Archive for category テーマ

Date: 10月 31st, 2019
Cate: 映画

ジェミニマン(その1)

映画「ジェミニマン」を観に、さいたま新都心駅近くにあるMOVIXさいたまに行ってきた。

わざわざ埼玉にある映画館にまで足をはこんだのは、
関東では、ここでしか120fpsのハイフレームレートの上映は行っていないからだ。

TOHOシネマズ日比谷もハイフレームレートで「ジェミニマン」を上映しているが、
60fpsである。
それでも通常の映画が24fpsなのだから、十分にハイフレームレートとはいえるけど、
それでもその二倍の120fpsで上映しているところがあれば、やはりそこで観たい。

これから先、120fpsでの上映が一般的になるのであれば、
それまで待つのも考えるが、そうすぐにはなりそうにない。

監督のアン・リーにいわせると、
「ジェミニマン」の理想の上映は、
4K/3D/HFR(High Frame Rate)であり、
これを満たす映画館はアメリカにもない、とのこと。

日本では埼玉県のMOVIXさいたまの他に、
大阪府の梅田ブルク7、福岡県のT・ジョイ博多が120fpsでの上映である。

アン・リー監督によれば、
4K/3D/HFRは、人間の目で見る感覚の再現だ、そうだ。

観れば、それが実感できる。
映画は内容だ、といって、
この手の映画を敬遠する人がいるのはわかっているが、
それでも映画を映画館で観るのが好きな人ならば、
120fpsのハイフレームレートでの上映を体験してほしい、
というよりも、体験すべきだ、といいたい。

Date: 10月 30th, 2019
Cate: audio wednesday

第106回audio wednesdayのお知らせ(比較試聴)

一週間後の水曜日は、audio wednesdayであるにも関らず、
まだ何をやるか、ほとんど決めていない。

やりたいことは常にいくつかあっても、
それらがやれるとはかぎらないわけで、
いまやれることとなると……、が現実である。

今回はテーマも決めていない状態なので、
何の準備もしていない。

ひとつ考えているのは、メリディアンの218を使っての比較試聴である。
何を比較試聴するのかは書かない。

あまり変らない、と思われるかもしれないし、
比較試聴するモノ自体の違いよりも、音は大きく違って鳴るのかもしれない。

詳細を何を明かさない比較試聴である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 30th, 2019
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦(その2)

ステレオサウンド 54号の特集の座談会のなかで、
ブリランテという固有名詞が出てくる。
     *
瀬川 黒田さんの言葉にのっていえば、良いスピーカーは耳を尾骶骨より前にして聴きたくなると同時に、尾骶骨より後ろにして聴いても聴き手を楽しませてくれる。それが良いスピーカーの一つの条件ではないかと思います。現実の製品には非常に少ないですけれど……。
 そのことで思い出すのは、日本のスピーカーエンジニアで、本当に能力のある人が二人も死んでしまっているのです。三菱電機の藤木一さんとブリランテをつくった坂本節登さんで、昭和20年代の終わりには素晴らしいスピーカーをつくっていました。しかし藤木さんは交通事故、坂本さんは原爆症で亡くなってしまった。あの二人が生きていて下さったら、日本のスピーカーはもっと変っていたのではないかという気がします。
菅野 そういう偉大な人の能力が受け継がれていないということが、非常に残念ですね。
瀬川 日本では、スピーカーをつくっているエンジニアが過去の伝統を受け継いでいないですね。今の若いエンジニアに「ブリランテのスピーカーは」などといっても、キョトンとする人が多い。古い文献を読んでいないのでしょうね。製品を開発する現場の人は、文献で知っているだけでなく、現物を草の根分けても探してきて、実際に音を聴いてほしい。その上で、より以上のものをつくってほしいと思うのです。
 故事を本当に生きた形で自分の血となり肉として、そこから自分が発展していくから伝統が生まれてくるので、今は伝統がとぎれてしまっていると思います。
黒田 たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。
 そういったことさえなく、次から次へ新製品では、伝統も生まれてこないでしょう。
     *
これを読んでから、ずっとブリランテが気になっていたし、
ブリランテのことを少しでも知りたい、と思っていた。

