Archive for category テーマ

Date: 4月 7th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その3)

山口孝氏による「オーディスト」を見て、私がまず連想したことは語感のいごこちの悪さと、
オーディストとカタカナ表記したときに、なんとなくヌーディストと似ているところも感じていて、
山口孝氏が「オーディスト」に込められているものは理解できていても、
素直に「オーディスト」を自分でも使いたいとは、そしてそう呼ばれたいとも、まったく思わなかった。
(念のため書いておくが、まだこのときはaudistの意味を調べていなかった)

私はそう思っていたし、そう感じていたわけだが、
「オーディスト」を積極的に評価されている人がいたことも知っている。
熱い口調で「オーディスト」について語られたことも、実はある。

その人の気持は分らないでもないが、
正直、その熱い口調で語られれば語られるほど、
「オーディスト」がそれほどいいことばとは思えなくなっていっていた。

つまり私は「オーディスト」に対してまったく感心するところがなかった。
だから無関心であり、自分でオーディストの意味を調べようと思うまでには、一年以上経っていた。

私はそうだったわけだが、
「オーディスト」への感心をつよく持っている人もいたのも事実。
感心すれば関心も出てこよう、と私はおもう。
その人たちは、オーディスト(audist)が、すでに存在しているかどうか、
存在しているとしたら、どういう意味を持つのか、
いまではインターネットのおかげで調べようと思えば、すぐにわかることを調べなかったのか、とも不思議に思う。

私に「オーディスト」について熱い口調で語った人は、
山口孝氏の熱心な読み手である。
私はというと、山口孝氏の熱心な読み手とは、とてもいえない読み手でしかない。

私の場合、熱の無さが調べるまでに一年以上かかることにつながっていったわけだが、
熱心な読み手である、その人は山口孝氏による造語だからと、そのまま受け入れたといえよう。

Date: 4月 6th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その2)

ピアノ(piano)を弾く人をピアニスト(pianist)という、
ヴァイオリン(violin)を弾く人をヴァイオリニスト(violinist)という、
チェロ(cello)を弾く人をチェリスト(cellist)という。

オーディスト(audist)は、だからオーディオを弾く人、というように理解できる。
ステレオサウンド 179号に掲載されている山口孝氏の文章で、
私はこの「オーディスト」という言葉を目にした。

目にして、山口孝氏による「レコード演奏家」の表現でもある、と思った。

「レコード演奏家」は菅野先生が提唱されている。
ステレオサウンドから「新レコード演奏家論」が出ている。

レコードを演奏する、ということについては、拒否反応を示される人、
反論される人がいることを知っている。
ここでは「レコード演奏家」についてはこれ以上ふれないけれど、
「レコードを演奏する」という表現は、何も菅野先生が最初に使われていたわけではない。
菅野先生が「レコード演奏家論」を書かれるずっと以前から、
瀬川先生も「レコードを演奏する」という表現を使われている。
それも、かなり以前から使われている。

ということは、そのころにオーディスト(audist)という言葉を思いついた人もいたのではないか、と思う。
でも山口孝氏が「オーディスト」を使われるまで、私は目にしたことがない。

なぜだろうか。
誰も思いつかなかった、という理由もあげられるだろう。
けれど、どうもそうとは思えない。
「レコードを演奏する」という表現が使われていながら、
ヴァイオリンによって音楽を演奏する人をヴァイオリニスト、
ピアノによって音楽を演奏する人をピアニスト、というのならば、
オーディオによって音楽を演奏する人をオーディストと呼称する人があらわれてもなんら不思議ではない。

オーディストという言葉は、audioにistをつけただけであり、
ひねりも工夫もそこには感じられない。

なぜ、誰も使わなかったのか。
それは、オーディスト(audist)が、
聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われているからである。
それもかなり以前から、である。

Date: 4月 5th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その1)

昨年の8月13日に、
オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」というタイトルで書いている。
リンク先を読んでいただければわかるように、詳細についてはあえて書かなかった。
言葉狩りが目的ではなかったし、その言葉が使われなくなるのであれば、
それに私自身もその言葉を最初見た時に無関心であった──そのことへの反省もあった──、
そして、もうその言葉をそのオーディオ雑誌で見かけることは今後ないという保証に近いこともあったため、である。

他のオーディオ雑誌ではときどき使われていた(掲載されていた)、
その言葉は少なくともステレオサウンドの誌面には登場することはなかった。
だから、「オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」については、
もう書くこともないだろう、と思えていた。

