Archive for 10月, 2012

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 「オーディオ」考

できるもの、できないもの(その5)

「再生音は現象」ということを、今年は実感することが多かった。
こうやって毎日ブログを書きながらも、そのことを実感していた。

再生音を現象と捉えることで、いくつかのことがらがつながってくる。
納得のいくこともある。

そして、ここでいう再生音とは、ステレオの再生音のことである。
モノーラルの音源をスピーカーシステム1本で鳴らすモノーラル再生音は、ここでは含まない。
モノーラルの音源でも、左右2本のスピーカーシステムで再生するのであれば、
その再生音は現象ということになる。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×六・チャートウェルのLS3/5A)

ロジャースのPM510とPM510SIIの違いは、
このスピーカーシステムに関心のない人にとっては、さほど大きな違いではないのかもしれない。
そういう人の多くは、きっとSIIのほうがいい、特に低音がまともになっていると評価になるんだろうが、
PM510のというスピーカーシステムの魅力に関しては、
このスピーカーシステムに惚れ込んでいる人とそうでない人とのあいだには大きな違いがある。

ロジャースはPM510の発売1年後にStudio Oneという、
3ウェイのブックシェルフ型を出している。

ベクストレン振動板の20cm口径のコーン型ウーファー、
セレッションのHF1300トゥイーターにKEFのスーパートゥイーターからなる、このStudio Oneは、
ユニット構成もエンクロージュアのサイズもバスレフポートの位置も、
スペンドールのBCIIとそっくりのスピーカーシステムであり、
このことはStudio OneはBBCモニターのLS3/6のロジャース版ともいえるものである。

ウーファーはBCIIと外観的によく似ているものの、ボイスコイルボビンにカプトンを採用することで、
耐入力を一気に改善している。
パワーに弱いといわれるBCIIなだけに、Studio Oneは後から登場しただけに、
よく似てはいても現代的なスピーカーシステムとしての基本性能をもつようになっていた。

BCIIも好きだった私は、Studio Oneには期待していた。
BCIIの良さそのままで、ぐんと良くなっている(そんなことはありえないのだが)、と期待していた、のだ。

どこで聴いたのか、いつ聴いたのか、そんなことをすでに忘れてしまったほど、
Studio Oneの音にはがっかりした。
BCIIに感じていた魅力が、Studio Oneにはまったくといっていいほど感じられない。
ユニット構成はほぼ同じだし、こんなに似ているのになぜ? と思ったのだけははっきりと憶えている。

そのときの試聴条件があまりよくなくて、そういう試聴結果になったのだろう、と
これを読まれた方はそう思われるかもしれない。

おまえも、少し間に「聴くことの怖さ」ということで書いているだろう、と。

けれどStudio Oneはステレオサウンドの試聴室でも、その後聴く機会があった。
だから、私にとってStudio OneはBCII、PM510のように魅力的なスピーカーではなかった。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その10)

JBLが、もしカートリッジをつくっていたら、どんなものだっただろうか。

JBLのスピーカーシステムのラインナップと共通するカートリッジのラインナップを用意していた、
と仮定して、あれこれ想像してみる。

JBLのスピーカーシステムには、家庭用スピーカーシステムとしてハークネス、ハーツフィールド、
オリンパス、パラゴンといったフロアー型があり、
アクエリアスという、あの時代としては実験的な性格の強いスピーカーシステムもつくっている。
そして4300シリーズ、4400シリーズに代表されるプロ用スピーカーシステムも手がけている。

基本的にほぼ同じ設計のスピーカーユニットを組み合わせながらも、
家庭用とプロ用とではスピーカーシステムとしてのデザインが大きく異る。

JBL好きの人にとって、
家庭用に惚れ込む人もいるし、プロ用に惚れ込む人、
両方とも好きな人もいる。

家庭用もプロ用もどちらも明確にJBLのスピーカーシステムでありながらも、
家庭用とプロ用を比較すると、そこにははっきりとした違いを感じるのは、
カートリッジの世界でいえば、
オルトフォンが近い存在のようにも思える。

オルトフォンには伝統的なSPUがあり、
SPUがロングセラーを続けながらも、SPUとは違うカートリッジも積極的に開発した。

私はすべてのオルトフォンのカートリッジを聴いているわけではないが、
ステレオサウンドの古いバックナンバーやステレオサウンドで働いていたころに聞いた話からもわかるように、
オルトフォンもすべてのカートリッジが成功してきたわけではない。

