Archive for category テーマ

Date: 10月 17th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その20)

ソニーは電子制御のトーンアームをバイオ・トレーサーと呼んでいた。
ソニーからやや遅れてビクターも、電子制御トーンアームを発表した。
ビクターはED(electro-dynamic)サーボと呼んでいた。

ビクターの電子制御トーンアームは、ソニーのバイオ・トレーサーと形状は異るが、
複数のセンサーをもち、垂直・水平、ふたつのリニアモーターをもつのは共通している。

ステレオサウンド 53号のビクターのQL-Y7、QL-Y5の広告には、
EDサーボ・トーンアームの分解図が載っている。
EDサーボ・トーンアームは従来のトーンアームの軸受け右側に、
垂直方向の電子制御のための機構を後付けしたような感じがしている。
水平方向のための機構は、トーンアームの下部にある。

センサーは垂直速度、水平速度、位置、高さを検出している。
プロセッサーについての記述はないが、
ソニーのバイオ・トレーサーに使われているものと性能的に大差はないはずだ。

ソニーはバイオ・トレーサーの特徴として、
 最低共振周波数のピークを3dB以内に抑制
 徹底したフロントオペレーション
 機械的なインサイドフォースキャンセラー、カウンターウェイトの除去
この三点をあげている。

ビクターのEDサーボにはカウンターウェイがあるのが、ソニーと異るが、
電子制御の特徴として挙げているのはソニーとほぼ同じである。

Date: 10月 16th, 2014
Cate: デザイン

悪いデザインとは

ソニーの苦境を伝える記事をよくみかける。
読んでみて納得の記事はほとんどない。

なぜソニーがこうなってしまったのか、について書いてあるようで、
実のところ何も書かれていない感じばかりを受ける。
ソニー、一人負け、といった見出しばかりが目につく。

なぜなのか、私にはわからないけれど、ひとつだけ書きたいことがある。
それも非常に偏った、狭いものの見方といわれるのを承知で書いておく。

私はソニーがこうなってしまったのは要因のひとつは、PSPだと思っている。
PSPは携帯ゲーム機のことだ。

PSPが発売された時、ボタンに不具合があったようで問題になりかけたことがある。
これに対して、久夛良木氏が、PSPのデザインは優れている、といわれたように記憶している。

PSPのデザインは優れているのかもしれないが、悪いデザインである。
どう悪いのかといえば、PSPがどう使われているのか、
ソニーの偉い人たちは知らないのではないか、と思う。
電車、それも混んでいる電車に乗ってみて、PSPがどう使われているのか、
PSPで電車内でゲームをしている人が、どうしているのかを把握しているのか、と問いたくなる。

携帯ゲーム機はPSP以外にも他メーカーからいくつも出ている。
けれどPSPは両手を必要とするゲームが多いように見受けられる。
(PSPを持っていないしPSPでゲームをしたこともないのであくまでも推測でしかないが)

しかもデザイン的になのだろう、両肘を張り出してゲームに夢中になっている人が少なくない。
電車内で座っていて、両隣に人がいようとおかまいなしに肘を左右に突き出してゲームをしている。
また立っていてもPSPでゲームをしている人も少なくない。

両手がPSPでふさがっているから、つり革や手摺につかまっていない。
彼らはどうしているかというと、立っている他人の背中を背もたれとしている。
しかも肘は突き出している。

こういう使われ方を幾度となく電車内で見てきていると、
悪いデザインということについて考えてしまう。

家で一人でPSPでゲームをしている分には、肘がどういうふうになっていもいい。
けれどPSPは外でも、電車の中でもゲームができるモノだけに、
PSPのデザインは悪い、と私は判断する。

PSPはひと目でPSPとわかる。ソニーの製品だとわかる。
電車内でPSpでゲームに夢中になり、周りの人に迷惑をかけている人たちがいる。
このことがソニーの及ぼす影響は微々たるものだろうか。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: audio wednesday

第46回audio sharing例会のお知らせ

11月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: アナログディスク再生

電子制御という夢(その19)

