妄想組合せの楽しみ(その49)
タンノイ・ヨークミンスターの、ここで書いている組合せに私がもっとも強く求めているのは、
「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」、
このことと無縁でいたい、ということだ。
音楽を聴きたがっているのに……、億劫がっている──、
これは黒田先生が「ミンミン蝉のなき声が……」で書かれていることだ。
いまは、ちょうどセミがせわしく鳴いている季節である。
黒田先生が「ミンミン蝉のなき声が……」を書かれたのは、ステレオサウンド 51号だから、
1979年の夏、いまから32年前のことだ。
このとき、なぜ黒田先生が、こういう心境になられたのかについては、
5月29日に公開した「聴こえるものの彼方へ」の電子書籍(ePUB)でお読みいただきたい。
黒田先生の場合には、そういう理由だったわけだが、理由は人それぞれあるだろうし、
季節がかわれば、その理由も変ってくるし、齡によって、音楽をきくのが億劫になる理由は変化していくことだろう。
そういう時は、自分でディスクを選択する、という、この必要な主体性すらしんどく思えることがある。
でも、なにかを聴きたいという気持はあるのに……。
そんなとき、選ぶともなく選んだというか、
スイッチを入れたら突然鳴ってきた音楽がきっかけで、
さきほどまで億劫がっていたことがウソのようにどこかにいってしまうことだってある。
以前だったら、こういう状況はチューナー(ラジオ)だった。
いまでもラジオ放送はある。それに、いまではさらにインターネット・ラジオもある。
日本で受信できるFM局の数なんて比較にならないほど多くのインターネット・ラジオ局がある。
無造作にどこかのインターネット・ラジオ局に選ぶ。音楽が流れてくる。
懐かしい曲のこともあれば、はじめて耳にする音楽のときもあって、そこで「おっ」と思ったときには、
億劫がっていた気持はなくなっている。
そうなると、せっかくだから……、という気持が湧いてくるのがオーディオマニアだろう。