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Date: 7月 30th, 2015
Cate: オーディオ評論,

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(賞について・その2)

オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。
彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、
オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、
文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
長島先生がサプリームNo.144に書かれたものだ。
「彼」とは瀬川先生のことである。

瀬川先生が始められたオーディオ評論が成立していくことができたのは、
ステレオサウンドが創刊されたからといえる。
それまでの技術色の強い雑誌では、その成立は困難であったろう。

そのステレオサウンドは来秋、創刊50年迎える。
ステレオサウンドの50年は、オーディオ評論が成立しての50年ともいえる。

前回、人を対象とした賞があってもいいではないか、と書いた。
このとき、ほんとうに書きたかったのは、
人を対象とした賞というよりも、オーディオ評論を対象とした賞ということだった。

つい先日、芥川賞、直木賞が発表になった。
文学の世界には、いくつかの賞がある。
評論の世界にも、小林秀雄賞がある。

オーディオ評論の世界に、瀬川冬樹賞があってもいいではないか。
いや、あるべきではないか、と思っている。

これを書きたかったのだ。

Date: 7月 29th, 2015
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(その2)

ピュアオーディオが使われるようになってきたのは、オーディオ・ヴィジュアルの抬頭だけではない。

ピュア(pure)は、純粋ということである。
純ということである。

文学の世界では、純文学という。大衆文学・通俗文学への対義語でもある。
ピュアオーディオにも、そういった意味合いがある。
それはヴィジュアルが加わったことに対してだけではなく、
いわゆるゼネラルオーディオと呼ばれるものに対しても、である。

私もそうだが、オーディオマニアはラジオから始まり、ラジカセがあって、
オーディオへと進んでいった世代がある。
私の場合、ラジオもラジカセもモノーラルだった。

私より上の世代であれば、ラジカセがなく、ラジオからオーディオへと進んでいっている。
つまりオーディオのスタートとしてのラジオがあった。

ラジオはたいていの家庭に、以前はあった。
いまはラジオのない家庭も珍しくないのかもしれない。

そのころはピュアオーディオとは呼んでいなかったし、
ラジカセをゼネラルオーディオと区別することもなかった。

なのにいつのころからか、
ピュアオーディオ、ゼネラルオーディオ、オーディオ・ヴィジュアルという区別が行われるようになった。

思うには、1979年に登場したソニーのウォークマン(TPS-L2)が、
ゼネラルオーディオという言葉を生み出していったのではないだろうか。

Date: 7月 29th, 2015
Cate: audio wednesday

第55回audio sharing例会のお知らせ(組合せのこと)

8月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

瀬川先生がステレオサウンド 56号で提示された予算30万円の組合せ。
KEFのModel 303、サンスイのAU-D607、パイオニアのPL30LにデンオンのDL103D。
これらのなかで、56号を読んだ時に聴いたことがあったのはDL103Dだけだった。

KEFの他のモデルは聴いていた。
サンスイのアンプも同じだった。
それでも瀬川先生の組合せの意図は充分伝わってきたし、
そこで鳴るであろう音も想像できた。

だからこそ、この組合せが印象に残っている。

一方、同じ予算30万円の組合せでも、ステレオサウンド 99号での別の人の組合せは、
読み返しても、そこで鳴ってくるであろう音がほとんど想像できなかった。

56号、99号、そこでの組合せについて費やされている文字の量は99号の方が多い。
99号の組合せで登場する機種のいくつかは聴いていた。
にも関わらず、伝わってくるものが、少なくとも私には稀薄だった。

56号の組合せと99号の組合せを比較して、どちらがいい音なのかについて語りたいわけではない。
組合せの記事として違いについて、あれこれ考えてしまう。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 28th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その12)