ソニーの電子制御トーンアームとは、いったいどういうものだったのか。
ステレオサウンド 49号に載っているソニーの広告をみてみる。

センサーは垂直速度センサー、トーンアーム姿勢検出器、水平速度センサー、トーンアーム回転角検出器で、
構造図をみるかぎり、どれもけっこうなサイズである。
これだけのサイズであればトーンアームの軸受け周辺で動きを検出する以外にない。

けれどセンサーが小型軽量化されれば、軸受け周辺だけでなく、アームパイプにもつけられるし、
さらにはヘッドシェルに取り付けることも、いまでは無理なことではないと想像できる。

電子制御トーンアームが搭載されたソニーのPS-B80が登場した1978年では、
センサーが小型であっても、数を増やすことはもしかすると無理だったかもしれない。
なぜなら、電子制御にはプロセッサーを必要とするわけで、
センサーの数をふやし、センサーから贈られてくる情報量をむやみに増やしても、
プロセッサーが処理できなくなるからである。

ソニーの広告には、128ワード×4ビットの「電子頭脳」と書いてある。
いまiPhoneには64ビットのプロセッサーが、非常に高いクロック周波数で動作している。

プロセッサーの処理能力はインプットだけでなく、アウトプットにも大きく関わってくる。
PS-B80のトーンアームには、垂直リニアモーターと水平リニアモーターがある。
プロセッサーは、このふたつのリニアモーターを制御している。

検出と制御、このふたつの精度を高めるにはプロセッサーの処理能力が高くなければならない。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: イコライザー, 純度

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その2)

日本では、昔から、余計なことをするな、余分なものを加えるな、というのが、
オーディオにおけるピュアリストアプローチだったような気がする。

たとえばアナログディスクの製作過程においても、
マスターテープのままカッティングしろ、というのが以前からある。
カッティング時に音をいじるのはけしからん、というやつである。

これはCDが登場してからも同じである。
何もいじらずにマスターテープのままCDにしろ、と主張する人たちがいる。

いまCDの規格(16ビット、44.1kHz)よりもハイビット、ハイサンプリングのソースが増えはじめている。
ハイレゾと呼ばれている。
ここでも、せっかくの器の大きな規格なのだから、
その良さを最大限に活かすためにも何もいじるな、という人たちが表れている。

そういう人たちからすれば、アナログ録音のものをアナログディスクにする際に、
デジタルリマスターするなど、もってのほかとなる。

CDが登場してから、CD化のためにデジタルリマスターが行なわれるものがあった。
そのデジタルリマスターをアナログディスクのマスターとして使ったレコードが出ていた。
CBSソニーから出ていたブルーノ・ワルターえコロムビア交響楽団がそうだった。

頭だけで考えれば、アナログ録音をアナログディスクで供給するのに、
途中でデジタル処理(デジタル機器)を通すのは、音を悪くするだけのことにしか思えない。

それでも買って聴いてみた。

Date: 10月 15th, 2014
Cate: イコライザー, 純度

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その1)

ステレオサウンド 74号の拍子はチェロのAudio Paletteである。
プロトタイプの撮影だった。
74号には、チェロを興したマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。

レヴィンソンはMLAS(マークレビンソン)時代のアプローチ、
つまりモノーラル構成のコントロールアンプで、入力セレクターとレベルコントロールだけのML6、
消費電力が片チャンネルで400Wながら出力25WのAクラス・パワーアンプのML2を、
非常にピュアリストのオーディオマニアのための製品、と呼んでいる。

確かにそうだった。
これらのアンプに憧れた時期が私にもあった。
そして、これがピュアリストのオーディオマニアのためのモノだと思い込んでいた。

けれど、Audio Paletteは6バンドのイコライザーである。
Audio Paletteがなくとも音は再生できる。
いわばピュアリストのオーディオマニアからみれば、非常に高価な不要物ということになる。

けれどレヴィンソンは「ピュアリストアプローチを忘れたわけではない」ともいっている。

ML6、ML2を開発したのもピュアリストアプローチからであって、
Audio Paletteを開発したのもAudio Paletteからである。

矛盾ではないか、詭弁ではないか、と思われるかもしれない。
だがピュアリストアプローチとは、いったいどういうことなのか。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: アナログディスク再生, サイズ

サイズ考(LPとCD・その1)

