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Date: 12月 3rd, 2017
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その10)

ステレオサウンド 12号(1969年秋号)の新製品紹介欄に、
STEREOLA DPS100は登場している。山中先生が担当されている。
     *
 とにかくこれまで接してきた各種のスピーカーシステムとはまったく異なる次元にあるシステムであることは確かで、しかもその再生音のもつ一種独特の強烈な魅力は忘れることのできないものであった。この音はちょっと表現しにくいのだがおなじみのこのユニットを使った小型システムとはまったく異なるやわらかでふくよかな品位の高い響きは中心部から放射状に部屋全体をくるうように拡がり、これまでのステレオサウンドとは、はっきり区別されるものだ。いわゆるシャープでリアルな音ではなく、まろやかにかもしだされたような音はレコードマニヤにとっては麻薬的な引力をもっているとでも言えばよいのだろうか、だいぶオーバーな表現となったがともかくグラモフォンマニヤには一聴をすすめたいスピーカーシステムである。
     *
聴いたことのない、おそらくこれから先も聴く機会はないであろうSTEREOLA DPS100。
どんな音なのかというのは、山中先生の書かれたもの、
61号特集での鼎談を読んでも、はっきりとはつかみにくいことこそが、
このスピーカーの特徴といえるのだろう。

STEREOLA DPS100のDPSは、
Delayed Phase Stereophonic の略である。

BOSEの901も、Delayed Phase Stereophonicといえるスピーカーである。

Date: 12月 3rd, 2017
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その9)

STEREOLA DPS100を聴く機会はないな、とあきらめていた。
一年後の冬(1981年12月)、ステレオサウンド 61号の特集に、
なんとSTEREOLA DPS100が登場している。

サウンドボーイの記事にジョーダン・ワッツが刺戟されて……、ということは考えにくいが、
輸入元の今井商事に、問合せがあったのだろうか。
それに応えての復刻だったのかもしれない。

復刻版のSTEREOLA DPS100は、スピーカーシステムとしての販売ではなかった。
エンクロージュア(ネットワーク込み)とModule Unitは別売であった。

なのですでにModule Unitを鳴らしている人は、
ユニットを追加購入し、STEREOLA DPS100を買えばシステムとして完成する。
トータル価格は、366,000円だった。
ちなみにエンクロージュアは国産である。

復刻されたとはいえ、どさだけ売れたのだろうか。
復刻版も実物を見たことはない。

61号の特集では、菅野先生が語られている。
     *
菅野 たしかに、非常によくできたミュージックボックスというイメージがありますね。先ほど岡先生がパラゴン的とおっしゃいましたが、また別の見方をしますと、使っているユニットの口径といい、ボーズの901的なところもありますね。あちらは9発使っていて、こちらは1個不足していて8発です。それせステレオですから、半分以下ということだけど、何となくパラゴン・ボーズという感じがします。いうなれば、ミニ・パラゴン・ボーズですね(笑い)。
 それは冗談としても、とにかくこの音というのは完全に自分の世界を持っていますね。とにかく出た音というのはすごく気持がいいです。レンジがどうのこうのという聴き方は全くナンセンスです。もちろん、ここから出てこない音とか、違って出てきてしまう音もあるんですが、とにかく聴いていてすごく気持がいい。本当にレコード音楽に真摯に取っ組んでというのなら別ですけれども、家庭の中に非常に趣味のいい音楽を流しておくというような目的には実にぴったりですね。
     *
やはりボーズ的という表現が出ている。
BOSEの901を、Module Unitで作ったら──、
そんな妄想をしたことのある人は私だけではない、と思う。

Date: 12月 3rd, 2017
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その8)