1997年にインターネットをやるようになってから、
これまでに何度か「ブリランテ」で検索したことがある。

けれど何もヒットしなかった。
ブリランテのスピーカーが、いったいどういうモノだったのか、
ユニットの口径以外は、ほとんど知りようがなかった。

「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」には、ブリランテのことが載っている。
初めて写真を見た。しかもカラー写真である。

「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」も売れてほしい。
「スピーカー技術の100年III」が出てほしいからである。

Date: 10月 30th, 2019
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(映画とテレビ)

テレビが登場したばかりのころを描いたドラマでは、
テレビの箱の中に小さな人がいて、演じていると思っていた、というシーンがあったりする。

笑い話なのだが、
実際にあったことなのだろうか、とも思うことがある。

すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに思ってしまう。

このことは二年以上前にも書いている。
その時は考えもしなかったことなのだが、
映画はスクリーンに映される。

つまり、当時の人たちは、
映画を連続した写真がスクリーンに映し出されるものとして捉えていたのではないか、
そんなことを考えているし、
そんなふうに考えていると、映画にとって重要というか、
映画っぽさをつくり出している要素の一つとして、コマ数があるようにも思えてくる。

無声映画のころは、16fpsだった。
トーキーになってしばらくして24fpsになっている。
いまも24fpsのままである。

Date: 10月 29th, 2019
Cate: ディスク/ブック

静寂から音楽が生まれる

静寂から音楽が生まれる」は、
アンドラーシュ・シフのインタヴューとエッセー集である。

アンドラーシュ・シフは、素晴らしいピアニストだと想っている。
デッカ時代に録音したバッハを聴いて、そう思った。

20代のある時期、シフのディスクをよく聴いていた。
なのにある時からスパッと聴かなくなってしまった。

1990年代は、まったく聴かなくなっていた。
シフを再び聴くようになったのは、
ある人から、誕生日プレゼントといわれ、
シフのゴールドベルグ変奏曲のCDをもらったからだ。

レーベルはECMになっていた。ジャケットもデッカ時代とはまるで違う。
十数年ぶりに聴いたシフは、やはり素晴らしいピアニストだった。

それからしばらくはシフの、ECMでのライヴ録音のディスクが出るのが楽しみだった。
パルティータもよかった。
ベートーヴェンのピアノソナタがはじまった。

後期のソナタが出るのが、ほんとうに待ち遠しかった。

「静寂から音楽が生まれる」。
ECMの録音で聴けるアンドラーシュ・シフの演奏は、
まさにそういいたくなる。

そうなのだが、シフのディスクをパタッと聴かなくなってしまっている。
また20代のころと同じことになっている。

なぜなのか、自分でもよくわからない。
「静寂から音楽が生れる」を読めば、なにかつかめるのだろうか。

Date: 10月 28th, 2019
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その3)

強化ダンボールとはいえ、スピーカーユニットを支えるだけの強度はない。
10cm口径程度のフルレンジユニットであれば、支えられるだろうが、
38cm口径の同軸型ユニットを想定しているだけに、
それだけの重量をバッフル板で支えようとは、最初から考えていない。

