この空間から……(その5)
空洞と空間。
空洞には心はない、空間に心はある。
そう思っている。
すくなくとも音楽を感じる心は、この「空間」にある。
もうひとつ。
空洞にはなく空間にあるもの。
「窓」である。
弦楽器にf字孔が必要なように……。
空洞と空間。
空洞には心はない、空間に心はある。
そう思っている。
すくなくとも音楽を感じる心は、この「空間」にある。
もうひとつ。
空洞にはなく空間にあるもの。
「窓」である。
弦楽器にf字孔が必要なように……。
どんな使い方をしても故障せずに、初期特性を定期的なメンテナンスすることなくずっと維持できる──、
そんなオーディオ機器は世の中にはひとつもないし、
そういうオーディオ機器が、音のことをさておき、果して理想のオーディオ機器の在り方なのか。
音楽のみに関心があり、オーディオ機器には一切の興味、関心がない、という人にとっては、
そういう故障もなくメンテナンスも必要としない機器は理想であろうが、
すくなくともオーディオマニアを自称する人であれば、オーディオ機器への愛着があり、
その愛着は使い方によって深まっていくのでもある。
オーディオ機器は、いつかは壊れる。
壊れてしまったら修理が必要だし、
初期特性を維持するためにはメンテナンスも必要である。
このふたつ、修理とメンテナンスがユーザー側で可能なモノが以前は割と多かった、と感じている。
無線と実験で、いま「直して使う古いオーディオ機器」という不定期の連載記事がある。
なんのひねりもないタイトルから内容はすぐにわかる。タイトル透りの記事である。
筆者は渡邊芳之さん。
この記事にこれまで登場したオーディオ機器はQUADのトランジスターアンプ、
トーレンス、デュアルのアナログプレーヤーで、
これからSMEのトーンアームについての記事が載る予定だそうだ。
毎回3ページのこの記事が載るのを、個人的には楽しみにしている。
故障してしまったとき、まだメーカーがその製品を修理してくれているのであれば修理に出せばいい。
けれど古い製品であればすでに補修用パーツをメーカーが処分してしまっていたり、
メーカー自体がなくなっていることだって現実にはある。
そうなってしまうと、どこか代りに修理してくれる会社もしくは個人を探し出すことから始めなくてはならない。
「直して使う古いオーディオ機器」を読めば思うのは、
昔のオーディオ機器は、ある程度の故障ならユーザーの手によって修理が可能な造りをしている、ということ。
補修パーツを用意できれば、そう難しいことではない。
しかもその補修パーツも、インターネットの普及のおかげで、以前より入手は容易になっている面もある。
このへんのことは、渡邊芳之さんの記事をお読みいただきたい。
オーディオ機器すべてが、ユーザーの手が修理できる造りである必要はない。
ないけれども、直して使うことによって深まっていくものがあるのも、また事実である。
オーディオ機器が長くつき合ってこそ、的な云われ方が昔からされている。
けれど、これには条件がある。
長くつき合うには、その長い期間の使用に耐えるだけの造りの良さ、安定性、耐久性といったものが、
オーディオ機器に備わっていることである。
どんなに高性能であり、満足のいく音を出してくれるものであっても、
使用条件がひじょうに狭い範囲のものであり、しかも不安定な機器で、
音を聴く前に調整が必要になるという機器や、
初期特性をそれほど長い期間維持できない機器などは、
たとえこわれなかったとしても、こういう機器とは長いつき合いは正直難しい。
性能を維持するために必要な手入れは面倒だとは思わない。
けれど、それが常に求められるのであれば、購入したばかりの頃はまだいいかもしれないが、
ずっと頻繁な手入れ、調整が要求されるであれば、
機器の調整そのものが好きな人はいいかもしれないが、私はいやだ。
スピーカーシステムは、さらにエージングが必要なオーディオ機器であり、
エージングが音を大きく左右する、といわれている。
だからといって、20年、30年エージングの期間が必要なわけではない。
どうも中には、ひじょうに長いエージングををしないと、まともな音にはならないと思われている方もいるようだが、
それはまた別の問題が関係して、のことである。
ほんとうにひとりの人が20年、30年手塩にかけてていねいに鳴らし込んできたスピーカーは、
時に素晴らしい音を奏でてくれることがある。
けれど、これも20年、30年の使用に耐えられたスピーカーだからこそ、いえることである。
