナログディスクでも偏芯の問題はあり、
ナカミチのTX1000は、この偏芯の度合いを検知して補正するメカニズムを搭載していた。

CDでもアナログディスクでもディスクの中心とスピンドルの中心がぴったり一致していれば、
こんな問題は発生しないわけだが、実際にはどちらにも誤差があって、
そのわずかな誤差があるからこそすっとディスクの中心穴をスピンドルにいれることができるわけだが、
この誤差が音質上問題になることがある。

アナログディスクであれば、偏芯が多いな、と感じたら、すぐにカートリッジを持ち上げて、
ディスクをセットし直せる。
使い馴れたアナログプレーヤーであれば、
自然と偏芯がそれほど大きくならないようにディスクをセットできるようになるものである。
また、そういうふうになれるプレーヤーは、よく出来たプレーヤーともいえる。

ところがCDプレーヤー、それもトレイ式ではトレイにCDを置くまでしか管理できない。
トレイとともにCDがCDプレーヤーに取り込まれてからは手をくだすことはできないわけである。
だからトレイを一度引き出して、もう一度、ということをやることになってしまう。

ほんとうは、こんなことで音が変るのはなくなってほしい、と思っている。
思っていても、現実にはこんなことで音が変化する。
それも使い手が管理てきないところで音が変るわけである。

このディスクの偏芯の問題は、
CDプレーヤーならばクランプの仕方(メカニズムの精度を含めて)と
サーボのかけ方(回路を含めて)を検討することで、そうとうなところまで解消できる。

でも、私がCDの内周と外周の音のニュアンスの違いに気づいた1980年代半ばすぎでは、
まだまだ問題点を残したままだった。

Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その3)

CDがCDプレーヤーのなかでどういうふうにクランプされているのか、
その状態、それも実際に回転している状態を把握していれば、
CDの内周と外周とで音のニュアンスに変化が生じる理由はすぐに推測できる。

CDプレーヤーのトレイにCDを乗せてPLAYボタンを押す。
音を聴く。そしていちどトレイを引き出す。
このときディスクには手を触れずに、またPLAYボタンを押せば、トレイは引っ込み再び音が出る。

最初の音と二度目の音には、少なからず違いが出ることが、以前は多かった。
こんなことを書くと、またオカルト的なことを書いている、と、
実際に自分のCDプレーヤーで確認すらせずに、いきなり否定する人がいよう。

このCDの問題点を真っ先に指摘されたのは井上先生だった。
かなり早い時期から指摘されていて、
最初何も言わずに、ステレオサウンドの試聴室でこれをやられた。

音が変るぞ、といったことは何も言われずに、
ただ「聴いてみろ」といって、この実験をされた。

たしかに音に違いが出る。たいていの場合二度目のほうが音の拡がりがスーッときれいに出ることが多い。
一度目がいいこともあり、その場合は二度目の音はむしろすこし悪くなる方向に変化する。

これはディスクのクランプの状態がその都度変化しているためであって、
それによるサーボの掛かり方に変化が生じ、音の変化となって聴きとれるわけである。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その1)

スピーカーはアンプからの電気信号を振動板の動きに変え音を発するメカニズムである。
でも、といおうか、当然、といおうか、スピーカーはしゃべらない。

スピーカーが音にするのは、あくまでもアンプから送られてきた電気信号である。
もしスピーカーが意志があったとしても、その意志を電気信号に変え、
スピーカーにとって前段といえるアンプにフィードバックでもしないかぎり、スピーカーはなにひとつ語らない。

いま、1970年代のオーディオ雑誌を中心に、
レコード会社の広告、オーディオメーカーの広告、輸入商社の広告をもういちど見直している。

オーディオの広告のありかたもずいぶん変ってきた、と感じる。
オーディオ雑誌におけるオーディオの広告とは、
広告というポジションだけに、昔はとどまっていなかったところがある。