アルテックの755E+ダンボール平面バッフルの時もそうだったが、
ユニットはダンボール・バッフルには取り付けていない。

ユニットの後を友人に支えてもらって、
さらにダンボール・バッフル板も持ってもらっての音出しだった。

つまり左右スピーカーに一人ずつ、
聴く人一人、最低でも三人は必要となる音出しである。

そこでは精緻な音場感とは期待しないでほしい。
けれど気持のいい音がした。
鳴りっぷりのいい音、響きであった。

楽しい音がしていた。
だからこそ、いまでもたまには聴きたい、と思うことがある。

強化ダンボールを複数枚使っての大型平面バッフルは、
だからユニットは角材三本を使っての支持方法をとる。

あくまでもダンボール・バッフルは、
ユニットの前後の音を遮るための役割だけで、
ユニットフレームとは接触するかしないかぐらいにする。

同軸型ユニットは、通常のユニットよりも、奥行きがあるし、
その分後方に重心が移動することにある。

そういうユニットを、これまではフロントバッフルだけで支えていたわけだ。
自作マニアの中には、ユニットの磁気回路を何かで支えていたりするだろうが、
多くは、あれだけの重量をもつ構造体が、いわば片持ち状態となっている。

Date: 10月 27th, 2019
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その2)

本格的な平面バッフルの実現には、それだけの広さのリスニングルームが必要となる。
なので実用的なサイズの平面バッフルというのを、
以前から考えてきているのだが、
それでも一度は2m×2mの平面バッフルの音を聴いてみたい。

きいたことがないわけではない。
聴いている。
いい音だった。

だから、なんとか実現したい、という気持はずっと持っている。
audio wednesdayで、平面バッフルをやりたい、と考えているのもそういうことからである。

喫茶茶会記のスペースがあれば、2m×2mの平面バッフルを、
なんとかすれば設置できなくもない。

バッフルを分割式にして、部屋で組み立てる。
そうすればなんとか実現できる(金銭的なことは抜きにして)。

問題は、その後である。
2m×2mの平面バッフルを、どうするか。

そのまま喫茶茶会記に置いておけるのならば、
やる気は急に出てくるものだが、そういうわけにはいかない。

結局処分するしかない。
処分するのにも費用は発生する。

このあたりが、平面バッフルをaudio wednesdayでやる上でのいちばんのネックとなる。

先日、東急ハンズに行ったら、強化ダンボールが売っていた。
いままでなかった商品である。

これを見て触っていて、
これで平面バッフルを作ろうかな、と思いはじめている。

別項「素朴な音、素朴な組合せ(その8)」で書いているように、
ずっと以前にアルテックの755Eをダンボール製平面バッフルで鳴らしたことがある。

気持ちのいい、その時の音はいまも、機会があればまた聴きたい、と思うほどだ。
この経験があるから、強化ダンボールによる平面バッフルを考えている。

Date: 10月 27th, 2019
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その38)

私が高校生のころ使っていたダイレクトドライヴ型は、
国産の普及クラスの製品で、私にとって、初めてのダイレクトドライヴ型でもあった。

ある日、ターンテーブルプラッターを外して、モーターを廻してみたら、
センタースピンドルが、カクカクした感じで回転している。
いわゆるコギングである。

スムーズに回転しているものだとばかり思っていたから、
このコギングは、かなり衝撃的だった。

ターンテーブルプラッターの慣性を利用して、
結果としてはスムーズに回転している、という説明をその後すぐに知ったけれど、
肝心の回転が、こんなにカクカクしていて、ほんとうに問題ないのか。

それになぜ、センタースピンドルでターンテーブルプラッターに回転を伝えているのかも、
これまで書いてきているように、非効率のように思えた。

この普及クラスのダイレクトドライヴ型プレーヤーのせいで、
私のダイレクトドライヴ型に対する不信感は、一拠に大きくなった。

パイオニアのPL30、50、70、
それにExclusive P3が登場する前のことだ。

パイオニアが、このころ採用したSHR(Stable Hanging Rotor)方式の解説図、
これを見てダイレクトドライヴ型のすべてがセンタードライヴでないことに気づいた。

SHR方式を理解しようとして、まずつまずいたのが、
ダイレクトドライヴ・イコール・センタードライヴという思い込みだった。

それでどうやってSHR方式を実現できるのだろうか、とけっこう考えたものだった。
カタログに載っていた図を見て、なんだぁ、と気づいたわけだが、
おかげでセンタードライヴではないダイレクトドライヴ型に気づけた。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(その3)

