Archive for 6月, 2010

Date: 6月 16th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その14)

五味先生が「HiFiへの疑問」(「オーディオ巡礼」所収)に、こう書かれている。
     *
いつも言うことだが、名曲は、それぞれが名曲だと教えられて人は聴いてきたのではない。或る人が或る曲を聴いて、いい曲だとおもった。彼は自分の胸でそう思っていた、別の人は別の場所で曲を聴いて、感動した。その二人が、偶然、話しあったときに、お互いが似た感じを味わっていたことを知った。──そういう、何万という人々の共通の感動が名曲を作り出したのである。作曲されただけで、名曲というようなものはない。名曲は人々がつくるのだ。
     *
「真実」も同じだと思っている。
「真実」は人々がつくるものであるし、時間の淘汰を経てきたものであるはずだ。

Date: 6月 15th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その13)

アクセサリーと呼ばれているものを交換してみる。ケーブルだったり、インシュレーターだったりする。
オーディオの系の中では、ごく小さいな比重ではあるもののは、音は変化する。
その変化量を、ときに激変と表現する人が、けっこういる。

一方で、スピーカーが変らなければ、ケーブルやインシュレーターの類いで音は変わらない。
さらにはアンプを変えても、ほとんどその音の差は生じない。
高価なアンプなんて、必要価値がない、と言い切る人もいる。

どちらが正しくて、どちらかが間違っている。
もしくは、どちらかの耳はよくて、どちらかの耳は悪い。

そう断定できることでもない。

おそらく、激変、という人にとっても、変らない、という人にとっても、それが「事実」であること。

激変、と感じた人も、時間が経っていけば、同じ変化を同じようには感じないかもしれないし、
音なんて、スピーカーが同じであれば、他を変えてもそうは変化しない、と、いまは感じている人も、
これからは先も、同じように感じられるわけではないだろう。

あるひとりの人にとっても、そのとき起った音の変化は、そのときの「事実」でしかない。

オーディオはいろいろな体験を経ていくもの。
その体験の分だけ「事実」が積み重なっていく。
積み重なった「事実」を統合し整理し、ときには削りとっていくことで、
積み重なった「事実」のなかから「真実」が派生してくる。

Date: 6月 14th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その9)

少し長くなるが、黒田先生の文章を引用しよう。
     *
ぼくは、子どものころ、ラジオに耳をこすりつけるようにして、きいた経験がある。そんなに近づかないとしても、ともかくラジオで可能な音量にはおのずと限界があったから、たとえば今のように、スピーカーからかなりはなれたところできくというようなことは、当時はしなかった。いや、したくとも、できなかった。そこで、せいいっぱい耳をそばだてて、その上に、耳を、ラジオの、ごく小さなスピーカーに近づけて、きいた。(中略)ラジオとききてとの間にはということだが、いとも緊密な関係があった──と、思う。そのためにきき方がぎごちなくなるというマイナス面もなきにしもならずだったが、あの緊密な関係は、それなりに今もあるとしても、性格的に変質したといえなくもない。リスニング・ポジションを一定にして、音量をかえながら、レコードをきく──というのが、今の、一般的なきき方だとすれば、あのラジオのきき方は、もう少しちがっていた。
 そういう、昔の、ラジオをきいていたときの、ラジオとききての間にあった緊密な関係を、キャスターのついた白い台の上にのった再生装置一式のきかせる音は、思いださせた。それは、気持の上で、レコードをきいているというより、本を読んでいるときのものに近かった。
     *
黒田先生が若いころにきかれていたラジオとちがい、
このときのテクニクスのコンサイス・コンポとビクターの小型スピーカーS-M3の組合せは、
音量不足を補うために近づくということは、する必要はない。

音質にしても音量にしても、当時のラジオのそれとは較べものにならないくらいによくなっているにもかかわらず、
黒田先生は、
「再生された音と、それをきく人間の関係という、ごく基本的なところでは、すくなからぬ共通点」
を見出されている。