オルトフォンにとって、SPUと並ぶラインナップが生れるきっかけとなったのは、
1976年のMC20の誕生だと思う。
MC20に続きMC30が登場、そのMC30の技術がMC20に活かされMC20MKIIとなり、
ローコストのMC10へとラインナップは充実してきた。

このMCシリーズは、オルトフォンの新世代のカートリッジのはじまり、といえる。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと、の補足)

透明のプラスチックケースの、CDの取り出しにくさは、私だけでないようで、
Facebookでのコメント欄にも、
「割れるのではないかと思うほど湾曲しているCDを見るのは、心臓に宜しくありません」とあった。

ほんとうに、そのくらいCDが湾曲する。
まだ割ったことはないけれど、CDの材質がもう少し硬いものだったら、割れてしまうかもしれない。

今日、この件でメールもいただいた。
その方は、取り出しのコツをつかまれた、とのことで、こう書いてあった。
(Mさん、ありがとうございます。)
     *
まず、蓋を開けて真ん中を左手で右端を机などに置き傾斜させてから中央を(つめの中央部)人差し指か中指押下すれば簡単に外れます。
     *
通常のCDケースであれば、左手でケースをもって右手でディスクを取り出せる。
机の上などの平らなところに置かずとも取り出せる。

透明のプラスチックケースで、容易に取り出せない場合、ケースを平らにところに置いてあれこれやっていた。
これではうまく取り出せない。
CDが湾曲してしまうことがほとんどだ。

ケースを傾斜させることは、考えつかなかった。
右端が机に固定されるわけだから、
その状態でツメの部分に力を加えれば、ケースのそのものがわずかにしなる。
机の上にべたっと置いてしまうと、このしなりは生じない。

まだすべての透明のプラスチックケースでは試していないけれど、
このしなりで、取り出しやすくなったケースがある。

それにしても、CDの取り出し方でブログ(記事)を書くことになるとは、
CDが登場したときには、まったく思いもしなかった。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その9)

カートリッジの話に戻そう。
カートリッジに、異相の木はあるのだろうか。

「異相の木」、それもオーディオにおける異相の木について書こう、と思ったときから、
私の頭の中では、スピーカーの中から異相の木を探そうとしていた。
そして、私にとっての「異相の木」はJBLのD130ということに気がついた。

いま、どうしてそうしたんだろう、と振り返っている。

スピーカー以外のジャンルでも、
アンプにしてもアナログプレーヤーにしてもカートリッジにしても、
これらに較べると歴史の浅いCDプレーヤーにしても、
衝撃をこちらに与えてくれたモノはいくつもある。

でも、それらが異相の木なのか、というと、違う。
なぜ、違う、と感じるのだろうか。

JBLはアンプは手がけていた。
けれどスピーカーと同じ変換器であるカートリッジは手がけていない。

イギリスにはスピーカー専門メーカーとして、JBLとよく比較されるタンノイがある。
タンノイもアンプを一時期手がけていたことがある。
タンノイのカートリッジは存在しない、と思われている方も少なくないようだが、
私も実物は見たことはないのだが、一時期カートリッジを手がけていた。
きちんとしたコンディションのモノであれば、ぜひ聴いてみたいカートリッジのひとつである。

タンノイのカートリッジだから、
タンノイの同軸型ユニットに匹敵するような技術がそこに投入されていたのではない、と思う。
そうであってもスピーカー専門メーカーのつくるカートリッジは、
そのメーカーのスピーカーに対して関心をもっていれば、やはり興味深い存在である。

だがJBLは、いちどもカートリッジをつくっていない。

Date: 10月 21st, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その8)

CDプレーヤーの天板の上に、CDのプラスチックのケースを置く。
それだけで音は変化する。
この場合の変化する、は、悪い方への変化である。

たった一枚のケースを置いただけでも、間違いなく音は悪くなる。
機種によっては、その出方(量)に多少の差はあっても、音は悪くなる。
まったく音が変らない、ということはない。

プラスチックのケースを置いたことによる、
ほんの少しの雑共振の発生が音が悪くするわけで、
だからステレオサウンドの試聴のとき、
井上先生にこのことを指摘されて以降は、CDプレーヤーの天板の上はもちろんのこと、
原則としてCDプレーヤーを置く台(私がいた頃はヤマハのGTR1Bだった)の上にも中にも置かなかった。

