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Date: 4月 11th, 2014
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×十三・作業しながら思っていること)

ラックスの管球式プリメインアンプのSQ38FDIIはウッドケースにおさまっている。
私は、どうもこのウッドケースが好きになれなくて、
ウッドケースが別売になったLX38のほうが、すっきりしていて好感がもてる。

マークレビンソンのJC2を使っていたときもウッドケースを手に入れようとはまったく思わなかった。

ウッドケースが似合うアンプは、ほんとうに少ない。
ウッドケースがほんとうにデザインとして消化されているアンプはあまりない。

サンスイのAU-D907 Limitedウッドパネルの使い方は、
サンスイの、このシリーズのデザインの野暮ったさを結果として強調しているふうに感じる。

むしろAU607、AU707のデザインを、
ほぼそのままAU-D907にも採用してしまった無理がはっきりとしてきたようにも思う。

AU607の、あの価格だと、あのデザインが好ましく感じられもする。
それが高級プリメインアンプとされるAU-D907にもってきてしまうと、
洗練されていないことが気になってしまう。

AU607では愛矯として映っていても、AU-D907クラスとなると愛矯ではすまされなくなる面が出てくる。

Date: 4月 11th, 2014
Cate: 香・薫・馨

便利であっても(その2)

20代のころはよく行っていた秋葉原も、最近、というよりもこの10年ほどは、めったに行かなくなっていた。

秋葉原という街が変っているからということも関係していないわけでもない。
電子部品を扱う店も以前とくらべると減ってしまっている。
オーディオを扱っている店も減っている。

オーディオは1980年ごろから斜陽産業といわれていたのだから、
秋葉原からオーディオ店が減っていくのは不思議なことでもない。

33年前の春、上京して最初に住んだのは三鷹だった。
渋谷に出かける用があり、隣の駅の吉祥寺まで国鉄で、それから渋谷までは井の頭線を利用した。
初めて乗った井の頭線だったから、窓の外の景色を見入っていた。

すると突然、山水電気という表示のある大きな建物が目に入った。
ここがサンスイなのか、ここにJBLのスピーカーがいっぱいあるのか。
そんなことを思いながら、サンスイの社屋を眺めていた。

それからは井の頭線を利用するたびに、サンスイの近くを通過するときは窓の外を眺めていた。

そのサンスイもいまはない。
建物はいまも残っている。
ヤマト運輸の建物になっている。

秋葉原だけでなく、東京という街からオーディオに関係しているモノが減ってきている。

それでも今日は秋葉原まで行ってきた。
特に、これといった理由はない。
ただ行きたかったから、だ。

Date: 4月 11th, 2014
Cate: 香・薫・馨

便利であっても(その1)

通販(通信販売)のイメージは、ずいぶん変ってしまった。
インターネットが普及してamazonが登場したことが大きなきっかけとなってのことだろう。

私が子供の頃の通販といえば、すこしアヤシイ製品というイメージもあった。
少年マンガ雑誌の表3によく広告が出ていた通販の会社の製品などは、まさにそんなイメージそのものだった。

それにそのころの通販は、それほど便利だとも思えなかった。

そんな時代を体験してきている者には、amazonに代表される今の時代の通販は大きな変化である。
品揃えも豊富で、インターネットが接続できれば、いつでもどこからでも注文できる。
通販(いまではネット通販というべきか)で買えないものはないどころか、
通販でしか入手できないものもある。

しかも安かったりする。

買物に行くにはその店舗まで移動しなければならない。
歩いて数分のところなら交通費は発生しないが、
例えば私が秋葉原まで出かけるとすると、往復で千円をこえる電車賃がかかる。

これも買物にかかるコストの一部であり、
出かけたら喉が渇けば飲料水を買って飲むし、食事もする。
そういったこともコストの一部と考えれば、通販の方がコスト的にも有利である。

別項でスピーカーの補修のことを書いている。
これに必要なパーツを買いに秋葉原まで行っていた。
10日ほど前にも行っていた。

このときは目的の店が臨時休業で、必要なパーツをすべて揃えることができなかった。
それで今日ふたたび行っていたわけだ。

私が揃えたパーツはすべて通販で入手できる。
わざわざでかけなくとも、それぞれの店のサイトで注文すれば送料を含めても、
出かけて買うよりも安くなる。

そんなことはわかっていたことだ。
それでも秋葉原に出かけていった。

Date: 4月 11th, 2014
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その2)