どんなに丁寧に、気も使って鳴らしてきても、
そして定期的なメンテナンスをやってきたとしても、
これまで世の中に登場してきたスピーカーのすべて、20年、30年使っていけるわけではない。
長い使用に耐えられるモノでなければ、長くつき合えるわけではない。
4つのマトリクスがある、
けれど実際にわれわれが耳にできるもののほぼすべてはピストニックモーションのスピーカーの定電圧駆動になる。
ごく一部のベンディングウェーヴのスピーカーの定電圧駆動が、ほんのわずか存在するぐらいである。
いま定電流駆動による音を聴こうとしたら、パワーアンプを自作するしかない。
どこかのメーカーが定電流出力のパワーアンプを製品化することは、まずありえない。
もし私がアンプメーカーを主宰していたとしても、
定電流出力アンプに大きなメリットを感じていても、現実の製品としてパワーアンプを開発することになったら、
それは定電圧出力のパワーアンプということになる。
なぜ、定電流出力のパワーアンプにしないかといえば、
いま現在市販されているスピーカーシステムのほとんとはマルチウェイ化されている。
フルレンジだけのシステムも少数ながら存在しているけれど、マルチウェイのシステムばかりであり、
これらのシステムには当然のことながら内部にLC型デヴァイディングネットワークをもつ。
しかもこのネットワークの大半は、並列型によって構成されている。
定電流出力のパワーアンプにとって、
この並列型ネットワークがスピーカーユニットとのあいだに介在することがネックとなるからだ。
ネルソン・パスによる自作派のためのサイト”PASS DIY“をみていくと、
定電流出力にふれてあるPDFがある。
“Current Source Amplifiers and Sensitive Full Range Drivers“、
“Current Source Crossover Filters“、
このふたつのPDFは定電流駆動に関心のある方はいちど読んでほしい、と思う。
タイトルからもすぐわかるように、マルチウェイのスピーカーの定電流駆動に関しては、
“Current Source Crossover Filters”にもあるように、
LC型デヴァイディングネットワークは直列型でなければならない。
最初のオーディオシステムは、すべて国産だった。
その当時欲しいスピーカーシステムはいくつもあったけれど、私の同じ世代の方ならば同じだと思うが、
高校入学の祝いとして親にオーディオを一式揃えてもらった人は少なくない、というよりも、
きっと多いと思う。
しかも予算もそう大きくは変らないだろう。
その限られた予算の中では海外製のスピーカーはどうしても無理だった。
急激な円高による輸入オーディオ機器の値下げは、残念なことでもありタイミングの悪いことに、
数ヵ月ほど先のことだった。
ステレオサウンドに円高差益還元として輸入オーディオ機器の値下げ情報が載った時、
KEFのModel 103がここまで安くなったのか……、あとすこし早ければ103にできたのに……、と思った。
悔し紛れで書くわけでもないけれど、最初のスピーカーシステムはデンオンのSC104。
デンマーク・ピアレス社のスピーカーユニットを搭載したブックシェルフ型。
スピーカーユニットからすべて国産でまとめあげられたスピーカーシステムとは、少し違う。
こんなことを心の中でつぶやいていたこともあった。
最初に購入した海外製のオーディオ機器は、
これもまた同世代の人と同じようにカートリッジである。
エラックのSTS455Eが、私が最初に購入した海外製のオーディオだった。
STS455Eは、わりとすぐに購入した。
だからすべて国産のオーディオ機器でレコードを聴いていた時期は3ヵ月ほどだった。
それ以降、国産のオーディオ機器だけで揃えたシステムを自分のモノとしたことはない。
一部に国産のオーディオ機器がはいることはあっても、スピーカーシステムはSC104以降はずっと海外製。
唯一の例外はサブスピーカーとして購入したテクニクスのSB-F01だけである。
そういう私が、いまごろになって、国産のオーディオ機器のみで組んだシステムが欲しいな、と思うようになった。
アナログディスク再生ならばカートリッジも、プレーヤー関係のアクセサリーもすべて国産にする。
アンプ、スピーカーシステムはもちろん、ケーブルももちろん国産のみを使う。
スピーカーシステムはユニットは海外製を使用したモノではなく、ユニットからそのメーカーで開発したモノ。
