Archive for 4月, 2012

Date: 4月 14th, 2012
Cate: 岩崎千明

「オーディオ彷徨」(熟読ということについて)

辞書には、熟読とは、内容をじっくり味わいながら読むこと、内容を深く読み取る、といったことが書かれている。
熟読がこのとおりであれば、一回だけ読んでも、
きっちりと書かれている内容を読み取ることが出来れば熟読したことになる。
何度読んでも、そのためには時間もより多く必要になるわけで、
だからといって内容を読み取れなければ熟読とはいわない。

ようするに本を読むための時間と熟読のあいだには深い関係はない、とつい最近まで思っていた。
早く読んでも熟読できる人もいれば、そうでない人もいるのだから。

けれど、熟読には、もうひとつ意味があるように感じはじめていて、
そうなると熟読には、やはり時間が、それもかなりながい時間が必須だ、と思うようになってきた。

岩崎先生の「オーディオ彷徨」に収められているものにエレクトロボイス・パトリシアンIVを、
アメリカ建国200年の1976年に導入された文章がある。
この文章のタイトルがじつにいい。
そして、熟読とはこういうことであると、
パトリシアンIVのついて書かれた文章のタイトルは語っている、と私は勝手にそう受け取っている。

「時の流れの中でゆっくり発酵させつづけた」

数は少ないけれど、私にははっきりと「時の流れの中でゆっくりと発酵させつづけた」本がある。
これらの本に関してのみ、やっと熟読した、といえよう。

Date: 4月 13th, 2012
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーについて(その8)

現在日本に輸入されているマッキントッシュのスピーカーシステムは、
XRT2K、XRT1K、XR200の3機種で、菅野先生が愛用されているXRT20とはずいぶん違った形になってしまった。

XRT20と型番上は同じXRTシリーズということになるのだろうが、XRT20と現在のXRT2K、1Kの共通点は、
トゥイーターの使用個数が近い、ということぐらいだと私は思う。
そのトゥイーターもXRT20はソフトドームを採用していた。
初期のXRT20はフィリップス製のソフトドーム型だったが、
事情により比較的早い時期からフィリップス製ではなくなっている(と聞いている)。

現在のXRT2K、1Kに使われているトゥイーターはチタン・ダイアフラムのハードドーム型である。

マッキントッシュのXRTシリーズを、
単にトゥイーターを多数使用したスピーカーシステムぐらいにしか捉えられない人にとっては、
ソフトドーム型だろうとハードドーム型だろうと、大きな違いはない、と考えるだろう。
けれど、ゴードン・ガウが、あえてソフトドーム型トゥイーターを24個使うことで実現したものは、
いったいなんだったのかを考えてみると、ハードドームかソフトドームかの違いは、
XRTシリーズの特徴的なトゥイーター・コラムの変えてしまう、とさえ思っている。

同じドーム型振動板をもつトゥイーターでも、
振動板が金属を使った硬い振動板のハードドーム型と樹脂系や布などの柔らかい素材のソフトドームでは、
振動板の動き・挙動はまったく同じとはいえない。
コーン型ユニットでも紙の振動板もあれば金属の振動板のユニットがあるけれど、
コーン型における振動板の素材の違いによる動作・挙動の違いは、
ドーム型における動作・挙動の違いに比べれば小さい、と考えられるのは、ユニットそのものの構造からくる。

Date: 4月 12th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その11)

オーディオでは、アンプ、スピーカーシステムといったオーディオ機器はハードウェアであり、
LP、CD、ミュージックテープなどはソフトウェアである。

ハードウェアの価格は、その製品の開発費、製造コスト、流通コストがかかっているものは価格も高い。
ごくまれには、これでこの価格? と疑いたくなるような値がつけられている商品もあるにはあるが、
総じて価格と、その製品のコストは比例関係にある、といえる。

ところがソフトウェアとなると、
有名な音楽家によるものも新人の演奏家によるものも、値段は同じである。
さらにオーケストラを録音したものも、ピアニストのソロ演奏のものも、
録音にかかわっている演奏家の人数には大きな開きがあっても、レコードの値段は同じである。