けれど、いま書店に並んでいるステレオサウンド 186号に、その言葉が載っている。
「オーディスト」という、山口孝氏による、いわば造語としての「オーディスト」が、
編集部による記事ではなく、広告で何度も使われている。
リンジャパンの広告の文章は、今回山口孝氏が書かれている。

私が、この「オーディスト」をはじめて目にしたのは、
2011年6月発売のステレオサウンドだった。
この号は、2011年3月11日の三ヵ月後に出ている。
巻頭エッセイとして、「今こそオーディオを、音楽を」というタイトルで、
柳沢功力、菅原正二、山口孝、堀江敏幸の四氏が書かれていて、
山口孝氏の文章と見出しとしても、「オーディスト」は大きく誌面に登場している。

Date: 4月 4th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その2)

スピーカーケーブルも1mあたり数千円が高価だとおもえていた頃からすると、
いまどきの高価なケーブルの価格づけには、首を傾げたくなるものがある、といえばある。

高価すぎる、と私が思っていても、
別の人は妥当な価格だと思うことだってあるし、さらには安い、と感じている人だっているとは思う。
それでも1mあたり数十万円もするようなスピーカーケーブルともなると、
アンプの値段とあまり変らなくなってきているし、
価格の面だけからみれば、
スピーカーケーブルも、アンプやスピーカーと同じようなオーディオ・コンポーネントのひとつということになろう。

スピーカーケーブルもアンプやスピーカーと同じような扱いで捉えられている人も少なくない、ともきいている。
でも私はケーブルの類はアクセサリーであり、オーディオ・コンポーネントの「関節」でもあると考えている。

とにかくケーブルをオーディオ・コンポーネントのひとつとしてとらえるならば、
アンプやスピーカーと同じように常に目につくところに置きたい(這わせたい)と思うのが、
むしろ一般的なのかもしれない。

仮に私がそういう高価すぎると思えるスピーカーケーブルを使うことがあるとしても、
スピーカーケーブル、それに電源コードは極力目につかないように隠して這わせるようにする。

このへんは、人によって考え方の違いだろう、といってすませられることだとは思っていない。

Date: 4月 4th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その10)

アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうくらいに、
アン・バートンの声が老け込んで鳴ってしまうとき、
バックで演奏されている楽器の音色や鳴り方も、いうまでもなく変ってしまう。

瀬川先生も書かれているように、
アン・バートンの声がアン婆ァトンになってしまったとき、
「ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じ」になり、
「ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう」。

アン・バートンがアン婆ァトンに変質してしまうとき、
くり返しておくが、変質はアン・バートンだけにとどまらないということであり、
このことはアン・バートンの声がアン・バートンの本来の声として鳴ってくれれば、
バックのベースやピアノ、ドラムスの音も、
ある程度(かなりともいっていいだろう)それらしく鳴ってくれるということでもある。

これはアン・バートンの声だけにかぎられたことではない。
ほかの歌手についてもいえる。
歌手の声質によっては、アン・バートンがアン婆ァトンになるほど、
極端には老け込まないこともあるにしても、
それでも、人の声の再生はそんなふうに変質してしまいやすい。

変質してしまいやすい、と書いてしまったけれど、
実のところは人の耳は人の声に対して敏感であるため、
わずかな変質も敏感に感じとっているため、変質が容易に聴き取りやすいのかもしれない。

どちらにしても、人の声は、なにひとつ確実なことがなさそうにおもえていた音の判断基準において、
オーディオにとり組みはじめたばかりの若造だった、あの頃の私にとっては、ここから拡げていくことができた。

Date: 4月 3rd, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その3)

私がいまここに書いている例は、
あくまでもオーディオ雑誌に掲載された記事を読んでのものでしかない。

全国のオーディオマニアの方々がどういうシステムかというかを調査したデータがあるわけでもなし、
オーディオ雑誌の記事にしてもすべてに目を通しているわけでもなく、
あくまでも私が読んだ(目を通した)記事の中で、
記憶に残っている全体的なイメージのことでしかないのはわかっている。

それでもアルテックとタンノイのスピーカーを同居させている人は少ないと感じているし、
それ以上にふたつ以上のスピーカーしを同居させている人の多くは、
そのひとつがJBLであることが多いと感じていて、
それがなぜなのかを、考えてしまっている。

Date: 4月 2nd, 2013
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その1)

