Archive for 7月, 2010

Date: 7月 20th, 2010
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その5)

ウェスターン・エレクトリックの一部門であるERPI(Electrical Research Products Inc.)は、
ランシング・マニファクチャリングに対して、284と594Aが酷似していること訴え、
ウェスターン・エレクトリックは、ランシングが284に同心円状スリットのフェイズプラグを採用したのを問題とし、
同社のドライバーに関する特許を侵害しているとして通告している。

フェイズプラグの問題は、ランシング・マニファクチャリングのジョン・ブラックバーン博士の開発による、
同心円状のフェイズプラグと同じ効果が得られる放射状スリットのフェイズプラグを採用し、
型番を285と改めていることで解決している。

ただ、この問題は、同種のフェイズプラグがすでにアクースティック蓄音機の時代にすでにあったことがわかり、
1938年にランシング・マニファクチャリングは、同心円状のフェイズプラグをふたたび採用。
284は284Bとなり、これと並行して801を開発している。

801は1.75インチのボイスコイル径をもつフィールド型のドライバーで、フェイズプラグは同心円状スリット。
801の磁気回路をアルニコVに置換えたのがアルテックの802であり、そのJBL版がD175である。

フェイズプラグに関しては、わずかのあいだとはいえゴタゴタがあったのに対して、
バックプレッシャー型のドライバーに関しては、
理由ははっきりしないが、結局のところ特許関係の問題は起こらなかった、とある。

やはりランシングの発明だったからなのか……。

Date: 7月 20th, 2010
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その4)

ウェスターン・エレクトリックの、ふたつの有名なドライバーである555と594A。

555が登場したのが1926年、594Aは10年後の1936年。
このあいだ、1930年にボストウィックトゥイーターと呼ばれる596A/597Aが登場。
そして594Aの前年に、ランシング・マニファクチャリングから284が登場している。

2.84インチのボイスコイル径をもつこの284ドライバーは555とは大きく構造が異り、594Aとほぼ同じ構造をもつ。

555も596A/597Aも、ドーム状の振動板はホーンに近い、つまりドライバーの開口部側についている。
昔のスピーカーに関する技術書に出てくるコンプレッションドライバーの構造と、ほぼ同じだ。
それが284、594Aになると、現在のコンプレッションドライバーと同じように後ろ向きになる。
いわゆるバックプレッシャー型で、
磁気回路をくり抜くことでホーンスロートとして、振動板を後側から取りつけている。
この構造になり、振動板の交換が容易になっただけでなく、フェイズプラグの配置、全体の強度の確保など、
設計上の大きなメリットを生み出し、現在でも、ほぼそのままの形で生き残っている。

この構造を考えだしたのは、おそらくランシングであろう。

ステレオサウンドから出ていた「世界のオーディオ ALTEC」号で、
池田圭、伊藤喜多男、住吉舛一の三氏による座談会「アルテック昔話」のなかでは、
この構造の特許はウェスターン・エレクトリックが取っているが、
考えたのはランシングであろう、となっている。

この構造がなかったら、アルテックの同軸型スピーカーの601(604の原型)も生れなかったはずだ。
もし登場していたとしても、異る構造になっていただろう。

Date: 7月 19th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その5)

「五味オーディオ教室」の冒頭に書かれてある「肉体の復活」は、強烈なことばだった。

それにこんなことも書かれているから、よけいに「肉体」について想うようになる。
     *
いま、空気が無形のピアノを、ヴァイリンを、フルートを鳴らす。これこそ真にレコード音楽というものであろうと、私は思うのである。
     *
そしてこうも書かれている。
     *
私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出でては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番の者と交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
音に目に視えない、手で触れることもできない。いわば「かたち」のないのが音そのものということになる。
けれど、その「かたち」のない音を発する人、楽器には形がある。
声を発する人、楽器を弾く人には、肉体がある。肉体が在るからこそ、音を発することが可能となる。

だから、その「肉体」を錯覚できるようにすること、
それが High Reality である、と、いまから34年前に考えたことだ。

Date: 7月 19th, 2010
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その3)

D101からD130への変更点のいくつかは正反対のことを行っている、といえる。
そしてボイスコイルの巻き方が逆になっている。
つまり逆相ユニットに仕上がっている。

スピーカーユニットが逆相ということの説明は不要とも思っていたが、
最近ではスピーカーの極性についての知識を持たない人もいるときいている。

簡単に説明しておくと、スピーカーユニットの+(プラス)端子にプラスの電圧をかけたときに、
コーン紙(振動板)が前に出るのであれば、そのスピーカーユニットは正相ということになる。
逆にコーン紙(振動板)が後に引っ込むスピーカーユニットは逆相である。