レコードというソフトウェアの値段は、そういうものだと思っていた。
音楽の内容と値段は直接の関係はないもの、と。

この価格設定の違いが、ハードウェアとソフトウェアのもっとも大きな違いなのだ、とも思っていた。
けれど、1991年からMacを使うようになると、
パソコンの世界においては、ソフトウェアの価格がレコードの価格のように、
すべて同じではないことを最初から(なぜだか)当り前のように受けとめていた。

当時はまだCD-ROMはほとんど普及していなかったし、インターネットという単語も聞くことはなかった。
ソフトウェアは、だから3.5インチのフロッピーディスクでの供給だった。
つまりソフトウェアの容量の大きなものはフロッピーディスクの枚数が増えていく。
当時、Photshopのヴァージョン2か2.5だったと思うが、
フロッピーディスク10数枚を何度も入れ替えしながらインストールしていった。

レコードでも組物は当然価格は増す。
ワーグナーの「指環」は、だから他の1枚で収まる音楽にくらべると価格は高い。
とはいうものの、例えば10枚の組物でも、
1枚のレコードの10倍の価格ではなく、もう少し安い価格がつけられている。

パソコンのアプリケーションはフロッピーディスク1枚で供給されるものでも、価格はかなり違っていた。
フロッピーディスク10数枚のアプリケーションは、
フロッピーディスク1枚のアプリケーションの10倍の価格になる、とは、だからならない。

Date: 4月 11th, 2012
Cate: 楽しみ方, 表現する

オーディオの楽しみ方(読み方について)

ステレオサウンドにいたとき、音を言葉で表現することの難しさについて、
編集部の先輩のNさんとよく話していた。

オーディオ雑誌からは、昔から言われ続けている通り、そこにあるのは文字と写真とイラスト、図版などであり、
誌面からは音は出てこない。
視覚的なもので音を読者に伝えるために、オーディオ評論家だけでなく編集者もあれこれ考え続けていた。

何度話し合ったところで、決定打はない。
そういうものが、もし世の中に存在しているのであれば、誰かがすでに見つけていたはず。
それが見つからないからこそ、オーディオ評論が面白い、ともいえる。

そういえば、菅野先生から10年ほど前に聞いた話がある。
菅野先生が髪を切りにいかれている店で、
「オーディオにはまったく興味はないんですけど、
音を表現する文章は面白いからときどきオーディオ雑誌を読んでいます。」
と店のスタッフの方に話しかけられた、ということだった。

菅野先生は、意外な話として話された。
私も意外な話として聞いていた。

オーディオに興味のある人は、たとえばスピーカーシステムの買い替えを検討している人は、
スピーカーシステムの特集記事、新製品の試聴記事が載っていれば、
その文章から、そのスピーカーシステムがいったいどんな音をなのか、
そのスピーカーシステムの能力の高さはどの程度のものなのか、
いま鳴らしているモノよりもどれだけいいのか、
そしていま自分が求めている音をほんとうに実現してくれるものなのか、
はたまた価格に見合った音、価格以上の音を出してくれるのか、等々、さまざまな情報を読み取ろうとする。

けれど、菅野先生が話してくれた人は、
そんなことにはまったく無関心なのだから(オーディオに関心がないのだから)、
音の表現方法の面白さを、オーディオマニアよりも純粋に楽しんでいる、ともいえるわけだ。

Date: 4月 10th, 2012
Cate: TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その79)

別項の「名器、その解釈」でもオートグラフとウェストミンスターの違いについて触れているところである。

ずっと以前にも書いていることだが、
私にとってオートグラフとウェストミンスターという、
ほぼ同じ形態をもつ、このふたつのスピーカーシステムは、ベートーヴェンでありブラームスである。
オートグラフは私にとってベートーヴェンであり、ウェストミンスターは私にとってブラームスである。

こうやって書いていくことによって、そのことをよりはっきりと感じるようになってきている。

いちばん新しいウェストミンスターの音は聴いていないから、
もしかするとブラームスという印象は感じないかもしれないが、
スピーカーシステムの性格は細部の改良によって大きく変化していくものでもないから、
おそらくはブラームスと感じてしまうことだろう。

ブラームスの音楽には優しい、といいたくなる内面性がある。
その優しいところを、私がいままで聴いてきたスピーカーシステムでは、
ウェストミンスターが最もよく音楽として表現してくれるから聴き惚れる。
いっさいの無理を感じさせずにブラームスの音楽を美しく優しく響かせてくれるスピーカーシステムは、
ウェストミンスターの他になにかあるのだろうか。

