オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その18)
「世界のオーディオ」のラックス号掲載の「私のラックス観」の最後は、こう結んである。
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いろいろなメーカーとつきあってみて少しずつわかりかけてきたことだが、このラックスというメーカー、音を聴いてもデザインを見ても、また広告の文章でさえも、一見、ソフトムードを漂わせているかに見える。しかしこのやわらかさは、京ことばのやわらかさにも似て、その裏には非常に頑固というか自身というか、確固たる自己主張があるように思う。このメーカーは、ときとしてまるで受精直後の卵子のように固く身を閉ざして、外からの声を拒絶する姿勢を見せることがある。その姿勢は純粋であると同時に純粋培養菌のようなもろさを持ち、しかも反面のひとりよがりなところをも併せ持つのではなかろうか。
本物の高級品は、たいていの場合、ひとりの優れた頭脳が純粋に発想し、それが永い時間あたためられ煮つめられ、世に出て愛用者の手に渡ることによってまた、少しずつ改良されながら洗練の極みに達する。かつてのラックスのパーツ類には、そういう本ものの匂いがあった。かつてのマランツやマッキントッシュにもそれがあった。いまならたとえばSME。この優雅なアームはいまなお世界中の愛好家に支持されて常に品不足の状態である。ハッセルブラッド(カメラ)また然り。完成度の高い製品は、国境を越えて多くの支持者を生む。しかしもしもそこに、ひとりよがりな考えが入りこんだが最後、奇抜なだけがとりえ、といった製品しか生まれない。ラックスの製品には、ときとして僅かとはいえひとりよがりな部分が嗅ぎとれる。おせっかいと言われるかもしれないが、人の意見も聞くべきは聞き、取り入れる面は取り入れて、本当の意味で多くの人に理解され支持される完成度の高い、洗練された製品を生み、育てて欲しい。
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この瀬川先生の、ラックスに対する指摘の鋭さには感服するとともに、
同時にこれはラックスへの期待のあらわれでもあるように感じている。
頑固、ひとりよがり、純粋培養菌のようなもろさ──、
これを書かれたのは1975年。
ステレオサウンド 3号が1967年、8号は1968年。
これらのこともラックスの、いわば伝統のひとつだったのかもしれない。
いまのラックス(それも一部の機器のデザイン)は、というと──、
ここで書くのはやめておこう……。