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Date: 4月 7th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その8)

グラフィックイコライザーの使いこなしは、はっきりいって難しい。
そう簡単にうまく調整できるようになるとは思わない方がいい。

グラフィックイコライザーの有用性について書いている私にしても、
菅野先生のレベルにたどり着けるのだろうか……、と思ってしまう。

適当な使い方で、ひとり悦にいっているレベルで満足できるのであれば、
グラフィックイコライザーの使いこなしはそう難しくない、とはいえる。
けれどグラフィックイコライザーの本当の有用性は、そんなレベルのずっと先にある。

だから、グラフィックイコライザーを導入しても、最終的に外すことになっても、
それでいいではないか、とも思う。
ただ導入を決めたのなら、最低でも一年間はグラフィックイコライザーをシステムから外すことなく、
こまめに調整(いじって)みていただきたい。
最初から、うまくいくはずはない。

だから一年間は諦めずにとにかくグラフィックイコライザーと正面からつきあうしかない。
うまくいく日もあればそうでない日もある。そうでない日の方が多いだろう。

ひとついえるのは最初からいい音に調整しようと思わないことである。
まずは音の変化に耳を傾ける。
どんなふうに音が変化するのかを、身体感覚として得られるようになりたい。

そして、コントロールアンプにモードセレクターがあったほうが調整には役立つ。

もうひとついえるのは、好きな音に仕上げていくためのツールではない、ということだ。
正しい音とはなにか? を思考していくツールであり、
「正しい音」ということをつねに意識しておくことが重要だと、私は考えている。

Date: 4月 6th, 2015
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その7)

グラフィックイコライザーの使用に否定的な人の中には、
専用のリスニングルームを建てるだけの経済的余裕のない者が頼る機器、
それがグラフィックイコライザーである──、そんなことをいう人もいる。

またこんなことをいう人もいる。
グラフィックイコライザーに頼る人は、指先だけで処理しようとする──、
確かにそういう人がいないわけではない。

いまでは各社から整音パネル、調音パネルなどと呼ばれるモノがいくつも出ている。
専用リスニングルームを建てられなくとも、
これらのモノを駆使することでグラフィックイコライザーは不要である──、
ほんとうにそうなのだろうか。

音響的に条件を整えていった上で、グラフィックイコライザーを使えば、
各周波数における補正量は抑えられるはずである。
ならばどちらかだけでなく、積極的にそれぞれの良さを認めて採り入れてみることを考えはどうだろうか。

私がグラフィックイコライザーの使いこなしの見事な例として挙げるのは、菅野先生の音である。
菅野先生の音を聴けば、グラフィックイコライザーは必要になる、と思える。

その菅野先生のリスニングルームだが、音響的には特別なことはされていないように見える。
左右のスピーカーの中央にある扉のガラスの一部にソネックスが貼られているくらいにしか見えないが、
ステレオサウンド、スイングジャーナルのかなり古いバックナンバーには、
昔の菅野先生のリスニングルームの写真が載っている。
それらを見較べてほしい。

壁の表面、それから天井と壁が交わるところなどを特に見較べれば、
菅野先生がグラフィックイコライザーだけに頼られているわけではないことがはっきりする。

整音パネル、調音パネルと呼ばれているモノの中には、なかなか効果的なモノはある。
けれどそれらをリスニングルームに林立させることに、音が良くなるのだから、といって、
ためらうことのない人もいれば、
できるだけ視覚的にそういったモノが目につかないようにしたい、
専用リスニングルームという感じをできるだけ抑えたい、という人だっている。

そういう人にとって、菅野先生のリスニングルームのいくつかの変化とグラフィックイコライザーの併用は、
良き参考例となるはずだ。

Date: 4月 6th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その13)

SFの世界では、人型ロボットだけでなく、クローン人間も登場する。
完璧なコピーといえるクローン人間が造り出せたとしても、
そのクローン人間の脳には、何が入っているのだろうか。

そのクローン人間の脳に、オリジナルの人間の脳の記憶の全てをコピーすることができたら……、
これはSFの世界での、自我とはなにか、というテーマとつながっていく。

体も完璧なコピー、記憶もそうである。そういうクローン人間がいたら、
オリジナルの人間と同じ自我が、そこに芽生えるのだろうか。

現在の録音・再生のシステムでは、いわゆる原音再生は無理である。
けれど将来、まったく違う理論と方法によって、
録音と再生の場が異っていても、原音再生が可能になったとしよう。
それも完璧なコピーといえる原音再生である。