JBLのスピーカーユニットは、ごくわずかな例外を除き、ほぼすべてが逆相ユニットであり、
これは1989年に登場した Project K2 で正相になるまでつづいてきた。

この逆相の歴史のスタートは、D101からではなく、D130から、だと思う。
D130と同時期に出てきたD175(コンプレッションドライバー)も逆相ユニットである。

D175以降JBLのドライバーは、D130と同じように、反アルテックといいたくなるぐらい、
ダイアフラムのタンジェンシャルエッジの切り方が逆、ボイスコイルの引き出し方も、
アルテックでは後側に、JBLでは前側に出している。

なぜ、ここまで反アルテック的な仕様にしたのか。
アルテックからのクレームへの、ランシングの意地から生まれたものだというひともいる。

たしかにそうだろう。でも、それだけとは思えない。

Date: 7月 18th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その16)

オーディオのこまごまとしたことに精通していて、耳がよければ、
それでオーディオ評論家としての資格は十分だろうし、
思想なんてものは、むしろないほうがいいと考えている人も、意外と多くいるのかもしれない。

思想なんて、うざったいだけだ、と。
だがオーディオ評論家は、ことばで音を表現する以上、絶対に思想はもっていなければならない。

「ひとは自分自身の思想を求め、形作るとき、自分自身の言葉を求め、形作る」

三木清氏の「軽蔑された飜訳」にでてくることばだ。

いいかえれば思想をもたない者には、その人となりの言葉をもたない、ということにつながっていく。
「自分自身の言葉を求め、形作る」ことができずに、
音を表現することは、どれだけ文章を書き続けていたとしても、とうてい無理なことだと断言しておく。

Date: 7月 18th, 2010
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その2)

D101はアルテック・ランシングの515をベースにしているから、
おそらくユニットとしての極性は正相だったのではなかろうか。

いちど実物をみてきいて確かめたいところだが、いまのところその機会はないし、これから先も難しいだろう。
それでも、写真を見るかぎり、あれほど515とそっくりのフルレンジとしてD101を設計しているのであるから、
磁気回路はアルニコマグネットを使っているが外磁型、ボイスコイル径は515と同じ3インチ仕様。

D130はアルニコマグネットを使っているのは515、D101と同じだが、こちらは内磁型。
ボイスコイル径4インチへと変更されている。
さらにコーンの頂角にも大きな変更が加えられている。

515は深い頂角だった。D101も深い。ところがD130では頂角が開き、
これにともないユニット全体の厚みも515、D101よりもずっと薄くスマートに仕上げられている。

コーンの頂角は、その強度と直接関係があるため、頂角が深いほど振動板全体の強度は確保できる。
頂角を開いていけば、それだけ強度は落ちていく。
にもかかわらずD130では浅い頂角ながら、コーン紙を指で弾いてみると強度に不安を感じるどころか、
十分すぎる強度を確保している。しかもわずかにカーヴがつけられている。

515(おそらくD101も)は、ストレートコーンである。

515(D101)とD130のあいだには、コーン紙の漉き方・製法に大きなちがいがあるといってもいいだろう。
これからの変更にともない、フレームもD101とD130とでは異ってくる。
D101のフレームは515のそれを受け継ぐもので脚の数は4本、D130では倍の8本になっている。

Date: 7月 17th, 2010
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その1)

ジェームズ・バロー・ランシングが、アルテックとの契約の5年間を終え、
1946年10月1日に創立した会社は
ランシング・サウンド・インコーポレッドインコーポレイテッド(Lansing Sound Incorporated)。

最初の製品は、15インチ口径のD101で、
ランシングがアルテック時代に設計した515ウーファーと写真で見るかぎり、
コーン中央のセンターキャップがアルミドームであるぐらいの違いである。

見えないところでは、ボイスコイルが、
515は銅線、D101は軽量化のためアルミニウム線を採用している違いはあるものの、
D101は515をベースとしたフルレンジユニットであろう。

D101につけられていたアイコニック(Iconic)という名称と、
会社名に「ランシング」がつけられていることに、アルテック・ランシングからクレームが入り、
アイコニックの名称の使用はとりやめ、
会社名もジェームズ・B・ランシング・サウンド・インク(James B. Lansing Sound Inc.)へと変更。

そして47年から48年にかけて、D130を発表する。

D101とD130の外観は、大きく違う。515のフルレンジ版のイメージは、そこにはまったくなくなっている。

Date: 7月 16th, 2010
Cate: 中点

中点(その9)

自己肯定の音(けっしてよい意味ばかりでなく、どちらかといえばネガティヴな意味をこめて)、
自己否定の音(ネガティヴな意味でばかり使うのでもない)、
このふたつの音があるのかもしれない。