私が過去に聴いてきたスピーカーシステムの中にはすくなくともない。
似たようなスピーカーシステムもすぐには思いつかない。
だから、これはウェストミンスターの美点であろう。

けれど、自分のモノとして手もとに置いて鳴らしたいわけではない。
それは、やっぱりウェストミンスターはブラームスであるからだ。

五味先生はオートグラフのことを
「タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。
それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。」と書かれている(「ワグナー」より。「西方の音」所収)。

五味先生は1980年に亡くなられている。
ウェストミンスターはまだ登場していなかった。これはもう勝手な想像でしかないのだが、
もし五味先生がウェストミンスターを聴かれていたら、同じことを言われたであろうか、と考えてしまう。
ウェストミンスターの音を思いだしながら考えていると、
そういわれないであろう、という可能性を捨て切れないでいる。

結局のところ、ウェストミンスターの響き(本質)は優しい、だからだと思っている。

そうはいいながらも、ウェストミンスターを年に1回でいい、聴いていきたい、とも思う。
ウェストミンスターの音・響きにストレスにはまったく似合わない。
ストレス・フリーでウェストミンスターをうまく歌わせることができる人のところで、
ブラームスのレコードを1枚でいいから聴きたい。
いまはそう思っている。

けれど齢をとっていけば、変っていくのかもしれない。
ウェストミンスターを自分のモノとして鳴らしたいと思うようになるのだろうか……。

Date: 4月 9th, 2012
Cate: Kingdom, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その78)

ウェストミンスターをオートグラフの後継機種、
つまりは現代版のオートグラフという認識でウェストミンスターを使っておられる方も少なくないと思う。
私もウェストミンスターが登場したときは、そう思っていた。
オートグラフのコーナー型を、
一般的な日本の住環境でも設置しやすいレクタンギュラー型とした現代版オートグラフだと受けとめていた。

ウェストミンスターが登場したころはユニットはフェライトマグネットであり、
この点には不満を感じたものの、それでものちにマイナーチェンジを重ねるごとにアルニコマグネットになり、
ネットワークにも手が加えられエンクロージュアの寸法にも変化があり、
風格を増していったウェストミンスターに対して、
ほんとうにオートグラフの後継機種だろうか、という疑問を持ちはじめたころにKingdomが登場した。

Kingdomを紹介記事をステレオサウンドで読んで思い出していたのは、
1978年に登場したバッキンガムとウィンザーである。

このふたつのスピーカーシステムに関しては、この項の(その30)から(その36)にかけて書いているし、
さらに(その56)と(その57)でも触れている。

(その30)から(その36)を書いたのは2009年の7月、
(その56)と(その57)は2011年の5月。

すこしあいだを開けすぎたと反省して書いているのだが、
バッキンガムは25cm口径の同軸型ユニットに30cm口径のウーファーをダブルで足している3ウェイ・システム。
ウィンザーはシングルウーファー仕様。

当時はタンノイはハーマン傘下にあった。
主力となっていたのは、いわゆるABCシリーズと呼ばれていた、アーデン(Arden)、バークレー(Berkeley)、
チェビオット(Cheviot)、デボン(Devon)、イートン(Eaton)であった。
オートグラフとG.R.F.はタンノイの承認を得てティアックによる国産エンクロージュアとなっていた。

往年のタンノイを知る者にとっては、やや物足りなさをおぼえていたところに、
バッキンガムとウィンザーが登場し、
このふたつのスピーカーシステムについて、(その56)でも引用しているように、
タンノイのリビングストンは、こう述べている。
「オートグラフとGRFを開発した時と全く同じ思想をバッキンガム、ウィンザーにあてはめている」と。

リビングストンは1938年にタンノイに入社した、いわばタンノイの生き字引ともいえる人物であり、
彼が、このように語っているのだ。

ならばKingdomもオートグラフを開発した時と全く同じ思想をあてはめている、といってもおかしくはないはず。
むしろ、バッキンガム、ウィンザーよりも、
より徹底した、その思想をあてはめて開発されたのがKingdomといえよう。

Date: 4月 8th, 2012
Cate: Kingdom, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その77)