完璧なコピーといえるクローン人間のような原音再生である。
そんなクローン人間ならぬクローン音が実現したとして、
クローン音には、自我があるのか、と思い、
次の瞬間には、元となる、いわゆる原音(生音)には自我があるのだろうか……、と考え込んでしまった。

音に自我などあるものか、といいきれない自分に気がつく。
いいきれないということは、音に自我、自我のようなものを感じとっているのだろうか、とまた考える。

自我があるとすれば、それは原音(生音)ではなく、再生音なのではないか。

Date: 4月 5th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その4)

あばたもえくぼ、という。
惚れてしまうと、欠点まで好ましく見えてしまう、という意味である。
痘痕(あばた)が靨(えくぼ)に見えてしまうのだから、そうである。

だが時として、えくぼもあばたとなってしまうことだってあるだろう。
嫌いになってしまうことで、いままで好ましく思えていたことが欠点に思えてしまう。
同じようなことが音に対しての反応としてあるような気がする。

つまり好きな音に対して敏感であるのか、嫌いな音に対して敏感であるのか。
好きな音に対して敏感であれば、多少欠点があったとしても、さほど気にならなくなる。
けれど反対に嫌いな音に対して敏感でありすぎると、
その部分にのみ耳の意識が集中してしまい、良さもあったとしても、そこに意識がいかない、
その音全体も否定しまうことになるのではないか。

どちらがよくてどちらが悪いというわけではないが、
嫌いな音に対して過剰なくらい敏感であるために、
音のバランスを失ってしまった例を、よく知っている。

彼には嫌いな音がある。
それは嫌いな音ともいえるし、苦手な音でもある。
それがどんな音であるのかは書かないが、その種の音に対して彼の耳は過剰なまでに敏感だった。
その種の音が出ていると、音を聴くのも苦痛であったようだ。

彼が、嫌いな音・苦手な音を出さないために、
グラフィックイコライザーの力を借りて大胆に調整を行ってしまうのは、だから理解できないわけではない。

だが、それでも……、というおもいがある。

Date: 4月 4th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その8)

執拗さで思い出すのは、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」である。

そして「トリスタンとイゾルデ」といえば、ステレオサウンド 2号での、
小林秀雄「音楽談義」での五味先生の発言を思い出す。
このテーマだからこそ、思い出す。
     *
五味 ぼくは「トリスタンとイゾルデ」を聴いていたら、勃然と、立ってきたことがあるんでははぁん、官能というのはこれかと……戦後です。三十代ではじめて聴いた時です。フルトヴェングラーの全曲盤でしたけど。
     *
「勃然と、立ってきた」とは、男の生理のことである(いうまでもないとは思うけれど)。
この五味先生の発言に対し、小林秀雄氏は「そんな挑発的ものじゃないよ。」と発言されている。

ワーグナーは慎重で綿密で、意識的大職人である、とも。
そうだと思う。
思うけれど、何も男が勃起するのは相手の挑発的行動に対してだけではない。

だから五味先生が「勃然と、立ってきた」のは、フルトヴェングラーの全曲盤だったからではないのか。
ドイツ・グラモフォンから、
フルトヴェングラーの全曲盤から約30年後に登場してきたクライバーでは、どうだったのかと思う。

クライバーのドイツ・グラモフォン盤が出た時、五味先生はすでに亡くなられていた。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」も聴かれていない。

ただクライバーの「トリスタンとイゾルデ」に関しては、
1975年、バイロイト祝祭劇場でのクライバーの演奏は聴かれている。
高く評価されていた。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その10)

モノの蒐集にはふたつの楽しみがある、といえる。
ひとつはモノそのものの蒐集であり、もうひとつはそのモノに関する情報の蒐集である。

オーディオも自転車も魅力的なモノであり、
どちらも昔よりも現在の方が、情報蒐集はしやすくなっているし、情報の量も多くなってきている。

欲しいモノ、気になっているモノの情報を集めてくるのは、実に楽しい。
これだけでひとつの趣味といえるほど楽しく感じている人も少なくないだろう。
私も、そのひとりである。

