Archive for category テーマ

Date: 11月 25th, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その7)

私はバーンスタインの新録にマーラーの闇(と勝手に思っているだけにしろ)を感じる。
けれど、マーラーの聴き手のすべてがバーンスタインの新録に、それを感じているとは限らない。

バーンスタインの旧録に強く感じている人だっていていいし、
ワルターだ、という人、いやテンシュテットこそが、という人だっていよう。

闇といっても、あまりにも漠然としすぎている。
闇をどう感じているかによっても、変ってくることだから、
誰が正しいのかなんて無意味でもある。

ただ私にはバーンスタインの新録だ、ということだけが、私にとってのマーラーであり、
私のマーラーの聴き方、ということになるだけの話だ。

そのバーンスタインのマーラーの新録と、ほぼ同時期に、
同じドイツ・グラモフォンに、シノーポリがフィルハーモニー管弦楽団を指揮して、
マーラーの全集の録音をすすめていた。

何番が最初に出たのかは憶えていないが、
私がシノーポリのマーラーを最初に聴いたのは第五番だった。

シノーポリは心理学、脳外科を大学で学んできた人ということでも、
シノーポリのマーラーは注目されていた。

マーラーと同じユダヤ人としてのバーンスタインとは、
イタリア人で学究的(衒学的ともいわれていた)なマーラーの解釈をする、
というようなことがいわれていたシノーポリは、ずいぶんと立つ位置の異るところでのマーラーを聴かせてくれた。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: prototype

prototype(その4)

大型のヒートシンクは出力トランジスターへの配線が長くなるだけではなく、
ヒートシンクも筐体の一部であり、その材質、形状、取り付け方などにより、音は確実に変化する。

そして、海外製のパワーアンプに多い形態、
ヒートシンクがシャーシーの両サイドに露出して取り付けられている場合、
モノーラルアンプだったりマルチアンプシステムで、複数台のパワーアンプを使用する際には、
隣りあうパワーアンプのヒートシンク同士の干渉も、セッティングでは考慮しなければならない。

大型のヒートシンクがむき出しになっているパワーアンプは、
例えば以前のアンプをあげればマークレビンソンのML2、
これなどは星形のヒートシンクがいわばアイコン的でもあった。
ML2が、ヒートシンクをシャーシー内部におさめたタイプだったら、
そのイメージは多少なりとも変化していたと思う。

こんなことを書いていくと、また話が逸れてしまう。
とにかくヒートシンクは音に大きな影響を与えているわけで、
これが水冷方式になり、自然空冷にくらべてコンパクトにできれば、
それたけでもパワーアンプの音は変っていく。

もっとも水冷にするための機構をどう設計するかによって、
必ずしも音がよくなるとは限らないだろうが、
ダイヤトーンのプロトタイプは、そのへんどうだったのだろうか。

ダイヤトーンの水冷式のプロトタイプが登場したときは、
筐体設計が音に影響を与えることはあまり注意が払われていなかった。
だから、いまあれこれ想像してしまう。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: トランス

トランスから見るオーディオ(その21)

盤塵集をお持ちの方は、読み飛ばしていただくとして、
盤塵集は1981年に発行された本だから、この本の存在も知らない人が多くても不思議ではないから、
要約して書いておこう。

トランスには一次側と二次側のインピーダンスが同じモノもあるが、
一般的には一次側と二次側のインピーダンスは違う設計となっている。

管球式のコントロールアンプの出力に挿入されることがあるライントランスは、
一次側のインピーダンスが10kΩ、20kΩと高く、二次側は600Ωと低くなっている。
こういうライントランスが手元にあったならば、
トランジスター式のコントロールアンプの出力に接続する。
接続するといっても、トランスの基本的な接続とは少し違う。

二次側は開放とする。
一次側だけをコントロールアンプの出力に対して並列に接続する。
二次側の巻線の片側だけはアースに落しておく。
つまりライントランスのインピーダンスの高い巻線をコントロールアンプの負荷とするわけである。