山中先生が《ぼくは実はこうした音楽が一番好きなのです》と語られているドビュッシー。
ステレオサウンド 88号の特集「最新コンポーネントにおけるサウンドデザイン24」、
この中に「山中敬三のサウンドデザイン論 そのバックグラウンドをさぐる」がある。
そこで語られていることを思い出していた。
     *
──好きな音楽は?
 わりと広いほうです。若いときから、その時期ごとに、一つのものに傾倒して、それがシフトしていって、結果的にかなり広いジャンルを聴くようになった。
 自分自身でレコードを買うようになったのはジャズ……スイングの後半からモダン・ジャズまでです。ベニー・グッドマンにはじまり、コルトレーンでストップ。
 兄がクレデンザの一番いいやつを持ってて、それでジャズを聴いてしょちゅう怒られました。でもあの音は素晴らしかった。
 クラシックで最初に好きになったのは、フォーレとかドビュッシーとかのフランス音楽だったんです……。
──S/Nをとるのがむずかしい……!
 苦労しましたね。低音を出そうと思ってもS/Nがとれない。フォーレのレクイエムを聴くために壁バッフル作ったり……。
 フランス音楽のあの積み重なりが好きになったんでしょう。
     *
「コンポーネントステレオの世界 ’82」でのESL63の組合せでは、
《こういったドビュッシーなんかの曲で一番難しいのは、
音が空間に漂うように再生するということだろうと思います》といわれている。

フランス音楽の積み重なり、これが漂うように再生されるかどうか。
「漂い」に関しては、88号の特集で菅野先生も語られている。
     *
──鳴らし方のコツのコツは……?
 オーディオマニアは「漂い」という言葉を使わない。「定位」という言葉がガンと存在しているからだ。「漂い」の美しさは生のコンサートで得られるもの……。それを、もうちょっとオーディオマニアにも知ってほしい。これこそ、一番オーディオ機器に欠けている部分ですね。
 最新の機械を「漂い」の方向で鳴らすと、極端にいうと、みんなよく鳴るように思います。最新の機械で「定位」という方向にいくと「漂い」がなくなって、オーディオサウンドになります。
     *
山中先生が自宅のシステムとしてAPM6ではなくESL63を選ばれた大きな理由のひとつが、
この「漂い」だと思う。

Date: 7月 27th, 2015
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その19)

ヤマハのAST方式が実現した低音は、なかなかのものだった。
AST方式はその後YST方式と改称され、
現在ではA-YST(Advanced Yamaha Active Servo Technology)方式というようだ。

ヤマハは、GTラックをエンクロージュアにしたYST-SW1000を1990年に出した。
優れたサブウーファーだった。

現在ヤマハのサブウーファーにはNS-SW1000がトップモデルとしてラインナップされている。
YST-SW1000と同じ30cm口径のウーファーを採用し、立方体に近いエンクロージュアとなっている。
これが現在の、YST-SW1000に代るモデルといえる。

聴けば、印象は変るのかもしれないが、
YST-SW1000の後継機とはどうにも思えないところを感じてしまう。

YST-SW1000に代る製品を開発してほしいと思う。
つまり、オーディオ専用サブウーファーということである。
NS-SW1000には、ホームシアターと兼用のサブウーファーとしてのイメージがはっきりと出ている。

もし叶うのならば、ヤマハが1991年に発表した大型モデルGF1のウーファーセクションを、
アンプ部、フィルター部をリファインしたかたちで出してほしい。

GF1は4ウェイのシステムで、
ミッドバスより上の帯域を受け持つ三つのユニットをおさめたエンクロージュアと、
ウーファー(サブウーファーといったほうがいいかもしれない)のエンクロージュアは独立している。

YST-SW1000はGTラックをそのまま採用しているため重量は48kgあった。
GF1のウーファー部は、ユニット口径はYST-SW1000と同じ30cmだが、重量は80kg。
GF1のウーファー部のエンクロージュアの内容積は145ℓ。

ヤマハがAST1でAST方式を発表したためか、
AST方式は小型であっても低音を出せる技術のように受けとめられているところもある。

しかもヤマハAST方式を採用したスピーカー・デザインを公募したこともあった。
大々的に広告を出していたので記憶されている方も多いだろう。
プロ、アマ問わずで、優秀作は製品化されたこともあって、
本格的な低音再生のための技術であるにも関わらず、少しそれてしまった。

もちろんAST方式が小型であっても低音が出せるのは事実であり、
そのことを活かした製品開発を行うのはメーカーとして間違っているわけではないのだが、
それだけではないのに……、と思ってしまう。

結局YST-SW1000、GF1のウーファーをピークに、
AST(YST)方式のウーファーは、オーディオマニアがほんとうに望んでいるカタチからそれていった。
少なくとも私が望むカタチからはそれてしまった。