こんなことで音が変るなんてことはあり得ない、という人がきっといるはず。
変らないのではなくて、その人の耳に変化が感知できないのであって、
それは必ずしもその人の聴き方が未熟だとは限らない。
聴いているシステムの使いこなしのレベルが低いこともある。

頭でっかちになって理屈だけをふり回して、
そんなことで音は変らない、と決めつけてしまう前に、
いちど徹底的に自分の使いこなし、ひいてはいま鳴っている音のレベルを疑ってみてほしい、と思う。
音は、どんな些細なことによっても必ず変る。
何かを変えて変らない、ということはない。

変らない、のではなく、変らないといっている人が聴きとれていないだけのことである。

オーディオを科学するために、まず必要なのは観察力である。
オーディオにおける観察力は、聴くことであり、
もっともしんどいことが、聴くことである。

だから、このしんどいことから逃げるために、理屈をつけて音は変らない、という逃げ道をつくり、
そこにひきこもってしまうのは、その人の自由ではあるが、
音が変る現象を、オカルトだと決めつけ、攻撃的になるのはやめてほしい。

Date: 10月 20th, 2012
Cate: 異相の木

「異相の木」(その7)

オーディオにおける「異相の木」は、
すべてのジャンルについて存在するのだろうか。

私にとっての「異相の木」はJBLのD130であることは、(その6)に書いた。
他に、どんな異相の木が私にはあるのか、と考えていた。

スピーカーだけに限らず、アンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤー、カートリッジにおいて、
異相の木と呼べるモノが、私にはあるのだろうか。
私に限ることはない。

他の人でいい。
私以外の人の場合、その人にとっての異相の木は、
私と同じようにスピーカーになるのか、それともアンプだったりするのだろうか。

黒田先生が「異相の木」を書かれたのは、ステレオサウンド 56号(1980年)だから、
まだCDは登場していなくてアナログディスク全盛の時代だった。
アナログディスクを再生するカートリッジも、実に豊富だった。

カートリッジもまた、スピーカーと同じく変換器である。
しかもスピーカーとは違い、場所をとらない。
それに同じ部屋に複数置いていても、特に音に影響はない。

スピーカーの場合、同じ空間に鳴らさないスピーカーがあれば、
それが鳴っている音に影響を与えるわけだが、カートリッジには原則としてそういうことはない。

あえて「原則として」と書いたのは、
複数のカートリッジ所有している人で、
それらの複数のカートリッジをアナログプレーヤーの置き台に並べている。
あまりいないけれど、プレーヤーの、空きスペースに置いている人も、何かの雑誌の写真で見かけたこともある。

井上先生が散々いわれたことだが、
こんなふうにカートリッジを無造作に置くのは、音質上影響を与える。
わずかとはいえ、台の上、プレーヤーの上に置いたカートリッジが共振してしまうためである。
だからプレーヤーまわりは、つねに片づけておかなければならない。

ステレオサウンドでの試聴の時も、
アナログプレーヤーを使わないときは、
プレーヤーの置き台はカートリッジやクリーナーなどアクセサリーの置き場所になっている。
けれどアナログプレーヤーを使う試聴にはいると、台の上には何一つ置かない。
置いていた方が便利であっても、だ。

Date: 10月 20th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”はCD一枚一枚は紙ジャケットにおさめられている。
この紙ジャケット、ボックスもの、それも廉価盤だと、サイズがぎりぎりなものがかなり多い。
だからCDを取り出すときもしまうときも、きつい。
ジャケットの内側に盤面がすれて、キズがつきやすい感じがして好きになれない。

実際、少なからずキズがついていることも、最近増えている。

ボックスもののCDでも、LPのような薄い紙の内袋におさめられているものだと、
スムーズにとりだせるし、CDの盤面にキズがつく心配もない。

前者のボックスものだと、愛聴盤といえどもCDを取り出すのが億劫になる。
取り出しにくいから、ということもあるけれど、ディスクにどうしても細かいキズがはいっていくからである。

紙ジャケットだけではない。
プラスチックケースのものでも透明タイプのものだと、
ディスクをクランプしているツメの部分がかたすぎて、
CDが取り外しにくいものが、少なからずある。

このことを話してみると、どうもクラシックのCDに関して、多く見受けられることのようだ。
ロック、ポップスのCDをかなりの枚数購入している友人の話では、
そういう経験はいまのところはない、とのこと。