すべてとはいわないけれど、一部の広告は、ひとつの記事として読める内容を持っていた。
だから私は、オーディオ雑誌を手にした最初のころは記事はもちろんなのだが、
広告も熱心に読んでいた。広告から学べることもあった。

1970年代の広告といえばいまから40年ほど前のものだ。
いまのオーディオ雑誌に載っている広告を、40年後に見直すとしたら、
どういう感想をもてるだろうか、とつい比較しながらおもってしまう。

そんなことを年末から集中的にやっていた。
ある広告の、あるキャッチコピーが、数多くの広告を集中的に見たなかでひっかかった。

Lo-Dのスピーカーシステムの広告に、こうあった。
あるスピーカーの述懐

これを目にしたとき、ブログのテーマにしよう、と思った。
どういう内容にするのかは何も浮ばなかったけれど、
何も語ることのできないスピーカーが、
そのスピーカーの使い手(鳴らし手)のかける音楽を、どう鳴らすかによって、
スピーカーは間接的に語っている──、
そうとらえれば、「あるスピーカーの述懐」というタイトルとテーマで書いていけることは、
きっといくつも出てくるであろう。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その18)

話は変わりますが、皆さんは、本物の低音というものを聴いたことがあるでしょうか。僕はないんじゃないかと思うんです。本物の低音というのは、フーっという風みたいなもので、そういうものはもう音じゃないんですよね。耳で音として感じるんじゃないし、何か雰囲気で感じるというものでもない。振動にすらならないようなフーっとした、空気の動きというような低音を、そういう低音を出すユニットというのは、今なくなって来ています。
     *
音楽之友社発行の「ステレオのすべて ’77」において、
岩崎先生が「海外スピーカーユニット紳士録」で述べられていることである。

これは1976年終りごろの発言であり、
このときまでに岩崎先生はエレクトロボイスのパトリシアン、
JBLのパラゴンにハーツフィールドといった、
1950年代から60年代にかけてのアメリカの大型スピーカーシステムを相次いで導入されたあとの発言でもある。

これらはスピーカーシステムと呼ぶよりも、ラッパといったほうがより的確な表現である構造のものばかりで、
どれもウーファーを直接見ることができない。
中高域のみだけでなく低域までホーンを採用したシステムである。
しかもパトリシアン、ハーツフィールド、パラゴン、いずれもホーンもストレートではなく折曲げ型である。

これらのラッパ以前に岩崎先生のメインであったのはD130をおさめたハークネス。
これもまたバックロードホーンであり、いうまでも折曲げ型である。

こういうラッパをいくつも鳴らされていた岩崎先生が、
「本物の低音というのは、フーっという風みたいなもの」といわれている。

岩崎先生がヤマハのAST1を聴かれたら、長島先生、原田編集長と同じように喜ばれたように思う。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続×五・Electro-Voice Ariesのこと)

後になって(といってもかなり後のこと)読み返してみると、
「エレクトロボイスの音は、クラシック向きで、たいへんおとなしい音だとよく誤解される」とある。
以前のエレクトロボイスとは印象の変化があったことが読みとれるわけだが、
そのことに気づかされるのは、少し先のことであり、それも少しずつであった。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」には、もうひとつエレクトロボイスのスピーカーシステムが登場している。
Interface:Aである。菅野先生の組合せにおいて、である。
Interface:Aも外観も、やはり黒っぽい。

1976年暮の時点でのエレクトロボイスのスピーカーへの私の印象は、
私が好んで聴く音楽とは無縁と思われる、そういうスピーカーであった。

エレクトロボイスの歴史について少し知るきっかけとなったのは、
ステレオサウンド 45号の「クラフツマンシップの粋」で、エレクトロボイスのPatricianが取り上げられたことだ。

エレクトロボイスが過去に、こういう大型の、
それもSentryやInterfaceシリーズとはまったく異る趣のスピーカーシステムを作っていたことを知った。
そして、この「クラフツマンシップの粋」を読んでいくと、
エレクトロボイスのドライバーのダイアフラムは、
JBLやアルテックに採用されている金属系ではなく、フェノール系だということを知り、
エレクトロボイスへの興味がさらに増していった。