それでもまだわずかの期待を込めながらAST(YST)方式のウーファーについて書くのは、
平面バッフルのシステムにもってこれるウーファーは、
家庭におさまる現実的なサイズとしてはAST(YST)方式が最良であると思っているからだ。

AST(YST)方式のウーファーが受け持つ低音域は、
どんなにサイズを大きくしても平面バッフルでの再生は無理なのだから。

Date: 7月 25th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その11)

自分がいま鳴らしている音を冷静に捉えている人であれば、
自分のシステムがうまく鳴らしてくれないレコード(音楽)を、
いともたやすく鳴らしてくれるスピーカーがあったならば、やはり惹かれてしまう。

いま鳴らしている音の延長線上にある音に惹かれることもあるし、
自分のスピーカーに不満に思い続けているところがよく鳴っているからこそ惹かれることもある。

前者の場合、グレードアップにつながっていく。
後者の場合はどうだろう。新たなスピーカーを導入するきっかけとなることだってある。

山中先生にとって、1981年の時点で、
QUADのESL63とエスプリのAPM6は、後者の場合にあたるスピーカーだったといえよう。

山中先生はESL63を導入されている。
QUADのアンプを含めての導入で、
リスニングルームではなくリビングルームにQUADのシステム一式は置かれていた。

APM6はリビングルームに置くスピーカーという雰囲気ではない。
やはりリスニングルームに置くスピーカーであるし、
型番にMonitorとつくぐらいであるからスタジオでの使用を前提としているともいえる。

そういえば、山中先生は「コンポーネントステレオの世界 ’82」のAPM6の記事の最後にこういわれている。
     *
 最後に、このAPM6というのは家庭に持ち込みますと意外と大きいんです。ショールームとか、どこかの展示会の会場で見ている場合には、角のない楕円形のカタチのせいか、そう大きく見えないのですが、実際に部屋に置くとたいへん大きいスピーカーで、狭い部屋ですとセッティングに苦労することがあるかもしれません。
     *
確かにAPM6はカタチのお陰で、写真でみるとそう大きくは感じられない。
けれど外形寸法はW54.4×H82.0×D37.3cmある。わりと大きめのサイズであることは確かだ。

だがESL63はどうだろう。
W66.0×H92.5×D27.0cmある。奥行き以外はESL63の方が大きい。
にもかかわらずESL63の記事では、APM6のように実際には大きいとは語られていない。

Date: 7月 24th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その3)

1990年ごろのヘッドフォンでAKGのK1000というモデルがあった。
AKGはK1000のことをヘッドフォンとは呼ばず、イヤースピーカーと呼んでいた。

ヘッドフォンは密閉型にしろ開放型にしろサウンドチェンバーと呼ばれる空間が存在する。
密閉型はその名の通り、サウンドチェンバーは密閉されているから、外界の音とは遮断されることになる。

開放型はサウンドチェンバー内の空気とヘッドフォンの外側の空気とは流通性がある。
そのため密閉型よりも音もれが発生することになる。

密閉型か開放型かと装着感にも関係しているため、
密閉型はどうしてもだめという人もいるし、密閉型の音の方がいいという人もいる。

K1000は開放型のひとつなのだが、
ヘッドフォン特有のサウンドチェンバーはK1000にはない。

通常のヘッドフォンではパッドが耳の周囲に直接ふれるわけだが、
K1000ではこめかみ周辺にパッドがふれ、耳の周囲を覆うものは存在しない。
いわば完全な開放型ともいえる構造をもつ。

K1000が出た時に、さっそく聴いたという人がまわりにいた。
どうだった? ときいた。
返ってきたのは、あんなのは欠陥品、という強い口調の完全な否定だった。
こめかみで支える構造ゆえ、音を聴く以前に非常に不愉快で頭が痛くなる──、
ということだった。何度聞き返しても、音について彼の口から語られることはなく、
あんな欠陥品は買うべきではないし、あんなものを製品として出したことが理解できない……、
彼の口から出るK1000の否定はいきおいを増すばかりだった。