ステレオサウンドは二年後の2016年に創刊50周年を迎える。
オーディオ専門誌、それも三ヵ月に一度という季刊誌で、これだけ続いている。

創刊当時の苦労話のいくつかはステレオサウンドにいたころ、
その後、2008年2月、瀬川先生の墓参のときにも、原田勲氏から聞いている。

それだけでも、いかに大変だったかはわかる。

ステレオサウンドよりも長い歴史のオーディオ雑誌はある。
ラジオ技術、無線と実験がそうだが、
この二誌は誌名があらわしているように、最初は無線の雑誌であった。
最初からオーディオ専門誌であったわけではない。

ステレオサウンドは最初からオーディオ専門誌として、いまも続いている。
そういうステレオサウンドを、変えることは可能なのだろうか。

もう10年ほど前のことになるか。
ある時期、数人の人(それぞれに関係のない人たち)から、
「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」ときかれたことがある。

変ってきているといえば、ステレオサウンドは変っている。
創刊号からいまにいたるまでには変化がある。

つまりここでの「変らないんですか」は、その時期のステレオサウンドに対して、である。
その時期といってもひどく曖昧で、ここでの「その時期」には創刊号からしばらくの号は含まれない。

私は話の流れから、「その時期」とは、60号以降のことだと感じていた。

Date: 4月 11th, 2014
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その29)

技術的に判断すれば、スピーカーシステムに内蔵されているネットワークで鳴らすよりも、
ウーファーに専用アンプを用意して鳴らすバイアンプ駆動、
さらには各ユニットにそれぞれアンプを用意する、より徹底したマルチアンプ駆動のほうが、
理想に近いといえば、そういうことになる。

とにかくアンプとスピーカーユニットの途中に、コンデンサーやコイル、抵抗といったモノが介在しない。
よりストレートにアンプがスピーカーユニットを駆動できるのだから。

もちろんアンプの数がふえていくとそれだけ使い手に、より高い使いこなしの技術が要求されることになり、
それが足りなければ、ひどい音で鳴る可能性も高くなっていく。

それでもマルチアンプには、うまくいけば、ネットワークでは鳴らない領域の音が鳴ってくれる。
そんな期待を、使い手は抱く。

すべての点でマルチアンプ(もちろんうまく調整された場合)は、
ネットワークで鳴らすよりもよく鳴るのだろうか。

マルチアンプ・システムがうまく鳴ったとしても、
ネットワークで鳴らしていたときに得られていたもの(良さ)が無くなってしまうことはないのか。

何度も書いているように、この世の中にメリットだけの方式は存在しない。
マルチアンプ、ネットワーク、どちらにもメリットとデメリットがある。

そのマルチアンプのデメリット(苦手とするところ)は、
この項の(その4)で引用した五味先生の文章から読みとれる。

Date: 4月 10th, 2014
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×十二・作業しながら思っていること)

サンスイのアンプは、AU-D907 Limitedを使っていた。
写真で見た印象も、実際に使ってみての印象も、デザインに関しては変ることはなかった。

サンスイのアンプのデザインは、洗練されているとは感じない。
どこか野暮ったさが残っているような気がする。

AU607、707、907の一連のアンプのデザインも洗練されてはいない。
でも、愛着を感じるところがある。

その愛着は、いちばん安い607に強く感じる。

音だけでいえばAU-D907 Limitedはなかなかいい音のアンプだった。
でも、というか、だからこそ、というべきか、
音をこのレベルまでもってきたのに、アンプのデザインはそのままなのか、と感じていた。

しかもLimitedは、通常モデルのAU-D907と外観的にも違いをはっきりさせるためと、
音質追求の両面で、サイドにウッドパネルを採用し、天板の一部も木目仕上げとしている。

