Archive for category 名器

Date: 7月 7th, 2016
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その5)

シーメンスのオイロダインというスピーカー。

スピーカーシステムとは呼びにくい、このモデルは鉄製のフレームに、
外磁型の38cm口径のウーファーと大型のコンプレッションドライバーとホーンが、
がっちりと固定されている。

いわゆるエンクロージュアとよばれる箱はない。
2m×2mの平面バッフルか大型の後面開放型エンクロージュアを用意する必要がある。
いわゆるスピーカーシステムではなく、2ウェイのスピーカーユニットの一種といえる。

出力音圧レベルは104dB/W/mと高い。
周波数レンジは狭い。
トーキー用スピーカーと呼ばれるモノであり、
アメリカのウェスターン・エレクトリックでさえ、
とっくに製造を中止してしまった古典的な劇場用スピーカーを、長いこと製造していた。

1980年ごろにウーファーが38cmから25cmの三発に変更になったが、その後もしばらく製造された。
こういうスピーカーは珍しい。
シーメンスという会社の体質が、他の利益追求型の会社とは違っていたのかもしれない。

ヴィンテージといえるのは、ほぼすべてが製造中止になったモノである。
でも、このオイロダインだけは現役だったころ、
すでにヴィンテージとためらいなくいえたスピーカーである。

Date: 6月 25th, 2016
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その4)

何をもってして、ヴィンテージというのか。
これを考えていると、なかなか答が出なかった。
これといった定義が見つけられなかった。

ヴィンテージ(vintage)の意味は辞書を引けば載っている。
けれど、英単語としての意味ではなく、
オーディオにおけるヴィンテージとはどういうことなのか、
もしくはヴィンテージオーディオとは、どういうものなのか。

だから一度ステレオサウンドの特集で、
一流品(41号)やState of the Art(49号、50号、53号……)などを開いては、
そこに登場するオーディオ機器をパッと見ては、
これはヴィンテージと呼べる、これは呼べない、これは保留。
そんなふうに続けざまに見ていった。

定義づけがはっきりとしないままで、
むしろそんなことを考えずに、とにかく見て感じたままで、そんな振分けをした。

やっていて気づいたことは、
私がヴィンテージとして選んだモノは、オーディオの古典といえるものばかりであった。

名器と呼べるモノと重なってはいるけれど、
私の中では名器と古典は少し違ってくるところがある。
その意味では、名器をヴィンテージと捉えているわけではないことを確認したともいえる。

アンプでいえば、マランツのModel 7はヴィンテージである(私にとっては、である)。
Model 2、Model 9もヴィンテージといえる。
マッキントッシュのC22、MC275もそうだ。

ではJBLのSA600、SG520、SE400Sはどうかというと、保留だった。
私の中では、これらのアンプは名器として位置づけられている。
けれどヴィンテージかというと、ヴィンテージだ、とすぐさまそう思えたわけではないし、
だからといってヴィンテージではない、とすぐに感じたわけでもなかった。

この三機種の中では、SA600はヴィンテージに近い気もするし、
別の視点から捉えようとすればSG520の方が近いのではないか……、という気もしてくる。

パワーアンプのSE400Sこそ、回路的に見れば古典といえるわけだし、
ならばヴィンテージかというと、必ずしもそうは感じない。

Date: 3月 27th, 2016
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(老化と劣化)

初期のマークレビンソンのコントロールアンプ(LNP2やJC2)の中古相場が高騰している──、
そんなことを耳にする。

中古相場は変動がある。
高くなるときもあれば反対にそうでなくなるときもある。

マークレビンソンにしても約40年が経っている。
完動品とすくなくともいえる個体の数は減っていっている。
マークレビンソンのアンプに限らない。
マランツ、マッキントッシュの真空管アンプなどもそうだ。