自己肯定の音と自己否定の音と、まったく関係のないところにも点があれば、
自己肯定の音と自己否定の音のあいだにある点もあるだろう。

前者は中点にはなりえない、後者は中点になりえる。

Date: 7月 15th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その4)

五味先生は、「ナマ追求は邪道にすぎない」とされ、
次のように書かれている。
     *
レコードによる音楽鑑賞は、録音再生技術に驚異的進歩を見た今日でも、なお、ナマとは別個な、独自なジャンル──芸術鑑賞の一分野である。そこで大事なのはナマそのものではなくて、再生される美しさである。この「再生される美しさ」という点が、日本の業者にまだわかっていないようだ。業者に限らない。多くの録音プロデューサー、近ごろ群出しているオーディオ批評家、音響専門技術者のほとんどが、再生される音の美しさはどんなものかを知らずにただ、ナマを追求している。むろん大方のオーディオ・マニアも。戒心すべきことである。
     *
また、こうも書かれている。
     *
オーディオでナマを深追いしてはならない。それはけっして美しい音ではない。美しい音は、聴覚が持っている。機械が出すのではないのである。
     *
「五味オーディオ教室」から引用したいところは、まだまだある。
きりがないのでこのへんにしておくけれど、「五味オーディオ教室」を読めば読むほど、
当時はハイ・ファイ(つまり原音再生)への疑問をもちはじめていた。

五味先生は「ナマ」イコール「原音」とかならずしもされているわけではないが、
少なくとも、安易な原音再生(ハイ・ファイ)の追求は、美しい音をとり逃がすことになる、
そういうふうに中学2年だった私は受けとめていた。

だから、High Reality であるべき、と考えたわけだ。

Date: 7月 15th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その24)

過去を受け入れてこそ、浄化はある。

Date: 7月 14th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その23)

過去は変らない、変えられないものとされている。
過去の事実は、たしかに変りはしない。

けれど、「浄化」によって、過去の事実は変りはしないものの、
過去の事実がもつ意味合いは変ってきはしないだろうか。

それこそが「浄化」ではないだろうか。

Date: 7月 13th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(普遍性とは)

与えられたプログラムソースを再生する以上、いくら自分の好きな音だからといって、
あまりにも逸脱した表現は、どこかおかしい、といわざるをえない。

主観と客観のバランスを求められる、ということは、ずっと以前から云われ続けてきたことでもある。

では客観性のある音とは、いったいどういう音なのか。
そして、その一方で、「徹底した主観こそが客観性をもちえる」ともいわれている。

たしかに、そう思う時もけっこうある。
ただ、このことばだけでは、客観性のある音がどういうものかははっきりとしない。

今日、四谷三丁目にある喫茶茶会記であれこれ、けっこうな時間話していてふと思ったのは、
普遍性について、である。

客観性のある音、普遍性のある音。ほぼ同じような音と受けとめられるだろうが、
けっして、まったく同じ音なわけではないだろう。

「徹底した主観こそが客観性をもちえる」のであれば、
「透徹した主観こそが普遍性へとつながっていく」といえないだろうか。

客観性とは人に認められること、ならば、普遍性は神に認められること、かとも思えてくる。
そして、普遍性への過程に「浄化」があるようにも思う。

Date: 7月 12th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その9)

裡なる原型をつくっていくには、リモデリング、リレンダリングの前に、
モデリング、レンダリングの行程がある。

聴こえてくる側には、プログラムソースに内包されている「原型」もあるし、
スピーカーシステムに起因する「原型」といった、複数の「原型」があり、
それら「原型」の組合せをリモデリング、リレンダリングで修整していく。

だが裡なる原型は、ゼロからつくっていくものだろう。
最初からうまくいく性質のものではない。
つくってはこわし、またつくってはこわしのくり返しが、
最初のうちはずっと続いていくのではなかろうか、と思いたくなるほどたやすいことではない。

「原型」をモデリングしていくには、とにかく音楽を聴くこと。
そして、音を聴くこと。ひたすら聴くこと。

ときにはスピーカーシステムを変え、アンプを変え、
アクセサリーの類いにも必要以上に凝ってみることにもなるだろう。
そうやって試行錯誤していくしかない。このことに関しては、誰も手助けはできないのだから。

Date: 7月 11th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その8)

スピーカーシステムから発せられる音を聴く耳、
裡なる原型の発する「聲」を聴くための、もうひとつの耳。

この「ふたつ」の耳が聴きえた「ふたつ」の音が調和することこそ、音の表現なのだろう。

「音は人なり」とは、そういうことではないだろうか。

Date: 7月 10th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その7)

「原型」はなにも聴こえてくる側だけに在るのではない。
「原型」は己の裡にも在るし、あらねばならない。