「音で遊ぶ」オーディオマニアなのか、
「音と遊ぶ」オーディオマニアなのか。

少し前に、自己模倣という純化の沼ということを書いた。
このことも、「音で遊ぶ」なのか「音と遊ぶ」なのかについて関係しているように感じている。

いまのところ、
「音で遊ぶ」人は、どうも自己模倣に陥りがちなのではないのか。

その2)で、デコレートされた(よく)と書いた。
このデコレートされた(よく)こそが、自己模倣によって生じた純化という沼なのか。

そして、その沼で「音で遊ぶ」。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: オーディオの科学

閾値(その4)

この項の(その1)でやったことは、
そうとうにオカルトと批判する人はけっこういるように思う。

音は、audio wednesdayに来ていた人全員の耳で確認してもらった。
明らかに音は変化する。

これで変化するのか、
しかもここまで変化するのか、と試してみた本人の私が、
少々驚くほどだ。

その3)で常連のHさんが自宅のシステムで試されたことも書いている。
ここでも、音の変化ははっきりとあらわれただけでなく、
奥さまの耳にも、その変化は聴きとれた、とのこと。

パリ管弦楽団の副コンサートマスターの千々岩英一氏のツイートを、
Hさんが教えてくれた。

そこには、私がaudio wednesdayでやったことと同じと思われることを、
ヴァイオリンで試されている。

千々岩氏のツイートには、
《仕組みはよくわかりませんが、音が少し輝かしくなったような気がしなくもないです》
とある。

Date: 10月 26th, 2019
Cate: 情景

富士山は見飽きないのか(その2)

夏がようやく終って、富士山が見える日が増えてきた。
今日は神奈川県の寒川町のあたりに夕方いた。

クルマの中から見えた富士山が、
いままでに見たことのない富士山だった。

夕方は曇り空だった。
富士山の中腹ほどには雲も多かった。

風の強い晴天の日に見ることの出来る富士山とは、
正反対の趣の富士山であった。

おそらく東京からでは見なかったであろう。

なんといったらいいのだろうか、
藍色を主とした水墨画のようでもあったし、
使う色を極力抑えた日本画のようでもあった。

高解像度の写真のようにディテールがはっきりしているわけではない。
むしろぼやけている。

それは写真のようではなく、絵画的だった。
こういう富士山の表情があったのか、と思った。
初めて見た(感じた)富士山の美しさがあった。

今日の富士山はもう二度と見れないかもしれない。
それにしても、富士山は見飽きないのか。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その15)

いい音が鳴ってきた、と思う時がある。
オーディオマニアなら、誰にでもあろうことだ。

そういう時に愛聴盤、
それもとっておきの愛聴盤を、それこそ満を持してかける。

いい音よりも、もっともっと上の素晴らしい音で愛聴盤が鳴ってくれる──、
そういう期待がもう膨らみに膨らんでいる。

にも関らず、鳴ってきた音楽はすかすかだったりすることがある。
音は悪くないどころか、いい音ではある。

なのに音楽が、愛聴盤でこそ聴きたい音楽がすかすかとしか、
他に表現のしようがないほどに、なんら響いてこない。

虚しく、あちら側で鳴っている──、
そんな感じしかしない。
音楽に感動する、とか、そんなこと以前に、
かなしくなってしまう。

そういう時も「音は人なり」である。
そこで鳴ってきた、これまで大切にしてきた音楽がすかすかにしか鳴らないということは、
鳴らしている己がすかすかでしかない、ということを、
否応なく正面からつきつけられる。

どこにも逃げようがない。
愛聴盤をかけるまでは、素晴らしい音に仕上がった、と思っていただけに、
よけいに惨めさを味わうことになる。

そんな時に慰藉してくれる愛聴盤がまったく響いてこないのだから、
どこにも逃げ場はない。

「音は人なり」は容赦ない。
その容赦なさに、だまって耐えるしかない。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その2)