ただ、あまり大袈裟になるシステムは求めていない。
とはいっても本気で好きな音楽を聴けるだけのシステムが、
日本のオーディオ機器だけでまとめあげられる可能性を感じている。
ただ残念なのは、現行製品だけで組むことは、まず無理だということ。
でも過去の日本のオーディオ機器ということであれば、候補はいくつもあがってくる。
使いこなしていく自信はある。
そういえば、使いこなしの「こなし」は「熟し」と書く。
使い熟し、となるわけだ。
つまりは、私の中にも、すこしは熟したものが出てきはじめことが、その理由なのだろうか。
SP盤での音楽鑑賞の体験がなければ、
音楽鑑賞に必要な想像力が得られないのか、もしくは養われないのか……。
なにもSP盤に限ることはい。
昔のSP盤の再生音のように、雑音の中から音楽を拾い出して聴くこと、
決して多くはない情報量を補うために想像して聴いてきたことがあれば、いい。
それはなにも悪い音で音楽を聴くということでは必ずしもない。
悪い音のときもある、が、貧しい音といったほうがより正しいだろう。
そういう音で音楽を聴いてきた体験が、
菅野先生、丸尾氏のバックボーンになっている。
このふたりだけに限らない。
五味先生だって書かれたものを読めばそうだとわかるし、
瀬川先生、岩崎先生もそうだ。他の方々はそういう経験を経た上でのバックボーンがある。
こういう話をすると、反論が、決って返ってくる。
情報量が多い音、雑音がほとんどない音でだけ音楽を聴いた経験しかなくても、
想像力は身につくし養われていく。
むしろSP時代の音によって得られた想像力よりも、
情報量が多く雑音のない音だけを聴いて得られる想像力のほうが上である、と。
つまり情報量が多くなり、雑音が少なくなったことで聴き手が受け取るものは圧倒的に多い。
多いからこそ、SP時代では行き着けなかった領域にまで想像力を働かせることができる──、
そういうことなのだそうだ。
ほんとうにそうなのだろうか。
情報量が飛躍的に増えることで、想像力はほんとうにそうなっていくのだろうか。
その可能性を否定はしないものの、全面的には同意できない、なにかを感じる。
丸尾氏はステレオサウンド 66号の取材の時点で59歳。
ということは1923年か24年生れであり、SPの時代からレコードを聴いてこられた方である。
ベストオーディオファイル訪問記での菅野先生との対談も、SPの時代の話から始まっている。
ふたりのやりとりをすこし引用する。
*
菅野 雑音は多いし聴こえない音はたくさんあるし、低音は出ないし、高音もそんなに出ませんし、ひどい音ではあましたね……。
そういう条件の中で、しかし、まったく音楽を聴こうと思って、あのレコードをのっけてから数分で裏がえすというようなことをあえて音楽を聴きたいがためにやるわけです。
情報量が少ないから、ぐーっと集中して聴こうということになわけです。情報が少ないから、頭のなかで補うということをしていかなきゃならない。そして実際にすばらしい音楽体験をしていた……。
丸尾 ええ、あの蚊の鳴くような音から、シンフォニーホールの雰囲気が、ヴァイオリンの音が、チェロの音が、そこにひろがるハーモニーが……想像して聴けたんですからね。
菅野 たしかに想像しなきゃ聴けなかったんですね。しかし、想像しなきゃ聴けなかったということは、ひっくりかえしていえば、想像を強要された。想像する能力のない人はだめだった。想像する能力のある人は、いかようにも想像して聴いた。
その想像ということこそ、非常に意味が大きいわけですね。いま、想像を強要されないんですよ。想像する必要がないんです。ですから、音楽に集中して音楽を聴くという昔のような姿勢に、なかなかなりにくいわけです。
丸尾 想像するということが、一つの集中でしたからね。
*
ノイズが多く情報量が少ないSP盤での音楽鑑賞には想像が強要され、
その想像することが、ひとつの、音楽への集中であった、ということ。
この体験をバックボーンとされているからこそ、
丸尾氏のバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーの第四番の「再生」は成しえたんだ、と思う。
クレルのKAS100とGASのAmpzillaの回路図を比較すると、
確かに似ている、というよりもそっくりといっていいかもしれない。
特に言葉だけで回路の内容を表現しようとすれば、文字の上ではそうとうに似てくる。
