Archive for category テーマ

Date: 5月 15th, 2019
Cate: 映画

Alita: Battle Angel(その5)

“STAR WARS episode I”もそうだったけれど、
本編よりも予告編の方が楽しめた、という映画は少なくない。

映画館で予告編を見て、公開されるのを楽しみにして、
いざ映画館で本編となると、観終って「予告編は面白かったのに……」ということが何度もあった。

私にとって、“STAR WARS episode I”は、まさにそうだった。
予告編では、あれだけ期待に胸ふくらませていたのに……、だった。

それほど予告編はよく出来ているものが多い。
すべての見せ場が、予告編に凝縮されていた、というものもあった。

予告編で首を傾げたくなる映画は、たいていそのとおりだった。
期待せずに観て、予告編を大きく上廻っていたというのは、記憶になかった。

それが“GHOST IN THE SHELL”から違ってきた。
“GHOST IN THE SHELL”の原作は、攻殻機動隊であり、
それだけに楽しみにしていた。
予告編の公開も、すぐさま見た。

見て、がっかりもした。
“STAR WARS episode I”の時とは違い、高精細で見られる。
ダウンロードの時間も、ほとんどかからない、といえるほどすぐに見れる。

別項「実写映画を望む気持と再生音(その4)」で書いているように、
“GHOST IN THE SHELL”はIMAXで観た。

予告編では、こんなものか……、と感じていたシーンが、
IMAXで観ると、こんなにもすごいのか、という印象に反転していた。

だから、いまでは予告編で、あれっ? と感じても、
IMAXで上映される映画ならば、観に行きたい、と思うようになった。

“Alita: Battle Angel”も、予告編では、あれっ? と感じていた。
けれど“GHOST IN THE SHELL”での経験がすでにあった。
IMAXでの上映もある。

本編がIMAXで上映されても、本編の前の予告編まではIMAXというわけではない。
でも、そろそろ予告編も IMAXで上映してほしい。

そのくらいIMAXでの上映を前提としている映画の予告編は、
そのおもしろさ、すごさを十分に伝えきれないようになっている、と感じているからだ。

Date: 5月 15th, 2019
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと・その1)

美しい音を聴きたい、とおもっている。
美しい音を聴くためには、美しく聴く、ということが求められている。

美しく聴く、とはどういうことなのか。
このことを自らに問いつづけなくてはならない。

Date: 5月 14th, 2019
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(こんなこともあった、という話・その1)

別項「長島達夫氏のこと(その10・余談)」で書いているKさんのこと。
Kさんの話を聞いて、
しばらく(といっても数ヵ月ではなく、もっと開いていた)したころから、
インターネットでも、CDを、CDプレーヤーで聴くよりも、
パソコンにリッピングしてハードディスクから再生した方が音がいい、
ということが目につくようになってきた。

そのころMacだと、iTunesで聴くよりもQuickTime Playerで聴いた方が音がいい、
そんなことがいわれていた頃だ。

QuickTime Playerだと、1トラックずつしか聴けない。
続けて曲を聴きたい時は面倒なわけだが、それでもQuickTime Playerがいい、と主張する人がいた。

これより私の目に留まったのは、
iTunesは音が悪い、iTunesより○○というアプリケーションで聴いた方が、
ずっと音がいい、というのがあった。

しかも、そこにはiTunesは、AIFFでCDを圧縮せずにそのままリッピングした場合でも、
ビットパーフェクトではない、
○○というアプリケーションはビットパーフェクトだ──、
だから○○の方が音がいい、みたいなことも見かけた。

これには続きがある。
誰かが、どこかがなのかは忘れてしまったが、
このウワサをきちんと検証したサイト(海外のサイトだったはず)があった。

ビットパーフェクトだったのは、○○ではなくiTunesだった。
○○を開発していた会社も、○○がビットパーフェクトではなかったことを認めた。
その後のヴァージョンからは、○○もビットパーフェクトになっている。

何をかいわんや、とはこういう時に使うのだろう。

Date: 5月 13th, 2019
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その4)

ほぼ一年前の(その3)で、
グラハムオーディオからLS5/5は復刻されないものか、と書いた。

書いているけれど、あまり可能性はないと思っていた。
ドイツで開催されていたオーディオショウ、
HIGH ENDでのグラハムオーディオのブースの写真が、
グラハムオーディオのfacebookのページで見ることができる。

