Archive for category テーマ

Date: 1月 25th, 2014
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その65)

ごく初期のクレルのペア(コントロールアンプのPAM2とパワーアンプのKSA100)の音は、
マークレビンソンのアンプとは、ある意味対照的な音像の描き方をもっていた。

この場合のマークレビンソンとは、同時代のML7、ML6Aといった、
新しい世代のマークレビンソンのアンプのことではなく、
その前の、LNP2、JC2、ML2までのアンプのことであることをことわっておく。

クレルのペアが聴かせた、あの質感は、いま思い出せば朦朧体ともいえる描き方だったといえる。
音の輪郭線を際立たせたり強調したりすることなく、音像を形作るような音だった。

どんなモノにも、輪郭線は存在しない、といえる。
けれど絵を描くとき、輪郭線に頼ってしまうし、
音だけのオーディオの世界においても音の輪郭線は、重要な要素である。

マークレビンソンのアンプは、輪郭線の描き方に特徴があった。
その特徴ある輪郭線に魅了される人は多かったし、私もそのひとりだった。

だからクレルのごく初期のペアは、マークレビンソンのアンプと対照的だといえるし、
また別の意味で、GASのペア(コントロールアンプのThaedraとパワーアンプのAmpzilla)とも対照的である。

GASのアンプも、朦朧体の音のアンプとして、もっとも早い時期に登場したといえる。
その意味ではクレルも同じことになるわけだが、
GASが男性的であるのに対し、
あの時期のクレルのペアは、あきらかに女性的といえる音の魅力があったからだ。

Date: 1月 24th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その11)

五味先生の本を読んだのか、と問えば、ほぼ間違いなく、読んだ、と返ってくるはず。
そこで、ただ読んだだけなのでは? と問えば、感動した、と返ってくるであろう。

だが感動とは、フルトヴェングラーの言葉が真理であるとすれば、
感動とは人と人の間にあるものであり、
同じ五味先生の本を読んでも、五味先生)(の本)と私の間にあるもの、
五味先生(の本)と別の人の間にあるものが、同じとは限らない。

同じところもあるだろうし、まったく違う感動なのかもしれない。
けれど、どう違っているのかははっきりとしない。

私と同じである必要はまったくない。
けれど、五味先生の本を読んで感動した、感銘を受けた──、
それがどの程度なのかは、「オーディスト」という言葉を誌面に載せてしまったあと、
ステレオサウンド編集部がどうしたのか(なにをしなかったのか)が、はっきりと語っている。

「オーディスト」は、ステレオサウンドに載せるべきではなかった。
けれど間違って載せてしまった。防ぐことはできたけれども、である。

その間違いそのものをいまさら否定しているわけではない。
その後のステレオサウンド編集部が、「オーディスト」を載せてしまったことに対し、黙りつづけていることに、
ステレオサウンド創刊から受け継がれてきた精神的支柱が喪失してしまっていることを指摘しているのである。

Date: 1月 24th, 2014
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その19)

SQ301は、もしかすると上原晋氏のデザインなのかもしれない、と思ったこともある。

1983年にラックスはアルティメイト(ultimate)シリーズの管球式アンプを、三機種発表した。
コントロールアンプのCL36u、パワーアンプのMB88u、プリメインアンプのLX38uであり、
LX38とCL36のフロントパネルは、SQ301から続いているデザインである。

そしてこのアルティメイト・シリーズの型番の末尾につけられた「u」は、
アルティメイトの頭文字であるとともに、このシリーズをひとりで担当された上原氏の「u」とみることもできる。

このアルティメイト・シリーズに関する記事は、
ステレオサウンド 65号に永井潤氏が、66号に柳沢功力氏が書かれている。

上原氏のデザインの可能性もある。
それを確かめるために、65号をひっぱりだしてみると、
上原氏のデザイナーとしてのデビュー作はSQ505とある。

SQ505は1968年の新製品で、
この年、大阪デザインハウスの最優秀デザイン賞を受けている。

SQ301はそれ以前に登場しているから、上原氏のデザインでないことは確かである。

SQ505はステレオサウンド 8号のアンプ特集でとりあげられている。
SQ505のデザインについて、瀬川先生は次のように書かれている。
     *
ツマミの配置は、意匠的にも人間工学的にも優れたものだ。ただし、ボリュームと同軸のバランスのツマミは、もう少し形を整えないと、ボリュームの操作にともなって一緒に廻ってしまい、具合が悪かった。ロータリ・スイッチの手ざわりが、もう少し柔らかくなれば申し分ないと思う。
     *
一部注文をつけられているが、デザインに関しては優れたものと認められている。