10cm口径のフルレンジユニットで、私が中学生のころ憧れていたのは、
ジョーダン・ワッツのModule Unitだった。

アルミ合金製の振動板、ベリリウム銅カンチレバーによるサスペンション機構、
そんな謳い文句もだけど、見た目が日本の同口径のユニットとはまったく違っていた。

繊細な音がしてきそうな印象の、小口径ユニットだった。

Moduleと型番につくことわかるように、複数個使用を前提としたユニット、
そんなふうな説明を、当時のオーディオ雑誌で読んだ。

けれどジョーダン・ワッツのスピーカーシステムは、1970年代後半、
Jumbo、Jumo、GT、Fragon、Qubique、Jupiter TLSなどがあったが、
Modele Unitを複数個(二発)使用しているのは、Jupiter TLSのみだった。

Fragonはよく知られていたし、オーディオ店で見たことはある。
けれどJupiter TLSの実物を見たのは、十数年前、それも中古で、である。

複数個用いてのModule Unitの音、それに使用例は……、と思っていたところに、
STEREOLA DPS100の製作記事が、サウンドボーイ(1980年10月号)に載った。

初めて聴く型番のスピーカーだった。
ステレオサウンド 12号で紹介されていた、と記事中にあった。
しかも輸入元の今井商事によれば、日本に正式に輸入されたのは一台だけ、とのこと。
知らなくて当然である。

STEREOLA DPS100は、左右一体型のスピーカーで、
両チャンネルあわせて八本のModule Unitを使っている。

Module Unitは、1977年は一本17,000円だった。
1980年にMKIIIになり、耐入力が12Wから20Wへ、ピーク入力は40Wへと高くなっている。
価格も21,000円となった。

サウンドボーイの記事を見て、自分で作ろうとすればユニット代だけで、
21,000円×8で168,000円。

当時高校生だった私には、それだげで無理だった。

Date: 12月 3rd, 2017
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その7)

BOSEの901というスピーカーは、私にとっては、
どこか心の隅にひっかかっている存在である。

欲しい、とまで強烈におもうことはなかったけれど、
いいスピーカーだな、とおもうことは度々あった。

それはきまって井上先生が鳴らされた901の音である。

それ以前も、一度901の音は聴いてはいた。
鳴っているのを聴いた──、ぐらいのものでしかなかった。

おもしろいスピーカーなのかもしれないけど……、その程度の感触しかなかった。
けれど井上先生が、ステレオサウンドの試聴室で鳴らされる901の音は、違った。

この音を聞いているかいないかは、
901という独得のスピーカーの存在を肯定するかどうか、と同じことだ、といいたくなるくらいに、
私の中では901の音は、井上先生が鳴らされた音である。

901に搭載されているユニットは10cm口径のフルレンジである。
それを前面に一発、後面に八発配置している。

901は、私がオーディオに興味をもったときにはすでにあった。
その構成ゆえ、日本では、カワリモノ的スピーカーという括りでもあった。

そういう見方をしうない人でも、
日本のそのころの住宅環境では鳴らしにくいタイプという認識であった。

それでも、なんとなくおもしろいスピーカーだな、と思いながらも、
ユニットが、こんなモノでなくて、
例えば同軸型だったら……、
具体的にいえば、タンノイのHPD295Aがついていたら……、とおもっていた。

小口径フルレンジの良さをわかっていなかったから、である。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その1)

今年も残り一ヵ月を切った。

今年も新しい人たちと出あえた。
古い友人との30年ぶりぐらいの再会もあった。
オーディオがもたらしてくれた人とのつながりである。

一年後も、同じことを書いている、とおもう。

2017年のふりかえって、書きたいと思っているのは、
ZOZOSUITの登場である。

いろいろなところで取り上げられているから、ZOZOSUITがどんなものなのかの説明は省く。
それにしても、こんなものが三千円という値段がつけられているが、
実質的には無料で配られていることにも驚く。

無料でなくとも、三千円という価格なのも驚きだ。

ZOZOSUITのニュースを見て、まっさきに思ったのは、
自転車好きとしては、フレームのオーダーメイドが、
より簡単により正確になっていくはずだ、であった。

自転車のポジショニングに関しても、ZOZOSUITで得られた情報を元に割り出していけるはず。

自転車の世界にもたらすものを考えながらも、
オーディオの世界には、なにかもたらしてくれるのかだろうか。

すぐには思い浮ばない。
けれど、ZOZOSUITそのものではなくとも、
ZOZOSUITの技術を理由しての何かは、オーディオの世界でも役に立つはずだ、と思う。

ZOZOSUITのニュース以降、形がはっきりしてこないだけに、もやもやしたものを感じている。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その4)