ワイドレンジについて書いている。
ナロウレンジについても書いている。

書きながら思っていることは、ワイドでもナロウでもないレンジのことであり、
それをいったいどう呼べばいいのだろうか、ということである。

ワイドレンジ(wide range)は広い周波数帯域であり、
ナロウレンジ(narrow range)は狭い周波数帯域ということになっている。

この広い、狭いは、何を基準としているのか。

最新の録音を最新のオーディオ機器を最新の調整によって鳴らされた音を聴いた後で、
同じディスクをずっと以前の、いわゆるナロウレンジと呼ばれるスピーカーシステムで聴けば、
周波数帯域(おもに高域に関して)が狭いと感じる。

けれどそのスピーカーシステムと同時代の録音、さらにはもっと以前の録音のレコードをかければ、
そのスピーカーシステムの周波数帯域を特に狭いとは感じることは、あまりない。

狭いよりも広いほうがいい、と考えがちであるが、
オーディオでは常に広いほうが、結果としての音が心地よいとは必ずしもいえないことがある。
ときとして適度なナロウレンジのほうが、うまく鳴ってくれることが少なくない、と感じるのも事実である。

いまオーディオ機器を取り巻く環境は確実に悪くなっている。
電源事情も、飛び交う電波にしても、音を悪くしていく要因が増え複雑化している、ともいえる状況下では、
比較的影響をワイドレンジの機器よりも受けにくいナロウレンジのオーディオ機器のほうが、
それほど細かな神経を使わずとも、ほどほどにうまく鳴ってくれる。

ワイドレンジであればあるほど、時としてオーディオ機器を取り巻く環境の影響を受けやすくなり、
それなりの注意、使いこなしが要求されることにもなる。

そういうことを厭わず、むしろ喜々として楽しんでいける人ならばいいけれど、
そんな人ばかりではない。
ならばワイドレンジでもない、ナロウレンジでもない、
ちょうどいい按配のレンジを考えていくことも必要なのではないか、と考えている。

Date: 4月 1st, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ(スピーカーの捉え方について)

今月のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。
テーマはスピーカーについて語ろうと考えています。

13歳のときからオーディオに興味をもってからこれまでの30年以上の間に、
スピーカーをどう捉えるかが、ずいぶん変ってきたところがあります。
変っていないところも、またあります。

いまだスピーカーというものが、いったいどういうものなのか、
その全貌をはっきりと掴んでいるとはいえません。
これから先、あと10年、20年、それ以上経とうとも、
スピーカーの正体を完全に把握することは無理なような気もしています。

だから今回のテーマは、あくまでもその途中経過についてふれてみたいと思っているわけです。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(桜の季節)

まだ咲いていない地域もあるけれど、
私が住む地域ではすでに桜は満開をすぎて花弁が舞い始めている。

駅までの道のり、桜並木を歩いていく。
朝、明るい時間にも歩き、帰りは日によって、まだ夕方の明るい時間のときもあれば、
暗くなって、それでもまだ人通りが多い時間のときもあるし、
もう深夜になって、人通りもほとんどなくなった時間に、桜並木を歩く。

夜おそい時間ともなれば、この道も暗くなる。
その暗さの中に、桜の淡い色が目に入ってくるけれど、
それよりも強い印象を与えてくれるのは、幹・枝である。

暗いから、明るい時間では幹・枝の表皮の質感がはっきりとわかるのが、
この時間ともなれば幹はそういうところまではもちろん見えず、
だからこそ幹の形(枝ぶり)が明るいとき見ているよりも、
そのシルエットが花明りによってはっきりと浮び上っている。

同じ桜の木を、朝と夜とでは反対方向から眺めているわけだが、同じ桜の木を見ていることには変りはない。
なのに明るい時間と深夜遅い、ほんとうに暗くなってからとでは、
桜の木のシルエットの印象がまるで違ってくる。

ひとりで歩いていると、それも誰も歩いていなかったりすると、
桜の木のシルエットに、どきっとする。
明るい時間では感じられなかった、異形さを感じとっているからだ。

というより、異形として私が感じとっている、と書くべきだろう。
明るい時間ではまったく感じなかった怖さがあり、
これもまた「夜の質感」なのだとおもう。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい
1 msg

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その2)

JBLとタンノイの、ふたつのフラッグシップモデルを手に入れて鳴らす、ということは、
時代によってパラゴンがスタジオモニター・シリーズの4350(もしくは4343)に変化していく。