Date: 6月 14th, 2010
Cate: サイズ

サイズ考(その67)

わかりやすいサイズに、部品の大きさがある。
オーディオ用パーツとして売られているもの(それらが必ずしも優れた部品とは限らない)は、
特にコンデンサーは、汎用の電子部品とくらべると、ひとまわり、ふたまわり大きなものがある。

その一方で、コンピューターの普及、クロック周波数の向上によって、表面実装パーツもふえてきた。
これらのパーツは、抵抗もコンデンサーにしても、かなり小さい。吹けば飛ぶ、そんな小ささと軽さ、である。

この表面実装パーツを採用しているオーディオ機器も、ここ数年増えてきている。
従来のオーディオ用パーツからしてみると、そのサイズだけで、音の期待はできそうにない気もしてくるが、
ここまで小ささを実現していると、信号系路のコンパクト化は、
以前では考えられなかったレベルで可能になってくる。

井上先生がよく云われていたことだが、CDプレーヤー内部のLSIは、それぞれが小さな放送局である、と。
個々のLSIの消費電力が、放送局としての出力の大きさと比例関係にあり、
当然消費電力が小さいほど、そのLSIからの不要輻射は少なくなり、CDプレーヤー内部の高周波ノイズは減っていく。

消費電力だけでなく、使用LSIの数が増えればそれだけ放送局の数が増えたのと同じことで、
LSIのサイズが小さくなれば、不要輻射の面積も小さくなる、といえるだろう。

これと同じ理屈でいけば、表面実装パーツをうまく使えば、高周波の信号が通る系路をコンパクトにし、
そこからの不要輻射を減らし、また他からの影響も受けにくくなろう。

Date: 6月 14th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その10)

それでは、瀬川先生以前にオーディオについて書いてこられた方たちは、
オーディオ評論家ではないとしたら、なんなのかとなるわけだが、オーディオ研究家だと、私は受けとめている。

瀬川先生よりも上の世代の方々──、
淺野勇氏、伊藤喜多男氏、加藤秀夫氏、今西嶺三郎氏、岡原勝氏といった面々の名前が浮ぶ。
他にもいらしっゃるが、この方たちは、優秀なオーディオ研究家であったり、アンプの研究家(製作者)である。

瀬川先生も、オーディオ研究家のひとりであった時期がある。アンプ製作者・研究家であった時期もある。
最初から、オーディオ評論家だったわけではない。

Date: 6月 13th, 2010
Cate: Mark Levinson, the Reviewの入力, 瀬川冬樹

the Review (in the past) を入力していて……(その44)

ステレオサウンド 46号に、
瀬川先生によるHQDシステムの記事「マーク・レビンソンHQDシステムを聴いて」が載っている。

試聴の場所は、ホテルの宴会場で、マーク・レヴィンソンによると、HQDシステムにとってやや広すぎて、
デッド過ぎる音響特性だったらしい。

最初に鳴ったのは、レヴィンソン自身の録音によるギターのソロ。
瀬川先生の次のように書かれている。
「ギターの音色は、スピーカーがそれを鳴らしているといった不自然さがなくて、全く誇張がなく、物足りないほどさりげなく鳴ってくる。左右のスピーカーの配置(ひろげかたや角度)とそれに対する試聴位置はマークによって細心に調整されていたが、しかしギターの音源が、椅子にかけた耳の高さよりももう少し高いところに呈示される。」

つぎに鳴ったコンボジャズの印象は
「かなり物足りなさを憶えた。音質の点では、24インチ・ウーファーの低音を、予想したようなパワフルな感じでは彼は鳴らさずに、あくまでも、存在を気づかせないような控え目なレベルにコントロールして聴かせる。」

