オーディオの殿堂(続・感じていること・その1)
《過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました》
七年前、川崎先生が語られていたことばだ。
ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」を眺めていると、
川崎先生の、このことばが浮んでくる。
《過去を大きな物語として語れる》編集者だけでなく、
《過去を大きな物語として語れる》オーディオ評論家も消滅した。
私は、そう感じている。
《過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました》
七年前、川崎先生が語られていたことばだ。
ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」を眺めていると、
川崎先生の、このことばが浮んでくる。
《過去を大きな物語として語れる》編集者だけでなく、
《過去を大きな物語として語れる》オーディオ評論家も消滅した。
私は、そう感じている。
大野松雄氏の訃報を、facebookで知った。
大野松雄氏といっても、誰? という人が少なからずいると思う。
2020年6月のaudio wednesdayで、「鉄腕アトム・音の世界」をかけた。
「鉄腕アトム・音の世界」に収録されている音、
この音たちは、それまで世の中に存在しなかった音であり、
この存在しなかった音たちを生み出したのが、大野松雄氏である。
大野松雄氏は音響デザイナーである。
大野松雄氏の名前を知らなくても、
大野松雄氏によってうみだされた音たちは、どこかで耳にしているはずだ。
元気をもらった、という表現がある。
○○のライヴに行って、元気をもらった──、
そんなことを目にすることがわりとある。
○○には、自分の好きな演奏家、歌手の名前をあてはめてもらえばいい。
ここで問いたいのは、○○の音楽ではなく、
元気をもらった、とのところだ。
元気でなくてもいい、勇気をもらったでもいい。
ほんとうに○○の音楽から元気(もしくは勇気)をもらったのだろうか。
元気(勇気)がわいてきた、ではないだろうか。
○○の音楽と、聴いた人の裡にあるなにかとが共鳴しての元気(勇気)がわいてきたり、
化学反応のようなものが起り元気(勇気)がうまれてきたのを、
元気(勇気)をもらった、と受け手側が錯覚しているだけではないのだろうか。
時には、聴き手側のそういう発言を耳にして、
音楽の送り手側の人間もそんなふうに勘違いしたりはしないだろうか。
フルトヴェングラーは、
「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」を語っている。
感動とは、そこに存在しているわけではない。
確かなものとして、どこかにある存在でもなく、
うまれてくるもののはずだ。
その意味で、元気(勇気)も同じではないのか。
ここを曖昧にしたままでも音楽は聴ける。
元気になれる、それでいいじゃないか、といわれればそれまでなのだが、
ここを曖昧にしたままではなんなとく釈然としないものが、こちら側に残ってしまう。
終のスピーカーがやって来た。
だから、終の組合せというものを考えているところだ。
ここでの終の組合せは現実的に購入できる価格帯のモノではなくて、
予算に制約のない、いわば妄想組合せでもある。
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40が、
終のスピーカーとして私のもとにある。
では、このTroubadour 40を中心にしての終の組合せをどう考え、どう展開していくのか。
いまのところ、ただぼんやりとしているだけだ。
はっきりしているのは、D/AコンバーターはメリディアンのULTRA DACということだけ。
この二点だけは決っている。
私にとっては変えようがない決定でもある。
あとはアンプとトランスポートである。
妄想組合せといっても、現行製品のなかから選んでいきたい。
価格の制約こそないものの、
すべての制約をなくしてしまっては組合せを考える愉しみは薄れてしまう。
とはいうものの、これがいちばんの制約のようにも感じている。
ここで書いてきているCR方法は、
もちろんジャーマン・フィジックスのTroubadour 40でもやる。
いまは部屋の片づけに追われているのと、
最初はCR方法を施さない音を十分聴いてからのほうが、
CR方法がTroubadour 40に対して、どう作用するのか。
それはピストニックモーションのスピーカーに対しての作用とまったく同じなのか。
基本的には同じのはずだろうが、変化量も同じなのか。
もしかすると大きいのか小さくなるのか。
そのへんのことをきちんと把握する上でも、来年、少し落ち着いたら、
Troubadour 40にCR方法を施してみる。
オーディオの想像力の欠如した者は、「正しい音なんて、ない」と断言できてしまう。
アナログプレーヤーを構成する部品のなかで、カートリッジは交換が簡単に行える。
オーディオマニアならば、カートリッジを複数個持っている人は大勢いる。
いまは、カートリッジはこれだけです、という人でも、
そこにたどりつくまでにはいくつものカートリッジを使ってきたはずだ。
けれどトーンアームとなるとどうだろうか。
トーンアームの比較試聴をしたことがある人は、それほど多くないはずだ。
まして若い世代となると、トーンアームの比較試聴をやったことのある人は、
もっともっと少なくなる。
同じカートリッジであってもプレーヤーシステムがかわれば、音はかわる。
プレーヤーシステム全体の比較試聴をしたことのある人は、そこそこいよう。
けれどトーンアームをつけ替えても比較試聴となると、どうだろうか。
私はステレオサウンドで働いていたから、トーンアームの比較試聴の機会にめぐまれた。
けれどそうでなかったら、どれだけのトーンアームの試聴ができただろうか。
昨晩のaudio sharingの忘年会で、私より若い世代の人との話で、
やはりトーンアームのこのことが話題になった。
カートリッジとターンテーブルはそのままでトーンアームの比較試聴の機会はない──、
