Archive for category テーマ

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その3)

e-onkyoで、
“André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958”の配信は、
2018年に開始になっている。

でも、そのころはMQAのことは知ってはいても、まだ聴いていなかった。
e-onkyoの存在は知っていても、アクセスすることはなかった。

2019年秋に、メリディアンのULTRA DACを聴く機会があった。
このとき、はじめてMQAの音を聴いた。
このときのことは別項で書いているので、ここではくり返さないが、
そのときの昂奮はいまも続いている。

ULTRA DACの日からほぼ一年後に、218で自宅でもMQAの音を聴けるようになった。
そうなるとe-onkyoへのアクセスが、日課のようになってきた。

いまではほぼ日課といってもいいぐらいだ。

クリュイタンスのモノーラル録音のCDボックスがMQAで配信されているのに気づいたのは、
昨年の終りちかくだった。
フォーレのレクィエムのモノーラル録音が、MQA(96kHz、24ビット)で聴ける。

このことの嬉しさを、どれだけの人がわかってくれようか。
そうおもいつつも、一人でも多くの人が、クリュイタンスのレクィエムのモノーラルのほうを、
MQAで聴いてくれるようになったら、ともおもう。

第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)だけでもいい。
オーケストラがソプラノ独唱によりそうように奏でる三分ほどの、
この短い曲を、MQAで聴いてみるといい。

マルタ・アンジェリシというソプラノ歌手を、
クリュイタンスのモノーラルのレクィエムで知った、というよりも、はじめて意識した。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その2)

フォーレの作品にかぎったことではないが、
レクィエムと呼ばれる作品は、あれこれ聴き比べするようなものではないと感じている。

よりよい演奏を求めて、発売される録音をできるかぎり集めて聴いていく──、
クラシックの聴き手としての、その楽しみは十分わかっているつもりだ。

それでもレクィエムだけは、であえた録音(演奏)だけでいいのではないだろうか、
最近はとくにそうおもうようになってきた。

フォーレのレクィエムは、これまでクリュイタンスのモノーラルとステレオ、
それからジュリーニの三枚だけしか買っていない。

これら以外の録音(演奏)はもちろん聴いている。
友人・知人のところで聴いている。
それでもいままで聴いたフォーレのレクィエムは、十指に満たないかそのぐらいでしかない。

ほとんど聴いていないに等しいではないか、といわれれば、そうである、と認めるしかない。
でも、それでいい、と正直なところおもっている。

これら三枚のディスク、
もっといえばクリュイタンスのモノーラルのほうとジュリーニがあれば、ともおもう。

クリュイタンスのステレオ録音のほうはSACDにもなっている。
エソテリックとEMIから出ていた。

モノーラル録音のほうは、テスタメントによる復刻もあるが、通常のCDでしかなかった。

二、三年前にクリュイタンスのモノーラル録音のボックスCDが、65枚組で出た。
オリジナルのマスターテープから96kHz、24ビットでマスタリングがなされた、とあった。

そのころから期待はしていた。

Date: 2月 2nd, 2020
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(iPhone+218・その1)

2月5日のaudio wednesdayは、
CDプレーヤーを使わずに、iPhoneとメリディアンの218を使う。

私はiPhoneを持っていくが、
ほかの方がandroidのスマートフォン、Raspberry Pi、
ノート型パソコンなど、CDプレーヤーを必要としない音出しが可能なモノの持ち込みは自由である。

iPhoneは音楽再生専用機ではない。
ポータブル型ということにこだわっても、専用再生機を選んだ方が、
音はよくなる可能性があるのはわかっている。

それでも、あえてiPhoneにこだわっているのは、
アンチテーゼとしての「音」なのかもしれない。

Date: 2月 2nd, 2020
Cate: オリジナル

冒瀆か(その3)

冒瀆ということでいえば、
私がメリディアンの218に手を加えてくることも「冒瀆だ」といいたい人はきっといよう。

以前も書いていることのくり返しになるが、
そういう人が、まったく手を加えていないのかというと、決してそうでないことが多い。

電源コード一本交換しても、それは手を加えていることである。
でも、それを認めない人が、私がやっていることを「冒瀆だ」というのだから、
あれこれいっても無駄だ、という気もしてくる。