ライントランスなどは持っていないという人も、
MC型カートリッジの昇圧トランスをひとつぐらいは持っているだろう。
それがあれば、ライントランスとは違い、二次側を同じようにコントロールアンプの出力に並列に接続する。
一次側巻線は開放で、巻線の片側だけをアースに落す。

これだけのことである。
アンプを改造したり昇圧トランスを改造したりすることなく実験できる。
コントロールアンプ・パワーアンプ間のケーブルは手を加える必要がある。
その結果が気にくわなければ、すぐに元に戻せる。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その5)

スピーカーはいうまでもあくアンプからの入力信号を振動板の動きに変換して、
空気の疎密波をつくりだし音とするメカニズムである。

つまりは、こういう考え方ができるのではないか。

スピーカーは耳である。
アンプからの入力信号を聴きとる耳である、と。

これだけでスピーカーをリスニングルームにおいて「耳があるもの」とするわけではない。

結局は、「音は人なり」ということにつきる。

「音は人なり」、
このことを否定する人には、
スピーカーを「耳があるもの」とする私の考えはまったくおかしなことでしかない。
それはそれでいい。

あくまでも「音は人なり」をオーディオの、否定できない現象として認めるのであれば、
スピーカーこそが「耳があるもの」だと思えてならない。

スピーカーは音を出すメカニズムである。
その音に、鳴らす人の人となりが表出されるのであれば、
スピーカーは鳴らす人のすべてを聴きとって、音としている。

そう思うからだ。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: トランス

トランスから見るオーディオ(その20)

トランスはバンドパスフィルターである。
どんなに広帯域のトランスであったとしても、バンドパスフィルターであことには変りはない。

トランスというモノを頭から否定する人は、まずこのところが気にくわないらしい。

それから一次側(入力)と二次側(出力)にそれぞれコイルがあり、
それが鉄芯に巻かれている。そしてふたつのコイルは電気的には絶縁されている。
このこともトランス否定の人は気にくわないようだ。

トランス・アレルギーの人はいる。
でも不思議なのは、そういうトランス・アレルギーの人が、
トランスをいくつも経て録音されたディスクを、いい音だと評価していることてある。
ほんとうにトランス・アレルギーであるのなら、
トランスを使っていた時代の録音は、すべて気にくわないはずなのに。

トランス・アレルギーの人は、再生系のどこかにトランスがひとつでも入っていればすぐにわかる、という。
音が悪くなるからだ、と。
そんなトランス・アレルギーの人でも、トランスを使っていた時代の録音をいいと感じるものがあるのなら、
すくなくとも池田圭氏が、盤塵集に書かれている使い方を試してみてはどうだろうか。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その7)

HIGH-TECHNIC SERIESというタイトルは、実は別冊に使われたのが最初ではない。
ステレオサウンド 37号から連載が始まった「ベストサウンドを求めて」が最初になる。

「ベストサウンドを求めて」は37号が岩崎先生、38号が岡先生。
残念なことに、この二回で終ってしまっている。

37号の一回目には「ベストサウンドを求めて」のタイトルの前に、
HIGH-TECHNIC SERIES-1と、
38号のときにはHIGH-TECHNIC SERIES-2、とついている。

そして岩崎先生の「ベストサウンド」はJBLのユニットとマルチアンプシステムによるもの、
岡先生の「ベストサウンド」はARのフラッグシップモデルLSTの、やはりこちらもマルチアンプ駆動である。

37号は1975年12月、38号は1976年3月に出ている。

ステレオサウンドでのHIGH-TECHNIC SERIESはここまでだったけれど、
HIGH-TECHNIC SERIESは別冊として復活したことになり、
その一冊目(一回目)がマルチアンプだったのは、だから当然だったといえる。

53号での瀬川先生の、オール・マークレビンソンによる4343のバイアンプ駆動は、
だからHIGH-TECHNIC SERIES-3「ベストサウンドを求めて」ともいえる記事である。