CDが1982年に登場して、もう30年以上が経つ。
CDは片手で持てる。
その名のとおりコンパクトなディスクである。

最初CDを見て触れた時、小さいな、と感じた。
それまでプログラムソースとしてもっとも聴いていた(さわっていた)のはLPの12インチだから、
CDのサイズはかなり小さく感じた。

CD登場以前からオーディオをやってきた者にとっては、
CDのサイズはシングル盤(7インチ)よりも小さいわけで、
けれどシングル盤が片面に一曲ずつしか記録できないのに対して、
CDは片面だけでLPよりも長い時間を記録できるから、よけいに小さく感じたものである。

それにシングル盤はドーナツ盤といわれるように中心の穴が大きい。
だから片手で持てるわけだが、実際にプレーヤーにのせるときには両手を使う必要がある。

CDはトレイにのせるのに両手は必要としない。
むしろ両手でやろうとすると面倒である。片手で持ち、片手でトレイにセットできる。
だからこそコンパクトディスクなのだと思う。

そんなCDを、いまでも小さいな、と感じることがある。
その一方で、アナログディスク(LP)を大きいと感じる人(世代)もいるようだ。

つまり12インチが私にとって標準サイズになっていることに気づかされる。
だから、いまでもCDを小さいと感じるわけだ。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: きく, 老い

まるくなるということ

昨夜書いたフランス映画「オーケストラ!」のこと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のこと。
これを、若いころ、とんがっていたのが年取ってまるくなってしまっただけだろう、と読もうと思えば読める。

年取ってまるくなった、よくいわれることである。
でも、このことが意味しているのは、少し違うところにあるように思っている。

若いころ針のようにとがっている。
年取ってまるくなるとは、針先が摩耗して丸くなることだと思われがちだが、
私は上下左右全方向に針が増えていって、全体のかたちとして球体になることを、
まるくなる、というふうに解釈している。

若いころの針は、本数がすくない。それにある方向にだけ向いていたりする。
だからこそ、相手にとがっている、と感じさせるだけであって、
歳を重ねて、さまざなことを体験していくことで、針の本数は増え、
いままで針のなかった方向に針が生じていく。

そうやって針全体が形成するかたちは球体になっていくのが、まるくなることであり、
決して針先が摩耗して丸くなってしまうわけではない。
これが理想的な歳の重ね方なのだと思う。

私はまだいびつなかたちだと自覚している。
どこまで球体に近づけるのかはわからない。

そして針先を向けるのは、外に対してではなく、
内(裡)に対して、であるはずだ。

Date: 10月 13th, 2014
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その20)

たとえば100畳のスペースが与えられたとしよう。
オーディオ機器も好きなモノ、使いたいモノを選び放題、という夢の話があったとして、
100畳のスペースをどう使うか。

100畳の床面積の部屋をつくるのか、
それとも100畳をいくつかに分割して、50畳の部屋をふたつつくるか、
それとも50畳の部屋と25畳の部屋をふたつ、計三つの部屋にするのか、
もっと分割して大中小、さまざまな大きさの部屋をつくるのか。

そしてそこにスピーカーシステムをどう配置するのか。

100畳の部屋に一組のスピーカーシステムだけ、もある。
100畳の部屋に複数のスピーカーシステムというのもある。
分割した部屋にそれぞれ一組のスピーカーシステム、
分割した部屋にそれぞれ複数のスピーカーシステム、ということだって考えられる。

同じ空間に複数のスピーカーシステムを入れれば、
鳴らしていないスピーカーシステムが、鳴っている音に影響する。
これはどうやっても抑えられない。
だからひとつの部屋には一組のスピーカーシステム、という人がいる。

20代のころの私は、そうだった。
一組のスピーカーシステムだけを置く。
複数のスピーカーシステムを使いたければ、スピーカーの数だけの部屋を用意するか、
そんなことはほんとうに大変だから、
あくまでもサブスピーカー(セカンドスピーカー)としてメインスピーカーの邪魔にならないような、
そんなサイズの小さなスピーカーにする──、そういう考え方だった。

けれど、いまは変ってきた。
スピーカーシステムを役者としてとらえるようになってきたからだ。

Date: 10月 13th, 2014
Cate: 映画

オーケストラ!(Le Concert)