また書いているのか、と思われても、
くり返し書くことになるけれど、「五味オーディオ教室」からオーディオの世界へとはいっていった私には、
タンノイのオートグラフは、そのときからずっと、
そして(おそらく)死ぬまで憧れのスピーカーシステムでありつづける。

タンノイの前身であるTulsemere Manufacturing Companyは1926年の創立だから、
あと14年で創立100年の歴史をもつタンノイのスピーカーシステムの中でいちばん欲しいのはオートグラフであり、
これから先どんなに大金を手にしようと、オートグラフを迎えるにふさわしい部屋を用意できようと、
おそらく手に入れずにいるであろうスピーカーシステムもオートグラフである。

特別な存在であるオートグラフを除くと、
私が欲しいと思うタンノイのスピーカーシステムは、
タンノイ純正ではないから、いささか反則的な存在ではあるけれど、
ステレオサウンドが井上先生監修のもとで製作したコーネッタがある。
現行製品の中ではヨークミンスター/SEはいい出来だと思っている。

このふたつのスピーカーシステムを欲しいと思う気持とはすこし違った気持で「欲しい」と思うのは、
やはりKingdomである(それも最初に登場した18インチ・ウーファーのモノ)。

このKingdomこそが、オートグラフの後継機種だと考えているからだ。

オートグラフの後継機種はウェストミンスターではないか、と思われるだろう。
たしかにウェストミンスターは、オートグラフの形態的な後継機種とは呼べるものの、
オートグラフが1953年に登場したとき実現としようとしていたもの、目指していたもの、
こういったものの方向性は、オートグラフとウェストミンスターとではやや違うように感じているからだ。

オートグラフは1953年の時点で行き着けるであろう最高のところを目指していた。
そのための手段としてバックロードホーンとフロントショートホーンの複合ホーン、
さらにコーナー型という複雑なエンクロージュアを採用することになったのではないか。

菅野先生が以前からいわれているように、
スピーカーシステムは同時代の録音と同水準のものそなえることが理想的条件のひとつである。

周波数特性(振幅特性だけでなく位相特性もふくめての周波数特性)、ダイナミックレンジ、リニアリティ、
S/N比……、こういったことをベースとしての音色、音触などいったことを含めての、
つねに同時代の録音に対するタンノイの答が、
1953年はオートグラフであり、それから約40年後はKingdomである。
ウェストミンスターは、オートグラフと同じ要求に対する答ではない──、
私はそう考えている。

だからオートグラフの後継機種といえるのは、ウェストミンスターではなくKingdomであり、
私がKingdomを「欲しい」と思っている理由は、まさにここにある。

Date: 4月 8th, 2012
Cate: 6041, ALTEC, Kingdom, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その76)

このあたりがJBLとアルテックの違いである、と思える。
どちらもアメリカ西海岸にあるプロ用のスピーカーを製造している会社でありながら、
JBLのスピーカーユニットの豊富さとは逆にアルテックのスピーカーユニットの数は少ない。
アルテックにはJBLのようにコーン型ユニットの口径のヴァリエーションが豊富ではない。

だからアルテックが4343と同等かもしくはそれを超えようとする4ウェイのシステムをつくろうとすれば、
604-8Hしかないというのは理解できる。
それに604をシステムの中核に使うからこそ、アルテックの色が濃くなる。

このスピーカーユニットの豊富さの違いは、メーカーの体質の違いでもある。
もしJBLが同軸型ユニットを核にした4ウェイ・システムを開発するのであれば、
現行ユニットだから、とか、会社の顔的な存在のユニットだから、といったような理由ではなく、
最適な口径のユニットがラインナップになければ、新たに開発するであろう。

それに、以前も書いているけれど、6041は急拵えのシステムだと思う。

そうはいいながらも6041には魅かれる。
だから、こうやってあれこれ書いているわけだ。
604-8Hを使い4ウェイ・システムを、完成度を高くまとめていくのであれば、
私ならばウーファーの口径はもっと大きなものにする。
黄金比的にいえばミッドバスが15インチなのだから、24インチ(60cm)口径となる。
現実に、この口径のウーファーとなるとハートレーの224HSがある。
マーク・レヴィンソンがHQDシステムにも採用したハートレーの、このウーファーは、
クラシックをメインに聴く私にとっては、
604と組み合わせる大口径ウーファーとしては、これしかないようにも思う。