人それぞれだから……、と何度も書いている。
ここ二、三年、そう書くことが多くなった。

人それぞれだから……、という表現を使う時、
私は、そのほとんどが、もうどうにもならないことだから……、
いまさらあれこれいっても……、という気持である。

言葉や時間をどれだけ費やしたところで、
伝わらない相手には、何ひとつ伝わらない、ということを実感している。

オーディオという狭い世界の中でも、そうである。

相手の年齢、職業、性別など、そんなことはまったく関係なく、
伝わらない人が世の中には、いる。

けれど、そんな人ばかりではないことも実感している。
伝わる人には、こちらの拙い表現でもきちんと伝わる。

それぞれのインテリジェンスということを実感している。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その13)

ゲオルギー・グルジェフがいっていた「人間は眠っている人形のようなものだ」は、
生かされている状態ともいえるのではないか。

生きている、といえるわけではない。

ここでいっている「生かされている」は、
神によって生かされている、といった意味ではなく、
ネガティヴな意味での「生かされている」である。

生かされている人間の音楽と、
生きている人間の音楽。
同じなわけがない。

カザルスの音楽を聴きたい、とおもう人間もいれば、
思わない人間もいる。

Date: 12月 1st, 2017
Cate: 広告

広告の変遷(BOSEの広告)

1970年代後半のBOSEの901の広告には、演奏家が登場していた。
ステレオサウンド 48号の901の広告には山田一雄氏が登場されている。

キャッチコピーは、こうだ。
     *
背中で聴いたBOSE
この小さな箱がホールの広さを表現するとは…《山田一雄》
     *
山田一雄氏のリビングルーム(と思われる)に置かれた901と、
ロッキングチェアに坐っている山田一雄氏の写真が、カラー見開きで大きく扱われている。

この写真の下に、こうある。
     *
元来、私はあまりレコードを聴かない。つまり「鑑賞する立場の人」とは反対の立場に立っているからかも知れない。音楽を創る立場の身にとっては、雑念なしに他人の音楽に没頭して聴くことは難事であるからだ。
家族が新しいオーディオ装置を欲しがっていることもあって、友人のレコーディング・ディレクターのすすめで《BOSE-901》を手に入れる。そんな私だから、正直なところオーディオとやらのシカケには恥かしいほど無頓着で、無理解だとよく叱られている。
ともあれ、女房子供のおつき合いのつもりで聴いたところが、鳴り出した瞬間から大袈裟にいって「新しい発見」と「開眼」をする。
さて、指揮者というものは客席に背を向けているくせに、常に背中で音を聴いているものだ。つまり、その広さと音のまわり具合いを身体で感じながら演奏している。演奏が巧くいっているときには、音が張り出すというのだろうか、ステージ上の音よりもむしろ客席の方で暖く鳴っているのを私は感じる。
《BOSE-901》での私の「新しい発見」とは、私の家のサロンで、音が背中にまわり込む外国のコンサート・ホールでの、アノえもいえぬ味を味わえたことである。この設計者はよほどの感性をもって音楽を聴き込んでいるのであろう。音楽が生まれる場所の状況を極めて正確にわきまえている。
それにこのスピーカーは、「音出し機械」然としていないところが良い。小型にもかかわらず、生演奏なみのヴォリュームを上げても、ガナリ立てる感じにならない点も大変気に入っている。
これからは、もう少しレコードを聴くとしようか……。
     *
48号は1978年秋号。
私は15歳だった。

山田一雄氏の語られていることを半分も理解できていなかった。
それに、広告だから……、という読みかたもしていたところもある。

いま読み返して、ひとり納得している。

Date: 12月 1st, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その8)

五味先生の「私の好きな演奏家たち」に、こうある。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
《いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい》