これもくり返しになるが、218に関して、ハンダゴテは一度も使っていない。
元の状態に戻すことは十分程度でできる。

元に戻してしまえば、メリディアンの人が中を見ても、手を加えた痕跡は見つけられないはず。

だからといって、私がやっていることは、全く冒瀆にはならない、とまでは考えていない。
218の開発者が「冒瀆だ」といえば、それはすんなり受け入れよう。

けれど受け入れながらも、
手を加えた218とノーマルの218とを比較試聴してほしい、という。

音を聴いたうえで、冒瀆かどうかを判断してほしいからだ。
そのうえで、やはり「冒瀆だ」といわれれば、冒瀆である。

それを認めたうえで、では218をどうするか、といえば、元に戻して使うわけではない。
手を加えた218で、これから先も聴いていく。

私のなかには、手を加えた218を聴いた後で、
ノーマルの218のままで音楽を聴いていくことこそが、
音楽に対する冒瀆のような感じるところがあるからだ。

Date: 2月 2nd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その3)

TOKYO AUDIO BASE 2020の会場に着いて、
最初に入ったブースはほぼ満席だった。
座れるところは空いてなかったので、後方で立って聴いていた。

座っている人のなかに、気になる人がいた。
音が鳴っているときに、両手を耳に後にあてている。

手の大きさの分だけ外耳が大きくなるのと同じだから、
聴こえもよくなるわけだが、この人は自宅でもそうやって聴いているのか。
だとしたら、腕が疲れないのだろうか。

そんなよけいな心配をしていたのだが、よく見ると、
どうも手で耳をなかば塞いでいるようなのだ。

そのブースでの音量は、こういうオーディオショウでは大きくも小さくもない、と感じるくらいだった。
私は後方にいたし、その人は前列のほうだった。

多少離れていたとはいえ、その位置でも大きな音量とはいえない。
ただ、これはあくまでも私の感じ方であって、
耳を塞ぎ気味で聴いていた(と思われる)人にとっては、それでも大きすぎたのかもしれない。

すべての人にちょうどいい音量の設定は、まず無理である。
人には、それぞれ許容範囲がある。
その範囲内におさまっていれば、不満はほとんど出ないであろう。

それでも許容範囲が広い人もいれば狭い人もいるはずだ。
聴いている人に配慮した音量設定はできない、と考えるものだ。

結局、鳴らす音楽に配慮した音量設定をするしかない。
そうなると、あのブースでの小さすぎる音量での「THE DIALOGUE」は、
誰に対して、何に対しての配慮のもとでの音量設定だったのか。

Date: 2月 2nd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その2)

TOKYO AUDIO BASE 2020でのこと。

来場者の一人が、菅野先生録音の「THE DIALOGUE」を持参して、
各ブースでかけて聴かれていたようだった。

ネットワークジャパンのブースを出る時に、
「このディスク、かけてもらっていいですか」とスタッフに訊ねていた。

私は次のブースに行きたかったので、
そこでの「THE DIALOGUE」がどんなふうに鳴ったのかは聴いていない。

次に入ったブースで二曲ほど聴いたところで、
「THE DIALOGUE」が鳴りはじめた。

さきほどの人が、ここでもリクエストしての「THE DIALOGUE」だった。

それにしても、音量が小さすぎる。
「THE DIALOGUE」を、こんな音量で聴いても……、と心の中でつぶやいていた。

そのブースのスタッフが、「音量は、このくらいでいいですか」と持ってきた人にきいていた。
「もう少しあげてください」との返事。

もう少しだけ、音量はあがったけれど、
それでも私としてはあまりにも「THE DIALOGUE」には小さすぎると感じる。

あまり大音量だと、ほかの来場者の迷惑になるかも、という心配(配慮)もあってかもしれない。
それでも、こういうオーディオショウなのだから、
ふだん自宅では鳴らせないような音量での再現を、
「THE DIALOGUE」を持参された人は望んでいたのかもしれない。

そのへんのことを訊ねたわけではない。
その人は、私が不満に感じた音量に満足されていたかもしれない。

オーディオショウでは不特定多数の人が集まる。
そこでの音量設定は難しいといえばそういえる。

けれど……、とも思う。

Date: 2月 1st, 2020
Cate: アクセサリー

D/Dコンバーターという存在(その5)

TOKYO AUDIO BASE 2020に行った帰りに、秋葉原に寄ってきた。
特に目的はなかった。
ぶらぶらして、ある部品店に入った。

USB A(オス)-USB B(オス)変換コネクターがあるかな、と思ってのことだった。

iPhoneとメリディアンの218を接続するに、
Lightning-USBカメラアダプタとD/Dコンバーターを結ぶUSBケーブルがいる。

いままでは、20cmほどの短いケーブルを使っていた。
ここのケーブルをあれこれ試してみるのは面白いだろう、と思う反面、
ケーブルをなくしたい、と思っていた。

USBの変換コネクターがあるはずだ、と気づく。
amazonで検索してみると、あった。
即注文しようとしたけれど、秋葉原に行ったときにでも、
部品店をのぞいてみよう、と思いなおした。