このコンボジャズもレヴィンソンによる録音で、一般市販のアナログディスクは、
セル指揮の「コリオラン」序曲をかけたとある。
「ハーモニィはきわめて良好だし、弦の各セクションの動きも自然さを失わずに明瞭に鳴らし分ける。非常に繊細で、粗さが少しもなく、むしろひっそりとおさえて、慎重に、注意深く鳴ってくる感じで、それはいかにもマーク・レビンソンの人柄のように、決してハメを外すことのない誠実な鳴り方に思えた。プログラムソースからスピーカーまでを彼自身がすべてコントロールして鳴らした音なのだから、試聴室の条件が悪かったといっても、これがマークの意図する再生音なのだと考えてよいだろう。」

4343をオール・レビンソンで鳴らした音の印象とはずいぶん異るように感じられる。

Date: 6月 13th, 2010
Cate: 基本

「基本」(その6)

オーディオの「基本」とは、いったいどういうことがあるのだろうか。

オーディオは科学技術の産物であるから、そういった基本はある。
基本は、でもそれだけではない。

つくり手側の基本もあれば、つかい手側の基本もある。

最近、なんとなくではあるが感じているのが、つかい手側の基本が、ないがしろにされがちなこと。
このことを、いま強く感じるのが、いわゆるPCオーディオと呼ばれているものに対して、である。
オーディオとコンピューターの融合については、積極的でありたい。
でも、以前書いているように、PCオーディオという呼称は、はっきりいって気に喰わない。
だから、基本がないがしろにされている、といいたいのではない。

オーディオの基本は、やはり「美」を求めることであるはず。

このことを意図的に無視しているのか、それとも、もともと考えていないのか、
「美」のまったくといっていいほど存在しないOSを使い音楽を聴くという行為が、
私にはまったく理解できない。オーディオの大事な「基本」を、どこかに追いやったまま、
音を語るのはただ虚しいだけではないのか。

Date: 6月 13th, 2010
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(その8・続々補足)

グラフィックイコライザーなりパラメトリックイコライザーを導入される人は、
あたりまえすぎることではあるが、当然、それらの調整によって音を良くしたいからである。

だから、音を良くするための調整から取り組みはじめる。

けれどイコライザーの使いこなしを身につけるためのひとつの方法として、
意図的に音を悪くするために使ってみるという考えもある。
ドンシャリな音をつくってみる、中抜けの音をつくってみる、ボンボンというだけの品のない低音にしてみる、
あえて胴間声にしてみる、キンキンするだけの中域のやたら張った感じの音にしてみる……。

いろんなクセの強い音を意図的につくってみるわけだ。
そのためにはどの帯域をどういじればいいのか、それに悪くするためだから、調整量も大胆に設定できるはずだ。

遊びというゆとりをもって取り組んだ方が、いいこともあるはずだ。

Date: 6月 12th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その5)

CDよりも、DVD-Audio、SACDのデータ量は多い。
パッケージメディアから配信へと移行していくことは、パッケージメディアの規格から解放されることでもあり、
受けて側の処理能力が高ければ、データ量はますます増えていくはずだ。

だが、どんなにデータ量が、CDとは比較にならないほど大きなものになったとしても、
どこまでいっても、それは近似値、相似形のデータでしかない。

マイクロフォンが変換した信号を100%あますところなく完全に記録できたとしても、
マイクロフォンが100%の変換を行っているわけではないし、
マイクロフォンが振動板が捉えた音を100%電気信号に変換したとしても、
そこで奏でられている音楽を100%捉えているわけではない。

それぞれどこかに取零しが存在する。

なにか画期的な収録・録音方法が発明されないかぎり、
どんな形であれ、聴き手であるわれわれの元に届くのは、近似・相似形のデータだ。
だからこそ、その相似形・近似値のデータを元にしたリモデリング、リレンダリングが、
聴き手側に要求され、必要とされる。

Date: 6月 11th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その10)

特別な環境、特別なモノ……、とにかく特別ななにかに囲まれていることで、
自分を特別だ、と思いこめるのであれば、そう自分を騙せているうちは、幸せなはずだ。
ずっと、それに気づかずに生きていければ、もっと幸せなのだろう。

