老いとオーディオ(若さとは・その19)
老成ぶっている人たちは、もしかすると、
自分にはもうのびしろがない、ということに気づいている人なのかもしれない。
はっきりと気づいていなくとも、なんとなく感じているのかもしれないからこそ、
老成ぶるしかないのか──、
のびしろがないこと、なくなってしまったことを、
素直に受け入れられるのであれば老成ぶることはないのかもしれない。
ここにきて、そうおもう。
老成ぶっている人たちは、もしかすると、
自分にはもうのびしろがない、ということに気づいている人なのかもしれない。
はっきりと気づいていなくとも、なんとなく感じているのかもしれないからこそ、
老成ぶるしかないのか──、
のびしろがないこと、なくなってしまったことを、
素直に受け入れられるのであれば老成ぶることはないのかもしれない。
ここにきて、そうおもう。
2021年3月の(その9)で、下記のことを書いた。
はっきり書けば、ステレオサウンド編集部は黛 健司氏を冷遇している。
そんなことはない、と編集部はいうだろう。
そんな意識はないのかもしれない。
それでも黛 健司氏はステレオサウンド・グランプリの選考委員になれていない。
なぜだろう、と思っている人は私以外にもいる。
山之内 正氏が、そう遠くないうちに、
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になることはあるだろう。
そうなっても黛 健司氏は選考委員ではなかったりするのではないか。
これを書いたときから一年九ヵ月ほど経ち、
ステレオサウンド 225号が発売になった。
ステレオサウンドのウェブサイトをみると、
ステレオサウンドグランプリの選考委員に、山之内 正氏の名前がある。
黛 健司氏の名前はない。
225号のベストバイからは柳沢功力氏と和田博巳氏の名前が消え、
ここにも山之内 正氏の名前が今回加わっている。
10月に“TÁR (Music from and inspired by the motion picture)”について書いている。
映画「TÁR」のサウンドトラック盤だ。
とはいえ、映画「TÁR」は日本ではまだ公開されていない。
2023年公開予定で、いつになるのかは決っていなかった。
それがここ数日、海外の映画の賞でノミネートされたり選ばれたりしていることが続いたのか、
ようやく公開月が決った。
そのくらい海外での評価は高い。
予告編をみても期待がもてる。
サウンドトラックを聴くと、それはさらに大きくなっていく。
この作品だけは見逃せない。
ただ気になるのは邦題が決っていないためもあって、
「TÁR」を「ター」と表記している映画関係のサイトがいくつか目につく。
タールのはずなのに……。
昨日、映画「MEN 同じ顔の男たち」を観てきた。
予告編をみたときから、ぜひ観たいと思っていた。
予告編以上に不気味というか不快な映画だから、
おもしろい映画だから、観てほしい、とすすめたりはしない。
よく、この内容でR15+で済んだな、と思うようなシーンが終盤にある。
この時代だからこそ可能な映像であるから、よけいに生々しい。
昨晩は帰宅してから、
TIDALで「MEN 同じ顔の男たち」のサウンドトラックをすぐさま検索した。
あった。
映画を観ていない人、観たくない人にも、こちらはおすすめしたい。
音もよい。
音をよくしていくことと、
音を育てていくことは同じではない。
このことに気づかないままでは、
つぼみのままの音を愛でるだけに終ってしまうだろうし、
結実させることはできない。
老害と若害。
最近、そんなことを考える。
若害というのは私の勝手な造語だ。
けれど若害がないといえるだろうか。
ことオーディオにかぎってのことでも若害はあるように感じている。
オーディオにおいての老害については、
インターネットの普及、ソーシャルメディアの普及によって、
ひどいものだな、と感じることを目にすることがある。
けれどなかにはあまりにも短絡的に老害だ、
と切って捨てている人がいるのも見かける。
匿名の掲示板などには、聴力の衰える高齢者はオーディオは無理──、
そんなことすら目にしたことがある。
そんなことを書いている本人も、いずれ高齢者になってゆくのに──、
と思うわけだが、たしかに歳をとれば高い音は聞き取り難くなる。
ただし、これは正弦波に関して、である。
このことはここでは触れないが、老害も若害も対称的であり対照的な事象のような気がする。
老害は独断と分断へとつながっていくが、
若害もまた同じだ。独断と分断へとつながっていく。
怒ると叱る。
怒られると叱られる。
この違いがわからない人もまた増えてきているように感じる。
そのこともまた老害と若害を生んでいるのではないだろうか。
老害も若害も、一部のオーディオマニアのことだけだろうけれど、
そういう人の方が声高に叫ぶし、目立つ。
今年は、オーディオ機器の値上りがいくつもあった。
値上りしているのはいうまでもなくオーディオ機器だけではなく、
おそらく来年も値上げが発表されるであろう。
特に海外製品は為替相場も関係してくる。
定価をつけることが難しくなってきたから、
オープン価格にせざるをえない──、といっているところもあるときいている。
来週には、ステレオサウンド 225号が出る。
特集は、いうまでもなくステレオサウンド・グランプリとベストバイ。
ステレオサウンドの定番企画でベストバイは35号が一回目で、
つづく43号、47号の三回は価格帯を設けずの選定だった。
四回目の51号から価格帯を分けての選択となっていった。
そして、それがずっと続いている。
どこで価格帯を分けるのかは、時代によって違ってきているが、
果たして価格帯を設けることの意味はあるのか、とずっと思っている。
225号はまだ見ていないが、価格帯を分けてのベストバイであろう。
どの価格で線引きするのか。
線引きした価格近辺の製品は、来年には値上りして上の価格帯に、ということだって、
今の状況なら十分ありうる。
ベストバイという定義によっては、
価格帯を分けるのはおかしいということだっていえる。