より正確な情報を、しかもあまり知られていない情報を求めようとしているし、
そんな情報が入ってくれば、同好の士に教えたくもなる。
そうすれば、同好の士から情報を得ることもある。

そうやってさまざまな情報をあつめる。
そして試聴(自転車では試乗)する。
これも、ひとつの情報蒐集といえなくもない。

けれど、そうやって得た情報をもとに、
実際に購入するモノ選びにどれだけ役立つか、直結しているのか、といえば、
私の場合は、間接的には役立っているとはいえても、直結しているとはいえないところがある。

デ・ローザのオレンジ色のフレームがそうであったように、
結局のところ、「これだ!」と瞬間的に感じられるかどうかが決め手であり、
他のことは、買うための口実として機能するだけである。

そんな選び方は絶対にしない、という人もいる。
それはそれでいい。
ただ私はそうやって自転車を選んだし、オーディオも選んできている。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その3)

音の好みがまったくない、という人はいるのだろうか。
好みとは、好きな音もあれば嫌いな音もある、ということで、
つまりは音の好みがまったくないということは、
嫌いな音・苦手な音もなければ、好きな音もないということになる。

音の好みが激しい・極端な人もいれば、さほどでもない人もいるけれど、
まったくないという人には、いまのところお目にかかったことがない。

すくなくともオーディオマニアを自認する人は、必ず好みの音というものがあるし、
音の好みをわかっているからこそオーディオマニアなのではないだろうか。

味覚も聴覚も、その領域を拡げていくことが大事である。
子供のころ苦手だった味も、大人になるにつれて苦手ではなくなり、おいしい、と感じるようになるように、
音に関しても、同じことはきっとある。
それがオーディオマニアとしての成長である、といえる。

私にしても、中学生のころからすれば、受け入れられる音の範囲は確実に拡がっている。
拡げてきたともいえる。

それであっても、どうしても受けつけられない音はある。
以前書いているように、ダメな音はやっぱりあって、これはもう死ぬまで受けつけないであろう。

ただ、この手の音は、音の輪郭線を強調しすぎるため、
エッジがたつ、とか、鮮明になった、という表現する人がいるようだが、
冷静に聴けば、支配的な音色がかなり強く存在していて、
どう聴いても音の良さにつながるものではない、と思っている。

Date: 4月 2nd, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その1)

五味先生の命日である昨晩、ひさしぶりに「音楽談義」をきいた。

「音楽談義」はステレオサウンド 2号の特別企画として、
《音楽談義》 小林秀雄 きく人 五味康祐、というタイトルで載っている。
二部構成になっていて、第一部は「音楽の本質について」、
第二部は「ワーグナーの人と音楽」である。

「音楽談義」のことは、まだ読者であったころに知っていた。
けれど2号(1967年3月発売)という古いステレオサウンドは、
私がステレオサウンドを読みはじめた1976年の時点ではすでに入手できなかったのだから、
「音楽談義」のことを知った1979年3月の時点では読みたくとも読めなかった。

私が「音楽談義」を読んだのはステレオサウンドで働くようになってからだった。

ステレオサウンドは1986年に創刊20周年を迎えた。
創刊20周年を記念して、「音楽談義」はカセットテープによるオーディオブックとして一冊の本となった。
(発売は1987年だった)
当時、原田勲社長は、社員全員に「音楽談義」をくばられた。
それが、いまも私のもとにある一冊である。

この時「音楽談義」をきいた。
会社の取材用の録音機であったソニーのWM-D6できいた。

カセットデッキはその時もそれ以降も所有してこなかったから、
「音楽談義」をきいたのは、その一度限りだった。

昨晩、約30年ぶりに「音楽談義」をきいた。
これだけあいだがあいていると、初めてきくような感覚もあった。

Date: 4月 2nd, 2015
Cate: audio wednesday

第52回audio sharing例会のお知らせ(続・五味康祐氏のこと、五味オーディオ教室のこと)

5月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

昨晩のaudio sharingの例会のテーマは、五味先生のことだった。
来月のテーマも、昨晩の続きとして、五味康祐氏のこと、五味オーディオ教室のことがテーマとなる。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 31st, 2015
Cate: audio wednesday