きいていていやになってきた。
彼はK1000のことを評価するに値しないモノと断言していたけれど、
彼の顔の幅ははきりいって広いほうだった。
こめかみにパッドがあたるから、顔の幅が広ければそこにかかる圧も増してくる。
だから彼は我慢できなかったはず、と思いながら彼の口から出るK1000の悪口をきいていた。

装着感は人それぞれなのだから、彼にとって最悪であっても、多くの人にとってそうとはかぎらない。
事実、K1000の装着感についてそういう指摘を読んだ記憶はない。

記憶に残っているのはK1000の音のよさに語られたものばかりだ。

Date: 7月 23rd, 2015
Cate: audio wednesday

第55回audio sharing例会のお知らせ(組合せのこと)

8月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

組合せについて書くのは面白い。
ステレオサウンドに、それらの組合せが載った時にも面白いと感じていた。
いま読み返しても、やはり面白いと感じている。

もちろん同じように感じている面白さもあれば、当時は気づいていなかったか面白さもある。

そして、いまのオーディオ雑誌の組合せに面白さを感じなくなっている。

別項「オーディオ入門・考」の(その10)で、
瀬川先生による、予算約30万円の組合せのことについて書いた。
そういえばと、同じテーマで同じ予算の組合せが、ステレオサウンド 99号に載っている。

第二特集の「評論家10人が答える音のグレードアップ法40」の中で、
いろいろな音楽を楽しむためのオーディオシステムを予算30万円で、という質問があった。

この質問にふたつの組合せが答えられていた。
99号は1991年、56号は1980年。10年ほどの開きがあるわけで、物価も変動している。
いろいろな変化があったことはわかっている。
それでも……、と感じてしまう。
まったく印象に残らない組合せが、そこに提示されていた。

この記事を憶えていたのは、印象に残らないからであった。
つい最近もステレオサウンドの特集で「黄金の組合せ」とつけられていた。

昔の組合せといまの組合せが違うのは、
組合せをつくる人、編集者も組合せを楽しんでいるのか、というふうに思えてくる。

「楽しんでつくっている」と、いまの組合せをつくっている人、編集者からいわれるかもしれない。
そうだとしても、その楽しさが誌面から伝わってこない。

それはお前が読みとれていないだけだ、といわれればそうなのかもしれない。
けれど昔の組合せからは、いまも読みとれるものがある。
少なくとも「組合せ」として提示されるいろいろなものが変ってきている。

組合せとオーディオの想像力。
このあたりをテーマにして話していこうと考えている。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 23rd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その11)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」でM200(B200)のことを書かれているが、
このときのコントロールアンプについては何も書かれていない。

M200は自宅で試聴されているから、
瀬川先生が自宅で使われていたコントロールアンプとなると、
マークレビンソンのLNP2とML6、それにアキュフェーズのC240である。

このころのステレオサウンドを読まれていた方ならば、
TVA1とC240のペアを、《近ごろちょっと類のない素敵な味わい》と評価されているから、
C240の可能性が高い。

けれどTVA1とM200は出力管の種類も数も違うから、
もしかするとマークレビンソンだったかもしれない可能性は捨てきれないが、
4350Aで、オール・レビンソンによる世界と対極にある音の世界を求めてということになれば、
C240をコントロールアンプにされるだろう。

マルチアンプドライヴで要となるエレクトロニッククロスオーバーネットワークはどうされるか。
オール・レビンソンではLNC2を、片チャンネルを遊ばせたモノーラル使いだった。

ここではコントロールアンプがアキュフェーズだから、
同じアキュフェーズのF5だろうか。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」で瀬川先生は4343のバイアンプドライヴをやられている。
ここでは予算100万円の組合せから、200万円、400万円とステップアップするもので、
最終的に4343を、コントロールアンプはML6、パワーアンプはアキュフェーズのP400、
エレクトロニッククロスオーバーネットワークは、同じアキュフェーズということでF5を選ばれている。

ただしヤマハのEC1も候補にあげられていた。
そして、どちらにしようか、いまも迷っている、と発言されている。

F5はクロスオーバー周波数を別売のクロスオーバーボードを差し替えて行なう。
EC1はクロスオーバ周波数を細かく、ツマミでいじれるようになっている。
F5の減衰特性は-12dB/octと-18dB/octに対し、EC1は-6dB/octの選択できる。
それに-12dB/oct時のQ特性も05〜1.0のあいだで連続可変となっている。