これだけでKAS100、つまりクレルがGASのマネしているとは言い難い面もある。
技術は進歩することによって収斂していく面もあわせもつ。
だから回路構成が似ているからといって、
後から登場したアンプ(メーカー)がマネをしたとは、かならずしもいえない。
ではその他の点に関してはどうだろうか。
アンプの音は回路構成と使用部品によって決まるわけではないことは周知のとおり。
筐体構造をふくめたコンストラクションも大きな音に影響している。
AmpzillaとKSA100のコンストラクションを写真を使わずに、
これもまた言葉だけで表現するとすれば、回路ほどではないにしても似てしまう。
Ampzillaの場合フロントパネルの右側に電源トランス、左側にヒートシンクがあり、
このあいだに平滑用の大容量の電解コンデンサーが配置されている。
KSA100はこの配置と基本的には同じである。
フロントパネルのすぐ裏側に電源トランス、それから電解コンデンサー、ヒートシンクと一列に並んでいる。
AmpzillaもKSA100もファンを使った強制空冷をとっている。
AmpzillaとKSA100の違いは、KSA100は完全なデュアルモノーラルコンストラクション、
そして空冷ファンとヒートシンクの位置関係。
Ampzillaは空冷ファンを下側に、その上にヒートシンクを置く。
KSA100はヒートシンクの上に空冷ファンを置いている。
こんなふうに見ていくと、KSA100はたしかにAmpzillaに似ているといえば似ている。
でも、マネをした、は言い過ぎというよりも、KSA100を正しく理解していない、というべきだ。
KAS100は回路構成の特徴よりも、内部コンストラクションの特徴の方をどちらかといえば謳っていた。
KAS100のシャーシーは奥行きが長い。
Aクラスで100W+100Wの出力をもつアンプだけにサイズがある程度大きくなることは想像できるものの、
それにしてもKAS100のシャーシーは奥に長いすぎる、という感じ。
自然空冷であればAクラス100Wの発熱を処理するためには、
それなりの大きさのヒートシンクが要求されそれにともないアンプ自体も大型化していくわけだが、
KAS100は強制空冷をとっている。巨大なヒートシンクはもっていない。
にもかかわらず奥に長いシャーシー内部には、
電源トランス、平滑用の電解コンデンサー、ヒートシンクを中心とするアンプ・ブロック、
これらが余裕をもたせて配置してあることが、天板をとり中を覗いたときにすぐに気がつく点だ。
それぞれのブロックの電磁的、熱的などの相互干渉をおさえるためにこれだけの距離が必要であり、
これ以上の小型化はできない、という説明がなされていた。
いますこし菅野先生の発言を引用したい。
*
これは正しい再生ではありません。カートリッジがひろいあげた音をRIAAイコライザーをとおしたあとは、できるだけ歪の少ない増幅器で増幅し、歪の少ないスピーカーで再生する。あとは、ルームアコースティックを配慮して、細かい調整を行なっていく。オーディオ再生というものには、約束事として、それだけしか許容されていないと思うんです。
その許容限度を越えているから、正しい再生とは断じて言えませんが、、このばあいの非はレコードの側にあくまでもある。(註・帰宅後も気になったので、おなじレコードをあらためて自分の装置で再生してみた。以前に聴いた印象どおり、高域にキャラクターの強い録音で、丸尾さんならずとも聴きにくい。ぼくには理解しがたいサウンドバランスである。[菅野])
ぼくならば、このレコードにあくまでこだわることをしない。この例外的なレコードを聴くためだけに、自分のせっかく調整しぬいた装置のバランスをくずすわけにはいきませんから……。
しかし丸尾さんがニューヨーク・フィルとバーンスタインによる、このマーラーの演奏が聴きたい、という気持もまたよく理解できます。
*
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによるマーラーのレコードについては、
菅野先生は丸尾さんとの対談のなかで「きわめて異常なサウンドバランスのレコード」とも表現されている。
そういうレコードであるから、五味先生が上杉先生のところで聴かれたとき、
このレコードから「死の舞踏」が、悪魔が演奏するように響いてくることを求めるのは、無理というものだろう。
「アパッチの踊り」になってはたしかに困る。
けれど、このレコードのサウンドバランスからすると、