第51回audio sharing例会のお知らせ(五味康祐氏のこと、五味オーディオ教室のこと)

4月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。

今日で三月も終る。
東京は桜が満開だ。

五味先生と桜で思い出すのは、きまってこの文章だ。
1972年発行の「ミセス」に載った「花の乱舞」を、毎年この時期に思い出す。
     *
 花といえば、往昔は梅を意味したが、今では「花はさくら樹、人は武士」のたとえ通り桜を指すようになっている。さくらといえば何はともあれ──私の知る限り──吉野の桜が一番だろう。一樹の、しだれた美しさを愛でるのなら京都近郊(北桑田郡)周山町にある常照皇寺の美観を忘れるわけにゆかないし、案外この寂かな名刹の境内に咲く桜の見事さを知らない人の多いのが残念だが、一般には、やはり吉野山の桜を日本一としていいようにおもう。
 ところで、その吉野の桜だが、満開のそれを漫然と眺めるのでは実は意味がない。衆知の通り吉野山の桜は、中ノ千本、奥ノ千本など、在る場所で咲く時期が多少異なるが、もっとも壮観なのは満開のときではなくて、それの散りぎわである。文字通り万朶のさくらが一陣の烈風にアッという間に散る。散った花の片々は吹雪のごとく渓谷に一たんはなだれ落ちるが、それは、再び龍巻に似た旋風に吹きあげられ、谷間の上空へ無数の花片を散らせて舞いあがる。何とも形容を絶する凄まじい勢いの、落花の群舞である。吉野の桜は「これはこれはとばかり花の吉野山」としか他に表現しようのない、全山コレ桜ばかりと思える時期があるが、そんな満開の花弁が、須臾にして春の強風に散るわけだ。散ったのが舞い落ちずに、龍巻となって山の方へ吹き返される──その壮観、その華麗──くどいようだが、落花のこの桜ふぶきを知らずに吉野山は語れない。さくらの散りぎわのいさぎよいことは観念として知られていようが、何千本という桜が同時に散るのを実際に目撃した人は、そう多くないだろう。──むろん、吉野山でも、こういう見事な花の散り際を眺められるのは年に一度だ。だいたい四月十五日前後に、中ノ千本付近にある旅亭で(それも渓谷に臨んだ部屋の窓ぎわにがん張って)烈風の吹いてくるのを待たねばならない。かなり忍耐力を要する花見になるが、興味のある人は、一度、泊まりがけで吉野に出向いて散る花の群舞をご覧になるとよい。
     *
40年以上前に五味先生がご覧になった落花の桜ふぶきは、いまも見れるのだろうか。

明日は、とにかく五味先生について話すだけである。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 31st, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その2)

わかるは、漢字で書けば分る、判る、解る、である。
それをあえてひらがなで「わかる」と書くと、
「わかる」は「かわる」と似ていると、いつも思う。

一文字目と二文字目をいれかえれば「わかる」は「かわる」になり、
「かわる」は「わかる」になる。

「わかる」から「かわる」のかもしれない、
「かわる」から「わかる」のかもしれない。

Date: 3月 30th, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その9)

デ・ローザのオレンジ色のフレームの自転車(ロードバイク)を買った。
デ・ローザというイタリアのフレーム・ビルダーのことは、おおまかなことぐらいは知っていた。
けれど、私がいわば一目惚れして自分のモノとしたフレームに関しては、ほとんど何も知らなかった。

こういうモデルがあったのか、と後で知ったくらいで、
フレームにはCOLUMBUS(イタリアのパイプメーカー)の、
どのパイプが使われているのかを示すシールが貼られているので、
SLXという当時スタンダードなパイプだということがわかったくらいである。

いまならば気になるフレームについてはインターネットで検索すれば、
インプレッション記事が見つかることが多い。
いまでは自転車雑誌もインプレッション記事が増えているけれど、
1995年当時の自転車雑誌には、インプレッション記事はさほど多くはなかった。

私が買ったフレームについての情報は何もなかったに等しい。
一台の自転車として完成され展示したのを見て、衝動買いに近いかたちで自分のモノとした。

この時の買い方で私が選択したのは、芝大門にあるシミズサイクルという自転車店だけといえる。
どのフレームにするのか、それ以外のコンポーネントはどうするのか、
ほとんど決めていなかった。
予算をある程度決めていただけで、それすらも四割ちかくオーバーしてしまった。