フェノール系のダイアフラムの音について、井上先生が記事の最後に語られている。
     *
現在は、ホーンドライバーはウェスタン系が主流になっているから、ホーン型というとカッチリしたクリアーで抜けが良くて、腰の強い音という認識があるけれど、これに対してEVのホーン型ユニットの音は、むしろ柔らかくてもっとしなやかですね。特に弦の再生がウェスタン系とは決定的に違って、すごく滑らかでキメの細かい音でしょう。メタルダイアフラムでは絶対に出ない音です。
     *
ステレオサウンド 45号は1977年暮に出ている。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」からちょうど1年後のことであった。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続々続々・Electro-Voice Ariesのこと)

「ステレオのすべて ’77」とほぼ同じ時期に書店に並んでいて、
どちらにしようか迷ったすえ購入したのが
ステレオサウンド別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
組合せだけの一冊である。

岩崎先生の組合せも載っていて、エレクトロボイスのスピーカーシステムが使われている。
Sentry Vだった。
25cm口径のウーファーとホーン型トゥイーターによるブックシェルフ型。
エンクロージュアの両サイドは木目仕上げだが、フロントバッフルは黒。
しかもウーファーの前面は写真で見る限り一般的なコーン型にはみえない。
Sentry Vは実物を見たことがないので、実際にどうなっているのかなんともいえないが、
艶のある黒いホーンといい、外観的にも特徴のある、というより個性の強いスピーカーである。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」は読者からの手紙が元になって組合せがつくられている。
Sentry Vがつかわれた組合せは、ジェームス・ブラウン、ウィリー・ディクソン、ジミ・ヘンドリックスなど、
読者の手紙の文面にもあるように「黒っぽい音楽」、「黒っぽい音」を黒っぽく感じられるものと選ばれている。

Sentry Vの外観は、まさしく黒っぽい。
黒っぽい音が、これで出てこなかったら、おかしいだろう、といいたくなるほど、黒っぽいスピーカーである。

岩崎先生も組合せについて語られているなかで、Sentry Vは
「アメリカのディスコティックなんかでブラック・ミュージックの再生に活躍している」と説明されている。

私の中のエレクトロボイスのスピーカーはイメージは、だからここから始まっている。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続々続・Electro-Voice Ariesのこと)

1976年暮に音楽之友社から出版された「ステレオのすべて ’77」に、
「海外スピーカーユニット紳士録」という記事が載っている。
岩崎先生が語られたものを編集部がまとめたものである。

記事タイトルが表している通り、
海外各国のスピーカーユニットについて語られている。
エレクトロボイスのスピーカーユニットについても語られている。
     *
 エレクトロ・ヴォイスのSP8とか、あるいはSP12というスピーカーを見ますと、今はなくなってしまったけれども、グッドマンのユニットによく似ています。あるいはワーフェデール系のユニット。メカニズムですと、リチャード・アレンなんかも外観から見てね、コルゲーションの付いた、しかもダブル・コーンということでね、大変よく似ているわけです。
 で、その辺からもエレクトロ・ヴォイスというのが、先程ヨーロッパ的と言いましたが実はヨーロッパ的というよりも、これは英国的なんです。ですからアメリカにすれば、英国製品というのは、やっぱり舶来品でね、非常に日本における舶来礼賛と同じように、アメリカにおいてはかつて、ハイファイ初期において、非常に英国製品がアメリカを席巻していた時期が、これはオーディオの最初ですから、大体一九五〇年の前半から、終わり近くまでということになるんですからね。つまりステレオになってからARがのし上がる、その前の状態では、ワーフェデールにしたって、グッドマンにしたって、アメリカでは最高でまかり通っていたわけで、その辺のスピーカーとエレクトロ・ヴォイスの場合は、非常によく似ているわけです。実を言うと、音色にもそういう面があって、それからパワーの、高能率であってパワーを必要としないという点でも、エレクトロ・ヴォイスというのは極めて英国的な要素を持っていたと思うんです。で、外観から言うと、コイルの大きさとか、そういう点で非常にぜいたくな、金のかかったシステムなんで、ヴォイス・コイルも英国系と違って、ずっと太い。そういうところもアメリカ的には違いないんですけどね。音響的な性格というんですか、あるいは振動系の基本的な考え方というのは、英国オーディオ・メーカー、あるいは英国のスピーカー・メーカーと共通したところがあると思うんです。で、中音の非常に充実感の感じさせるところもね。いかにもその辺も英国的なわけですよ。
     *
エレクトロボイスについて語られている、といっても、
ここではフルレンジユニットのSP8、SP12のことであり、
このふたつのフルレンジに対してもっておられた印象が、
そのままエレクトロボイスのスピーカーシステムに対しても同じであったのかどうかは、
この記事だけではなんともいえないものの、そう大きくと違っていないはずだ。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 4343, JBL