いい状態のモノが減っていっているのだから、
価格は高くなるのも不思議ではない、といえるのだが、
それでも……、という想いはある。

たとえばマークレビンソンのLNP2やJC2はモジュールが密閉されているため、
通常のアンプよりも修理が困難である。

いい状態のLNP2を見つけ出してきて、高額な代金を払って自分のモノとする。
出て来た音は、期待したとおりの、予想した以上の音だったとしても、
それがいつまで聴けるのか、その保証はまったくない、といえる。

今日は素晴らしい音を聴かせてくれた。
けれど翌日には故障してしまい……、ということだってありえる。
そういうリスクがあることは承知のうえで購入すべきものであり、
どんなオーディオ機器であっても、どんなに丁寧に使ってきても、
もしくはずっと箱に入ったまま未使用で保管されていようと、
すべてのオーディオ機器は劣化する。

ここまでは改めて書くまでのことではない。
オーディオ機器に劣化は不可避である。
けれどオーディオ機器の老化という現象はあるのだろうか。

オーディオ機器の老化はあるのか、あるとしたらどういうことなのか。

Date: 1月 18th, 2016
Cate: 名器

名器、その解釈(ゲーテ格言集より)

《才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる。》

ゲーテ格言集(新潮文庫)に、こう書いてある。
ここでゲーテが指しているのは人間であっても、
そのままオーディオ機器にも当てはまる、と思う。

オーディオ機器の中でも、スピーカーは特にそうだといえよう。

Date: 8月 26th, 2015
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その3)

私の中で、ワディアとマークレビンソンとが重なっていったのは、
聴いた時の驚きだけが理由ではない。

LNP2の登場は、トランジスターアンプの新しい時代を切り拓いた、と高く評価される一方で、
LNP2の繊細すぎる音は神経質であり、気になってしまう、という意見もけっこうあった。

それからナルシシズムを感じさせる音ゆえに……、という意見もあった。

ポジティヴな評価とネガティヴな評価があった。
それだけLNP2は注目されたコントロールアンプだった。
少なくとも、誰もが一度は聴いてみたい、と思っただろうし、
実際に聴いた人も多かったからこそ、
ポジティヴな意見・評価とネガティヴな意見・評価があれこれ出て来たともいえる。

ワディアの D/Aコンバーターも同じような現象だった。
私は高く評価した。
私だけではなく、多くの人が高い評価をするのと同じくらい、
その高性能さは認めるものの、実際の音は、どこか違和感をおぼえる、
なにか人工的な印象を拭えない……、そういったネガティヴな評価も少なからずあった。

そういったポジティヴな意見・評価とネガティヴな意見・評価が徐々に耳に入ってくるようになって、
こういうところもマークレビンソンのLNP2と同じだな、と思っていた。

Date: 8月 16th, 2015
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その2)

ワディアのD/Aコンバーターの音を聴いたのは、知人宅だった。
聴いて、心底驚いた。
こういう音がCDから出るのか、と驚いた。

CDの音で驚いた経験が、なにもこれが初めてではなかった。
CD発表前夜、ステレオサウンド試聴室で聴いたマランツ(フィリップス)のCD63の音。
このCD63は、その後市販されたCD63と同じではなかった。

この驚きから、CDは始まった。
同じフィリップスのLHH2000の音に驚いた。
Lo-Dのセパレート型(SPDIF接続ではないモデル)の音にも驚いた。

LHH2000の音は、こういう音がCDから出るのか、と驚いた。
でも、こういう音がCDから出るのか、は同じでも、ワディアとは意味合いが違う。

LHH2000の初期モデルの音を聴いて、欲しいと思ったけれど、
あのとき、あの値段は出せなかった。それでも欲しい、と思い、帰宅した。

さすがに、この日は自分のシステムでCDの音を聴こうとは思わなかった。
だからアナログディスクをかけた。
プレーヤーはトーレンスの101 Limitedだった。

その音を聴いて、LHH2000と同じ音だと感じた。
はっきりと同じ類の音だった。
だからこそLHH2000を強烈に欲しいと思ったのだと気づいた。

でもアナログディスクであれば、この音を聴けるわけだから、LHH2000の購入計画をたてることはなかった。

Lo-Dのセパレートモデルでの驚きは、LHH2000の驚きとは違う。
CDがここまで良くなった、良くなるのか、という驚きだった。
これと同じ驚きは、国産の、その後登場したいくつかのCDプレーヤーにもあった。