Date: 11月 24th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その4)

マイクロフォンとスピーカーの動作原理は基本的に同じである。
だからスピーカーユニットをマイクロフォン代りに使うことはできないくはない。
いい音で収録できるかどうかは別として、マイクロフォンとして動作はする。

話は逸れるが、ジャーマン・フィジックスのDDD形ユニットの音を聴いていると、
DDD型マイクロフォンが登場しないのものか、と想像する。

DDD型マイクロフォンという言い方がまずければ、
ベンディングウェーヴ型マイクロフォンである。
ベンディングウェーヴ型のユニットとしては、ジャーマン・フィジックスと同じドイツのマンガーのBWTがある。

BWTの構造をそのままマイクロフォンとすることはできないのだろうか。

話を元に戻そう。
スピーカーとマイクロフォンの動作原理が同じだから、
スピーカーがリスニングルームにおける「耳があるもの」といいたいわけではない。

スピーカーは音を発するものだから、
目とか耳という意味では口にあたる。

だが、その口は勝手になにかを喋っているわけではない。
その口を喋らせているのは、その口からの音を聴いている聴き手ということになると、
スピーカーは口ではなく、「耳があるもの」と思う。

Date: 11月 24th, 2013
Cate: prototype

prototype(その3)

当時のオーディオ雑誌が手元にあれば、あれこれ思い出せるのだが、
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌はほとんどない。

だから、記憶にあるものだけをいくつかあげていくと、
水冷式のパワーアンプを、ダイヤトーンが展示していたはずである。

ファンによる強制空冷のパワーアンプはある。
当時のアメリカのハイパワーアンプにはたいていファンがついていた。
SAEのMark2500、マランツの510Mなどがあったし、
ファンの音を気にしがちな日本においても、パイオニアのExclusive M4はA級動作ということもあって、
かなり静粛性にすぐれるファンを搭載していた。
それでも聴取位置に近いところに置けば、静かな環境・時間帯ではファンの音が気になる。

ダイヤトーンのプロトタイプがA級動作だったのかはわからないが、
水冷式はA級動作でハイパワーを実現しようとする際には、有効な手段のひとつになり得たかもしれない。
オーディオ雑誌に載っていた小さなモノクロ写真、
それに写真の解説文も短かく、細かなことはなにひとつわからなかった。

だからこそ想像をかき立てられる。

大出力を得るには出力トランジスターの数を増やすことになる。
部品にはすべてサイズがあり、数が増えればそれだけ配置のためのスペースを必要とし、
電子回路であるから配線距離がその分のびることになる。

発熱量の多いA級アンプではヒートシンクも大型のものとなるから、
出力トランジスターへの配線は、より長くなりがちである。

Date: 11月 24th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その6)

HIGH-TECNIC SERIES-1の二年後、ステレオサウンド 53号が出た。
特集は52号から続いているアンプ。

個人的に、53号でわくわくしながら読んだのは、特集ではなく、
瀬川先生による「4343研究」のページだった。

51号から始まった「4343研究」は、53号がひとつのピークだった。
ここでは、瀬川先生のリスニングルームにおいて、
オール・マークレビンソンによるバイアンプ駆動が行われていたからだ。