だから瀬川先生は、
《ぼくはこういったところをいじるのが好きですから、こちらの方を気に入っている》といわれている。
だからEC1を選択された可能性もある。ただしEC1には250Hzという、4350にぴったりの値はない。
4350の場合、EC1だとクロスオーバー周波数が200Hzになってしまう。

アキュフェーズからは、F5の上級機にあたるF15が、M200から遅れて登場している。
組合せをつくる時期によっては、F15、それからエスプリのTA-D900も候補にはいってくる。

4343をTVA1二台でバイアンプというのであればF5でもいいと思うけれど、
4350を、それも低域にはM200をもってくるバイアンプでは、正直F5ではなくF15にしたいところだ。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その10)

山中先生は、エスプリ(ソニー)のAPM6のどこによさを認められていたのか、
「コンポーネントステレオの世界 ’82」での組合せでは、どういう音を求められていたのか。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」でのもうひとつき山中先生の組合せ、
QUADのESL63の組合せとAPM6の組合せには、共通する言葉が出てくる。

ESL63の組合せの最後に山中先生が語られている。
     *
 最近は室内楽のレコードをほんとうに魅力的に再生できるシステムが非常に少ない。この組合せにあたってドビュッシーのフルートとハープとヴィオラのソナタを聴きましたが、こういったドビュッシーなんかの曲で一番難しいのは、音が空間に漂うように再生するということだろうと思います。そのあたりの雰囲気が、かけがえのない味わいで出てくるわけで、ぼくは実はこうした音楽が一番好きなのです。
 それをこういう装置で聴くと、またまた狂いそうで心配です。最近の自分のシステムでいちばん再生困難なソースだったけれども……。
     *
ESL63の組合せはQUADのアンプ(44+405)に、
アナログプレーヤーはトーレンスのTD126MKIIICとトーレンスのカートリッジMCH63、
昇圧トランスはオーディオインターフェイスのCST80E40で、組合せ合計は¥1,710,000(1981年当時)。

室内楽については、APM6のところでも語られている。
     *
 この組合せのトータルの音ですが、最初に意図した、おらゆるソースにニュートラルに対応するという目的はかなり達せられたと思う。たとえば、かなり大編成のものを大きな音量で鳴らしても大丈夫ですし、楽器のソロのような再生の場合でも焦点がピシッと定まる。決して音像が大きく広がらないで、定位の点でも問題ないし、ディテールも非常によく出ると思います。
 ただ、私の好みもあって、いろいろなソースを聴いてみますと、一番よく再生できたなという感じがしたのは、クラシック系のソースです。特に小編成の室内楽とか声楽、それからピアノの再生がかなり良かったと思います。それがこのスピーカーシステムの一つの特徴なのかもしれません。楽器のイメージというか、とくにサイズの感覚が非常によく出る。たとえば、ギターのソロの場合、スピーカーによってはギターが非常に大きくなってしまって、両方のスピーカーの間隔いっぱいに広がるような、巨大なギターを聴くという雰囲気になるんですけど、そういうことは全くなくて、ピシッとセンターに焦点が合う。しかも、その楽器の大きさらしい音で実感できる。こういう点がこのシステムの一番素晴らしいところだと思います。
     *
この、再生される楽器の大きさについては、ESL63のところでも語られている。
     *
 人間が人間の大きさでちゃんと再現される。動きもわかる。楽器がそれぞれ大きさでちゃんと鳴る。小さな楽器は小さく、大きな楽器は大きく、ちゃんと感じられる。
     *
APM6とESL63、
それに鳴らされる(組み合わされる)アンプもずいぶんと傾向の違いを感じるが、
意外にもどちらの組合せでも、共通する意図が、そして音があったことがわかる。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その10)