そこにはLS5/5の復刻版が写っている。
今日現在、グラハムオーディオのウェブサイトには、LS5/5の情報はない。
けれど、期待していい、と思っている。

写真を拡大していくと細部は粗い。
トゥイーターは、いまのところHF1300(もしくはHF1400)の復刻版ではなさそうである。
LS5/8に採用されているトゥイーターの同じようである。

ユニット配置、コーン型ユニットの取り付け方などはLS5/5を踏襲している。
肝心なのは、その音と音色である。

どうなんだろうか。

LS5/5の資料はBBCのウェブサイトから
The design of studio monitoring loudspeakers Types LS5/5 and LS5/6”が
ダウンロードできる。

ラジオ技術選書「スピーカ・システム(山本武夫 編著)」に、LS5/5のことは載っている。
そのころから気になっていたスピーカーである。

なのでどういう構成のスピーカーなのかは、割と知っている。
それでも、LS5/5は、実物を見たことはない。
当然、音を聴いていないし、周りにきいたことのある人もいない。

グラハムオーディオのことだから、いいかげんな復刻モデルではない、と信じている。
グラハムオーディオのLS5/5、どんな音色に仕上がっているのか。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その8)

測定データは、どこまでいっても解説だ、と私は考えている。
つまり測定データが解釈になることはない、とも考えているわけだ。

オーディオ評論とは解説ではなく、解釈のはずだ、本来は。
ところが現実には解説どまりの、名ばかりのオーディオ評論が多い。

解説はオーディオ評論家の仕事ではないのか、と問われれば、
仕事の一つではある、と答える。

技術は進歩している。
新しい素材や素子が登場してくる。
回路もそうだ。

メーカーは、今回の新技術は……、と謳ってくる。
それは、いったいどういう新技術なのか、新素材なのか、
また、メーカーの謳い文句ははどの程度事実なのかどうか、
それを解説するのもオーディオ評論家の仕事の一つといえば、そうだ。

けれどオーディオ評論家のすべての人たちが解説者である必要はない、とも思っている。
解説者は別にいたほうがいい。

ここで名前を出すべきか迷うところだが、
無線と実験を中心に執筆されている柴崎功氏のことを、
私はオーディオ解説者として捉えている。

私が無線と実験を読み始めた1977年ごろから、
柴崎功氏はメーカーの技術者から、カタログに載っていないことを聞き出しては、
記事を書かれていた。

よくここまで調べられているな、と感心するだけでなく、勉強にもなった。
生意気なことをいうようだけれど、中学生のころから、
柴崎功氏の音の評価については、まったく関心がなかった。

そのころはあまりオーディオ評論家的活動はあまりされていなかった、と記憶している。
いまは無線と実験ではオーディオ評論家の一人である。

無線と実験の巻頭カラーは新製品紹介のページである。
技術解説のページがあり、二人の筆者による試聴記がある。

技術解説のところを、私はすべて柴崎功氏が担当してくれれば、と思う。
現実にはそうはいかなくて、他の方も担当されている。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: audio wednesday

第101回audio wednesdayのお知らせ(Over The Rainbow)

audio wednesdayは、毎月第一水曜日なのだから、
1日から7日のどこかになるわけで、絶対にそれより後になることはない。

つまり6月10日になることは絶対にないわけだ。
ならば6月ということで、今回のテーマは“Over The Rainbow”を聴くにする。

1922年6月10日は、ジュディ・ガーランドの誕生日である。
今年秋には映画「JUDY」が公開される。

だから今回のテーマの一つとして、
“Over The Rainbow”のさまざまなカバーを持ち寄って聴きたい。

私が持っていくのは、“JUDY AT CARNEGIE HALL”である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 5月 12th, 2019
Cate: ディスク/ブック

音の表現辞典

音の表現辞典」(中村明 著・東京堂出版)を今日、書店で見つけた。
ほとんど行くことのない辞典コーナーで、目に留った一冊だった。

ちょうど別項で「タンノイはいぶし銀か」を書いている。
帯には、
《さまざまな音声・音響をどう語り、微妙なニュアンスの差をどう表現してきたのか? 素のはそうやオノマトペ、比喩表現を中心とする数々の工夫の跡をたどる。》
とある。