「アパッチの踊り」に傾いてしまいがちなことも、またたしかだ。
菅野先生は丸尾氏の、このときの音について「正しい再生」ではない、といわれている。
菅野先生がよくいわれていた「オーディオの約束事」からは、あきらかに外れてしまった再生であることは、
丸尾氏の音を聴いていなくても、記事からも伝わってくる。
考えていきたいのは、ここからだ。
「正しい再生」ではない──、
これはレコードの再生として正しくないわけであるわけだが、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによる演奏の再生としてはどうなのか、
さらにはマーラーの音楽としての再生としてどうなのか。
正しい再生ではない、といえるだろうか。
そしてバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによる、このマーラーの第四番は、
丸尾氏の大切な愛聴盤であり、この一枚のLPを「快く聴きたい一心」で、
パトリシアン800のバイアンプ駆動というシステムのチューニングを行われていた。
しかも丸尾氏は年に2回ほどニューヨークフィルハーモニーを聴きにいかれる。
シンフォニーホールの1階の真ん中のぐらいの積で聴く音に、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーを近づけようとされていたわけだ。
その成果である丸尾氏のシステムで鳴り響いたバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーを、
菅野先生はこう表現されている。
*
ほんとうに熟成されたブランディのような、まろやかな音で鳴ってくれました。
いま聴いていて思い出したんですけれども、ニューヨーク・フィルのチェロ、ヴィオラあたりに、たしかにこういうテクスチュアが感じられたと思います。たしかに、ニューヨーク・フィルは、丸尾さんが再生されたような音を持っています。
*
ここで鳴ったマーラーの第四番の独奏ヴァイオリンが「死の舞踏」であったのかは、
そのことについての発言はないからなんともいいようはないものの、
すくなくとも五味先生のいわれた「アパッチの踊り」ではなかったことはわかる。
しかしだからといって、上杉先生の鳴らし方と丸尾氏の鳴らし方を、
ここで比較してどちらが上といったことはいえない。
いえるのは、丸尾氏は、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーのためだけにシステムをチューニングされていた、
ということである。
このバーンスタインの旧録のマーラーの第四番は、お世辞に優秀録音とはいえない。
菅野先生は、このレコードについてこう語られている。
*
このレコードに本来入っている録音は、非常にギラギラしたアメリカのオーケストラといった印象のものなんですね。その妥当とは思われない録音のレコードから、本来あるべきサウンドバランスにきわめて近い音を引き出したという丸尾さんの力量には敬意をはらいつつも、そのことのために、ほかのすべてのレコードの音を犠牲にしてよいのだろうかという疑問もどうしようもないわけです。
*
この菅野先生の発言にもあるように、丸尾氏がかけられた他のレコード──
シモーネ指揮のヴィヴァルディ(エラート)、アルゲリッチによるバッハ(ドイツ・グラモフォン)、
ベルリン弦楽合奏団のロッシーニの三つの弦楽ソナタ(ビクター)などは、
バランスを欠いたハイ下り、ロー上りであった、といわれている。
だからこそ、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーが、
菅野先生をして「あの録音がこういう音で聴けるとは思わなかったなあ」といわしめたわけだ。
五味先生が上杉先生のリスニングルームを訪問されたのは、
ステレオサウンド 18号に載っている「オーディオ巡礼」の中でのことである。
1971年の春に18号は出ている。
ということは、五味先生がここで聴かれたバーンスタインのマーラーは、
いうまでもなくCBSに録音したもので、ニューヨークフィルハーモニーを振ってのものである。
これもいうまでもないことだがLPで聴かれている。
「正しいもの」について書いていくためには、
まずこのLPについてふれておかなくてはならない。
バーンスタインの旧録音のマーラーの第四番のLPとは、どういうものなのか。