瀬川先生はステレオサウンド 52号で、書かれている。
     *
 ところで、ML6の音は良いと思い、ML2Lの音にまた感心し、両者を組合わせたときの音の素晴らしさに惚れ込みながら、しかしその音だけでは十全の満足が得られないように思われる。それは一体何だろうか。
 おそらく、音の豊かさ、それも、豊潤(あるいは芳醇)とか潤沢とか表現したいような、うるおいも艶もそして香りさえあるかのような豊かさ。光り輝くような、それも決してギラギラとまぶしい光でなく、入念に磨き込まれた上品な光沢、といった感じ。
 そんなリッチな感じが、レビンソンの音には欠けている。というよりもレビンソン自身、そういう音をアンプが持つことを望んでいない。彼と話してみてそれはわかるが、菜食主義者(ヴェジタリアン)で、完璧主義者(パーフェクショニスト)で、しかもこまかすぎるほど繊細な神経を持ったあの男に、すくなくとも何か人生上での一大転換の機会が訪れないかぎり、リッチネス、というような音は出てこないだろうと、これは確信をもっていえる。
 いわゆる豊かな音というものを、少し前までのわたくしなら、むしろ敬遠したはずだ。細身で潔癖でどこまでも切れ込んでゆく解像力の良さ、そして奥行きのある立体感、音の品位の高さと美しさ、加えて音の艶……そうした要素が揃っていれば、もうあとは豊かさや量感などむしろないほうが好ましい、などと口走っていたのが少し前までのわたくしだったのだから。たとえば菅野沖彦氏の鳴らすあのリッチな音の世界を、いいな、とは思いながらまるで他人事のように傍観していたのだから。
 それがどうしたのだろう。新しいリスニングルームの音はできるだけライヴに、そしてその中で鳴る音はできるだけ豊かにリッチに……などと思いはじめたのだから、これは年齢のせいなのだろうか。それとも、永いあいだそういう音を遠ざけてきた反動、なのだろうか。その詮索をしてみてもはじまらない。ともかく、そういう音を、いつのまにか欲しくなってしまったことは確かなのだし、そうなってみると、もちろんレビンソン抜きのオーディオなど、わたくしには考えられないのだが、それにしても、マーク・レビンソンだけでは、決して十全の満足が得られなくなってしまったこともまた確かなのだ。
     *
そして53号で、オール・レビンソンによる4343のバイアンプの音を聴かれて、書かれている。
     *
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
     *
サンスイのショールーム、スイングジャーナルの試聴室での4350のオール・レビンソンによる音を聴かれ、
自身のリスニングルームで自身の4343を、4350と同じラインナップで鳴らされている。
その感想を、53号に書かれている。

オール・レビンソンの音を「ひとつ隔絶した世界」と認めながらも、
そこに決定的に欠けているものを求めようとされている。

ちょうどそのころにマイケルソン&オースチンのTVA1が登場している。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その9)

「4350の組合せ」について書こうとしたのは、
井上先生が4350Aを所有されていたこと、井上先生ならばどういうシステムで鳴らされたのか。
そのことを考えていたからである。