Date: 1月 24th, 2014
Cate: 広告

広告の変遷(を見ていく・その2)

私だって、できることなら本はバラしたくない。
けれどきれいにスキャンするためには、1ページ1ページを一枚の紙の状態にするしかない。

バラバラにした本は、基本的には戻せない。
スキャンしたあとのスイングジャーナルは処分するしかない。

最初はレコード会社の広告だけをスキャンするつもりだった。
だけど、バラしてしまったスイングジャーナルをレコード会社の広告だけで処分してしまうのは、
すこしもったいないな、と感じて、ついでだからとオーディオ関係の広告もスキャンしておこう──、
そう思った。

そこまでやるのなら、すべてスキャンしたら、ということになるけれど、
そこまでの時間を、スキャンのためだけには費やせない。
それにスキャンしたからといって、ほとんどそのまま公開できるページもあれば、
本そのものが古すぎるため、紙が変色していたりやぶれているページもあったりで、
多少なりともレタッチが必要となるページもある。

そして1ページだけの広告であればまだいいけれど、見開きの広告はひとつに合成しなければならないし、
三つ折りの広告もあり、一回のスキャンではデータとして取りこめない。

とにかくスキャンした後の作業が待っている、それもけっこうな時間を必要とするであろう作業が。

だからレコード会社と、オーディオ関係(国内メーカーと輸入商社)だけに絞った。

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: 広告

広告の変遷(を見ていく・その1)

広告は興味深い。
ことオーディオの広告だけに話を絞っても、まとめて大量の広告を見ていくと、
それらの広告が掲載されていたオーディオ雑誌を発売時に買って読んでいたときには、
気がつかなかったことが目に入ることもある。

その意味で、広告は資料としての価値も高い。

私のもうひとつのブログ、the Review (in the past)は、基本的に文章だけである。

ここで公開しているオーディオ機器の多くを、
型番を見ただけで、どういうモノたったのかを思い出せる人にとっては、これだけでも充分だろうが、
そうでない人も大勢いる。

思い出せる人にとっても、写真やスペック、価格があれば、もっと鮮明に当時のことを思い出せるし、
それだけ資料的価値も増してくる。
それはわかっていたけれど、ただオーディオ機器の写真をスキャンして、スペックをまとめるのは、
必要なことではあっても作業としては面白くなく、ただしんどいだけである。

しんどいのはかまわないけれど、それだけだと長続きしないはわかっている。
もう少し違ったことがやれないだろうかと思っていた。

一昨年ある人からスイングジャーナルをほぼ10年分いただいた。
他のオーディオ雑誌もスイングジャーナルほどではないけれど一緒にはいっていた。

最初はスイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告をなんとか残せないものかと考えた。
とりあえず一冊スキャンしてみよう、ということで、スイングジャーナルをばらしていった。

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その36)

スタインウェイ、ベーゼンドルファー、そしてヤマハのピアノについて書いていることは、
あくまでも聴き手側からのことでしかすぎない。

ピアノが達者に弾けるのであれば、また違う感じも受けるのだろうが、
ピアノを弾けるだけの腕はない。

twitterにリヒテルの言葉を集めたアカウントがある。
S.Richter_botである。

そこに、こんなリヒテルの発言があった。
     *
なぜ私がヤマハを選んだか、それはヤマハがパッシヴな楽器だからだ。私の考えるとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノが良いと思っているけれど、そうじゃなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。
     *
これはもう、ピアニストでなければできない発言である。

ヤマハのピアノはパッシヴであり、受動的だから欲する音を出してくれる──、
たしかに、ここがスタインウェイ、ベーゼンドルファーといったピアノと決定的に違うところなのだろう。