販売店で買いたいモノをチェックして、amazonで購入という人が増えている、と、
もう十年以上前から耳にするようになった。

amazonのほうが安いことが多いからだろうが、
すべての商品がそういうことではない。

今回のUSB変換コネクターは、amazonの半額以下で秋葉原で売られていた。
安価なモノだから、半額以下といっても差額は数百円である。

たった数百円のために、わざわざ秋葉原まで行くのか。
今回はついでの用事があったし、秋葉原に行けば、目的以外にも楽しめることはけっこうある。

と、ここまでは無駄話である。
USBケーブル(数千円した)から変換コネクターに換える。

予想できたこととはいえ、音の違いは大きかった。
USBケーブルは、オーディオ用ということで、端子は金メッキが施されている。

変換コネクターは安価なモノゆえに、そんなことはなされていない。
安っぽい、といえばそうだ。

でも大事なのは、音である。

それにしてもiPhoneとD/Dコンバーターを結ぶ、わずかなこの部分による音の違いは、
カートリッジのシェルリード線の音の違いによく似ている、と感じる。

Date: 2月 1st, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その1)

TOKYO AUDIO BASE 2020に行ってきた。

ネットワークジャパンのブースで、
ギターのライヴ演奏とMQA-CDを鳴らすという企画に興味があったためだ。

ネットワークジャパンのブースでは、
スピーカーシステムはクアドラルのAURUM TITAN 9、
CDプレーヤー、アンプはラックスで、
MQA-CDの再生のためにメリディアンのULTRA DACが加わる、というラインナップ。

ギターの演奏は、井上仁一郎氏。
T-TOCから出ている「GuitArr」のなかから、一曲目と七曲目が、
井上氏による演奏、CDによる再生、MQA-CDによる再生だった。

短い時間とはいえ、
それにシステムのセッティングが十全とはいえないにもかかわらず、興味深かった。

井上氏は、今回はじめてMQA-CDを聴かれた、とのことだった。
その感想も、演奏する側にとっては、そういうことになるのか、と思った。

厳密な意味での比較ではない。
CDとMQA-CDの音に関しても、そういえるところがあった。
やりようによっては、もっと興味深い内容になるのに、と思うところもあった。

それでも、行って聴いてきたことで得られるものはある。

Date: 1月 31st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Pletnev plays Schumann(その1)

ミハイル・プレトニョフのピアノ(シューマンの交響的練習曲)。
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルームで聴いている。

《いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。 これこそは真にレコード音楽というものであろう》
これは「五味オーディオ教室」で出合った。

とはいえ、実際に、このような音を聴くことがかなったのは、
菅野先生のリスニングルームで、いまから十五年前のことである。
「五味オーディオ教室」から二十九年経ってのことだ。

この録音のすごさを理解しない人がけっこういる──、
そんなふうに嘆かれていた菅野先生のことも思い出す。

プレトニョフのシューマンの交響的練習曲のCDをすぐに買った──わけではなかった。
このCDはすごい、と会う人にすすめはしたけれど、なぜだか自分では買わなかった。

シューマンがあまり好きでないことが、その理由かもしれない。
自分でも買わなかった理由がよくわからない。

数年経ち、買おうかな、と思ったときには廃盤になっていた。
買っておけばよかった、とは思わなかった。

なにかきっかけがあったわけではない。
なのに、今日、ふとプレトニョフの交響的練習曲のことを思い出した。

あいかわらず、いまも廃盤のままだった。
けれどSACDが出ていたことを、今日知った。

あの日、菅野先生のリスニングルームで聴いたのはCDだったはず。
菅野先生が見せてくれたCDのケースは、SACDのそれではなかった。

こうなると欲しくなってくる。
ヤフオク!にはあるかな、とチェックしていたら、偶然にもあった。
しかもあと三十分ほどで終了。誰も入札していなかった。

落札できた。
まだ手元にはない。

SACDだから、といって、
あの日の菅野先生のリスニングルームでの音が再現できるとは思っていない。

それでも、最近、無性に、ピアノのいい録音を聴きたいという気持が高まっている。

Date: 1月 31st, 2020
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(番外)