読みはじめたところで、読み終ったわけではない。
いぶし銀という表現が出てきそうなところに、さっと目を通しただけだが、
残念ながら、いぶし銀と出てこないようだ。

それでも関連しそうなところがいくつある。

「音の表現辞典」を読んだからといって、
優れたオーディオ評論が書けるようになるわけではないが、
読まないのと読んだのとでは、違ってこよう。

「音の表現辞典」には、【透】と【澄】の項目がある。
このブログでは、瀬川先生が、透明よりも澄明をよく使われいてることを取り上げている。

ステレオサウンド 210号を見ていたら、
山本浩司氏によるメリディアンの218の新製品紹介文のなかに、
この澄明が使われている。

《プライスタグが信じられない切れ味のよい澄明なサウンドを聴くことができ》
とある。

ここでの試聴ディスクは、MQA-CDのようであり、
MQA-CDの音は、確かに透明と書くよりも、澄明と表現したくなるよさがある。

「音の表現辞典」の【澄】のところには、こうある。
     *
 三島由紀夫の『金閣寺』には、「金閣、この不均整な繊細な建築は、濁水を清水に変えてゆくような濾過器のような作用をしていた」と、金閣という建築を「濾過装置」に見立てた奇妙な比喩表現が現れ、次いで、「人々の死後のぞめきは、金閣から拒まれはせずに、吹き抜けのやさしい柱のあいだへしみ入って、やがて一つの静寂、一つの澄明にまで濾過された」と展開する。
     *
【透】のところからも引用したくなるが、
興味のある方は、ぜひ「音の表現辞典」を手にとってほしい。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その1)

このごろ芽ばえてきた感覚として、なにかに呼ばれてきたのか、というのがある。
そんな気がするというだけであって、なにに呼ばれているのか、はっきりとしない。

それでも呼ばれていた、呼ばれてきたのだろうと思うようになっている。
それがなんなのか、おそらくわからないであろう。

ただそんな気がしている、というだけのことだ。

Date: 5月 11th, 2019
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その58)

オーディオの想像力の欠如は、オーディオにおける思考、経験の空白を埋められない。
埋められないことで生じるものがある。

Date: 5月 9th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、パヴァロッティのこと

MQAのサイトのニュースのページに、こうあった。
     *
MQA Format Versatility

Decca Records, the iconic British label celebrating its 90th anniversary this year, has collaborated with MQA on a masterpiece project “Luciano Pavarotti Life in Art”. MQA worked closely with Decca to deliver the legendary tenor’s complete catalogue, including previously unheard recordings, in pristine MQA audio. The files are presented as a limited edition ‘digital box set’ on an Onkyo digital audio player – available for Munich demos – in a bespoke handcrafted wooden case, alongside several ‘money can’t buy’ related experiences and artefacts.
     *
2月14日、別項「Hi-Resについて(ユニバーサルミュージックのMQA)」で、
パヴァロッティがMQAで聴けるようになったことを紹介した。

それでもすべてのパヴァロッティの録音がMQAで聴けるようになったわけではない。
今回のMQAとデッカのコラボレーションの詳細はいまのところ不明だし、
私の英語力はあやしいレベルなのだが、
それでも“complete catalogue”とあるのだから、すべてのパヴァロッティの録音なのだろう。
それがMQAで聴けるようになる。

もう何度も何度もくり返しているが、
MQAで聴く人の声(歌)はほんとうに素晴らしい。

デッカもMQAもよくわかっている、とおもうのは、
パヴァロッティだから、である。

bespoke handcrafted wooden caseとは、これであろう。

Date: 5月 8th, 2019
Cate: ちいさな結論

評論(ちいさな結論)

いい悪いではなく、
好き嫌いさえ超えての
大切にしたい気持があってこその評論のはずだ。

Date: 5月 8th, 2019
Cate: ジャーナリズム

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その9)

わかりやすさを求めることの弊害、
それを提供する弊害について考えていると、
わかってもらえている、という思い込みがあるような気がしてくる。

誰かにわかってもらいたい──、
こんなに努力しているのに、
こんなにさまざまな知識を身につけているのに、
なのに誰も(自分を)評価してくれない、わかってくれない──。

何を発言する、何かを行動する。
けれど周りの反応が薄いか、返ってこない。
どこか冷たい視線のようなものすら感じることがある。
いたたまれなくなってくる。

そんな場からは足が遠のいていく。

そういう場もあれば、
何か発言すれば、何か行動すれば、
すごいですね、とか、教えてください、とか、
そんな反応が周りから返ってくる場がある。

どちらの場を選ぶか。
ほとんどの人が後者の場を選ぶだろう。

けれど──、と考える。
ほんとうに前者の場の人たちは、そういう人たちなのか、と。
そして後者の場の人たちは、表面的に、そういう反応をしているだけではないのか、と。