この記事の書き出しはこうだ。
     *
 ♯4343を鳴らすアンプに何がよいかというのが、オーディオファンのあいだで話題になる。少し前までは、コントロールアンプにマーク・レビンソンのLNP2L、パワーアンプにSAEの♯2500というのが、私の常用アンプだった。SAEの♯2500は低音に独特のふくらみがあり、そこを、低音のしまりが弱いと言う人もあるが、以前の私の部屋では低域が不足しがちであったこと、また、聴く曲が主としてクラシックでありしかもあまり大きな音量を出せない環境であったため、あまり低音を引締めないSAEがよかった。そのSAEが、ときとして少しぜい肉のつきすぎる傾向になりがちのところを、コントロールアンプのマーク・レビンソンLNP2Lがうまく抑えて、この組み合わせは悪くなかった。
 いまの部屋ができてみると、壁や床を思い切り頑丈に作ったためか、低音がはるかによく伸びて、また、残響をやや長めにとったせいもあってか、SAEの低音をもう少し引締めたくなった。このいきさつは前号(140ページ)でもすでに書いたが、そうなってみると、以前の部屋では少し音が締りすぎて聴こえたマーク・レビンソンのML2L(パワーアンプ)が、こんどはちょうど良くなってきた。しばらくしてプリアンプがML6×2になって、いっそうナイーヴで繊細な音が鳴りはじめた。それと前後してアキュフェーズのC240とP400の組合せを聴いたが、マーク・レビンソンの音が対象をどこまでもクールに分析してゆく感じなのに対して、アキュフェーズの音にはもう少しくつろいだやわらかさがあって、両者半々ぐらいで鳴らす日が続いた。けれどそのどちらにしても、まだ、♯4343を鳴らし切った、という実感がなかった。おそらくもっと透明な音も出せるスピーカーだろう、あるいはもっと力強さも出せるスピーカーに違いない。惚れた欲目かもしれない。それとも単に無意味な高望みかもしれない。だが、♯4343の音には、これほどのアンプで鳴らしてみてなお、そんなことを思わせるそこの深さが感じとれる。
 ♯4343というスピーカーが果してどこまで鳴るのか、どこまで実力を発揮できるのか、その可能性を追求する方法は無限に近いほどあるにちがいないが、そのひとつに、マルチアンプ(バイアンプ)ドライブがある。
     *
 このころのステレオサウンドは年末に別冊として「コンポーネントステレオの世界」を出していた。
1976年末、77年末、78末の「コンポーネントステレオの世界」で、
瀬川先生は4343の組合せをつくられている。

53号の、この記事は、「コンポーネントステレオの世界」の続きでもあり、
ひとつの区切りでもあったようにおもう。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その6)

マーラーの人生には、闇が待ち構えていた。

こう書いた所で、本当なのかどうかなんて、いま生きている者は誰もほんとうのところはわからない。
ただ想像で書くだけだ。

闇が待ち構えていた、としても、
それはマーラーに限ったことではない、ともいえる。
人すべて、皆、闇が待ち構えている。
ただ闇が待ち構えている、その気配に気づくか気づかずに生きていけるのか、
そんな違いがあるだけなのかもしれない。

こうやって書き連ねたところでなにも本当のところがはっきりしてくるわけではない。
もうマーラーはこの世にいないのだから。

われわれはマーラーの残した曲を聴くだけである。
それも誰かが演奏したものを通して。

オーディオマニアは、さらに録音されたもの、
オーディオという、一種のからくりを通して聴いている。

古い録音のマーラーも、最新録音のマーラーも聴ける。
いくつものマーラーをそうやって聴いてきた。
聴いていないレコードも、まだ少なくない。

実演よりもレコードでのマーラーを聴くことが圧倒的に多かった。
そうやって聴いてきた。

そして、私はバーンスタインのマーラー全集をとる。
CBSに録音した旧録ではなく、ドイツ・グラモフォンでの新録をとるのは、
私にとって、マーラーの闇を感じられるのが、
濃密な闇が感じられるのがバーンスタインの新録だからである。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: トランス

トランスから見るオーディオ(その19)

トランスそのものはバンドパスフィルターである。
低域も高域も適度なところから下もしくは上の帯域はなだらかにカットされる。

伊藤先生の300Bシングルのアンプに搭載されていたトランスは、後期のモノはパートリッジ製を、
BTS規格のケースにおさめたものだが、
それ以外はマリック製のトランス(日本製)だった。