私にとって最初のウッドのサイドパネルのアンプだった。
高校生だった私は、サイドがウッドパネルになっているだけで、いいアンプを自分のモノとした気分になっていた。

サイドのウッドが高級機の証しのようにも思えていた。

だが実は、私はウッドのサイドパネルはあまり好きじゃない。
そのことに気づいたのはAU-D907 Limitedを使っていたときだった。

Date: 4月 10th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その9)

コーンアッセンブリーを、たとえ純正パーツとはいえ交換したスピーカーシステムは、
もうオリジナルとは呼べないのか。

オリジナルでなければ価値が下る、などというオリジナル至上主義の人たちに対しては、
「もうそれはオリジナルではありません」と答える。

コーン紙の原材料が変っている可能性の高さ、
原材料が同じであっても工場が変っている可能性、
原材料と工場が同じでも、製造時期が違ってくれば、
工場を取り巻く環境も原材料の木々を取り巻く環境も変ってきている。

水も空気も同じではない。

さまざまなこまかなことが管理されているとはいえ、
製造時期が違えば、まったく同じモノを製造することは不可能といえる。

見た目や型番といった視覚的情報だけで判断するオリジナル至上主義者には、
だからこういったことを滔々と述べて、もうオリジナルではなくなっています、と伝えるようにしている。

オリジナル至上主義者にはそう答えているが、すべての人にそう答えているわけではない。
大切に使ってきているスピーカーシステム、鳴らしてきているスピーカーシステムに、
なんらかの不具合が生じて、修理・補修の手を加えた。

純正のコーンアッセンブリーに交換した。
コーン紙が変るのがいやだから、エッジのみを交換した。
ネットワークのコンデンサーがダメになったから交換した。

その際に、自分の求めている音のイメージが確固としてあり、
そのために必要となる修理・補修の手の加え方であれば、厳密な意味でのオリジナルではなくなっていても、
それは、その人にとっての「オリジナル」であるわけだから、私はオリジナルと答える。

Date: 4月 9th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その8)

コーン型スピーカーの振動板の素材はひとつだけではない。
アルミニュウムやマグネシウムといった金属素材のもの、
ポリプロピレンやベクストレンなどの合成樹脂系のもの、がある。

こういった素材と一般的な素材である紙との違いはなんなのか。
紙である、ということ、つまり紙の元となるものものは木だ、ということである。

ステレオサウンド 23号はブックシェルフ型スピーカーシステムを特集している。
さまざまなスピーカーシステムの試聴記の他に、「設計者にきくスピーカーシステムの急所」という座談会がある。

日本コロムビアの小川秀樹氏、三菱電機の佐伯多門氏、オンキョーの鶴本浩規氏、日本ビクターの林正道氏を招き、
質問者として井上先生と瀬川先生。
この座談会の中に、こんな発言がある。

ビクターの林氏の発言だ。
     *
もちろん彼等(アメリカのホーレー社のエンジニアのこと)も試聴室を持っていますし物理的な定数も調べています。パルプをすでに35年間あつかってきたという技術部長は、フィンランドからパルプを買っていたが自分のいる間にAのパルプは尽き果てたので、必死に探してオレが決めたのはロッキー山脈の上の方から切り出したもので十年分を買いこんだ、なんていう試聴室に行くと、これは先輩が作ったAで、こっちはオレの作ったAだが判るか、と聞き返してくるんですよね。
     *
たとえ工場が変らなくても、コーン紙の型番が同じままであっても、
この話からはっきりとしてくるのは、紙である以上、使い果たしてしまったら、
別のところの木を探し出してこなければならない。

つまりホーレー社のコーンでも、以前はフィンランドのパルプだったコーン紙が、
ある時期からはロッキー山脈のパルプへと変っているわけで、それでもコーン紙の型番は、
どちらのパルプでも同じである。

Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その17)

この項の(その15)で引用した黒田先生の文章。
そこにある「そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化」、
これこそワーグナーの音楽(ここでは「パルジファル」の前奏曲)が、重層的であることをあらわしているし、
重層的であるからこそ、それぞれの層(レイヤー)がそれぞれに変化していくことで、
全体の「微妙きわまりない色調の変化」へとなっていく──、
そう読みとることができる。