買うと決めたのは確かに私なのだが、私がデ・ローザのオレンジ色のフレームを選んだ、といえるだろうか。

後日シミズサイクルの方にきいた話だが、
私が購入して一週間後ぐらいに、地方の方から問合せがあったそうだ。
その人は、東京に住んでいる友人がシミズサイクルで、デ・ローザのオレンジ色のフレームを見て、
その人に連絡したそうである。

シミズサイクルには同じフレームのサイズ違いの在庫はあった。
けれどそれは私には大きすぎたし、その人にとっても大きなフレームだった。

私があの時、もし、もう少しこのフレームの情報を集めて、
それからじっくり購入するかどうかを判断していたら、ほぼ間違いなくその人のモノになっていたであろう。
そうなっていたらきっと後悔していたことも間違いない。

間違いのない選択のために情報を集め判断するわけだが、
そのための時間で後悔することだってあるのは、自転車だけではない、オーディオも同じだ。

Date: 3月 29th, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その8)

自転車店めぐりの最初の店であり、私がロードバイクを購入した店は、
東京・芝大門にあるシミズサイクルだ。

20年前はいまのような自転車ブームではなかった。
自転車店はずっと少なかった。それでもシミズサイクルよりも大きな店はいくつかあったし、
同じモノがもっと安く買える店もあったし。
それでもシミズサイクルで買おう(何を買おうとは決めてなかった)と思ったのは、
この店が、自転車を差別しない店であったからだった。

ある大型店でのことだった。年輩の人が調子の悪くなった自転車の修理を店員に依頼していた。
その店の店頭には、当店はプロショップだから、一般自転車は販売していないし修理しない、と貼紙があった。

若い店員は口もきかずに、その貼紙を指さすだけだった。
年輩の人はよく事情がわからず、何度か頼んでいたし、どこか修理できるところはないかときいてもいた。
それでも若い店員は貼紙を指さすだけだった。

彼は雇われの身であるから、店の方針には逆らえないのはわかる。
けれど、問題はその対応だ。
きちんと言葉で説明すればいいだろうし、
その店で修理は受け入れられないのなら、他の店を教えるくらいのことはできたはずなのに、
貼紙を指さすだけなのをみて、この店で買うのは絶対にしない、と思った。

私はそう思ったけれど、その店はいまも繁盛しているようだ。
そんなことがあったから、最初の店、シミズサイクルにしようと決めた。

シミズサイクルに展示してあるフレーム中から、サイズと予算に合うモノを選ぶつもりで、
再度この店を訪れた。
そして、完成車として展示されていたデ・ローザのフレームともう一度出逢ったわけだ。

フレーム単体でみていた時よりも、ずっと映えてみえる。
細部の仕上げは、もっとていねいな仕事をしているフレームがある。
それでも、これにしよう、と決めた。サイズもぴったりだった。

いい買物をした、と思う。
そして、デ・ローザを選んだとは思っていない、運良く出合えたと思っている。

Date: 3月 29th, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その7)

1995年の5月に、はじめてのロードバイクを買った。
買う前には、当然いろんな情報を収集した。
当時はまだインターネットをやっていなかったし、
やっていたとしてもいまのようにブログやSNSが普及していたわけではないから、
結局は自転車雑誌が情報収集のメインとなる。

自転車店もいくつも廻った。
何かを買うかも重要なことだけど、それと同等かそれ以上にどこで買うかも重要だと考えてのことだった。
そのために自転車雑誌の記事だけではなく、広告も丹念に見ていた。

予算はそれほどなかったし、初めてのロードバイクだから、
いきなり最高級のモノを手にしようとは考えていなかった。
候補はいくつかに絞られた。

ただ自転車のフレームが、オーディオのスピーカー選びと異るのは、
サイズの問題がある。
どんなに優れたフレームでもサイズが合わなければ、その人にとっていいフレームとはいえない。
自分の欲しいフレームで、自分に合ったフレームのサイズでなければならないこともあって、
とにかく東京都内、神奈川、埼玉の自転車店をいくつも廻ったものだった。