マリックのトランスを設計しつくられていた松尾氏は、
トランスはフィルター理論によって設計されなければならない。
けれど日本のトランスの多くは、そうではない。
そう言われていた、ときいている。

松尾氏が亡くなられて、伊藤先生の300Bシングルはトランスが変ったのである。

トランスはフィルター理論で設計。
つまりはロスを少なくしていくとトランスの通過帯域は狭くなる。
帯域を広くしていくと、ロスは増えていく。

いわば山の形をしている、どの部分を使うかによって通過帯域が決ってくるし、
その山の中心周波数がどの値に設定されているかも重要である、と。

伝聞とはいえ、信用できる人からの話なので松尾氏の考えとはそう大きくは違っていないはずだ。

そして中心周波数は、いわゆる630Hzあたり。
20Hzと20kHzを掛け合わせた値、40万。その平方根の値を中心周波数としなければならない、ということだ。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その3)

トーキー用のスピーカーは、セリフの明瞭度が高い。
これが最大の特長だといわれ続けてきた。

映画ではさまざまな音が使われる。
音楽が鳴るシーンもあれば、音楽がまったく鳴らないシーンもある。
音楽が、映画の中の音の主役となることよりも、
ずっとずっとセリフが、映画の中の音の主役であることが多い。

セリフが明瞭に聞こえ、聞き取りやすくなければ映画のストーリーが観客に伝わらなくなることがある。

30年以上前、上京して映画館に行って感じていたことは、
意外にもセリフの明瞭度が悪いところがある、ということだった。

ずっとセリフだけははっきりときこえるものだと思っていたからでもあり、
田舎町の映画館よりも東京の映画館の方が設備も立派だし最新のものだから、という、
こちら側の思い込みもあった。

洋画だと字幕がある。だからあまり気づかなかった。
けれど邦画、それも古い作品を、
名画座ではなくロードショー館で観ていて、セリフがじつに聞き取りにくかったことにびっくりした。

邦画だから字幕はない。
だからセリフは耳だけが頼りなのに、
その耳にはいってくる情報の質がきわめて悪かった。

けれど、これは当然だったのかもしれない。
すでに時代はトーキーという言葉を使ってはいなかった。
トーキー用のスピーカーではなくなっていたのだろう。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その5)

ステレオサウンド別冊「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」で、
瀬川先生はマルチアンプシステムに向くか向かないの見極めるための四つの設問をされている。

 あなたは、音質のわずかな向上にも手間と費用を惜しまないタイプか……
 
 あなたは音を記憶できるか。音質の良否の判断に自信を持っているか。
 時間を置いて鳴った二つの音のちがいを、適確に区別できるか

 思いがけない小遣いが入った。
 あなたはそれで、演奏会の切符を買うか、レコード店に入るか、それともオーディオ装置の改良にそれを使うか……

 あなたの中に神経質と楽天家が同居しているか。
 あるときは音のどんな細かな変化をも聴き分け調整する神経の細かさと冷静な判断力、
 またあるときは少しくらいの歪みなど気にしない大胆さと、
 そのままでも音楽に聴き惚れる熱っぽさが同居しているか

瀬川先生はそれぞれの設問について説明をされている。
そして最後にこう書かれている。
     *
 ずいぶん言いたい放題を書いているみたいだが、この項の半分は冗談、そしてあとの半分は、せめて自分でもそうなりたいというような願望をまじえての馬鹿話だから、あんまり本気で受けとって頂かない方がありがたい。が、ともかくマルチアンプを理想的に仕上げるためには、少なくともメカニズムまたは音だけへの興味一辺倒ではうまくいかないし、常にくよくよ思い悩むタイプの人でも困るし、音を聴き分ける前に理論や数値で先入観を与えて耳の純真な判断力を失ってしまう人もダメだ。いつでも、止まるところなしにどこかいじっていないと気の済まない人も困るし、めんどうくさいと動かずに聴く一方の人でもダメ……、という具合に、硬軟自在の使い分けのできる人であって、はじめてマルチアンプ/マルチスピーカーの自在な調整が可能になる。
     *
でも、これらの設問とそれについて書かれた文章は、
瀬川先生のマルチアンプシステムへの本音のような気もする。

