ワイドレンジ考(その79)
別項の「名器、その解釈」でもオートグラフとウェストミンスターの違いについて触れているところである。
ずっと以前にも書いていることだが、
私にとってオートグラフとウェストミンスターという、
ほぼ同じ形態をもつ、このふたつのスピーカーシステムは、ベートーヴェンでありブラームスである。
オートグラフは私にとってベートーヴェンであり、ウェストミンスターは私にとってブラームスである。
こうやって書いていくことによって、そのことをよりはっきりと感じるようになってきている。
いちばん新しいウェストミンスターの音は聴いていないから、
もしかするとブラームスという印象は感じないかもしれないが、
スピーカーシステムの性格は細部の改良によって大きく変化していくものでもないから、
おそらくはブラームスと感じてしまうことだろう。
ブラームスの音楽には優しい、といいたくなる内面性がある。
その優しいところを、私がいままで聴いてきたスピーカーシステムでは、
ウェストミンスターが最もよく音楽として表現してくれるから聴き惚れる。
いっさいの無理を感じさせずにブラームスの音楽を美しく優しく響かせてくれるスピーカーシステムは、
ウェストミンスターの他になにかあるのだろうか。
私が過去に聴いてきたスピーカーシステムの中にはすくなくともない。
似たようなスピーカーシステムもすぐには思いつかない。
だから、これはウェストミンスターの美点であろう。
けれど、自分のモノとして手もとに置いて鳴らしたいわけではない。
それは、やっぱりウェストミンスターはブラームスであるからだ。
五味先生はオートグラフのことを
「タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。
それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。」と書かれている(「ワグナー」より。「西方の音」所収)。
五味先生は1980年に亡くなられている。
ウェストミンスターはまだ登場していなかった。これはもう勝手な想像でしかないのだが、
もし五味先生がウェストミンスターを聴かれていたら、同じことを言われたであろうか、と考えてしまう。
ウェストミンスターの音を思いだしながら考えていると、
そういわれないであろう、という可能性を捨て切れないでいる。
結局のところ、ウェストミンスターの響き(本質)は優しい、だからだと思っている。
そうはいいながらも、ウェストミンスターを年に1回でいい、聴いていきたい、とも思う。
ウェストミンスターの音・響きにストレスにはまったく似合わない。
ストレス・フリーでウェストミンスターをうまく歌わせることができる人のところで、
ブラームスのレコードを1枚でいいから聴きたい。
いまはそう思っている。
けれど齢をとっていけば、変っていくのかもしれない。
ウェストミンスターを自分のモノとして鳴らしたいと思うようになるのだろうか……。