前者の場は、いたたまれなくなるだろう。
それでも、ほんとうにその場にいる人たちは、あなたをまったく見ていないのか。
実は、きちんと見てくれているのかもしれない。
あなたはとても未熟なのかもしれない。
その上で、あまやかすことなく、突き放すような態度をとっているのかもしれない。

後者の場は、居心地はいいだろう。
それはほんとうの意味での居心地のよさなのか。
ぬるま湯にいつのまにかどっぷり浸かってしまっていた、
しかもそのぬるま湯は、ひどく濁っているのかもしれない。

なのに、わかってくれている──、そういう思い込みがあって、
わかってほしい、という欲求から、
前者の場を離れて後者の場を選んでいたら……

どちらを選ぶかは、その人の自由である。

Date: 5月 7th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その24)

5月4日は、写真家の野上眞宏さんから「来なよ」と誘われていた飲み会の日だった。
行くつもりでいた。

けれど夕方、雹が振ってきて、さらに大変なことになっていた。
こんなことが起るの? といいたくなることが起っていた。

それがおさまって後片づけをしながら、
「しまった、動画をとっておけばよかった」と悔やんだけれど、
その時はそんな余裕はまったくなかった。

行けないな、と思っていた。
けれど、とりあえずなんとかした。
なんとかなれば、行こう、という気が起きてくる。

行くことにした。
片づけは完全には終ってなかったけど、行くことにした。

18時集合だったけれど、一時間ほど遅れて到着した。
私を含めて十一人集まっていた。
大半が初対面の人たち。

行ってよかった、と思った。
以前の私ならば、大変なことが起った時点で、
完全に行く気を失っていたし、取り戻すこともなかっただろう。

でも元号も令和になったし、という、どうでもいい理由をつけて、出掛けていた。

この日は日付が変る直前まで盛り上っていた。
終電の関係でお開きになったけれど、電車の心配がなければもっと遅くまで続いていたはず。

集まった人たちはみな濃かった。
こういう人たちに囲まれていると、自分の薄さを感じる。
(私は)狭い世界で生きているよなぁ……、とわかっていることを実感する。

だからこそ楽しいし、
オーディオをずっとやってきたからこそ、この場に参加できていることも実感していた。

Date: 5月 6th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、ボブ・スチュアートのこと

MQAとボブ・スチュアート。

ボブ・スチュアートのサイトがあるのを今日知った。
BOB TALKSという。

英語のサイトである。
なのでボブ・スチュアートは、Bob Stuartと表記されている。
いまになって気づいた。

スチュアート(Stuart)は、artで終っていることに。

BOB TALKSに、こう書いてある。
“High resolution is an experience, not a specification … ”

Date: 5月 6th, 2019
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その1)

大久保に、spicy curry 魯珈(ろか)という店がある。
カレー店である。

私が、魯珈を知ったのは、たまたま前を通ったときで、開店してそう経っていない時だった。
この時は並ぶことなくすんなり食べられた。

でも、その直後にテレビで紹介されたようで、行列ができるようになった。
食べれば、行列ができるのも納得する。

二回目も、運が良かったのかすんなり食べられた。
でも三回目は行列(といってもそれほど長くはなかった)だった。

これが2017年のことだ。
2018年は一度も食べていない。

2018年1月に、テレビ番組の情熱大陸で店主が登場してからは、行列はすごくなった。
並ぶ気も失せるほどに長くなっていた。

2018年は一度も行っていないのでどうなのか知らないが、
2017年は、店主(女性)一人でやっていた。
店も狭い。大勢が一度に入れる店ではない。

期間限定のカレーもあるから、また行きたい(食べたい)と思っていても、
2019年も難しそうである。

魯珈のカレーは美味しい。
東京都内にどれだけのカレー店があるのか知らない。
魯珈と同じくらい美味しい店もあるだろうし、
魯珈も美味しい店かあっても不思議ではない。

それでも魯珈のカレーをまた食べたいとおもうのは、
食べてみればわかることなのだが、
店主のカレーが大好きという感情が伝わってくるようなところがあるからだ。

美味しいだけではない、
食べていて、変な表現だが嬉しくもなってくる。

これはなんだろう、なぜなんだろう、と思っていた。
ここで魯珈のことを書こうと一年くらい思っていた。