音楽をオーディオを介して聴いていると、
ふと、他に誰もいないのではないか、という錯覚に似た気持になることがある。

スピーカーから鳴っている音楽を演奏している人がいる。
そして、それをスピーカーの前で聴いている私がいる。

この二人以外、誰も世の中に存在していない──、
わずかな時間ではあるのだが、そう感じる、というよりも、
それに気づくことがある。

気づく、というのも変な表現だ。
実際に、外に出れば人は誰かしらいるし、
隣近所の建物には誰かが住んでいるわけなのだから。

東京のように人口密度が高い都市では、隣の家との距離も近い。
半径百メートルにどれだけ多くの人が住んでいるのか。

にも関らず、いま独りだ、と気づくことが、
スピーカーからの音楽を聴いていて、ときどきある。

この気づく瞬間が好きなのかもしれない。
この気づく瞬間があるからこそ、ながくオーディオをやってきているのかもしれない。

昨日もあった。
昨日は、野上さんのところで、野上さんと聴いていての気づきだった。
野上さんが私の前にいて、音楽を聴いている。

独りだ、と気づいたし、あっ、独りと独りだ、とも気づいた。
野上さんのところは線路から近い。

電車の走る音によって、
そうだ、野上さんの家の周りには、多くの人が歩いていたり、話していたり、
テレビを見ていたりしているわけだ。

電車の音も、聞こえていたはずなのに、
電車の音に気づくのもけっこうな時間が経っていた。

その電車には多くの人が乗っている時間帯なのに、
なんだか誰も乗っていない電車が走っている感じもしていた。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: オーディオマニア

平成をふり返って(その7)

個人情報の保護ということがいわれるようになってから、
病室の入口に、入院している患者の名前のプレートが消えていった。

私が入院していたころは、
どの部屋にどんな名前の人が入院しているのは、
部屋の前を通れば、誰でも知ることが出来た。

個人情報の保護という点では、ネームプレートをなくしたことは間違っていない。
けれど、一方で、患者の取り違えをなくすために、
患者本人に名前をフルネームで、さらに生年月日までいわせるようになっている。

こうすれば患者の取り違えは、まず起らないだろう。
でも、看護婦が患者に、病室の前の廊下で、名前と生年月日をきいているのは、
そばを通っている人の耳には、はっきりと聞こえたりする。

フルネームと生年月日が、第三者に情報が漏れてしまっている。
これで個人情報の保護を行っているつもりなんだろうか。

これがとある大学病院でのことである。
このちぐはぐさはなんだろう、と思う。

個人情報は保護しなければならない、
患者の取り違えは絶対に無くさなければならない。
この二つの重要なことの両立が、
私がたまたま訪れた大学病院ではできていなかった。

(その6)で書いている、昼間でもカーテンを閉めきって、
病室が暗くなっていることも、
入院患者の一人一人が、なんとなくではあるが、
個人情報の保護とプライバシーの確保ということに、
ずいぶん神経質になっているためなのだろうか。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、カセットテープのこと(その6)

218で聴くmp3の音について考えていて思い出すのが、
モーツァルトのレクィエムの補筆に関してのことだ。

五年ほど前に「ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)」で書いている。

私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっているわけだ。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。
未完成なのだから、それは仕方ない。

モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。

補筆のところになった途端に、音楽的差違の激しさにがっかりする演奏がある。
補筆が始まったとわかっても、モーツァルトのレクィエムとして、
最後まで聴ける演奏もある。

そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──
という考えに立てば、前者がハイ・フィデリティな演奏ということになる。

そんなことはわかっている。
でも、そういうモーツァルトのレクィエムを聴きたいのか。
補筆が加わる前で、レクィエムは止める、という聴き方もある。

それがモーツァルトのレクィエムとしての正しい聴き方とは思う。

それでも、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持がある。
そうすると音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。

218でmp3の音の、カセットテープ的な音は、
モーツァルトのレクィエムでいえば、後者の演奏的といえる。