このLPのことは、ステレオサウンド 66号の菅野先生の「ベストオーディオファイル訪問記」にも登場してくる。
神戸にお住まいの丸尾儀兵衛氏の訪問記は、このLPのことを中心に話がすすんでいく。
丸尾氏のシステムはエレクトロボイスのパトリシアン800を、中低域から下をマランツの9K、
それよりの上の帯域をカンノアンプの300Bシングルによるバイアンプで、
コントロールアンプはマランツの7。
プレーヤーはパイオニアExclusive P3に、
カートリッジはEMT・XSD15、フィデリティ・リサーチのFR7f、シュアーV15TypeIVなど、である。
66号は1983年の3月発行の号ということもあって、
丸尾氏はまだCDプレーヤーは導入されていない。
丸尾氏がかけられたバーンスタインのマーラーはLPである。
ステレオサウンド編集部にいたころは、
いかにしておもしろい本、いい本をつくるかということが編集という仕事だと思っていた。
ステレオサウンドをはなれて気がついたことがある。
本をつくるということは編集者にとって目的ではなく、手段だということに。
編集者がつくっていかなければならないもの(こと)は、他にある。
本をつくるのは、その実現のための手段として考えてみれば、
これからのオーディオ雑誌のあり方、つくり方が見えてくる。
同じことを、私はオーディオのスタート点で読んでいた。
何度も何度も書いている「五味オーディオ教室」に、同じことが書かれている。
*
芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じになる傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
*
マーラーの、このヴァイオリンが仮に非常に美しい音で鳴り響いたとする。
白痴美ともいえるような音で鳴ったとしたら、それは音として聴けば、魅力的、魅惑的な音である。
けれど、それでは「死の舞踏」にはなりはしない。
天使が弾いているかのようなヴァイオリンの音で鳴ったとしても、
もしほんとうにそういう音で鳴ってくれたら、きっと嬉しくなり狂喜するかもしれないけれど、
やはり、これも「死の舞踏」にはなってくれない。
天国に連れていってくれるという意味でとらえれば、「死の舞踏」といえなくもないだろうが、
あくまでもマーラーの指示は「死神の演奏で」であるから、そういう音で鳴ってくれないと困る。
だが、これはあくまでもレコードにおさめられている演奏が、
それを十全に再生できれば、「死の舞踏」となるという保証は,じつのところどこにもない。
これまで市場に出廻ったマーラーの交響曲第四番のレコードのうち、
ほんとうに十全に再生できたときに「死の舞踏」がスピーカーから聴き手に迫ってくるものがどれだけあるのか。
これは演奏の問題も絡んでくるし、録音の問題も絡む。
さらにアナログディスクであれば、
それがプレスされた国によって大きく音が違ってくるということも関係してくる。
五味先生は、上で引用した文章のつづいて、こう書かれている。
*
私は思った。むかし、モノラル時代の英HMV盤で、何人かの独奏者のヴァイオリンを聴き、その音の美しさに陶然としたことがあるが、総じて、管楽器は、ランパルの例を出すまでもなく、フランス人でないとどうしても鳴らせぬ音色がるらしい。同様に、弦はユダヤ人でないと絶対に出せない音があるという。
そういう、技術ではもはやどう仕様もない音色を、英盤は聴かせてくれるのに、アメリカプレスのRCAビクターでは鳴らなかった──そんな記憶を古いレコード愛好家なら持っていると思うが、私たちシロウトでさえわかるこんなことを、アメリカの心ある音楽関係者が痛感していないわけがない。
*
「技術ではもはやどう仕様もない音色」が、「死の舞踏」へ深く関わってくる──。
927の原型であるR80と930stが、耐久性においてまったく同じであるとはいえないかもしれないが、
930stもスタジオ用プレーヤーとして開発され、多くのスタジオで使われてきた実績があるということきは、
耐久性において、定期的なメンテナンスをやっていけば、かなりの長期間に渡って信頼できる性能を維持できる。
930stや927Dstよりも、性能の高いアナログプレーヤーはダイレクトドライヴの出現によって、
普及クラスのプレーヤーであっても登場してきている。
ワウ・フラッターにしてもカタログ発表値は普及クラスのダイレクトドライヴ型のモノが低い値だ。