とはいえ604-8H(もしくは604-8G)の下に224HS、となると、
エンクロージュアのサイズはかなりの大きさになる。

もうひとつ考えられるのは、18インチ口径のウーファーをダブルで使うことだ。
これもエンクロージュアのサイズはそうとうに大きくなる。

24インチ・ウーファーにするのか、18インチ・ウーファーのダブルか。
18インチ・ダブルの方は、604に合うと思えるユニットが頭に浮ばない。
現行製品だけでなくとも、18インチともなると製品の数も減ってくるし、過去の製品でも思い浮ばない。

604を使いながら4ウェイにしてワイドレンジを狙うのであれば、
私自身の好みをいれると、ハートレーの224HSということになる。
604と224HS──、もうバカげた構成ではあるけれど、試してみたい、と思いつつも、
現実的な構成としては、
タンノイのKingdomの12インチ口径同軸型ユニット18インチ口径ウーファーの組合せは、
うまくオーディオマニアの心をとらえた絶妙な、そしてぎりぎりのサイズ設定だと感じてしまう。

Date: 4月 7th, 2012
Cate: 6041, ALTEC, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その75)

4ウェイのスピーカーシステムにおいて、ウーファーとミッドバスの口径比が成功のカギになっている、
と実例から確信しているものの、なぜ黄金比に近い口径比がうまくいくのか、
その技術的な理由付けについては、いまのところ書いていけない。
ただ、そうだとしか、いまのところはいえない。

この観点からすると、アルテックの6041のウーファーは小さいということになってしまう。
ミッドバスとミッドハイを15インチ口径の604-8Hで受け持たせているわけだから、
ここにサブウーファーとして同口径のウーファーをもってきたとして、うまくいく可能性は低かろう。

もちろん604-8Hの低域をネットワークでカットすることなく、
追加したウーファーの高域のみカットして低域に関しては、
604-8Hのウーファー部とサブウーファーの416SWを並列にして鳴らす、という手段でなければ、
うまくいきそうにないと思えてくる。

そうなると15インチ口径のウーファーを2本おさめた形になるわけだから、
6041のエンクロージュア・サイズでは小さい、ということになってしまう。
6041のサイズで中核となるユニットに604-8Hを使うかぎりは、結局のところうまくいきっこない。

タンノイには同軸型ユニットに以前から現在まで3サイズある。
10インチ、12インチ、15インチがあるところが、同じ同軸型ユニットのアルテックと少し異る点である。
アルテックにも以前は12インチ口径の同軸型ユニットが存在していた。
けれど6041が登場するころには15インチの604のみになっていた。

12インチの601シリーズは、604の原型である601と型番は同じだが、
604の原型である601は604と同じ15インチだが、1950年代なかばに登場した601A以降は、
601シリーズは12インチ口径となっている。

601シリーズは、601A、601B、601C、601D、601-8D、601-8Eと変遷をとげ終ってしまっているが、
この後も続いて、601-8Gとか601-8Hといったモデルがもしも存在していたら、
6041はユニット構成は604ではなく601になっていた可能性もあっただろう。
そうだったら6041という型番ではなく、6011となっていた(?)。

Date: 4月 7th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回 audio sharing 例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、5月2日(水曜日)です。

テーマは、3月の例会に予定していた「岩崎千明氏について語る」です。
いまfacebookで、岩崎先生のページ「オーディオ彷徨」を公開しています。
そちらに3月の例会の告知をしたところ、
岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんからのコメントがあって、
5月の例会に来てくださることになりました。息子さんも来られる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 6th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続×五・使いこなしについて話してきたこと)

マンガだから、荒唐無稽な話ではない。
「シャカリキ!」で8歳の野々村輝が一番坂への挑戦は、結局は失敗に終る。
坂の中ほどでいちど足をついているくらい体力を消耗しているだから、
坂を下っているあいだに多少は体力は回復したとしても、8歳の少年。
ふたたび登りはじめたけれど、やはり途中で精根尽き果てて倒れてしまう。

一度目の足をついてしまったことと、二度目の倒れてしまったことの意味あいは同じではない。
一度目は限界への挑戦(それも失敗)であって、二度目は限界を超えてしまった、といえる。