タンノイもそれにともない変化していく──、と書きたいところだが、
オートグラフはイギリス本国での生産をやめ輸入元ティアックによるライセンス生産に切り替り、
アーデン、バークレイなどの、いわゆるABCシリーズが主力機種としてラインナップされていた時期があるため、
4350(4343)と同居するタンノイは、やはりオートグラフ(もしくはGRF)だった、ともいえよう。

こんなことを書きながら、ふと思ってしまったのは、
アルテックとJBLを同居させる人も、少なからずいたような気がしている。
ジャズの好きな人が、アメリカの西海岸の、ルーツを辿れば同じところに辿り着くふたつのブランド、
アルテックとJBLのスピーカーシステムを手に入れて鳴らす──、
そんな写真(記事)を読んだような記憶が、私のどこかにある。

もしかすると私の記憶違いなのかもしれない。
でもたしかに見た(読んだ)記憶もある。
(ステレオサウンド 38号の岩崎先生のリスニングルームの記事を除いて、である)

記憶違いだとしても、アルテックとJBLの同居はあってもおかしくはないし、
このふたつのブランドの同居は、JBLとタンノイの同居とはまた違う領域の広がりを見せてくれる。

でもアルテックとタンノイを同居させていた人は、いたんだろうか、と思ってしまう。
JBLとタンノイ、JBLとアルテックがあれば、
アルテックとタンノイの同居があっても不思議ではない。

アルテックでジャズを聴き、タンノイでクラシックを聴く。
アルテックの中から604を搭載したモデルを選択すれば、
アメリカ、イギリスの同軸型ユニットによるスピーカーシステムを同居させることになり、
これはこれで非常に面白い試みとも思えるのだが、
なぜか、アルテックとタンノイの同居という写真を見た記憶がほとんどない。
(こちらは瀬川先生が一時期やられていたことはあるけれど……)。

このへんになるとすこし記憶に自信がもてない。
どこか、都合のよいように記憶違いを自ら起している──、
そんなふうに思いながらも、複数のスピーカーを同居させている例の多くには、
JBLが片方の主役であることが多かったのではなかろうか。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その9)

人の声といっても、
これもまたオーディオ機器によって、少なからず変化を受ける。

この項の(その4)でふれているローズマリー・クルーニーのレコード。
個人的にはローズマリー・クルーニーは、とくに好きな歌手というわけではない。
とはいえステレオサウンドの試聴室でくり返し聴いていると、
スピーカーやアンプなどによって、ローズマリー・クルーニーの年齢が変ったようになることがあるのに気づく。

そのレコードを録音したときの年齢にふさわしい鳴り方のときもあれば、
妙に若返って鳴ることもある。
その若返り方も、いろんな若返り方があり、
いかにもローズマリー・クルーニーの若いときは、こんな感じなんだろうな、と納得できる鳴り方もあれば、
この鳴り方はローズマリー・クルーニーではなくて、どこか別の歌手のように若返ってしまった、ということもある。

反対に老け込む鳴り方もある。
声に艶がなくなり、潤いもなくなってしまう。
そういえば、瀬川先生が「ふりかえってみると、ぼくは輸入盤ばかり買ってきた」のなかで、
アン・バートンの日本盤と輸入盤(オランダ盤)の音に違いについて書かれている。
     *
 そうしてアン・バートンにのめり込んでいるのを知って友人が、オランダCBSのオリジナル盤を探してきてくれた。クラシックではマメにカタログをめくったり注文したりする私が、ポピュラーのレコードになると途端に無精になる。友人がオリジナル盤を探してくれなかったら、私はアン・バートンのほんとうの良さを聴けずに過ごしたかもしれない。
 この違いを何と書いたらいいんだろうか。オランダ盤に針を下ろして、聴き馴れたはずの彼女の声が流れ始めた一瞬、これが同じレコード? と耳を疑った。これがアン・バートンなら、いままで聴いていたのはアン婆ァトンじゃないか――。われながらくだらない駄洒落を思いついたものだが、本気でそう言いたいくらい、声の張りと艶が違う。片方はいかにも老け込んだような、疲れて乾いた声に聴こえる。バックのヴァン・ダイク・トリオの演奏も、ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じだし、ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう。そのくせどこか古ぼけたような、それとも、演奏者と聴き手のあいだに幕が一枚下りているかのような、鮮度の落ちた音がする。
     *
アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうのと同じように、
ローズマリー・クルーニーも、そんなふうに老け込んでしまうことがある。

