黒田恭一氏のこと(その3・補足)
黒田先生が、モーストリークラシックの2009年7月号に書かれことについては、ここで触れている。
その23年前に、その原形ともいえることをすでに書かれている。
引用しておく。
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さまざまな情報を満載した雑誌の山をみていると、情報の洪水などという言葉が、途端に現実感をもってくる。洪水に押し流されたあげく、興味あるニュースをみのがしてしまう。えっ、あのコンサートは、もう終わってしまったのかとか、へぇ、そんなレコードが出ていたのか、気がつかなかったなとか、情報の消化不良をおこして、いらいらすることもしばしばである。どう贔屓めにみても、これは健康なこととはいいかねる。焦れば、おのずと、夜道の酔っぱらいよろしく足がもつれもする。
情報の洪水が日常茶飯事になったときに威力を発揮するのは、あのレコード、ちょっと気になっているんだけれど……といったような、友人の耳うちである。活字、ないしは電波によった、したがってオーソリティーのものではありえない、友人の、いわばナマの情報は、その背後に商業主義がてぐすをひいているはずもないから、説得力がある。
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1986年3月に発行されたステレオサウンド 78号の「ぼくのディスク日記」で書かれたものだ。
この「ディスク日記」の中に出てくる「活字、ないしは電波によった」情報を、
つまり背後に商業主義がてぐすをひいている情報を、
黒田先生は2009年に、情報擬き、と表現されている。
そして「情報」とは商業主義とは無縁の、友人の耳うちによるナマの情報、であると。