音を表現するということ(普遍性とは)
与えられたプログラムソースを再生する以上、いくら自分の好きな音だからといって、
あまりにも逸脱した表現は、どこかおかしい、といわざるをえない。
主観と客観のバランスを求められる、ということは、ずっと以前から云われ続けてきたことでもある。
では客観性のある音とは、いったいどういう音なのか。
そして、その一方で、「徹底した主観こそが客観性をもちえる」ともいわれている。
たしかに、そう思う時もけっこうある。
ただ、このことばだけでは、客観性のある音がどういうものかははっきりとしない。
今日、四谷三丁目にある喫茶茶会記であれこれ、けっこうな時間話していてふと思ったのは、
普遍性について、である。
客観性のある音、普遍性のある音。ほぼ同じような音と受けとめられるだろうが、
けっして、まったく同じ音なわけではないだろう。
「徹底した主観こそが客観性をもちえる」のであれば、
「透徹した主観こそが普遍性へとつながっていく」といえないだろうか。
客観性とは人に認められること、ならば、普遍性は神に認められること、かとも思えてくる。
そして、普遍性への過程に「浄化」があるようにも思う。