そしてワディアでの驚きである。
この驚きは、どちらの驚きとも違っていた。

聴きながら、瀬川先生がマークレビンソンのLNP2を初めて聴かれた時の驚きは、
こういうものだったのかもしれない……、そんなことを思っていた。

Date: 8月 4th, 2015
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その1)

1970年代のマークレビンソンの登場に匹敵するのは、
1990年代のワディアの登場のようにも思う。

ワディアの最初のモデルWadia 2000はアメリカで1988年夏に登場した。
日本に輸入されるようになったのは翌年からだった。

マークレビンソンのLNP2の成功は、多くの電子工学のエンジニアを刺戟した。
もちろんマークレビンソン以前にもガレージメーカーと呼ばれる規模のメーカーはあった。
それでもマークレビンソンの成功は、それ以前とそれ以降でのメーカーの数にはっきりと表れている。

CDは1988年秋に登場した。
最初はすべて一体型のCDプレーヤーばかりだった。
世界初のセパレート型CDプレーヤーはソニーとLo-Dから登場した。
つまり、この時、単体のD/Aコンバーターが登場した。

とはいうもののセパレートアンプとセパレートCDプレーヤーとでは、
組合せにおいて同じとは言い難かった。

セパレートアンプでは同じメーカー同士の組合せもあれば、
異るメーカーのコントロールアンプとパワーアンプもある。
自由な組合せが可能だったし、多くの人がそういった組合せを楽しんでいた。

けれどセパレートCDプレーヤーとなると、必ずしも同じではなかった。
その後もセパレートCDプレーヤーは登場した。
けれどアンプのような自由な組合せを楽しむという感じではなかった。

あくまでも同じメーカー同士のトランスポートD/Aコンバーターの組合せが聴くのが多かった。
というよりもほとんどすべてそうだった、といえる。

そういう状況をがらりと変えてしまったのが、ワディアの登場だった。
ワディア以前にも、単体のD/Aコンバーターを出しているメーカーはあった。
ワディアと同じアメリカのセータがそうだった。

1980年代、セータのD/Aコンバーターは、
アナログ用カートリッジの特性をシミュレーションできることを謳い文句にしていたこともあって、
少しばかりキワモノ的に見られていたのか、すぐには輸入元が表れなかった。

もっともセータがあのころ輸入されていたとしても、
ワディアほど話題にはならなかったし、その後に与えた影響もそれほどではなかったと思う。

ワディアの登場・成功によって、単体のD/Aコンバーターを出すメーカーがあらわれてきた。

Date: 6月 3rd, 2015
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その11)

テクニクスのSP10の性能の高さを誰もが認めるところだが、
SP10のデザインとなると、私は最初見たときに、相撲の土俵を思い浮べてた。

いまも土俵だな、と思ってしまう。
台形の台座に、円形のターンテーブルプラッター。
ターンテーブルプラッターは中心ではなくやや右側に寄っている。

つまり優れたデザインだと思っていない。
けれどテクニクスはMK3まで、このデザインを変更していない。
私だけが優れたデザインと思っていないのであれば、それも理解できるのだが、
SP10のデザインは、ステレオサウンドを読んでもわかるように、決して高い評価を得てはいない。