カラヤンの「パルジファル」を聴いた後では、
「ニーベルングの指環」を録音したときに、「パルジファル」と同じレベルの録音が可能であったならば、
カラヤンはもう少し編成を大きくしての「ニーベルングの指環」を録音したのではないだろうか、
とさえおもえてくる。

カラヤンが「ニーベルングの指環」を録音した時代は、あれが限界だった。
重層的なワーグナーを表現しようとした場合、どうしても編成を小さくせざるを得なかった面がないわけではない。

録音技術、テクニックの進歩がカラヤンの「パルジファル」を生んだ。
だからこそ「パルジファル」を聴けば、
カラヤンが録音したかったであろう(あの時代では適わなかった)「ニーベルングの指環」の輪郭が、
聴き手の中に朧げながらではあっても浮んでくるような感じすら受ける。

ここまで書いてきて、やっと本題にはいれる。
カラヤンの「パルジファル」に焦点をしぼった組合せについて書いていける。

Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その16)

中学生だったころ、まだクナッパーツブッシュの「パルジファル」も、
その存在を知ってはいても聴いていなかったころ、
ワーグナーのレコードは一枚も持っていなかったころ、
断片的に耳にしたことのあるワーグナーの旋律──、
そんな未熟としかいいようのないワーグナーの音楽の聴き手(聴き手ともいえない)は、
活字によってワーグナーの音楽のイメージをかたちづくっていた。

勝手にワーグナーの音楽は重厚なのだ、と。
そんな思い込みはワーグナーの音楽は重厚でなければならないにつながっていく。

耳はそんなイメージの影響をたやすく受ける。
そんな耳の持主のワーグナーの音楽の聴き手には、
カラヤンの「ニーベルングの指環」は重厚には聴こえない。

聴こえないけれど、聴きつづけていくことで、
ワーグナーの音楽は重層的なことに気づかせてくれる。

重層的だからこそ重厚である、といえよう。

私に、そのことを音で気づかせてくれたのはカラヤンの指揮によるワーグナーだった。
このことに気づいて、ステレオサウンド 59号の黒田先生の文章を読み返してみると、
カラヤンの「パルジファル」を聴かずに過ぎていくわけにはいかなくなる。

Date: 4月 6th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その7)

社会情勢は大きく変化している。
それによってオーディオがまったく影響を受けないわけではない。

オーディオ機器をつくっているのは会社である。
オーディオ機器を開発し販売し利益を得ている会社は、社会情勢の変化を受ける。
モノづくりの体制も変っていく。

JBLのコーン紙の製造は1970年代のスタジオモニターに使われているものに限っても、
数回製造工場が変っていることは確認済みである。
日本でつくられていた時期もある。

いまはどこで製造しているのか、私が確認できている後でも、工場は変っていったのか、
そのへんのことははっきりとわからないけれど、コーン紙の製造工場が変っていることを知っている人は、
JBLユーザー、JBLに関心をもつ人の中には少なくない。

工場が変ってもJBLが純正パーツとして製造しているコーンアッセンブリーであることには変りはない。
その意味では、例えば1970年代後半に4343を購入した人が、
その後、2231A、2121のリコーンをした場合、
最初についていた2231A、2121のコーン紙の製造工場と、リコーン用の製造工場とでは違っている、といえる。

これをオリジナル至上主義の人は、リコーンしたJBLのスピーカーシステムも、
オリジナルである、と言い張るのだろうか。

気になっている(その2)

ここでいうところの「オーディオの素人」とは、
オーディオに関心のない人、オーディオを趣味としていない人のことである。

そういう人たちのことを、そのイベントに出かけていった人は「オーディオの素人」と呼んだわけだ。
なぜ、彼はそう呼んだのか。

私ならば、オーディオに関心のない人、オーディオを趣味としていない人、といった言い方をするところを、
彼は「オーディオの素人」と呼ぶ。

この表現が出た時は、これより優先したことがあって、そちらについて話していたから、
その場では「オーディオの素人」という表現について、その人と話すことはなかった。

けれど帰りの電車のなかで、やはり気になってきた。
なぜ「オーディオの素人」という表現なのか。

素人の対義語は玄人になる。
ということは「オーディオの素人」を口にした彼は、自身のことを「オーディオの玄人」だとしているのか。
だとしたら「オーディオの玄人」とはいったいどういう人のことなのか。