私は、価格帯を分けるべきではないと考える。
ステレオサウンド編集部は、それぞれの製品ジャンルのどこで価格帯を分けたのか。
“Walking In The Dark”。
ジュリア・ブロックのノンサッチからのアルバムである。
ジュリア・ブロックについては何も知らなかった。
TIDALのニューアルバムのところに表示されていたから、
興味本位で聴いただけなのだが、いいアルバムだけでなく、いい歌手だ。
すでに12月。
オーディオ機器は、年内に素晴らしいモデルが登場する可能性は時間的に少ない。
まずない、といっていい。
けれどレコード(録音物)は違う。
あと三週間ほどで今年は終るけれど、まだまだ素晴らしいアルバムと出合える可能性は、
オーディオ機器よりもずっとずっと高い。
ノンサッチはMQAに積極的である。
44.1kHzのデジタル録音もMQAにしている。
このアルバムももちろんMQA Studio(192kHz)で聴ける。
“Walking In The Dark”はe-onkyoにもある。
けれど、こちらはflacのみで、96kHzだけである。
ジュリア・ブロックの声は、MQAで聴いてもらいたい。
メリディアンの210だけでなく、
MQAのコアデコードに対応しているストリーマーには、SPDIFのデジタル入力はない。
MQAのコアデコードに関係なく、ストリーマーと呼ばれる製品には、
SPDIFのデジタル入力は必要ないと考えるのだが、
実際のところ、つまり日本の現在ということに関しては、
SPDIFのデジタル入力があってほしい、とおもってしまう。
TIDALやe-onkyoを活用している人にとっては、特に必要ないといえるが、
パッケージメディア、つまりCDだけという人にとっては、
MQA-CDを買っても、D/Aコンバーターが対応していない、
けれどMQAのコアデコード対応のストリーマーを買ってきても、
SPDIFのデジタル入力がないから接続できない──、
そんな状況になってしまうからだ。
もうこれは日本だけの特殊事情といえる。
技術用語の乱れをそのまま放置しているオーディオ雑誌の編集者。
乱れていること、間違っていることにすら気づいていないから、そのまま放置なのか。
好きなことをやるためには、やりたいことをやるためには、
やりたくないこと、面倒だと感じることをもやっていなければならない。
オーディオの勉強を、技術用語の乱れに気づいていないオーディオ雑誌の編集者は、
好きなこと、やりたいことのみをやろうとしているのか。
これから先もそのままなのだとしたら、
この人たちも、おさなオーディオでしかない。
オーディオの想像力の欠如した者は、どんなにお金と時間を費やしても、
おさなオーディオから脱することはできない。
メリディアンの210は、210 Streamerである。
製品ジャンルとしては、ストリーマーということになる。
ストリーマーは、今後製品が活発に登場してくるであろう製品ジャンルであり、
今年いくつか登場したストリーマーのなかには、
210と同じくMQAのコアデコード機能をもつモデルがある。
私が聴いているのは210だけなのだから、
それらのモデルの音がどうなのかについては何も語れないのだが、
メリディアン以外からのMQAコアデコード機能をもつストリーマーの登場は、
MQAのエヴァンジェリストを自認する私としては、嬉しい一年だったといえる。
来年もそういうモデルが登場してほしいし、
そしてなによりもTIDALの日本でのサービスが開始されてほしい。
書店のない市町村が全国で、26.2%とあるニュースを今日みかけた。
出版文化産業振興財団の調べで、
全国1,741市区町村のうち456市町村に書店がない、とのこと。
その456市町村の人口がどのくらいなのかは、記事にはなかった。
とはいえ、身近に書店がない市町村が、これだけある。
以前、書いているように、書店が身近にあったから、オーディオという世界があることを知った。
その世界が、ステレオサウンドだけではなく、さまざまなオーディオ雑誌があったように、
オーディオの世界もさまざまだった。
書店が身近になくても、コンビニエンスストアがある。
そこで本を取寄せてもらえるし、インターネット通販もある──、
けれど、それは知っている本を買うこと、定期購読している本を買うには困らないが、
見知らぬ世界を教えてくれる本との出合いは、やはり書店である。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット、
同じくドイツのマンガーの独自のユニット、
これらの他にもベンディングウェーヴ方式のスピーカーは、数少ないながらもある(あった)。
ほんとうに数は少ない。
世の中の九割以上のスピーカーは、ピストニックモーションによるモノだ。
ピストニックモーションを追求していくことは間違っているわけではない。
それでもピストニックモーションの追求だけでいいのだろうか、と考える。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットの音を、
2002年のインターナショナルオーディオショウでのタイムロードのブースで始めて聴いて以来、
オーディオマニアはピストニックモーションの音に慣れすぎてしまっているのではないか──、
そんなふうに考えるようになっていった。
けれどそうでない赤ん坊はどうなのだろうか。
ピストニックモーションの再生音と、生身の人間が発している声、
実際の楽器が響かせている音とをはっきりと区別しているのかもしれない。
しかもこのことは、ピストニックモーションが追求され、
ピストニックモーションの領域が拡大されるにしたがって、より顕著になっていくのではないのか。
「オーディオの殿堂」が特集だったステレオサウンド 223号。
さきほどステレオサウンドのウェブサイトを見ていたら、売り切れになっていた。
その他の号はまだ購入できるのに、223号は売り切れ、つまりそれだけ売れた、ということだ。
そうか、やっぱり、こういう特集が売れるのか──、
そうおもうだけだった。