Date: 3月 30th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その1)

以前はスピーカーシステムを二組以上所有・鳴らされている人は割と多かった印象がある。

ひとつのパターンとしてはジャズはJBLのスピーカーシステムで、クラシックはタンノイのスピーカーシステムで、
というスピーカーシステムの使い分けがあり、
これはひとつのスタンダードのようにもなりつつあったように思っている。

一口にJBLとタンノイといってもラインナップはどちらも豊富なほうだから、
いくつかの組合せがある。
JBLのほうはパラゴンやオリンパスといったコンシューマー用モデル、
タンノイはオートグラフやGRFといったモデル。
パラゴンとオートグラフ、この大型スピーカーシステムの両方を所有されている方は、
ある時期の日本では珍しくはなかった、といえた。

オートグラフはコーナー型だから左右の両脇に設置され、
そのあいだにパラゴンが置かれているリスニングルームの写真は、何度か見たことがある。

1970年代、クラシック向きのスピーカー、ジャズ向きのスピーカーという言い方がなされてきた。
JBLのスピーカーはジャズ向きであり、タンノイはクラシック向き、
このふたつのスピーカーメーカーのフラッグシップモデルの両方を手に入れるのは、
それだけで大変なことであり、ひとつの部屋に収めることができるのも、また大変なことである。

その意味では、ひとつの憧れの象徴として、
パラゴンとオートグラフの同居があったのかもしれない。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その6)

どのスピーカーシステムでもかまわない。
たとえばある人がJBLのフラッグシップモデルであるDD67000を手に入れたとしよう。

その人にとって、DD67000とイメージできる音がある。
それが、その人にとっての、そのスピーカー(ここではJBLのDD67000)の「顔」ということになる。

このDD67000の「顔」は、人が変れば、共通するところもあるにしても、
違ってくるところもまたある。

そのことは、ここではあまり問題にはならない。
とにかく、ある人にとって、DD67000の「顔」といえる音がある、ということが、
結局のところ「音は変らない」にかかってくることになっている。

そのDD67000の「顔」は、鳴らす人が変らないかぎり、
ずっと同じである、ともいえよう。
アンプを、それまで使っていたモノと正反対の性格のモノに交換したとしても、
その人にとってDD67000の「顔」が、
タンノイのKingdom Royalの「顔」になったり、B&Wの800 Diamondの「顔」になったりはしない。

鳴らす人が変れば、同じスピーカーシステムであっても、
また違う「顔」を見せることもあるにしても、
人が同じであるかぎり、しかもアンプやケーブルで「音は変らない」人が鳴らすのであれば、
よけいに「顔」は変らない、ともいえるのではないか。

だからといって、アンプやケーブルを替えても「音は変らない」──、
そういう音の聴き方をしていて、音楽を聴いていることになるのだろうか、と私はおもってしまう。

アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と宣言した時点で、
どこか「仏つくって魂入れず」に近いことを、自分は行っている、と言っていることになるのではないだろうか。

私はスピーカーは役者だと、いまは捉えている。
だから、よけいにそんなふうにおもえてしまう。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 26th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その5)

スピーカーが音の「顔」だとすれば、
スピーカー以外では「音は変らない」も理解できないわけではない。

人の顔は、どんな表情をしていようと、その人の顔であり、
整形手術でもしないがぎり、決して別人の顔になることはない。
その意味で顔は変らない。
つまりスピーカーを替えないかぎり、「音は変らない」ということになる。

けれど人の顔には表情がある。
朝起きたばかり寝ぼけ眼の顔、すっきりと目覚めたときの顔、夜更けて睡魔に襲われている顔、
これだけでも同じ人の顔でもずいぶん印象は違う。

そして人には感情がある。
その感情がつくりだす表情も、またある。
喜怒哀楽──、
これだけでも同じ人の顔はずいぶん変って見えることがある。

笑っている顔でも、ほほ笑んでいるときの顔、大笑いしているときの顔、苦笑いの顔、つくり笑いのときの顔、
いろいろある。
同じような表情はあっても、ひとつとして同じといえる表情はない、ともいえよう。

顔は変る。変っていく。
けれど、あくまでもその人の顔であるという意味では、変りはない、ともいえる。

このことと同じ意味で、
アンプやケーブルによって「音は変る」という人と、
アンプやケーブルで「音は変らない」という人に分れるのではないのだろうか。