そして、同じことは、日本のオーディオ機器の中で特に優れたモノにもいえるのではないだろうか。

Date: 1月 22nd, 2014
Cate: audio wednesday

第37回audio sharing例会のお知らせ

2月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマは、このあいだ久しぶりにマークレビンソンのLNP2を聴いて思っていたこと。
あのころマークレビンソンの新製品に感じていた、というよりも期待していたこと、
それに関係することでオーディオにおけるニューウェーヴとは、どういうことなのか。
はたしてマークレビンソンはニューウェーヴだったのかどうか。

まだ決定ではありませんが、このことについて話そうと考えています。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 20th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その10)

あと二年ほどでステレオサウンドは創刊50年を迎える。
これだけの期間本が出ているわけだし、五味先生が亡くなられてからもすでに30年以上が経っている。

いまではステレオサウンドの読者も五味康祐という名前を知らないか、
もしくは五味先生の音楽、オーディオについての文章を読んだこともない人がいるだろうし、
そういう人が増えてきているのは、時の流れなのだから、どうしようもできないことなのかもしれない。

そういう読者からすれば、私が山口孝氏の「オーディスト」について、
これほどこだわって書く理由は理解できないかもしれない。

読者でそうであるならば、ステレオサウンドの編集者もそうであっても不思議ではない。

五味先生の著作集「オーディオ巡礼」は復刊された。
ステレオサウンドの編集者なら、
ステレオサウンドに入社する前、もしくは復刊された時に一度は読んでいるのかもしれない。

おそらく、読んでいる、という答が返ってくるはずだ。

だが、彼らのいう「読んだ」は、どういうことなのだろうか。
ほんとうに「読んだ」のであるならば、
ステレオサウンドの特集記事に一回、広告に一回、
「オーディスト」という言葉が活字になってしまったことに、どうおもっているのか、
それを私は問いたい。

こんなことは書きたくはないが、
オーディスト(audist)は聴覚障碍者を差別する人・団体という意味をもつ。
つまりは、ステレオサウンドの読者を、そう呼ぶのであれば、
ステレオサウンドの読者は、五味先生を差別する人ということになるからだ。

だから、こうやって、傍からみればしつこいと思われようと、書く。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その9)

編集部のシステムとしての問題については、
おそらくこうではないだろうか、という想像はつくし、
二、三、そのことに関することを耳にしている。

とはいえ、ここでいくらぼかして書いても、迷惑をかけてしまうだろうから、書かないでおこう。

編集部のシステムとしての問題は、外部からいくら指摘されたところで、
本人たちが自ら気がつかないことには解決されることはないのも事実だから。

それでも、なお「オーディスト」についてこうやって書いているのは、
ステレオサウンドで、「オーディスト」が使われたからである。
しかも記事と広告とで、二回もである。

山口孝氏の「オーディスト」はステレオサウンド以前に、無線と実験で使われていた(とのことだ)。
ステレオサウンド 179号で使われたあと、
ステレオサウンドの姉妹誌であるHiViでも、「オーディスト」は使われていた。

亀山氏だったと記憶しているが、
読者数人を集めての記事で、オーディオマニアの読者を「オーディスト」と呼ばれていた。

もしステレオサウンドで「オーディスト」が使われなかったなら、
他のオーディオ雑誌で使われようと、そしてオーディスト(audist)の意味を知ったあとでも、
ここに書くことはしなかっただろう。

ステレオサウンドで使われたから書いているのだ。
ステレオサウンドは創刊のときから、五味先生が精神的支柱となっている。
そのステレオサウンドで「オーディスト」を使うということは、私はどうしても無視できない。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その7)

300Bシングルアンプの音が、楚々として細めという発言があって、
少なくともステレオサウンド 189号の座談会のまとめを読むかぎりでは、
賞の選考委員の全員が、300Bシングルアンプの音が、楚々として細めと受けとっているようだ。

ウエスギの300Bシングルアンプの音は、そんな300Bシングルアンプの音のイメージとは違う──、
そういうまとめかたになっていた。
(友人宅でちょっと読んだだけなので、正確な引用ではない)