SP10MK2が新製品として登場した時にも、デザインについて、井上先生と山中先生が語られている。
     *
山中 このスタイルというのは、人によって好き嫌いがはっきり分かれそうですね。
 僕個人としては、モーターボードの高さの制限を相当受ける点に、問題点を感じてしまうのですけれども、これは、実際にアームを取りつけて使ってみると、非常に使いにくいんです。
井上 モーターボードをもっと下げて、ターンテーブルが突き出たタイプの方が使いやすいと思いますね。
山中 ターンテーブルの、ひとつのベーシックな形というのは、昔からあったわけです。プロ用の場合には、そういったものに準拠して作っているはずなんです。
 なにもここでSP10の最初のモデルを固執する必要は、まったくないと思います。性能的にも、まったくの別ものといえるわけですし、旧型に固執しないほうがこのターンテーブルの素晴らしさが、もっとも出されたのではないかと思います。
(ステレオサウンド 37号より)
     *
かなり厳しく言われている。
これは井上先生、山中先生とものSP10の性能の高さは認められていて、さらなる改良が加えられ、
それだけでなくより洗練されて名器と呼べるモノになってほしいという気持からの発言ではないのか。
それだけの期待をSP10に対して持っていた、ということでもあろう。

けれど、テクニクスは名器よりも標準原器をめざしていたのであれば、
SP10の、あのデザインも、変更を加えなかったことも、理解できるような気がしてくる。

Date: 11月 25th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(続々・中古か中故か、ヴィンテージか)

サンスイのAU-X11 Vintage。
AU-X11はプリメインアンプだから、AU-X11はVintage Amplifierと受けとりそうになるけれど、
おそらくvintageのあとに続くのはamplifierではなく、soundであろう。
そういう受けとり方もできる。

vintage sound(ヴィンテージ・サウンド)。
私が真っ先に思い出すのは、五味先生のオーディオ巡礼の一回目のことである。
五味先生は野口晴哉氏と岡鹿之助氏の装置を巡礼されている。

少し長くなるが引用しておこう。
     *
 野口邸へは安岡章太郎が案内してくれた。門をはいると、玄関わきのギャレージに愛車のロールス・ロイス。野口さんに会うのはコーナー・リボン以来だから、十七年ぶりになる。しばらく当時の想い出ばなしをした。
 リスニング・ルームは四十畳に余る広さ。じつに天井が高い。これだけの広さに音を響かせるには当然、ふつうの家屋では考えられぬ高い天井を必要とする。そのため別棟で防音と遮音と室内残響を考慮した大屋根の御殿みたいなホールが建てられ、まだそれが工築中で写真に撮れないのが残念である。
 装置は、ジョボのプレヤーにマランツ#7に接続し、ビクターのCF200のチャンネルフィルターを経てマッキントッシュMC275二台で、ホーンにおさめられたウェスターン・エレクトリックのスピーカー群を駆動するようになっている。EMT(930st)のプレヤーをイコライザーからマランツ8Bに直結してウェストレックスを鳴らすものもある。ほかに、もう一つ、ウェスターン・エレクトリック594Aでモノーラルを聴けるようにもなっていた。このウェスターン594Aは今では古い映画館でトーキー用に使用していたのを、見つけ出す以外に入手の方法はない。この入手にどれほど腐心したかを野口さんは語られた。またEMTのプレヤーはこの三月渡欧のおりに、私も一台購めてみたが、すでに各オーディオ誌で紹介済みのそのカートリッジの優秀性は、プレヤーに内蔵されたイコライザーとの併用によりNAB、RIAAカーブへの偏差、ともにゼロという驚嘆すべきものである。
 でも、そんなことはどうでもいいのだ。私ははじめにペーター・リバーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲を、ついでルビンシュタインのショパンを、ブリッテンのカルュー・リバー(?)を聴いた。
 ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
 安っぽいヴァイオリンが、グワルネリやストラディヴァリの音を出しっこはないが、下手なヴァイオリニストはグワルネリを弾いたって安っぽい音しかきかせてくれやしない。逆にどんなヴァイオリンでも、それなりに妙音をひびかせたクライスラーの例もある。ツーリング・カーの運転技術と私が言うのはここなのだが、要するにその人がどんな機種を聴いているかではなく、どんな響かせ方を好むかで、極言すれば音楽的教養にとどまらずその人の性格、人生がわかるように思う。演奏でそれがわかるように。
 音とはそれほどコワイものだということを、野口さんの装置を聴きながら私はあらためて痛感し、感動した。すばらしい音楽だった。年下でこんなことを言うのは潜越だが、その老体を抱きしめてあげたいほど、一すじ、かなしいものが音のうしろで鳴っていたようにおもう。いい音楽をきくために、野口氏がこめられてきた第三者にうかがいようのない、ふかい情熱の放つ倍音とでも、言ったらいいか。うつくしい音だった。四十畳にひびいているのはつまりは野口晴哉という人の、全人生だ。そんなふうに私は聴いた。——あとで、別室で、何年ぶりにかクレデンザでエネスコの弾くショーソンの〝ポエーム〟を聴かせてもらったが、野口氏が多分これを聴かれた過去当時に重複して私は私の過去を、その中で聴いていたとおもう。音楽を聴くとはそういうものだろうと思う。
     *
この野口晴哉氏の音こそ、ヴィンテージ・サウンドだと思うのだ。
17年ぶりに訪問、システムは変っていても、音は変らなかった。