4343とB310(その22)

1985年12月にSUMOのThe Goldを導入したとき、
鳴らしていたスピーカーシステムはセレッションのSL600だった。

The Goldが届いてまずしたことは分解掃除だった。
そして、いきなりSL600を鳴らすのはコワイと思い、
チェック用として用意していたアルテックの10cm口径のフルレンジユニット405Aを収めたスピーカーで鳴らした。
無事、音が出た。スピーカーが飛ぶこともなかった。

このアルテック405Aで1週間何事もなかったらSL600を安心して接続できるだろう、と決め、
それからの1週間は405Aの(エンクロージュアも凝ったものではない)、
上等とはいえないスピーカーで聴いていた。

10cmのフルレンジで、しかもアルテックのユニットだから低域も高域も伸びてはいない。
ナローレンジな音で、音量はかなりあげられても、
そうすると今度はエンクロージュアの共振が気になってくるような代物だったから、
音量をあげるといっても、それほど大音量で鳴らせたわけではなかった。

このとき感じていたのは、音像定位の安定度の高さ・確かさである。
それは精緻な音像定位といった感じなのではないのだが、
とにかく中央に歌手が気持ちよく定位してくれる。

1週間が経ち、SL600にした。
405Aよりもすべての点で上廻る音が鳴ってくれるものと期待していた……。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その34)

オルトフォン(Ortofon)は、
ギリシャ語で正確を意味するオルトと音を意味するフォンを組み合わせた造語で、
正確な音になり、オルトフェイズは正確な位相ということになる。

カートリッジに関係する造語ではシュアーのトラッカビリティがもっとも有名で、
いまもこのトラッカビリティが技術用語のひとつだと思っている人もいるくらいに、
一時期広く知れ渡った。

トラッカビリティと比較するとオルトフェイズは、それほどうまい造語とはいえない。
けれど、わざわざオルトフェイズという言葉をつくったということは、
オルトフォンとしては、3Ωという低インピーダンスのメリットの中で、
位相の正確さを重視していたと受け取ることもできる。

カートリッジのインピーダンスの低くとることのメリットは、なにもMC型カートリッジだけにいえることではなく、
MM型、MI型でも1980年代にはいり、
ピカリング、スタントンからローインピーダンス型のカートリッジが登場している。

スタントンは1980年に良質の低ロスのコア材に太めのワイアーを、
できるだけ巻数を少なくして、オルトフォンのMC型カートリッジと同じ3Ωという980LZSを、
1985年にもLZ9S(型番がローインピーダンスであることを謳っている)を発表している。
どちらも推奨負荷インピーダンスは100Ωとなっている。

ピカリングは1983年にXLZ7500Sを出している。
XLZ7500Sも、スタントンの980LZSとほぼ同じ技術内容を謳っているのは、
スタントンがピカリングのプロ用ブランドとして誕生しているわけだから、当然といえよう。