これを読んでいて、ステレオサウンドグランプリの選考委員の誰ひとりとして、
伊藤先生の300Bシングルアンプの音を聴いたことがないんだろう、と思った次第だ。

何も選考委員全員が伊藤アンプの音を聴いていなければならない、なんてことは、
いわないし、求めたりもしない。

ただ誰も、ひとりもいないのか、と思っただけである。

これではなんのために選考委員が一人ではなく、何人もいる意味がどこにあるのだろうか。
オーディオ雑誌に、何人ものオーディオ評論家が書いている意味は、どういうことなのだろうか。

ひとりひとりには、オーディオ評論家としての役割があるから、だと私は考えている。

今回の件にしても、ひとりだけでいいから、伊藤先生の300Bシングルアンプの音を聴いた人がいるだけで、
座談会の内容は深みを増したであろうに……、と残念におもう。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(聴きに行くことについて)

人に自分の音を聴いてもらう、
人の音を聴きに行く、試聴会にも行くし、ジャズ喫茶、名曲喫茶にも足を運ぶ、
さらにはコンサートにも行く。

自分のオーディオからの音だけではなく、
さまざまな音で音楽を聴く。

悪いことではない。

こういうことはやめたほうがいい、とは思っていない。
でも、と思う時もある。

どこかに出かけて音を聴くのは楽しいし、いい刺戟にもなることがある。
勉強になることだってあるだろう。

それでも、まず大事なのは自分の音と正面切って対峙すること。
そうやって自分の音を徹底して聴くこと、である、いいところも悪いところも。

Date: 1月 18th, 2014
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その18)

「世界のオーディオ」のラックス号掲載の「私のラックス観」の最後は、こう結んである。
     *
 いろいろなメーカーとつきあってみて少しずつわかりかけてきたことだが、このラックスというメーカー、音を聴いてもデザインを見ても、また広告の文章でさえも、一見、ソフトムードを漂わせているかに見える。しかしこのやわらかさは、京ことばのやわらかさにも似て、その裏には非常に頑固というか自身というか、確固たる自己主張があるように思う。このメーカーは、ときとしてまるで受精直後の卵子のように固く身を閉ざして、外からの声を拒絶する姿勢を見せることがある。その姿勢は純粋であると同時に純粋培養菌のようなもろさを持ち、しかも反面のひとりよがりなところをも併せ持つのではなかろうか。
 本物の高級品は、たいていの場合、ひとりの優れた頭脳が純粋に発想し、それが永い時間あたためられ煮つめられ、世に出て愛用者の手に渡ることによってまた、少しずつ改良されながら洗練の極みに達する。かつてのラックスのパーツ類には、そういう本ものの匂いがあった。かつてのマランツやマッキントッシュにもそれがあった。いまならたとえばSME。この優雅なアームはいまなお世界中の愛好家に支持されて常に品不足の状態である。ハッセルブラッド(カメラ)また然り。完成度の高い製品は、国境を越えて多くの支持者を生む。しかしもしもそこに、ひとりよがりな考えが入りこんだが最後、奇抜なだけがとりえ、といった製品しか生まれない。ラックスの製品には、ときとして僅かとはいえひとりよがりな部分が嗅ぎとれる。おせっかいと言われるかもしれないが、人の意見も聞くべきは聞き、取り入れる面は取り入れて、本当の意味で多くの人に理解され支持される完成度の高い、洗練された製品を生み、育てて欲しい。
     *
この瀬川先生の、ラックスに対する指摘の鋭さには感服するとともに、
同時にこれはラックスへの期待のあらわれでもあるように感じている。

頑固、ひとりよがり、純粋培養菌のようなもろさ──、
これを書かれたのは1975年。
ステレオサウンド 3号が1967年、8号は1968年。

これらのこともラックスの、いわば伝統のひとつだったのかもしれない。

いまのラックス(それも一部の機器のデザイン)は、というと──、
ここで書くのはやめておこう……。

Date: 1月 18th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その6)