最初はそのことについて書く予定だったのが、書いていくうちに書きたいことが出てくる。
瀬川先生はオール・レビンソンの組合せだったわけだが、
こんな組合せもつくられたのではなかろうか……、そうおもえることがある。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭の冒頭を読んでほしい。
     *
 秋が深まって風が肌に染みる季節になった。暖房を入れるにはまだ少し時季が早い。灯りの暖かさが恋しくなる。そんな夜はどことなく佗びしい。底冷えのする部屋で鳴るに似つかわしい音は、やはり、何となく暖かさを感じさせる音、だろう。
 そんなある夜聴いたためによけい印象深いのかもしれないが、たった昨晩聴いたばかりの、イギリスのミカエルソン&オースチンの、管球式の200ワットアンプの音が、まだわたくしの身体を暖かく包み込んでいる。
 この200ワットアンプは、EL34/6CA7を8本、パラレルPPでドライヴするモノフォニック構成の大型パワーアンプで、まだサンプルの段階だから当分市販されないらしいが、これに先立ってすでに発売中のTVA1という、KT88・PPの70ワットのステレオ・パワーアンプの音にも、少々のめり込みかけていた。
 近ごろのТRアンプの音が、どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがあるが、同じ剃刀でも、腕の良い職人が研ぎ上げた刃の厚い日本剃刀は、当りがやわらかく肌にやさしい。ミカエルソン&オースチンTVA1の音には、どこか、そんなたとえを思いつかせるような味わいがある。
 そこにさらに200ワットのモノ・アンプである。切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力を持っている。
 たとえば、少し前の録音だが、コリン・デイヴィスがコンセルトヘボウを振ったストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス)。その終章近く、大太鼓のシンコペーションの強打の続く部分。身体にぴりぴりと振動を感じるほどの音量に上げたとき、この、大太鼓の強打を、おそるべきリアリティで聴かせてくれたのは、先日、SS本誌53号のための取材でセッティングした、マーク・レビンソンML2L2台のBTL接続での低音、だけだった。あれほど引締った緊張感に支えられての量感は、ちょっとほかのアンプが思いつかない。ミカエルソン&オースチンB200の低音は、それとはまた別の世界だ。マーク・レビンソンBTLの音は、大太鼓の奏者の手つきがありありとみえるほどの明解さだったが、オースチンの音になると、もっと混沌として、オーケストラの音の洪水のようなマッスの中から、揺るがすような大太鼓の轟きが轟然と湧き出してくる。まるで家全体が揺らぐのではないかと思えるほどだ。
 B200の音の特徴は、もうひとつ、ピアノの打音についてもいえる。もう数年前から、本誌での試聴でも何度か使ってきた、マルタ・アルゲリチのショパンのスケルツォ第2番(グラモフォン)の打鍵音は、ふつうとても際どい音で鳴りやすい。とくに高音の打鍵ほど、やせて鋭い人工的な鳴りかたになりやすい。しかしB200では、現実のピアノで体験するように、どんな鋭い打鍵音にもそのまわりに肉づきの豊かな響きが失われない。ただ、アルゲリチ独特の──それを嫌う人も多いらしいが──癇性の強い鋭いタッチが、かなり甘くソフトになってしまう。まるで彼女の指までが肉づき豊かに太ってしまったかのように。それにしても、近ごろ聴いた数多くのアンプの中で、音の豊かさ、暖かさが、高域の鋭さまでを柔らかくくるみ込んでしまって、ピアノの高域のタッチをこれほど響きをともなって聴かせてくれるアンプは、ほかにちょっと思い浮かばない。いくら音量を上げても、刺激性の音がしない。それで、最後に、アース・ウィンド&ファイアの「黙示録」(CBSソニー)の中から、おそらくこれ以上上げられないと言う音量で二曲聴き終えたら、同席していた3人とも、耳がジーンとしびれて、いっとき放心状態になってしまった。あまり大きな音量だったので、玄関のチャイムが聴こえずに、そのとき友人が表でウロウロしていたのだが、遮音については相当の対策をしたはずのこの部屋でも、EWFのときばかりは、盛大に音が洩れていたらしい。
     *
この時は試作品だということで型番がB200となっているアンプは、マイケルソン&オースチンのM200のことだ。
EL34を八本使った出力段をもつこのアンプは200Wで、KT88プッシュプルのTVA1の約三倍の出力を持つ。

シャーシーはTVA1とM200は共通。TVA1がステレオ仕様に対してM200はモノーラル仕様。
出力トランスもM200のそれはTVA1の出力トランスのふたつ分の大きさとなっている。

瀬川先生はこのM200を低域用として、TVA1を中高域用として4350Aを鳴らされたのではないか。
そうおもえてくるのだ。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その8)

もう少し水にこだわって書けば、
マークレビンソンのML6とマッキントッシュのC29の違いには、のどごしの違いもあるように思う。
のどごしにも好みがあろう。

1995年ごろだったか、
日本にもフランスのミネラルウォーターの中で最も硬水といわれるコントレックスが輸入されるようになった。
いまではどのスーパーマーケットにも置いてあるし、
ディスカウントストアにいけば1.5ℓのペットボトルが150円を切っている。

いまから20年ほど前は扱っているところも少なかった。
そのころ祐天寺に住んでいたけれど、まわりの店にはどこにもなく、
隣の駅の学芸大学の酒屋で偶然見つけたことがある。
価格は1.5ℓで400円ほどしていた。

水の味といってもたいていは微妙な違いであるが、
コントレックスは誰が飲んでも、味がついているとわかるくらいだった。
しかもたまたま遊びに来ていた友人に出したところ、硬くてのみ込みにくい、といわれた。