「硬軟自在の使い分けのできる人」、
そうできるようになったときにマルチアンプシステムに手を出せばいい、
それでも遅くはない、と、
HIGH-TECNIC SERIES-1を読み、そう思ったものだ。

Date: 11月 22nd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その5)

光は自分が何よりも速いと思っているが、それは違う。
光がどんなに速く進んでも、その向う先にはいつも暗闇がすでに到着して待ち構えているのだ。

テリー・プラチェットのことばだ。

マーラーの音楽には、このことを実感させるところがある。
闇が待ち構えている──、そんな感じを受けることがある。

Date: 11月 21st, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その4)

ステレオサウンド 47号、
58号の三年前に出た、この号には五味先生のオーディオ巡礼が再開されていた。

その冒頭に書かれている。
     *
 言う迄もなく、ダイレクト録音では、「戴冠式」のような場合、コーラスとオーケストラを別個に録音し、あとでミクシングするといった手はつかえない。それだけ、音響上のハーモニィにとどまらず、出演者一同の熱気といったものも、自ずと溶けこんだ音場空間がつくり出される。ボイデン氏の狙いもここにあるわけで、私が再生音で聴きたいと望むのも亦そういうハーモニィだった。どれほど細部は鮮明にきき分けられようと、マルチ・トラック録音には残響に人工性が感じられるし、音の位相(とりわけ倍音)が不自然だ。不自然な倍音からハーモニィの美が生まれるとは私にはおもえない。4ウェイスピーカーや、マルチ・アンプシステムを頑に却け2ウェイ・スピーカーに私の固執する理由も、申すならボイデン氏のマルチ・トラック毛嫌いと心情は似ていようか。もちろん、最新録音盤には4ウェイやマルチ・アンプ方式が、よりすぐれた再生音を聴かせることはわかりきっている。だがその場合にも、こんどは音像の定位が2ウェイほどハッキリしないという憾みを生じる。高・中・低域の分離がよくてトーン・クォリティもすぐれているのだが、例えばオペラを鳴らした場合、ステージの臨場感が2ウェイ大型エンクロージァで聴くほど、あざやかに浮きあがってこない。家庭でレコードを鑑賞する利点の最たるものは、寝ころがってバイロイト祝祭劇場やミラノ・スカラ座の棧敷に臨んだ心地を味わえる、という点にあるというのが私の持論だから、ぼう漠とした空間から正体のない(つまり舞台に立った歌手の実在感のない)美声が単に聴こえる装置など少しもいいとは思わないし、ステージ——その広がりの感じられぬ声や楽器の響きは、いかに音質的にすぐれていようと電気が作り出した化け物だと頑に私は思いこんでいる人間である。これは私の聴き方だから、他人さまに自説を強いる気は毛頭ないが、マルチ・アンプ・システムをたとえば他家で聴かせてもらって、実際にいいと思ったためしは一度もないのだから、まあ当分は自分流な鳴らせ方で満足するほかはあるまいと思っている。
     *
もっともこのオーディオ巡礼では、奈良の南口氏を訪問されている。
このときの南口氏のスピーカーはタンノイのオートグラフ、それにJBLの4350である。

4350はバイアンプ駆動が前提のスピーカーシステム。
しかも4ウェイの大型システムで、ダブルウーファー仕様ということもあり、ユニットの数は五つ。
五味先生にとって、4350は、まさしく「頑に却け」るスピーカーということになる。

南口氏の音がどうであったのかは、くわしくは「オーディオ巡礼」を読んでもらうしかないのだが、
最終的にどうだったのか。
     *
信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
 ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
     *
マルチアンプシステムの可能性の凄さ、とその大変な難しさを、
この五味先生の文章から感じとっていた。