ステレオギャラリーQの300Bシングルアンプの登場から、
日本ではときどき300Bのアンプが製品化されてきた。

多くの人が記憶しているところではラックスからMB300という、
300Bシングルのモノーラルパワーアンプが出たこともある。
1984年ごろである。

300Bを、口の悪い人のあいだでは鳥カゴと呼ばれていた保護カバーで覆っていた。
これも電取法(電気用品取締法)のためである。

このころは300Bのアンプが出たことだけで話題になっていた。
いまではいくつかのメーカーから300Bを使ったアンプが登場してきていて、
300Bのアンプということだけでは、あまり話題にならなくなっている。

昨年、ウエスギから300Bのシングルアンプが登場した。
2013年のステレオサウンドグランプリに選ばれている。
いま書店に並んでいるステレオサウンド 189号で、
ステレオサウンドグランプリの座談会のまとめが読める。

ここに、300Bの一般的な音として、楚々としてやや細め、といった表現が使われている。
この表現そのものを問題としたいわけではない。
そういう音を出す300Bシングルアンプは、意外にも多いといえるのだから、
これまで市販された300Bシングルアンプの音を聴いてきて、そう思い込んでしまっても不思議ではない。

これが新製品紹介のページで、こういう表現が300Bシングルアンプに使われても、
わざわざここで取り上げたりはしない。
取り上げた理由は、座談会だから、である。

Date: 1月 18th, 2014
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その17)

そうなるとステレオサウンド 3号の下段の文章も参考にすることができる。

3号では瀬川先生はラックスのアンプのデザインについて書かれているのだろうか。
この時代のSQ38はSQ38Dであり、SQ301と共通のパネルデザインにはまだなっていない。

SQ301のところにはデザインについては触れられていない。
PL45のところに目的の文章はあった。
     *
パネルレイアウトを含めて、ウォールナットのケースを持った全体のイメージは、高級感を表現して仲々好ましい。デザインにどことなくマランツを下敷きにしたという印象は拭い去りにくいが、パネルのパターンやツマミ、レバースイッチなどにオリジナリティを盛り込もうとしている意図は十分に感じとれる。
このデザインは、細部を除いては、SQ301と全く共通のものだが、SQ77Tのところでも指摘したように最近のラックス独特の斜めカットはちょっと考えすぎで、かえって手ざわりがよくないし、スイッチポジションを表示するポインターとしての機能も、少々あいまいのように思われる。
     *
SQ77Tのデザインについては、どう書かれているのか。
     *
ツマミのレイアウトはSQ77を踏襲しているが、この配列には抵抗なく馴れることができて、人間工学的にたいへんよく考えられている。しかしツマミの形には問題がある。丸形ツマミの一部を斜めにカットしたユニークな形だが、この形ではポジションの指示があいまいで、つまんだ感じも指によく馴じむとはいいにくい。
     *
これらを読んでいると思い出す文章がある。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」シリーズの一冊目でラックス号にのっている、
瀬川先生の「私のラックス観」だ。

Date: 1月 18th, 2014
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その16)

ステレオサウンド 3号のアンプ特集のページレイアウトは上半分がアンプの写真とスペック、
下半分が文章となっている。

その下半分の文章も二段構成になっていて、上段が、岡俊雄、瀬川冬樹、山中敬三、三氏による試聴記、
下段がそれぞれのアンプについての解説とデザインについての批評となっている。

試聴記は記名原稿なのだが、下段の文章は誰が書いたのはわからない。
最初に3号の、この特集を読んだ時は、瀬川先生ではなかろうか、と思った。

思ったけれど確証はなかった。
ただ、このころは編集部による表記の統一はあまりなされていなかったようで、
そこで判断すれば、瀬川先生である可能性は高い、といえた。

たとえばこのころの瀬川先生はサンスイを山水と書かれていた。
下段の解説のところもサンスイではなく山水である。
その他にもいくつかあるけれど、それだけで断定とまではいかなかった。

いまは瀬川先生の文章だと断定できる。
それはビクターのMST1000について、「試作品のイメージ」と書かれているのは、
試聴記ではなく、下段の解説・デザイン批評の文章のほうだからだ。