オーディオが趣味で、まわりの人に迷惑をかけずにやっているのであれば、
その「幸せ」にケチをつけるようなことではない。

オーディオは、私にとって趣味なのか──。

こんなことを考える。

誰かと、まったく同じ部屋(環境)に、同じオーディオ機器。
そういう状況において、よりいい音を鳴らすことができることこそ、特別である、ということ。

もちろん、こんな状況は、実際にありえない。
そんなことをする意味もない、だろう。

特別なモノでなくても、自分の気に入ったモノ、惚れ込んだモノを手に入れて、
鳴らして、望む音を出していけばいいのが、趣味のオーディオだから。

それに、それが趣味のオーディオとしての選択でもあろう。

Date: 6月 10th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その12)

一昨日、昨日で書いたことを、私なりの別の表現であらわすなら、
事実を「真実」にしていく行為、となる。

Date: 6月 9th, 2010
Cate: 理由
2 msgs

「理由」(その11)

想い出してほしい。

瀬川先生にとってのJBLの4343(4341)、五味先生にとってのタンノイ・オートグラフ、
菅野先生にとってのJBLの375+537-500、マッキントッシュのXRT20、長島先生のジェンセンのG610Bは、
瀬川先生が、五味先生が、菅野先生が、長島先生が、惚れ込んで鳴らし込み、
よって光彩を放つようになった結果として、
瀬川先生にとっての、五味先生にとっての、菅野先生にとっての、長島先生にとっての、
名器となり、それぞれの特別な存在のスピーカーとなっていった、ということを。

Date: 6月 8th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その10)

「五味オーディオ教室」は、タイトルからして、「西方の音」「天の聲」とは違う。
装幀も、ずいぶん違う。それに学生にも求めやすい定価がつけられていた。

「西方の音」「天の聲」よりも発行部数は多かったかもしれない。
だから、私の住んでいたイナカの書店にも並んだのだろう。

そういう意味では、特別な本ではない。
オーディオ好きの人にとっても、それほど特別な本ではないのかもしれない。

でも、私にとっては、あとから読んだ「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」よりも、特別な本である。
五味先生の、音楽とオーディオについて語られた、どの本も私にとっては特別な本なのだが、
そのなかでも、最初に読み、もっともくり返し読んだ「五味オーディオ教室」より、特別な本は、いまのところない。
おそらくこれからも、これ以上特別な本は、私にとってはないのかもしれない。

「五味オーディオ教室」は「音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得」からなり、
最後の40箇条に、「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」とある。
     *
レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚とかわらない。くり返し聴き込んではじめて、光彩を放つ。たとえ枚数はわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ。諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?
     *
レコードを本に、ケースを書棚に、置換えるなら、本はくり返し読み込んではじめて、光彩を放つ、わけだ。
これだけは、自信をもっていう。
読み込むことで、「五味オーディオ教室」を名著に、そして特別な本にした、と。

Date: 6月 7th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その9)

読み返しては、想像し、考えること──、
これらのことを何度もくり返していくことで、「五味オーディオ教室」は私にとって大事な本となっていき、
大切な本となっていった。

Date: 6月 6th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その9)

特別なモノを手にするためには、そういうモノがあるということを、まず知っていなければならない。
特別な知識がなければ、手に入れることは難しい。

だから、特別な知識の蒐集からはじまる。
そうやって、なんらかの特別なモノが手に入ったときは、
運も味方して、ということもあって、嬉しくないはずはない。

特別なモノばかり揃えても、いい音が出せるわけではない。
使いこなせなければ、宝のもち腐れとなるが、
その面においても、ステレオサウンドにいたこともあって、恵まれていた。

レコードに関しても、グールドのLPは、いわゆる初期盤といわれているものをかなりの数、手に入れてきた。

それらのほとんどを、ある時期手放した。
そして、いまがあり、いえることがある。