《十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。》
そうだと思う。

名器といわれるプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムを揃えて、
立派な部屋で鳴らしたところでヴィンテージ・サウンドが鳴ってくるはずはない。
鳴ってくると思い込めるほど、目出度くはない。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(続・中古か中故か、ヴィンテージか)

vintageをオーディオ機器の型番に最初につけたのは、サンスイのはずだ。
1981年登場のプリメインアンプAU-X11 Vintageがそうである。

型番からわかるようにこのプリメインアンプは、
1979年登場のサンスイのプリメインアンプとして別格ともいえるAU-X1の後継機である。

この後継機の型番を、単にAU-X11とせずに、Vintageをつけている。
このあと、サンスイはセパレートアンプにもVintageをつけるようになっていく。

このころのサンスイのプリメインアンプは、ひとつのモデルをベースに改良を加えていく手法をとっていた。
AU607、AU707からはじまったプリメインアンプのシリーズは、
AU-D607、AU-D707になり、このとき上級機としてAU-D907が加わり、
その後も型番の末尾にアルファベットがつき、数字の前のDもαに変更されて続いていった。

AU-X1はそんなプリメインアンプをベースに、ひとつ格上のプリメインアンプ、
最上級機としてのプリメインアンプ、セパレートアンプと伍するプリメインアンプとして登場しただけに、
AU-X11のVintageには、熟成という意味も含まれていたことだろう。

当時のステレオサウンドの記事を読めば、音楽愛好家への最高の噌り物という意味を込めて使われたことがわかる。
AU-X11 Vintageが型番のつけ方として優れていたかどうかは別として、
型番に込められているサンスイのおもいはわかるし、
vintageをどう捉えるのか、それは人によって時代によって違ってくるものだから、
あまり言葉本来の意味にとらわれてしまうのもどうかと思う。

マランツのModel 7が登場した時に新品で購入した人もいる。
その人がずっと使いつづけている。
登場して50年以上が経っている。
どんなに大切に使っても、不具合がいままで生じなかったことはないはずだ。
なんらかの修理、メンテナンスが施されている。

このとき、どんな修理、メンテナンスを施すのか。
それによって、Model 7はヴィンテージ・アンプと呼ぶにふさわしいモノになっていくだろうし、
中古として呼べないモノになっていく。

私はヴィンテージ(vintage)をつけて呼ぶことができるのは、メーカーと使い手なのだと思う。
育てていくことができるメーカーと使い手のためのことばである。
販売店が商売のために、オーディオ雑誌が関心をひくためにつけるものではない。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(中古か中故か、ヴィンテージか)

さきほどの「名器、その解釈(中古か中故か)」に対して、facebookでコメントがあった。
「ヴィンテージとも呼ばれますが」とあった。
コメントをくださった方も、ヴィンテージという呼称に違和感をお持ちのようだ。

いつごろから過去のオーディオ機器を取り上げた企画、別冊にヴィンテージ(vintage)をつけるのが増えている。
個人でも、ヴィンテージをつける人は少なくない。
ヴィンテージスピーカー、ヴィンテージアンプ、ヴィンテージプレーヤーといったふうに、である。