オーディオはスポーツではない。
体力の限界を越えてやるようなものではない、のだが、
それでも、オーディオの「限界」とは、なんだろうか、と考えてしまう。

ひとつにはオーディオ機器の限界がある。
とはいえ、この限界は一般的に思われているよりもずっと高いものだという認識を私は持っている。
そして、使う人の限界がある。

人の限界はつねに同じというわけではない。
その人次第で、その限界は変動・変化していく。
今日の限界は、必ずしも明日の限界というわけではない。

けれど、人の限界には、そういう限界とは違う、もうひとつの「限界」があるような気がしてならない。
オーディオにおいても、それがある、と思っている。
その「限界」を超えて、その「限界」をより高くしていくには、
オーディオにおいても、野々村輝と同じやり方をやっていくしかない、と信じていたい。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続々・使いこなしについて話してきたこと)

人によって考えは違う。だから手が止ってしまったとしても、
それが動き出すまで待てばいい。少なくとも、手が止ってしまうというのは、
音があるところまでいっているからでもあり、それならば好きな音楽を楽しむだけ楽しめばいい。
もちろん、これを、以前は私は言っていたことがある。

それでもオーディオをはじめてまだ10年ほどのときに、手が止ってしまうことがあったら、
いまの私は、「もう一度、一からやってみたらどうか」と言う。

システムを解体して再び組むという作業は、ものすごいエネルギーを必要とする。
こんなことは若いときにやっておかなければ、歳をとってからでは、ますます億劫になってしまう。
若いときに一度やっておけば、さらに10年後、20年後にもう一度、これをやれるかもしれないが、
若いときにやったことがなければ、引越しでもないのにシステムを解体しての再構築は、しんどい。

「シャカリキ!」の主人公、野々村輝は8歳のときに一番坂に挑戦して、
この項の最初に書いたように足をついてしまったところから再スタートするのではなく、
坂を下ってまた一から挑戦していく。
「シャカリキ!」の主人公の、この行動は、話が進み高校生になったときの行動でもある。

やっと登ってきた坂をまた引き返して最初から登りなおす、なんていうことは、
マンガというつくり話の中のことであって、それと現実のオーディオにあてはめるなんて……、
と思われる方は、こんなめんどうなことはやらない方がいい。

足をついたところで一旦休憩して体力が回復してまた登りはじめた方がいい、
その方が目的地(頂上)にははやく到着するのだから、と言うだろう。

でもそれで、ほんとうに頂上に辿り着けるのだろうか。
オーディオの目的地は、あるのではなくつくられるものてあるのだから、
その目的地に辿り着くには、強くなければならない、と思う。

オーディオはひとりでやっていくものであるから、強くありたい、と思う。
そうありたいから、足をついたら最初からやり直す。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続・使いこなしについて話してきたこと)

実際に、このことを試してみるとわかるのだが、
意外に、とでもいおうか、それとも、やっぱり、とでもいうべきなのか、
システムを解体する前の状態と同じにセッティングしなおしたと思って音を出してみると、
あくまでも感覚量にしかすぎないのだが、解体前の音の50%再現できれば、いい方だと思っている。

50%にも満たない音がすることだって、少なくないと思う。

これをやるときに、解体前の状態を写真に撮ったりメモをとったりせずに、
やろう! と決意したら、即システムをすべて解体して、一旦リスニングルームの外にオーディオ機器を出す、
それもこれはできれば、ほかの人にやってもらった方がいい。
オーディオ機器の扱いで信頼のできる人にまかせてやってもらう。
そうすれば解体するときに、セッティングを記憶することができなくなるからである。

ある期間をかけてこつこつ築いてきた──、とはいっても、そのすべてを意外にも、
それを行ってきた本人が把握し切れていないからであり、注意を向けていないところに関しては、
どうなっていたのかさえ思い出せないこともあるはず。

それに記憶していることでも同じにやったつもりでも、同じようにしかなっていないことも、少なからずある。
アクセサリーを多用している場合だと、そうなりがちだろう。

結局、自分でやってきたことにもかかわらず、思い出せないことは実のところ、
そのことは自分の手法として身についているとはいえないのではないか。

そういうやり方でも、チューニングをやっていってれば音は変化する。
変化する以上は、どちらかを選択して、その時点でいい音と思えた方を当然選択する。
これをずっと続けていれるのであれば、それはそれでいいのかもしれないが、
これに関しても、微妙ではありながらも、大事な問題が絡んできていて、
Aの音とBの音を比較して、よい方を選ぶ、というやり方では目的地を見失うこともある。
これについては、項を改めて書いていくが、
ある期間をオーディオを続けていると、ふと手が止ってしまうことがあっても不思議ではない。