けれど、それらのアナログプレーヤーを10年、20年スタジオという現場で使っていったとき、
どういう変化を見せるであろうか。
私の趣味に自転車がある。
いまから17年前に、はじめてロードバイクを購入したとき、
自転車店の人にいわれたのは、コンポーネントの価格の違いについて、であった。
私が選んだのはシマノのデュラエースだったが、
シマノのコンポーネントにはグレードがあり、デュラエースをトップにその下にアルテグラ、105があった。
自転車店の人によると、これらの性能はほとんど同じだ、ということだ。
ギアの変速、ブレーキの制動具合など、価格ほどの差はない。
なのにこれだけの価格の差がついているのは、
初期性能をどれだけ維持できるかということの違い、ということだった。
もちろんグレードの違いには、それだけではなく、
仕上げの違い、操作感の違いなども当然あるのだが、
数多くの自転車を組み上げ、調整しメンテナンスをしてきたプロの言葉には、重みがあった。
EMTのアナログプレーヤーの良さ、
といってもEMTのダイレクトドライヴの950や948は自分で使った経験がないので、
ここではあくまでも920、927に話を限らせてもらうことになるが、
初期特性を長期間に渡り維持できる良さである。
ほぼ1年前に、ある言葉をオーディオ雑誌でみかけた。
そのときは、その言葉の語感がしっくりこなくて、それ以上の関心をもつことはなかった。
一昨日、あれこれ検索しているうちに、ふと思い立って、そういえば、あの言葉、一般的になったのだろうか、と、
カタカナではなく英語の単語として検索してみた。
1年前は、その筆者による造語だと、なんとはなしに決めつけてしまっていた。
筆者自身、本人による造語として使っていたように記憶している。
けれど実際にはアメリカではかなり以前から使われていて、
それも詳細については書かないが、差別に関する単語だった。
おそらく、この言葉を使われていた(というよりも提唱されていた、と受け取っている)筆者も、
その事実をご存知なかったのだろう。
その意味を知っていたら、不特定多数の読者の目に触れるオーディオ雑誌に、その言葉は使わない。
私が、この言葉をみかけた雑誌では、これから先、誌面に、この言葉が登場することはないはず。
それにその出版社から筆者のところへもなんらの連絡がいくであろう。
だから、誰が、どの言葉なのかについては、これ以上書くつもりは、いまのところない。
書きたいのは、無関心であったことへの反省である。
その言葉は、それ以前も、同じ筆者によって別の出版社の本で使われていた。
そのことも昨日知った。
見かけたときに調べていれば、すぐに気がつけたことを、ほぼ1年放ったらかしにしていたことになる。
無関心であったからだ。
その言葉の意味を調べるのは、たいした時間はかからなかった。わずか数分でしかない。
おそらく1年前に調べたとしても、いまと同じ検索結果が表示されたはず。
それをやらなかった。
その筆者による、その言葉について、賛同者もいる、否定的な人もいるだろう。
私と同じように無関心の人もいよう。
おおきくわけて、この3パターンがあり、このうち賛同者はときに盲目的であり調べずに同調し、
その言葉を使うのではないだろうか。
無関心であった人は、そのまま無関心のままだろう。
おそらく否定的な人のみが、この言葉の意味を調べたのではなかろうか。
そんなことをつい思ってしまった。
この時代、知らなかった、ではもうすまされなくなりつつある。
Google登場以前と以降では、まったく違う。
無関心ではいけない、と強制することはできない。
けれど、無関心であってはいけない人たちがいて、
その人たちが無関心であったから、その言葉がいままで放置されていたことになる。
私も、こうやって毎日ブログを書いていて、少なくない人たちがアクセスしてくださっている以上、
無関心でいてはいけなかった。
その言葉を見かけたときに語感的にしっくりこなかったのは、
なんらかの違和感に近いものを感じとっていたのかもしれない。
なのにその時、調べなかったのは、無関心であったから、というよりも無関心でいようとしたのかもしれない。
そのことへの反省がある。
たったひとつの言葉について、なんて大袈裟な、と思われるかもしれない。
でも、その言葉は、その言葉を使った人だけの問題にとどまらず、
その言葉を放置したまま、もしくは積極的に使っていくということは、
オーディオ界全体に関係してくることでもあるからだ。