そうだろうと思いながら聞くだけしかできなかった。
そういう機会を、いまのところつくることもできないし、
ここに行けばトーンアームの比較試聴ができるよ、というところはあるのだろうか。
私は知らない。
昨晩は、audio sharingの忘年会だった。
四谷三丁目の喫茶茶会記がなくなり、audio wednesdayをやらなくなって二年。
今年9月に再開したけれど、仮再開といった感じで、
喫茶茶会記のように、毎回決ったところに集まってという感じでは行えない。
audio wednesdayの常連だった方たちとはときおり会うことはあっても、
常連の人たちが集まってということは、二年間なかった(やらなかった)。
昨晩は私を含めて九人。
ひさしぶりに常連の人たちが、ほぼ揃った感じだった。
みな音楽好き、オーディオ好きだから、年齢に関係なく話は盛り上る。
約三時間、いろんな話題が出て、たっぷり笑っていた。
やっぱりこうやって集まるのはほんとうに楽しい。
年一回であっても、こういう集まりはやっていきたい。
JBLのハークネスの上には、預かりもののJBLの375+537-500がのっている。
そのすぐ近くにTroubadour 40と4PI PLUS.2を置く。
菅野先生のところと見た目だけは近くなる。
この数日、集中して聴いていたのは、バッハのヴァイオリン協奏曲である。
古い録音から最新録音まで、TIDALで検索してめぼしいと感じた録音をかなり聴いた。
聴いて気づいたことは、私だけのことなのかもしれないが、
他の曲(バッハにかぎらず、他の作曲家の作品)では、
演奏が素晴らしければ、録音の古さはそれほど気にしなかったりするのだが、
バッハのヴァイオリン協奏曲に関してだけは、録音の出来がひどく気になってた。
録音が優れていても演奏が……、というのはいらない。
演奏は優れていても、録音がやや……、というのが、なぜか気になる。
ヒラリー・ハーンがドイツ・グラモフォンに移籍した第一弾となった録音、
ジェフリー・カヘイン指揮ロサンジェルス室内管弦楽団とによる演奏が、
私には、他のどの録音よりも魅力的に感じた。
SACDで出ていたはずだからDSD録音なのか。
TIDALでは88.2kHzのMQAで聴ける。
2003年に出たアルバムを、いまごろ聴いて、うわーっと驚いているしだい。
ステレオサウンド 225号にも、モービル・フィデリティの、
いわば擬装事件のことは記事になっていない。
この件は今夏にあきらかになっている。
すでに半年が経っている。けれど記事にはなっていないということは、
来年3月発売の226号で記事になる可能性は、かなり低い。
おそらくそのままだんまり、黙殺、無視だと私は思っている。
記事になることを期待していたわけではなかったし、
決して取り上げないだろうと思っていたから、やっぱりか、とおもうだけである。
そしてもうひとつ、別項で書いているショルティの「ニーベルングの指環」。
現時点で「ラインの黄金」と「ワルキューレ」のSACDが発売になっている。
e-onkyoやTIDALではMQAの配信もある。
これまでにエソテリックのSACD、デッカのBlu-Ray Audio盤、
ステレオサウンドのSACD、そして今回のSACDと配信(192kHz、24ビット)。
それぞれにマスターテープから、と謳っているけれど、
ここにきて、それぞれのマスターテープが何を指しているのかが明らかになっている。
この件も記事にしないのだろうか。
それともモービル・フィデリティの件とあわせて、
マスターテープの定義についての徹底した記事を出してくるのだろうか。
フツーにおいしい、フツーにいい音。
これらの「フツー」とは、一種の予防線のようなものだと感じていると、
(その10)で書いている。
いまもそう考えているけれど、もうひとつ思うようになったことがある。
フツーにおいしい、フツーにいい音は、背徳感を孕んでいない、ということだ。
老成ぶっている人たちは、もしかすると、
自分にはもうのびしろがない、ということに気づいている人なのかもしれない。
はっきりと気づいていなくとも、なんとなく感じているのかもしれないからこそ、
老成ぶるしかないのか──、
のびしろがないこと、なくなってしまったことを、
素直に受け入れられるのであれば老成ぶることはないのかもしれない。
ここにきて、そうおもう。
2021年3月の(その9)で、下記のことを書いた。
はっきり書けば、ステレオサウンド編集部は黛 健司氏を冷遇している。
そんなことはない、と編集部はいうだろう。
そんな意識はないのかもしれない。
それでも黛 健司氏はステレオサウンド・グランプリの選考委員になれていない。
なぜだろう、と思っている人は私以外にもいる。
山之内 正氏が、そう遠くないうちに、
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になることはあるだろう。
そうなっても黛 健司氏は選考委員ではなかったりするのではないか。
これを書いたときから一年九ヵ月ほど経ち、
ステレオサウンド 225号が発売になった。
ステレオサウンドのウェブサイトをみると、
ステレオサウンドグランプリの選考委員に、山之内 正氏の名前がある。
黛 健司氏の名前はない。
225号のベストバイからは柳沢功力氏と和田博巳氏の名前が消え、
ここにも山之内 正氏の名前が今回加わっている。
10月に“TÁR (Music from and inspired by the motion picture)”について書いている。
映画「TÁR」のサウンドトラック盤だ。
とはいえ、映画「TÁR」は日本ではまだ公開されていない。
2023年公開予定で、いつになるのかは決っていなかった。
それがここ数日、海外の映画の賞でノミネートされたり選ばれたりしていることが続いたのか、
ようやく公開月が決った。
そのくらい海外での評価は高い。
予告編をみても期待がもてる。
サウンドトラックを聴くと、それはさらに大きくなっていく。
この作品だけは見逃せない。
ただ気になるのは邦題が決っていないためもあって、
「TÁR」を「ター」と表記している映画関係のサイトがいくつか目につく。
タールのはずなのに……。