このすべて透明なプラスチックケースの、ディスクの取り外しにくさは、
ギリギリサイズの紙ジャケットよりも、イヤになる。
ディスクが割れるんじゃないか、と心配になるほど反ってしまうことがあるからだ。

正直、ツメの何本かを割ってしまおうかと思いたくなるほど、
ディスクをしっかりとくわえこんでいてディスクを解放してくれない。

聴きたい! と思っても、取り出したいディスクが、この透明のプラスチックケースだと、
聴くのをやめようかな、と思う。

すべての透明のプラスチックケースがそうではない。
すんなり取り出せるケースもある。
けれど、この2、3年の間、クラシックのCDに関しては、
聴き手の心情をまったく考えていないケースが着実に増えてきている。

これらの紙ジャケット、透明のプラスチックケースのCDだと、
極力リッピングするようにしている。
聴きたいと思うたびに、ディスクの取出しでイヤなおもいをしたくないからである。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その2)

バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う。

手に入れること、自分のものとすることが愛ではなくて、
自分の全てを捧げる、そういう愛だからこそ、
それまでの人生によって培われてきた自身の全てをささげるのだから、執拗にもなるだろう。

同じひとりの人間でも、颯爽としていた身体をもっていた若い頃と、
醜く弛んだ肉体になってしまった老人とでは、愛のかたちも変ってきて当然である。

バーンスタインのトリスタンとイゾルデ、
マーラーの新録音、モーツァルトのレクィエムをはじめて聴いたとき,
私はまだ20代だった。

だから、いま書いている、こんなことはまったく思いもしなかった。
それでも、強い衝撃を受けた。
バーンスタインの演奏に強く魅了された。

それから約四半世紀が経った。
まだ、トリスタンとイゾルデ、マーラー、
モーツァルトのレクィエムを振ったときのバーンスタインの年齢には達していないが、
ずいぶん近づいてきている。

いまもバーンスタインの演奏を聴く。
そして、より深く知りたいと思うから、
若い頃には関心の持てなかったコロムビア時代のバーンスタインも、すべてではないが聴いている。

コロムビア時代のバースタインのマーラーと、
ドイツ・グラモフォン時代のバースタインのマーラー、
やはり私は後者をとる。

コロムビア時代のマーラーも、いま聴くと、若い頃には感じ難かった良さを感じている。
それでも私は、ドイツ・グラモフォン時代のマーラーをとる。
老人の、執拗な愛によるマーラーを。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(続々・1990年10月14日)

コロムビアに、あれだけの録音を残しているバーンスタインなのに、
モーツァルトのレクィエムだけは残していない。

ドイツ・グラモフォンでの、1988年7月のライヴ録音が、バーンスタインの初録音ということになる。
すこし意外な気もする。
いままでモーツァルトのレクィエムを演奏してなかった、ということはないと思う。
なのに録音は残していない。

1988年7月のコンサートは、愛妻フェリチア没後10年ということによるもの。
それが録音として残され、CDになっている。

1988年7月ということは、バーンスタインは70の誕生日まであと2ヵ月という年齢。
バーンスタインが、このときどう思っていたかは、まったくわからない。
けれど、レクィエムの再録音をすることはない、と思っていたのではなかろうか。

録音して残す、最初で最後のモーツァルトのレクィエムを、
バーンスタインは、そういう演奏をしている。
だから聴き終ると、ついあれこれおもってしまう。

当っていることもあればそうでないこともあるだろう。
でもどれが当っているかなんて、わからない。
それでも、おもう。

おもうことのひとつに、こういうバーンスタインの表現は、いまどう受けとめられているのだろうか、
そして、バーンスタインの演奏をしっかりと鳴らしてくれるスピーカーシステムが、
現代のスピーカーの中に、いったいどれだけあるんだろうか、ということがある。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 電源

電源に関する疑問(その26)

電源部を構成する部品は、そう多くはない。
ここでは伊藤先生の349Aプッシュプルアンプの音を聴いたことから出発しているから、
ここでの電源部とは定電圧電源を使用しない、真空管アンプ用の電源を前提としてすすめていく。

定電圧電源にすれば部品点数はすごく増えるものの、
いわゆる非安定化電源ならば、
電源トランス、整流管もしくは整流ダイオード、平滑コンデンサーがあればいい。

電源トランスは磁性体のコアに2つ以上のコイルを巻いたものである。
1次側のコイルがAC電源に接がれ、
2次側のコイルが整流管(整流ダイオード)を経てコンデンサーへと接がっている。
さらに真空管アンプではコンデンサーは出力トランスの1次側のコイルへ、となっている。