通俗名曲と言葉があって、
どの曲を思い浮べるかは、人によって多少の違いはある。

私が通俗名曲としてすぐに思い浮べるのは、惑星、新世界、幻想などがあり(他にもけっこうある)、
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もそうだ。

五味先生の書かれたものを読んで、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲、
後期のピアノソナタをいきなり聴いても、なにかすごい、ということだけは感じても、
一曲聴き通すだけでもしんどいことだったし、よさがわかっていたわけではない。

だからといって、そのころにこれらの曲を聴く必要がない、というわけではなく、
一度は聴いておくべきだと思う。

そんなベートーヴェンの後期の曲にくらべれば、通俗名曲と呼ばれるものは耳に馴染みやすいメロディがある。
難解な曲とは感じられない。よさが感じられやすい。

でも、頭のどこかに通俗名曲ということがひっかかっている。
そのためか、聴かなくなるようになっていった。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、どこかで耳にすることはあっても、
自分のシステムでかけることはなくなってしまっていた。

2009年に公開された「オーケストラ!(Le Concert)」という映画がある。フランスの映画だ。
この映画のクライマックスはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏シーンである。

いい映画だと思う。2010年の公開時に映画館で観た。今日、二回目の鑑賞。
二回目だから、ストーリーはすでにわかっている。
それでも演奏シーンには感じるものがあった。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のよさに、気づいた。
若いころに感じていたよさももあるし、そのころは感じえなかったよさもあった。

それは映画のストーリーもいくぶん影響してのことだとはわかっていても、
それでもいいではないか、といまは思える。

Date: 10月 13th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(その12)

きもちを思い出すとともに、もうひとつ思っていたことがある。

義を見てせざるは勇なきなり、である。

勇(勇気)は、長い時間持っておく必要はない。
川崎先生の正面に座っていたのだから、
そこから川崎先生のところに歩いていき、挨拶をして、菅野先生との対談をお願いするだけ。
時間にすれば、一分とかからない。三十秒もあればいい。
その短い間だけ勇をもっていればいいだけのことである。

だから、川崎先生の話が終った後、二年前にはおじけづいてしまったことがやれた。
それに私が菅野先生と川崎先生の対談をやろうと思った川崎先生の文章のタイトルは「得手」である。

私の「得手」はオーディオである。
「得手」に川崎先生が書かれている。
     *
すでに郷愁かもしれないが、オーディオは私が得意とする分野だ。
 デジタル時代になって、アナログ再生に深く関与できた青春は終わったと思っていた。しかし、今この得意領域に立ち戻るつもりだ。それは、20年間もの醸造時間をかけてきた祈念ですらあるわけだ。
     *
2000年のE-LIVEでは、川崎先生のところへ行き、名刺交換し話されている人たちを羨ましくも思えた。
この人たちは、デザインの仕事をしているんだろうな……、と。

この時気づかなかったこと、
川崎先生の「得手」も私の「得手」もオーディオである。
オーディオマニアとしての川崎先生に、オーディオマニアとして会いに行けばいいことに、気づいた。

「得手」を、川崎先生はこう結ばれている。
     *
 まだまだ不得手なことがあることに気付いた。しかもそれは得手だった音響についてのデジタル化のデザインがテーマだ。最も得手になる、それもトップクラスの得手になる自分を早く発見したい。
     *
「トップクラスの得手になる自分」──、
だからこそDesign Talkとの出逢いは、私にとって第二章の始まりである。

Date: 10月 12th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(その11)

三回目のE-LIVEで、川崎先生の講演が終ってすぐに、川崎先生のところに行った。
この日、最前列の中央の席に座っていた。川崎先生にもっとも近い距離の席である。

2000年のE-LIVEのときもそうだったが、講演終了後、何人かの人が川崎先生のところへ行く。
すごい行列ができるわけではないから、しばらく待っていればいいことなのだが、
待っている間に気持が萎えるか、2000年のときのようにおじけづくのをさけるためにも、その席に座っていた。

名詞を渡した。
名刺といっても、前日にMacとプリンターでつくったもの。
audio sharingの文字を大きくして、
あとはURLとメールアドレスだけの名刺だった。