ヴィンテージとは、辞書には、古く価値のある物という意味も含まれている。
だからヴィンテージスピーカー、ヴィンテージアンプという使い方は間違っているわけではない。

でも、ヴィンテージを、オーディオ機器の呼称に使ってしまうと、
どこかに違和感を持ってしまう。

ウェスターン・エレクトリックの594A(他の製品でもかまわないが)は確かにヴィンテージ・スピーカー、
もしくはヴィンテージ・ドライバーといえる。
けれどヴィンテージをつけてしまうと、594Aすべてに対して、そういってしまっていいのだろうか、と思う。
594Aでなくてもいい、少し身近なモノとしてマランツのModel 7でもいい。

ひじょうに程度のいいModel 7であれば、ヴィンテージ・アンプと呼ぶことに違和感も抵抗もない。
だがそんなModel 7はごく僅かである。
多くのModel 7は大なり小なりガタがきている。

そんなModel 7もヴィンテージ・アンプと呼んでいいのか、と思うからだ。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: 名器

名器、その解釈(中古か中故か)

現行製品、それも最先端の技術を導入しているオーディオ機器を、
それがどんなに優れていようと名器と呼ぶのは、個人的にはためらいもある。

名器と呼ぼうと思えば呼べる。
けれど、これまで名器だといってきたモノと並べて、はっきりと素直に名器と呼べるかとなると、
やはり考え込んでしまう。

つまり私にとって、いまのところすんなり名器と呼べるオーディオ機器はすべて製造中止になっているモノばかりだ。
ようするに、それらを手に入れるには、中古を探してくるしかない。

それにしても中古という言葉と名器という言葉が相容れないところがある。
同じオーディオ機器を名器とも呼び、中古とも呼ぶことになる。

20数年前に、中古車に変る呼び名が募集されていた。
車にも名車と呼ばれるものがあり、それらは製造中止になっていれば中古車でしか手に入れられない。
まったく使われていないモノが倉庫に保管されていて、それらを新古車(新古品)と呼ぶようだが、
新古とは新旧という意味だし、意味を無視したとしても、それほどいい言葉とは思えない。

以前、伊藤先生がウェスターン・エレクトリックのモノについて、中古ではなく中故と書かれていた。
伊藤先生もおそらく中古と書きたくなかったのだろう、と勝手に思っている。

中古ではなく中故とすることで、中古に対するもやもやがすんなりなくなってしまうわけではないが、
伊藤先生のウェスターン・エレクトリックのモノに対する特別なおもいが、
中古ではなく中故とされたところにあらわれている。
私はそう受けとめている。

Date: 11月 9th, 2014
Cate: Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その11)

私が自分のモノとしたテクニクスのオーディオ機器はふたつある。
ひとつはSB-F01。
アルミダイキャストのエンクロージュア(といっても手のひらにのるサイズ)に、
ヘッドフォンのユニットを搭載したような小型スピーカーだ。

アンプのスピーカー端子でも鳴るし、ヘッドフォン端子に接いでも鳴る。
ペアで15000円だった。

サブスピーカーとして高校生の時に購入した。
ロジャースのLS3/5Aは高くて買えなかったから、というのもSB-F01を購入した理由のひとつである。
いまも実家にあるはずだし、手元にも1ペアある。
瀬川先生が所有されていたSB-F01である。

このSB-F01で、中目黒のマンションで深夜ひっそりとした音量で聴かれていたのだろうか。
はっきりとしたことはわからないが、瀬川先生がSB-F01をお持ちだったことが意外だったし、嬉しくもあった。

もうひとつのテクニクス製品はSL10である。
LPジャケットサイズのアナログプレーヤーである。
ダイレクトドライヴ開発10周年を記念して開発された製品だから、型番に10がついている。

このふたつのテクニクス製品に共通していえることは、小型ということ。
もともとテクニクスというブランドは、Technics1という小型スピーカーからスタートしている。
だからというわけでもないが、他のメーカーよりも小型の機器をうまくつくるところがある。