音元出版のPHILE WEBが、
ハイファイオーディオ 総合ランキングを毎月公開していたのは知っていた。

知っているだけで、パッと見るだけに終っていた。
でも今回、2019年12月のランキングに、見出しを見て最後まで読んだ。

そこには、『アキュフェーズ創立50周年記念超弩級機「E-800」が堂々首位 』とあったからだ。
これまで眺めていただけであったが、それでもなんとなくの傾向は掴んでいた。
だからこそアキュフェーズのE800が、
セパレートアンプ、プリメインアンプの部門で首位というのは意外だった。

E800は980,000円で、税込みだと1,000,000円をこえる。
ランキングに入ってくる機種のほとんどは中級機クラスが多い。
そこにポツンとE800が、初登場で首位である。

売れている、という話はまだきいてなかったけれど、
かなり注目されている、とはきいていた。

別項でE800のプロポーションに関しては、ボロクソに書いている私でも、
E800の音は、かなりの実力だ、と、
じっくり聴いたわけではないが、感じている。

E800の首位を見て、そういえば──、と思い出して、過去のランキングを見てみた。
探していたのは、
デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONとDCD-SX1 LIMITED EDITIONである。

垂れ流し状態のタイアップ記事の、この二機種はどうなのか。
入っていなかった。

E800が首位になっても、デノンはそうではなかった。

音元出版のハイファイオーディオ 総合ランキングは、
全国すべてのオーディオ店の集計ではないし、
《各商品ジャンルにおける台数別の売れ筋ランキングのデータを、1位5ポイント、2位4ポイント、以下、5位1ポイントの要領で得点化》したものでもある。

これだけですべてを語れるわけではないにしても、参考にはなる。

私はデノンの、この二機種は聴いていない。
どの程度の実力なのかは、まったく知らない。
それに、タイアップ記事垂れ流しの音を聴きたいとも思っていない。

デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONは、780,000円(税抜き)である。
E800よりも少し安い価格だが、プリメインアンプのなかでは、同クラスといえる。

E800の購入を考えている(いた)人は、デノンとの比較も行っているような気がする。

売れているほうが音がいい──、
そう単純なことではないのだが、E800は首位であり、
PMA-SX1 LIMITED EDITIONは五位までに入っていないことだけは事実であり。
この事実をどう受け止めるかは人それぞれのところもあるだろうが、そうでないところもある。

Date: 1月 30th, 2020
Cate: オリジナル

冒瀆か(その2)

美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」という記事を何かで読んだことがある──、
という話を以前きいている。

これが事実ならばだ、
アルテックのA7以外のスピーカーで美空ひばりの録音を聴くことは、
冒瀆ということになるのではないか。

もっといえば美空ひばりがそういった時の音を出していたのと同じシステム、
同じ部屋で同じ音を出しているか、
少なくともその音と本質的に同じである音で聴いているのであれば、
美空ひばりを冒瀆していない、といえるが、
そうでなければそれも冒瀆である、といえるはずだ。

もちろん美空ひばりがアルテックのA7から、「私の声がしている」と感じたとはいえ、
それ以外のスピーカーから鳴ってくる美空ひばりの声を冒頭だ、とはいわなかったはずだ。

美空ひばりを、神聖・尊厳な存在としてとらえている人であれば、
美空ひばりが「私の声がしている」といった音以外で聴くことは、それこそ冒瀆ということになろう。

私は、美空ひばりをそんなふうにはとらえていないし、
アルテックのA7で聴いた美空ひばりこそがほんとうの美空ひばりの声である──、
とは思っていない。

そうとらえてしまった時点で、オーディオは自由を失い、終ってしまう。

では、美空ひばりの清純とは、何を指すのか、どういうことなのか。
それをけがしているのならば、冒瀆ということになるけれど、
清純についてどれだけのことが語れる、というのだろうか。

結局のところ、個人的に気にくわないことをやっていることに対して、
安易に「冒瀆だ」といっているだけではないのか。

そうでない「冒瀆だ」もあるだろうが、多くの「冒瀆だ」はそういうことなのではないのか。

Date: 1月 30th, 2020
Cate: オリジナル

冒瀆か(その1)

昨年大晦日の紅白歌合戦に登場した美空ひばりは、冒瀆だ、という声を、
SNSでよくみかけた。

私は見ていないので、なんともいえないが、
冒瀆とは、辞書には、神聖・尊厳なものや清純なものをけがすこと、とある。

NHKによる、あの美空ひばりは冒瀆だ、といっている人たちは、
誰に対して、何に対して冒瀆だ、と思っているのだろか。

あの企画は、NHKが美空ひばりの遺族に無断に行ったことではないはずだ。
遺族の許諾を得てのものであったはずだ。

美空ひばりのホログラム、
そしてAI技術(ディープラーニング)による歌唱の出来がひどすぎて、
遺族が冒瀆だ、というのならば、周りがとやかくいうことではない、と思う。