「オーディオの素人」をオーディオに関心のない人とすれば、
ここでの「オーディオの玄人」はオーディオに関心のある人、オーディオを趣味としている人となるわけだが、
これでは釈然としないものがのこる。

もしかするとオーディオで苦労している人、
つまり苦労人(くろう・と」と呼ぼうとすればそう呼べる。
そういう意味での玄人(苦労人・くろうと)が頭にあっての「オーディオの素人」なのか、
そんなどうでもいいことも考えながら、オーディオにおける素人・玄人の違い、分けるものは何なのか。
そして彼はなぜ「オーディオの素人」と呼ぶのか。
彼自身は「オーディオの玄人」だと思っているのか。

そんなことが気になっている。

気になっている(その1)

ある話の中で「オーディオの素人」という表現が出た。
私が言い出したわけではない。

ある人が、あるイベントに行きそこでの感想を述べたときに使われたのが「オーディオの素人」だった。

その人が行ったイベントは、いわゆるレコードコンサートといえるものだった。
昔よく行われていたレコードコンサートはオーディオメーカー主催で、
そこでかけられるのはLPだった。

今回のレコードコンサートはCDが主体で、
CDをかけるためにナマの演奏が行われたそうだ。

その人はイベントが終ってしばらくのちに、
インターネットでこの日のイベントのことを検索してみた。
いくつかあった、とのこと。

そこで彼の目を引いたのは、「やっぱりナマの演奏は良かった」だった。
そして、彼はこう書いた人たちのことを「オーディオの素人」とひと括りに表現したわけだ。

Date: 4月 5th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その6)

ネットワークのコンデンサーについては、これで行こう、という結論はすぐに出た。
けれどエッジに関しては少しばかり考えてしまった。

ウレタンエッジは加水分解によってボロボロになる。
どんなに大事に使ってもいずれもボロボロになってしまう。

JBLのスタジオモニターのウーファーによく採用された2231のエッジはウレタンであり、
やはりボロボロになる。
ボロボロになったら交換するしかない。

日本では輸入元のハーマンインターナショナルによって、リコーンをしてくれる。
エッジだけの交換ではなくコーンアッセンブリーまるごとの交換となる。

つまりコーン紙、エッジ、ボイスコイルボビン、ボイスコイル、ダンパーがまるごと新品に交換されるわけだ。
そのため価格もそこそこかかる。
それでも純正のコーンアッセンブリーが用意されているのだから、安心といえば安心といえる。

にも関わらずJBLのスピーカーシステムを使っている人の中には、
ハーマンインターナショナルに依頼せずに、エッジのみを交換してくれる業者もしくは人を探して依頼する人もいる。

エッジだけの交換のほうが価格が安い、ということもあるが、
理由はそれだけとはいえない。

Date: 4月 5th, 2014
Cate: コントロールアンプ像

モードセレクター(その2)

モードセレクターはほんとうに必要なのだろうか、とそのころの私は考えた。
ステレオ録音のLPを聴くのであればモードセレクターは必要としない。
モノーラル録音のLPを聴くのであれば、ステレオ用カートリッジではなくモノーラル専用カートリッジを用意する。
スピーカーも左右両チャンネル鳴らすのではなく、どちらか片方だけを鳴らす。

こう考えればモードセレクターが必要な機能とは思えなかった。

そのころの私はモノーラル専用カートリッジはまだ買えなかったし、
モノーラルLPの数も持ってはいたけれどいまよりもずっと少なかった。

将来はモノーラルはモノーラル専用カートリッジで、と考えていた私は、
モードセレクターはそういう機能だとしか認識できていなかった。

モノーラル録音をステレオ装置で聴くためのスイッチとして機能しかないように考えていたわけだ。
この考えはけっこう長かった。
20代になっても30代になってもモードセレクターの必要性は感じることがなかった。

モードセレクターに対する認識がはっきりと変ったのは40代になってからだ。
モードセレクターはチェックのために必要な機能だ、とやって気がつくことができた。