そんな数ヵ月を過ごして購入したのはデ・ローザ(DE ROSA)のオレンジ色のフレームだった。
このフレームは、自転車店めぐりをはじめた最初の店にあったモノだった。
目にはついていた。
けれどオレンジ色がそんなに好きではなかったし、デ・ローザのこの時代のフレームは武骨だった。
もっと洗練されたフレームが欲しいと思っていたから、まったく気にも留めなかった。

いろんな店を廻って数ヵ月後、再び最初の店を訪れた。
そのとき、オレンジ色のフレームは、完成車として展示されていた。
「これだ!」と感じた。

Date: 3月 28th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その1)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号に、
瀬川先生が「私とタンノイ」を書かれている。
その冒頭に、次のように書かれている。
     *
 日本酒やウイスキィの味が、何となく「わかる」ような気に、ようやく近頃なってきた。そう、ある友人に話をしたら、それが齢をとったということさ、と一言で片づけられた。なるほど、若い頃はただもう、飲むという行為に没入しているだけで、酒の量が次第に減ってくるにつれて、ようやく、その微妙な味わいの違いを楽しむ余裕ができる――といえば聞こえはいいがその実、もはや量を過ごすほどの体力が失われかけているからこそ、仕方なしに味そのものに注意が向けられるようになる――のだそうだ。実をいえばこれはもう三年ほど前の話なのだが、つい先夜のこと、連れて行かれた小さな、しかしとても気持の良い小料理屋で、品書に出ている四つの銘柄とも初めて目にする酒だったので、試みに銚子の代るたびに酒を変えてもらったところ、酒の違いが何とも微妙によくわかった気がして、ふと、先の友人の話が頭に浮かんで、そうか、俺はまた齢をとったのか、と、変に淋しいような妙な気分に襲われた。それにしても、あの晩の、「窓の梅」という名の佐賀の酒は、さっぱりした口あたりで、なかなかのものだった。

 レコードを聴きはじめたのは、酒を飲みはじめたのよりもはるかに古い。だが、味にしても音色にしても、それがほんとうに「わかる」というのは、年季の長さではなく、結局のところ、若さを失った故に酒の味がわかってくると同じような、ある年齢に達することが必要なのではないのだろうか。いまになってそんな気がしてくる。つまり、酒の味が何となくわかるような気がしてきたと同じその頃以前に、果して、本当の意味で自分に音がわかっていたのだろうか、ということを、いまにして思う。むろん、長いこと音を聴き分ける訓練を重ねてきた。周波数レインジの広さや、その帯域の中での音のバランスや音色のつながりや、ひずみの多少や……を聴き分ける訓練は積んできた。けれど、それはいわば酒のアルコール度数を判定するのに似て、耳を測定器のように働かせていたにすぎないのではなかったか。音の味わい、そのニュアンスの微妙さや美しさを、ほんとうの意味で聴きとっていなかったのではないか。それだからこそ、ブラインドテストや環境の変化で簡単にひっかかるような失敗をしてきたのではないか。そういうことに気づかずに、メーカーのエンジニアに向かって、あなたがたは耳を測定器的に働かせるから本当の音がわからないのではないか、などと、もったいぶって説教していた自分が、全く恥ずかしいような気になっている。
     *
「世界のオーディオ」タンノイ号は1979年春に出ているから、この時瀬川先生は46歳。
私が「私とタンノイ」を読んだのは16歳。
そういうものかと思いながら読んでいた。
老いていく、ということがどういうことなのか、
頭でどんなに想像してもまったく実感がわく年齢ではなかったのだから、
そういうものか……、で留まってしまう。

けれど40を過ぎたころから、同じように考えるようになっていたことに気づき、
この「私とタンノイ」の冒頭を思い出すようになっていた。

以前も書いているけれど、齢を重ねなければ出せない音があることに気づいたのも、40ぐらいだった。
齢を重ねなければ出せない音があるのは、結局のところ、音が「わかる」ようになるのに、
ある年齢に達することが必要になるからだ、とも思うようになってきた。

そしてもうひとつ気づいたことがある。
音の違いがわかる、ということが、音が「わかる」ことではないということだ。

このことに気づくのに30年以上かかってしまった。