けれど実際に放送されている、ということは、
遺族は出来に、どの程度かはわからないものの満足している、ということのはずだ。

ならば第三者である人たちが、冒瀆だ、ということは、どういうことなのだろうか。
出来があまりよくないと感じたためなのか。
そもそも、こういう企画自体を冒瀆だ、と思っているのか。

美空ひばり自身が、自分の死後に、こういうことは絶対にやるな、ということを残していたら、
確かに冒瀆である。

けれど美空ひばりが生きていた時代には、
こういうことが可能になるとほとんどの人が想像していなかった。
美空ひばりも、こういう時代が来るとは、夢にも思っていなかったのではないのか。

ならば誰が冒瀆かそうでないかを決めるのか。
やはり遺族ということになろう。

こんなことを書くと、その遺族が……、ということを言い出す人がきっといよう。

Date: 1月 29th, 2020
Cate: audio wednesday

第109回audio wednesdayのお知らせ(iPhone+218)

一週間後のaudio wednesdayが、待ち遠しい。

昨秋から、メリディアンの218に毎回を手を加えて、
新ヴァージョンといっては、音を聴いてもらっている。

でも昨年は、当日の午前中か前日の夜に、218に手を加えていたため、
音がどう変化したのかを自宅で確認していたわけではなかった。

そんなことをやっていたので、当日が近付くと、
早くやらねば、と慌ただしく感じられていた。

今回は、ほぼ二週間前に手を加えた。
翌日にもさらに手を加えている。

二週間、その音をずっと聴いているから、
2月のaudio wednesdayが待ち遠しいわけだ。

早く聴いてもらいたい、という気持が日増しに強くなっている。
来られた方(聴かれた方)が、どんな反応をされるのかをふくめて、楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 28th, 2020
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その3)

一年前の(その1)で書いたマリア・ラカスのホログラムコンサートが、
ようやく日本でも行われることが決った。

主催はエイベックス・クラシックス・インターナショナル。
5月16日、17日に行われる。

2018年秋から、世界各国で行われているコンサートが、やっと日本に来る。
もう行われないのかな、と思っていただけに、嬉しいし行きたいコンサートだ。

つい最近、NHKが、美空ひばりをAI技術とホログラムで甦らせる、という番組をやっていた。
といっても、テレビを持っていないので見ていない。
紅白歌合戦も見ていない。

このことについては、ここでは語らないが、
マリア・カラスのホログラムコンサートは、美空ひばりのそれとは違う。

比較して語ることなのか、という疑問もないわけではない。
実際にマリア・カラスのホログラムコンサートを体験すれば、
あれこれ考えることが出てくるように思っている。

それに、これがマリア・カラスだから、というのもある。
たとえばグレン・グールドだったら、とも考える。

Date: 1月 27th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その12)

別項「オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その3)」で書いたことをもう一度くり返す。

十数年前にインターナショナルオーディオショウの会場で聞いたことだ。

人を待っていたので、国際フォーラムのB1Fにある喫茶店にいた。
近くのテーブルから、はっきりと聞き取れる声で、
ショウに出展していたオーディオ関係者の会話が聞こえてきた。

誰なのかは、どこのブースの人なのかは書かない。
この二人は、インターネットはクズだね、ということを話していた。
オーディオ雑誌には志があるけれど、インターネットのオーディオ関係のサイトには志がない、
そんな趣旨の会話だった。

ここでのインターネットのオーディオ関係のサイトとは、
個人サイトのことを指している。

オーディオ雑誌社のウェブサイトは、少なかった時代であり、
ステレオサウンドも、まだウェブサイトを持っていなかった時代である。

確かにインターネットの世界には、クズだとしか思えない部分がある。
このことはいまも昔も変っていない、といえる。

だからといってインターネット全体を十把一絡げに捉えてしまうのには、異を唱えたくなる。

それにオーディオ雑誌に志があった、という過去形の表現ならまだ同意できるけど、
志がある、にも異を唱えたくなる。

過去に戻れるのならば、いまのオーディオ雑誌のウェブサイトを見てご覧なさい、と、
この時の二人にいいたくなる。

デノンのタイアップ記事が、オーディオ雑誌だけでなく、
ウェブサイトにおいて垂れ流し状態になっているのを、
この時の二人は、なんというだろうか。

オーディオ雑誌には志がある、と、まだいうのだろうか。