つまりコイルとコンデンサーとコイルが並列になっている状態である。
コイルとコンデンサーがあれば、必ずどこかで共振する。
電源トランスの2次側のコイルと平滑コンデンサーとが、
平滑コンデンサーと出力トランス1次側とのコイルとが、共振していると考えていいはず。

共振であれば、そこには共振周波数とQが存在する。
コンデンサーの容量をやみくもに増やすことは共振周波数を下げていくことになる。
そしてレギュレーションをよくするために電源回路のインピーダンスを下げるということは、
Qに関係してくる。つまりQが大きくなるわけだ。

共振周波数とQの具合によって、低音がボンつくとは考えられないだろうか。

こう仮説をたてると、電源回路に直列にはいっている1kΩの抵抗の役割がはっきりしてくる。
これだけ値の高い抵抗をいれることで電源インピーダンスは高くなるけれど、
それゆえにQを抑えることができる。

整流管を内部抵抗の小さな5AR4から内部抵抗の高い274Bに変えることも、
整流管としての5AR4と274Bの内部構造、材質の違いなどの差も音に関係していると同時に、
内部抵抗が高いことによってQが抑えられている、ということも考えられる。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その20)

ソニーのTA-NR10とマークレビンソンML2(No.20)の比較については、
まだまだ、細々と書いていきたいことがあるけれど、
それを全部書いていると、この項がなかなか先に進めなくなるので、このへんにしておく。

TA-NR10とML2(No.20)を比較していくと、
多少強引ではあると自分でも思うのだが、ヤマハのピアノとスタインウェイのピアノの比較と、
どこか通じているものがある、と私は感じている。

ヤマハのピアノには、スタインウェイのピアノやベーゼンドルファーのピアノにある、
聴けばすぐに印象として残る音色の強さ、といったものがない。

ピアノを弾かない聴き手にとって、スタインウェイやベーゼンドルファーのピアノは、
音色の魅力にあふれているようにも聴こえ、それだけヤマハのピアノよりも魅力的に思えてくる。
だから、どこかにヤマハのピアノよりも、スタインウェイ、ベーゼンドルファーのピアノのほうが上、
といつしか思い込んでしまうようになっている。

グレン・グールドがヤマハのピアノを選ぶよりも前に、
カッチェン、リヒテルがヤマハのピアノを、スタインウェイやベーゼンドルファーではなく、選択している。
そういうことも知識としては持ってはいても、
やはりどこかスタインウェイ、ベーゼンドルファーの方が上だと思い込みたい気持がある。

そんな気持があるからこそ、ベーゼンドルファーがスピーカーを発表したとき、心ときめかす。
ヤマハもピアノをつくっているし、スピーカーもずいぶん昔からつくっている。
なのに、ヤマハのスピーカーに対して、ベーゼンドルファーのスピーカーほどの思い入れがもてない。

そこには、ヤマハのピアノの完成度とヤマハのスピーカーの完成度の違いということも関係しているけれど、
ただそれだけのことでもない。

その4)で引用した菅野先生の言葉にもあるように、
欧米文化へのコンプレックスをとおして、ヤマハとスタインウェイをくらべていた可能性がある。
ピアノだけではない、スピーカーに関してもアンプに関しても、である。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: Leonard Bernstein

バーンスタインのベートーヴェン全集(続・1990年10月14日)

昨夜遅く、といっても正確には今日の午前2時すこし前という時間に、
バーンスタインのモーツァルトのレクィエムを、ひっそりと聴いていた。

スピーカーは、テクニクスの30年以上前の古いモノ。
ヘッドフォンの駆動部をアルミ製のエンクロージュアに収めたモノといったほうがいいSB-F01で聴いていた。

このSB-F01は目の前30cmほどのところに置いている。
もともと大きな音量で聴くためのスピーカーではないから、
このくらいで距離で聴いたときに、このスピーカーの良さは活きてくる。

遮音に優れたところに住んでいるわけではないから、
こんな時間に音楽をスピーカーから聴くには音量を絞らざるをえない。

こういう聴き方もいい。

音量と音像と距離、
この3つのパラメータの関係は、
使っているスピーカー、鳴らしている部屋、聴く音楽、聴く音量によって、
じつにいくつもの組合せがあって、どれが正解とはいえないおもしろさがある。