SL10がまさにそうだし、コンサイスコンポもそうだった。
それにSB7000の小型版、SB007もある。
その一方で非常に大型のアンプ、スピーカーシステムも手がけている。

小型のモノと大型のモノ。
テクニクスの製品に限っていえば、小型のモノには遊び心があるように感じている。
その遊び心に気づいたから、SB-F01とSL10を買ったのかもしれない。

遊び心。
辞書にこうある。
 ①遊びたがる気持ち
 ②まじめ一方でなく、ゆとりやしゃれ気のある気持ち
 ③音楽をたしなむ心

③の意味があるのは、意外だった。

遊び心という、自分自身が愉しむという気持、
これが使い手(買い手)に伝わる。

Date: 10月 20th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その10)

テクニクスのEPC100Cは、
1978年11月にMK2(65000円)、1980年11月にMK3(70000円)に改良されている。
MK2もMK3も聴く機会はなかったが、MK4(これが最終モデルである。70000円)は、
ステレオサウンドにいる時に登場したので、試聴室でじっくりと聴く機会があった。

もともと忠実な変換器を目指して開発され、それをかなりのレベルで具現化しているカートリッジをベースに、
細かな改良を加えていった末のMK4であるから、悪かろうはずがない。

試聴条件は、EPC100Cを聴いたときとずいぶん違っている。
その間に、さまざまなカートリッジを聴く機会があった。
EPC100Cが登場したころとは、他のカートリッジの性能も向上している。

そういう中にあっては、以前のようにEPC100Cの「毒にも薬にもならない」音は、
もう魅力的に感じられなかった。

すこしがっかりしていた。
改良を受けることで、もっと魅力的なカートリッジに仕上っているのでは、と勝手に期待していたからでもあり、
私自身も変ってきていたためでもある。

私にとって一時期までは、日本の音ということでイメージするのは、EPC100Cの音だったことがある。
EPC100Cは製造中止にならず、地道に改良されていけば、名器になったかも、という想いもあった。

EPC100 CMK4を聴いたときから、32年が経ってやっと気がついた。
テクニクスは、一般的なイメージとしての名器をつくろうとしていたのではない、と。
標準原器としてのカートリッジとしてEPC100C MK4を評価すべきだったことに気づく。

Date: 10月 19th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その9)

菅野先生はEPC100Cについて、
ステレオサウンド 43号で「音質の聴感的コントロールは、意識的に排除されているようだが」と書かれている。

菅野先生はまたステレオサウンド別冊「テクニクス」号で、テクニクスの製品は、
「出た音が良いとか悪いとかいった感覚的な、芸術的な領域には触れようとしていないのが大きな特徴だ」
と書かれている。

つまりEPC100Cはカートリッジという、
レコードの溝による振動を電気信号に変換するモノとしての、徹底的な技術的追求から生れてきた、といえる。
いわば忠実な変換器としてのカートリッジである。

EPC100Cが登場した1976年はCD登場以前であり、
オーディオマニアは一個のカートリッジだけということはなかった。
最低でも二、三個のカートリッジは所有していた。
多い人は十個、それ以上の数のカートリッジを持っていた。

そしてかけるレコードによってカートリッジを交換する。
それは音の追求でもあり、カートリッジは嗜好品としても存在していた。

どのカートリッジメーカーも、嗜好品を作っているという意識はなかったはずだ。
それでもほぼすべてのカートリッジには嗜好品と呼びたくなる面が、このころはあった。

だからこそ、音の特徴が一言で言い表せるモノが多かった。
エラックのSTS455Eを例に挙げているが、
このカートリッジに私が感じていた良さ(特徴)は、
別の人が聴けば良さではなく、悪さにもなり得ることがある。

つまり私が感じていた良さは、私にとっては薬であったわけだが、
別の人にとっては毒になるわけで、どのカートリッジも「毒にも薬にもなる」面があった。