そのとおりなのだろう、とおもう。
ほっとけ、ほっとけ、と思う。

でも、それでいいのか、と一方でおもう。
《才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中》をほっといていいのか、と自問する。

まだ《自分の死期を想うこと》がない私は、
ほっとけばいい、とすっぱりとおもうことはできずにいる。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その7)

オーディオの聖域とは──、と考える。
同時にオーディオこそが聖域なのだ、とも思っている。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その6)

つまらぬ意地の張り合い。

オーディオマニアでない人からすれば、ほんとどうでもいいこと、
もっといえばアホなこと。

それでも、この「つまらぬ意地の張り合い」は、
オーディオマニアの聖域かもしれない。

なんらかの聖域をもつからこそ、オーディオは男の趣味。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その5)

五味先生が「不運なタンノイ」で書かれていること。
オーディオは、まさしく男の趣味だな、と思わせる。
     *
 さてテレフンケンの音の輝きに恍惚とし、満足し、そのうちステレオが盛んとなるにつれ高音部に不満を見出すようになって、昨秋のヨーロッパ旅行でSABAを得た。
 ミュンヘンに世界的に有名な博物館がある。エジソンの発明になる初期の蓄音機から最新のステレオ装置までが進歩の順次に展覧されている。その最新のステレオはテレフンケンではなくSABAだった。私は勇気と喜びをあらたにして日本へ着くであろうSABAへの期待に夢をふくらませた。
 さて昨年暮にはるばる海を渡ってSABAはわが家に運び込まれた。それを聴いて、どんなに絶望したか。もう一つの新しいテレフンケンの装置は、工場のほうから、不備の点を発見して製造を中止した旨の連絡があった。私は怏々とたのしまなかった。いまひとつロンドンで聴いたデッカ《デコラ》は、テレフンケンがベンツならロールスロイスではあろう、しかし、これはS氏のもので、今さら同じものを取り寄せることは日本オーディオ界のパイオニアを自負する私の気持がゆるさない。人さまはいい音で満悦至極であるのに、私だけがなんでこうも不運なのか。私がどんな悪いことをしてきたというのか? 私は天を怨んだなあ。
     *
デッカのデコラの素晴らしさを知り、認めながらも、それを購えることができても、
デコラは、すでに新潮社のS氏の愛器であるために、《気持がゆるさない》と。

求める音がデコラで得られるならば、それを買えるだけの財力があるのならば、
素直に買えばいいのに……、と思う人は、オーディオマニアではない。

傍からみれば、つまらぬ意地を張っているだけ──、
きっとそう見えるはずだ。

五味先生だけではない。
他の人も、そのはすだ。

瀬川先生は、これを《オーディオ・マニアに共通の心理だろう》と書かれている(「私とタンノイ」より)。
ほんとうにそうである。
意地の張り合いなんてしなければ、ずっと楽になれるのはわかっていても、
それでもオーディオは男の趣味だから……、やってしまう。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: audio wednesday

第83回audio wednesdayのお知らせ(誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク)

二週間ほど前にセルの「エグモント」について書いた。
今回、このCDを持っていく。

とあるジャズ喫茶は、「エグモント」をリファレンスレコードとしている、ときいている。
その意味で、ジャズ喫茶である喫茶茶会記でどんなふうに鳴ってくれるのかという興味はある。

あるけれど、だからといって「エグモント」を、
喫茶茶会記での隠れたリファレンスディスクにするのは、なんともおもしろくない。
つまらぬ意地なのかもしれないが、また別のディスクにしたい。

最新録音から選ぶのも、おもしろくない。
何をもっておもしろいとするのか、おもしろくないとするのか、
それは私の中の勝手な判断でしかなくて、いちいち説明するのはめんどうだ。

候補として考えているのが、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番である。
ショルティを理由もなく毛嫌いしていた20代のときに聴いている。
CDで聴いている。