そして「オーディオ評論家の菅野先生と対談をしていただけないでしょうか」と切り出した。

この時の川崎先生の表情は、いまもはっきりと憶えている。

──こう書くと、これまでの逡巡は何だったか、と思われるかもしれないが、
実を言うと、まったく迷っていなかったわけではない。

この日、川崎先生は「いのち・きもち・かたち」について話された。
これをきいてしりごみしそうになっていた。

けれど、「いのち・きもち・かたち」が背中を押してくれもした。

「いのち・きもち・かたち」。
川崎先生の話をききながら、自分にあてはめていた。

私のいのちはなにか。
答はすぐに出た。オーディオマニアである。
きもちは──。
すぐに出なかった。
かたちは──。
すぐに出た。audio sharingがそうだ、と。

もう一度、きもちは──、と問う。
audio sharingをつくろうとおもいたったときの「きもち」を思い出した。

Date: 10月 12th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(その10)

2001年4月。
あるオーディオ店で菅野先生のイベントがあることを知った。
出掛けていった。またPowerBook G3を携えてである。

この時、菅野先生からaudio sharingでの公開の許諾をいただいた。
菅野先生の連絡先は知っていた。
でも電話や手紙ではなく、直接お会いして、こういうことをやっていると伝えたかったから、こうしたわけである。

菅野先生はaudio sharingのトップページを見て「美しいじゃないか」といわれた。
これは嬉しかった。
みっともないトップページではないとわかっていても、それだけでは足りなかったからだ。

川崎先生はデザイナーである。
だから菅野先生の一言が、嬉しかったし自信にもなった。

E-LIVEは2001年も開催された。
だがこのときは川崎先生ではなく、MAC POWERの編集長がゲストだった。

この年の夏に菅野先生の文章を公開した。
あとは川崎先生に会える機会(E-LIVE)を待つだけである。

2002年6月1日、五反田の東京デザインセンターで、三回目となるE-LIVEが開催された。

Date: 10月 12th, 2014
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度・その3)

イコライザーの使用を熱心に推奨する人はいる。
けれど文章のうえでは同じことを主張しているように思えても、実際は違うことがある。

イコライザーはequalizerである。
意味は等しくするもの、等価器とあり、
equalizeには、等しくする、平等にする、均等にする、一様にする、とあり、
equalは、等しい、相等しい、である。

イコライザーで(ほせい)する、イコライジングすると言ったり書いたりする。
この場合の(ほせい)は補整なのか、補正なのか。

辞書には、補整は足りないところを補い、整えることであり、
補正は足りないところを補い、あやまりを正すこと、
誤差を除いて正しい値を求めること、とある。

補正も補整も、足りないところを補うのは同じである。
ただ補整は、整えることであり、補正はあやまりを正すことだから、
イコライザーによる(ほせい)は、まず補整があり、その上に補正がある、と考える。

補整にしても補正にしても、イコライザーによる(ほせい)は、
使い手が好き勝手な音をつくる、ということではないことだけははっきりしている。

にも関わらず、積極的にイコライザーの使用を推奨する人の中には、
ごく一部だが、補整、補正ということがすっぽりと抜け落ちてしまっている人がいる。

Date: 10月 12th, 2014
Cate: ショウ雑感

2014年ショウ雑感(その10・補足)

ステレオサウンドのオーディオフェアの別冊に「オーディオフェア/会場こぼればなし……」という記事がある。
それによると、施工期間は三日間しかない、とある。

あれだけのブースを三日間で、となると、業者の人たちの雰囲気がやや殺気立っていたのもわかる。
工事関係者は約二千五百人とある。しかも徹夜で行なわれるそうだ。
撤去は一日で行なわれる、とのこと。

各ブースの費用は、何千万円もかかる、とも書いてある。そうだと思う。

晴海の国際見本市会場はもともとは保税倉庫として仮設されたものらしい。
そのためなのか、小さな換気用の天窓以外に窓はなく、
そのためオーディオフェア会期中は天井に500Wの水銀灯が一館あたり約三百個取り付けられている。
会場はL館、R館とあるため、これだけで30万W。
これに各ブースでの、オーディオ機器への給電、照明、クーラーなどの電力を加えると、
60万Wの消費電力になっていたらしい。