同じ音量で鳴らしていても距離をとった聴き方とスピーカーにぐんと近づいた聴き方では、
音楽の印象も少なからず変ってくるところがある。

SB-F01による音像は小さい。
その小さな音像を、すこし上から見下ろすように聴いていた。

ひっそりとした音量、小さな音像とは、
およそ似合わない、といいたくなるバーンスタインによるレクィエム。

ここでもバーンスタインはかなり遅めのテンポで劇的なレクィエム、荘厳なレクィエムを表出させている。
これもまた執拗といっていい、そういうレクィエムだと思う。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×五・チャートウェルのLS3/5A)

LS3/5AはBBCモニタースピーカーであり、
ロジャースはBBCからのライセンスを受け製造・販売していた。

BBCのライセンスを受けることができればロジャース以外のメーカーでもLS3/5Aは作れる。
なにもLS3/5Aだけではない。他のBBCモニタースピーカーを作っていける。
実際LS3/5Aはいくつものメーカーから登場することになり、
LS3/5Aに関心のあるマニアにとっては、
どこのLS3/5Aこそが優れているのか、ということが高い関心へとなっていく。

数としてはロジャース製がもっとも出ているのだろう。
もっとも数が少ないのがチャートウェル製であることは間違いない。

LS3/5AはBBCライセンスのもと、厳格な規格で作られているスピーカーシステムである。
つまりスピーカーシステムとしての性能においては、
どこのメーカーのLS3/5Aであろうと、違いがあってはならないわけだ。

なのに、なぜLS3/5Aのマニアは、夢中になるのか。
何に夢中になっているのか。
それは、音色、ということになる。

この音色は、オーディオ的音色である。

LS3/5Aに使われているユニットは、
ウーファーもトゥイーターも KEF製で、B110とT27である。
どこのメーカーのLS3/5Aも、このKEF製のユニットを使わなければならない。

ネットワークの回路もライセンス通りに作らなければならない。

にも関わらず、各社のLS3/5Aには、関心のない人にはわずかな違いしかないとしか思えるのものが、
LS3/5Aに高い関心をもつ人にとっては、決してわずかではない違いになる。

この違いは、他社製の、まったく異るスピーカーシステムとの音の違いに比べれば、
事実、ほんのわずかな違いではある。
ロジャース製のLS3/5Aとロジャース製の他のスピーカーシステムの差よりも小さい。
けれど、各社のLS3/5Aを比較して聴くような人にとっては、
その差はわずかでも、その差がもつ意味は大きい。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その19)

このフロントパネルのハンドルと同じことがヒートシンクにもいえるのが、
アメリカの、きちんとつくりこまれた、ML2(No.20)と同時代のパワーアンプに共通するところである。

たとえばML2のヒートシンクのフィンの先端部分に、
銅を細く切った板をおけば、フィンの鳴きは異種金属のダンプにより、そうとうに抑えられる。
さらに出力段のトランジスターの保護用のコの字型カバーを取り外す。

これらによる音の変化は、フロントパネルからハンドルを外したときの音の変化に共通する。
はっきりと良くなるところが確かにある。
けれど、これらの鳴きを含めて音をつめて製品として完成させていることを確認することになる。

これらの鳴きが、うまいぐあいに、音の輪郭に手応えを感じさせている、とでもいおうか。
鳴きの発生を抑えたり、鳴きの原因であるパーツを外したりすることで、
その手応えが稀薄になってくる。
あえていえば、アナログディスク的な音の旨み的なものを良さとしていたのに、
その良さが失われてしまう。

そうなってしまうと、何かが欠けてしまった音、という印象につながる。

スピーカーシステムにおいて、共振は害だということで、
あれこれ手を尽くして、共振の元を取り除いたり、共振を徹底的に抑えていくことで、
聴感上のS/N比は向上していくものの、
それだけで、感覚的にいい音が得られるのかどうかは、なんともいえない。

完璧なスピーカーユニットが完成すれば、
共振、共鳴はすべて抑えた方向でいくことが正しいし、
いい音を実現するための方向であるのだろうが、
実際には完璧なスピーカーユニットなんて、いままでにもひとつとして存在していない。

スピーカーシステムもアンプにしても、
ひとつひとつは不完全な部品を組み合わせて、全体を構成していく。
だからこそいくつものアプローチが共存しているわけだ。