第一楽章冒頭の低弦の鳴り方の凄さ。
実演では聴けそうにない(おそらく聴けないであろう)低弦のこわいまでの鳴り方。

これを録音が生み出した音であって、コンサートホールでは、こんな音は響かない──、
と否定するのは、誰にでもできよう。

そんなことはデッカの録音陣、そしてショルティはわかったうえでの、
この録音であると受け止めるもののはずだ。

ショルティによる二番の最初の録音は、1966年、ロンドン交響楽団によるもの。
このLP(それもオリジナル盤)の、出だしの低弦は、すごかった、と、
岡先生が「マイクログルーヴからデジタルへ」の下巻でふれられているので、引用しておく。
     *
このレコードの開始部の凄まじい低弦の表現力というもは、おそらくどんなコンサートでも聴かれない強烈な効果で聴き手を圧倒する(筆者がこの曲をコンサートで聴いたのは、小沢征爾が日フィルを振った一回しかないが、コンサートでは、ベルリンPOやシカゴSOであろうと、ショルティのレコードのようには鳴らないだろうと思っている)。明らかに低弦にブースト・マイクが置かれており、しかもハイレベルでカッティングされている。このレコードが出た当時のデッカのカッティング・ヘッドはノイマンのSX45であったはずだが、明らかに低域の低次ひずみが存在しており、それがかえって低弦の表現に強烈なダイナミックな効果を添えていたと思う。のちにSX68でリカットされたこの部分は、明らかに低次ひずみが減って音はおとなしくなり、コンサートで聴かれるチェロとコントラバスのユニゾンのフォルテらしい音になっていたけれど、凄まじいまでの迫力は失われていた。
     *
そして14年後の、つまり今回もっていくシカゴ交響楽団との再録については、
こう書かれている。
     *
十四年間の録音系の進歩は、レコードの音質の改善に明らかであるが、ショルティは《復活》の冒頭の低弦を、前回よりもさらに強烈に表現する。低弦に対するマイクは旧録音よりさらに近づけられ、低弦楽器の低次倍音までなまなましくとらえる。
     *
現象としてのマーラーの二番ではなく、
心象としてのマーラーの二番を響かせたい、と考えている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その12)

Vitavoxがvitae vox(生命の音)から来ているのであれば、
Vitavoxで、カザルスを聴きたい、無性に聴きたい。

チェリスト・カザルス、
それ以上に指揮者カザルスの演奏を、Vitavoxで聴きたい、と思うのは、
聴くということは、生きているからできることなのだ、という、
当り前すぎることを、実感させてくれる。

演奏も、生きているから(生きていたから)こそ、
その演奏が録音として残されたわけだ。

故人の演奏であっても、録音の時は生きていた。
生きていたから、演奏がなされたし、残っている。

これも当り前すぎることだ。

でも当り前すぎることゆえに、実感しにくいのではないか。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(その4)

新品のスピーカー、
それも封を切ったばかりのスピーカー、
特に中高域に金属の振動板を採用したスピーカーは、
耳障りな音を出す傾向が、ままある。

特にホーン型は、鳴らし込みが必要だ、といわれてきた。

鳴らし込みはエージングともいわれる。
エージングは、agingである。老化とも訳せる。

鳴らし込みには時間がかかる。
ある意味では、老化といえる。

スピーカーは振動によって音を発しているわけだから、
自らが発する振動によって、エージング(老化)が進むところもある。

スピーカーを構成するあらゆるところがヘタッてくる。
いつしか耳障りな音がしなくなり、音がこなれてくる。

鳴らし込みとは、たしかにそういうものなのだが、
力みを取り去っていくことでもあるように、10年ほど前から感じるようになった。

人と同じで、若いころほど力みがある。
力があり余っているから、ともいえる。

それが歳をとり、力も少しずつ衰えていく。
けれど、一方で力みも消えていくのではないだろうか。

すべての人がそうだとはいわないが、気がつけば力みが少なくなっている、
消えている、ということは、50を過ぎている人であれば、感じているのではないだろうか。

以前できなかったことが、いつのまにかすんなりできるようになっている。
特に練習したとか、そんなことはしていないのに……。

それはおそらく力みがなくなってきたからだ、と私は思っているし、
スピーカーの鳴らし込み(エージング)の肝要な点は、まさにここのはずだ。