くりかえすが、私が一度システムを解体して、もう一度最初からやってみることを、
ここで書いているのは、そういうときにそういう状況から抜け出るため、
そして抜け出た後に身につくことが最も多いやり方であるためだ。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・使いこなしについて話してきたこと)

そういうときオーディオマニアは、
もしかすると自分の音はかなりいいところまでいっているんじゃないか、と思うこともある。
自分の音に対して懐疑的な人であっても、そんな気持になるときはあるはず。
そうでなければ、オーディオはながく続けてはこれない、とも思うからだ。

この1年間、オーディオとひたすら取り組んできた。
最初は、ほんとうにひどい鳴り方しかしなかった音が、音楽が楽しめる鳴り方になってきた。
と同時に、これから先、どういうふうに取り組んでいけばいいのかが、
自分の中から湧いてこない状態にもなってしまったかのようでもある……、
「だから、一度音を聴きに来てほしい」という連絡があり、4月1日に行ってきた。

話を聞いて、音を聴かせてもらい、また話をしていた。
午後1時にその方をお宅を訪れて、9時半ごろまでいた。
本人だけでなく、奥さんもいっしょに私の話をきいてくれていた。
いくつか具体的なチューニングについて話してきたものの、
これだけの時間話してきても、まだまだ話したりないことのほうが多い。
それでも、ひとつだけくり返し言ってきたのは、
一度、いまのセッティング、これまでチューニングしてきたことをすべて崩して、
リスニングルームからすべてのオーディオ機器(ラックや置き台を含めて)すべてを一旦出して、
つまり部屋を空っぽにした状態で、もう一度、最初からセッティング、チューニングしてみることをすすめてきた。

これをやるのは、ほんとうに大変なことである。
ながい時間をかけて築いてきた音を、すべて解体してしまう。
そして「もう一度、一からやってみたらどうか」と私は言ってきた。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・使いこなしについて話してきたこと)

オーディオマニアだったら、何度も目にしたり耳にしたりしていることだが、
オーディオは高価な機種を買い揃えるだけで、
いい音、もくしは求める(理想とする音)が簡単に手に入るものではない。
(いい音と理想とする音は、人によっては必ずしもまったく同じとはいえないところもあるが、
このことに関しては、今回はあえてふれない。)

購入したオーディオ機器は、リスニングルームとなる自分の部屋に、まず設置する。
そして音を出していく。
最初から、偶然がうまく重なってうまいとこ鳴ってくれることもある。
充分な配慮のもとにセッティングしていけば、オーディオ機器が素性の優れたものであれば、
そうひどい音はしないこともある。
それでも、そこで満足できるものではなく、たとえ最初からかなり満足のいく音が鳴ってきたとしても、
どこかをチューニングしていきたくなる。
まして、部屋の状態によっては、望んでいた音、求めていた音とはずいぶん違う音が鳴ってくることだってある。
となると、チューニングをこつこつとやっていくことになる。

最初からいい音で鳴ったとしてもそうでなかったとしても、チューニングをしていく。
中には、そんな細かいことをせずに、いきなりスピーカーシステムやアンプを買い換える人もいるだろう。
でも、オーディオマニアと呼ばれる人は、チューニングを施していく。

思いつく限り、あれこれ試していく。
自分で思いつかなくなったら、オーディオ雑誌やインターネットを参考にして、
チューニングの手法を手に入れ、それらを試していく。
オーディオの仲間がいれば、彼らの知恵を借りること(そして、貸すこと)もある。

そうやってやっていけば、ごく短期間での上下変動はあるものの、
音は少しずつ(ときにはぐんと)良くなっていくものである。
だから、オーディオは続けられていくし、続いていく。

それでも、ふと、いまの自分の音について確認作業を行ないたくなるときが訪れることもある。
チューニングをひたすらやってきて満足のいく音が出始めてきたとき、
そういうときは不思議と、チューニングの次のステップが思いつかないときでもあろう。