音痴のためのレコード鑑賞法(その1)
「音痴のためのレコード鑑賞法」。
五味先生の「いい音いい音楽」に、それは収められている。
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偉大な芸術家ほど、様式は変わっても作品の奥からきこえてくる声はつねに一つであり、生涯をかけて、その作家独自の声で(魂で)何かをもとめつづけ、描きつづけ、うたいつづけながら死んでいる。幾つかの作品に共通な、その独自の声を聴きとることができれば、一応、その作者——つまり彼の〈芸術〉を理解したといえるだろう。
バッハの場合もこれは変わらない。一千を超えるおびただしい作品群も、注意して聴いてみれば同じ発声と、様式と、語法で——つまり発想で出来上がっている。使用される楽器はちがってもバッハの芸境はひとつだ。
たいへん深遠で、偉大なそれは境地だから、ちょっと聴いたぐらいではうかがい知れないし、この点、聴く人には耳の訓練と音楽的教養ともいうべきものが、ある程度は必要になる。でもその教養は、教師や教科書が必要なわけではなく、くり返し聴いてさえいればおのずと身につくもので、事実バッハほどになると、はじめは少々退屈でも何度か聴いているうちに、えも言えぬしらべの美しさ、澄みとおった心境、宗教的感動、敬虔な祈りに参加するに似た喜びを感じとれるし、さらには力づよく正しく生きようという意欲がわいてくる。バッハの偉大なゆえんだろうとおもう。
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五味先生は「音痴のためのレコード鑑賞法」で、
バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンについて語られている。
バッハならば、
マタイ受難曲
オルガンによる「前奏曲(もしくは幻想曲・トッカータ)とフーガ」三十曲余の中のどれか。
平均律クラヴィーア第一部(第一曲)
ブランデンブルク協奏曲
無伴奏チェロ・ソナタ
フーガの技法
インベンション
を挙げられている。
ヘンデルはメサイアだ。
ハイドンは、交響曲第四九番と第九五番を挙げられている。
モーツァルトは、
《「魔笛」と「フィガロの結婚」である。大胆な言い方をゆるされるなら、この二曲と、死の直前に書かれた「レクイエム」(モーツァルトの自筆としては未完だが)それに「交響曲第四〇番」(ト短調)を聴けば、モーツァルトの天才のすべてがわかる。》とされている。
ベートーヴェンは、
《作品一〇六「ハンマークラヴィア」、作品一〇九(イ短調)、作品一一一(ハ短調)の三曲がそれで、ピアノでつづられた新約聖書とよばれるほど、これらは古今無双の名品だ》とされているし、
《ベートーヴェンの全作品から、一般向けにただ一つを挙げるなら、「第九交響曲」である。これはもう議論の余地はない》とも書かれている。
何にでも物分りのい人間でありたい人は、
なんて極端な意見だ、とあきれることだろう。
極端といえばそういえなくもない。
けれど、ながくクラシックを聴いてきていれば、五味先生が選ばれている曲に頷くはずだ。
五味先生は作曲家の作品を「音痴のためレコード鑑賞法」として挙げられている。
いま、「音痴のためのレコード鑑賞法」について書いているのは、
クラシックの演奏家におきかえても同じことができる、ということである。