コントレックスののどごしが私は好きだったけれど、友人は苦手としていた。
音にも、水ののどごしに似た違いがある。

耳あたりのいい音とは、違う。
耳(外耳)を口だとすれば、鼓膜が舌にあたるのか。
耳は、音によって振動する鼓膜の動きを耳小骨を用いて蝸牛の中へと伝えるわけだから、
咽喉にあたるのは蝸牛か。
となると喉越しではなく蝸牛越しとでもいうべきなのか。

とにかく音ののどごしは、人によって気持ちよく感じられるものに差はあるだろう。
ある人にすんなりと受け容れられる音ののどごしを、別の人はものたりないと感じることだってあろう。
コントレックスのように、気持いいのどごしと感じる人もいれば、重すぎるのどごしと感じる人もいる。

こうやって書いていると、アンプの音とは水のようなものぬたと思えてくる。
オーディオではアンプの音だけを聴くことはできない。
スピーカーが必要だし、プログラムソースも必要となって音を聴けるわけだから、
水そのものの味を聴いているわけではないが、
水の味はコーヒー、紅茶を淹れるときにも関係してくるし、
ご飯を炊くのであっても水の味は間接的に味わっている。
料理もそうだ。

水そのものを直接口にしなくとも、
口にいれるコーヒー、や紅茶、料理を通して、われわれは水の味の違いを感じとれる。
アンプの音とは、そういうものだと思う。

そして、1981年夏、レコード芸術で始まった瀬川先生の連載、
「MyAngle 良い音とは何か?」を思い出す。

この連載は一回限りだった。
一回目の副題は「蒸留水と岩清水の味わいから……」だったのを思い出していた。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 基本

ふたつの「型」(その3)

世の中には器用な人がいる。
はじめてやることでも、なんなくやってみせる人のことを、「あの人は器用だ」だという。

「あの人は器用だ」といってしまうと、
その人の器用さは、その人の才能のように受けとめられるかもしれない。
「あの人は器用だ」と口にしてしまった人も、
器用な人の器用さを、ある種の才能だと思ってそう言ったのかもしれない。

器用であることは、才能のような気もするし、そうでないような気もする。

器用な人であれば、けっこうな腕前でピアノを弾いてしまうだろう。
そういうのを目の当りにすれば、器用であることは才能のようにも思えてくる。

けれど器用な人のピアノと、
グレン・グールド(グールドなくとも他のピアニストでもかまわない)のピアノと、
何が違うのだろうか、と考えたときに、器用と技は違うことに気づく。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その9)

ステレオサウンド 59号のベストバイで、エスプリのAPM6に星をつけている人は、
APM8の六人(井上、上杉、岡、菅野、瀬川、柳沢)に対し三人(岡、菅野、山中)だった。

ここでひっかかったのは山中先生が、APM8には入れずAPM6に二星をつけられている。
これが意外だった。

山中先生といえば新製品紹介のページでも海外製品を担当されていた。
それまで書かれたものを読んできても、国産スピーカーをあまり高く評価されることはなかった。
その山中先生が、なぜだか理由はわからないけれど、APM6に二星。
しかも多くの人が評価しているスピーカーとはいえないAPM6に対して、である。

59号の約半年後に出た「コンポーネントステレオの世界 ’82」でも、
山中先生はAPM6の組合せをつくられている。
この別冊では他に二つの組合せをつくられている。
ひとつはQUADのESL63、もうひとつはエレクトロボイスのRegency IIIである。

QUADとエレクトロボイスは、すんなりわかる。
けれど、山中先生がAPM6? と思った。

それまでのステレオサウンドを読んできた者にとって、これは意外なことだ。
APM6の組合せならば、それまでのステレオサウンドならば、
岡先生、上杉先生、柳沢氏の誰かだったはずだから。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」の半年後の63号でのベストバイ。
ここでも山中先生はAPM6を評価されている。

ここでつくられた組合せの次の通りだ。

●スピーカーシステム:エスプリ APM6 Monitor(¥500.000×2)
●コントロールアンプ:エスプリ TA-E900(¥600.000)
●パワーアンプ:ヤマハ BX1(¥33.000×2)
●カートリッジ:フィデリティ・リサーチ FR7f(¥77.000) デンオン DL305(¥65,000)
●プレーヤーシステム:パイオニア Exclusive P3(¥600.000)
組合せ合計 ¥3.002.000(価格は1981年当時)