第118回audio wednesdayのお知らせ(Beethoven 250)
いまのところ12月のaudio wednesdayはやる予定ですが、
新型コロナの感染者数の増加次第では、中止するかもしれません。
いつも小人数で、ほぼ常連の方ばかりなので、
新しい方が来られる、大勢の方でいっぱいになることはないのでしょうが、
これまで来られた方だけに限らせていただくかもしれません。
11月29日に、どうするのか告知します。
いまのところ12月のaudio wednesdayはやる予定ですが、
新型コロナの感染者数の増加次第では、中止するかもしれません。
いつも小人数で、ほぼ常連の方ばかりなので、
新しい方が来られる、大勢の方でいっぱいになることはないのでしょうが、
これまで来られた方だけに限らせていただくかもしれません。
11月29日に、どうするのか告知します。
マークレビンソンのLNP2のインプットアンプのゲイン切り替えは、
NFB量を変えて行っているため、
単純にインプットレベルのポテンショメーターを絞った状態だから──、
といったことは言い難いところはある。
ゲインをあげれば、その分だけNFB量が減っているわけで、
そのことによる音の変化は当然ある。
ゲインを高くして、レベルコントロールを絞り気味にして使うのか、
ゲインを低めにして、レベルコントロールをできるだけ絞らずに使うのか。
ボリュウム(ポテンショメーター)の音の影響を考えれば、
できるだけ絞らずに使う方が好ましい、と考えられる。
それでも私がオーディオに興味を持ち始めたころには、
すでに余剰ゲインによる音のよさ、といったことがいわれていた。
システム・トータルのゲインを高くとったうえで、
ボリュウムを絞り気味にしたほうがいい、ということがいわれていた。
もちろん、一方で、そういった余剰ゲインは要らない。
余剰ゲインの分だけアンプを減らして、ボリュウムはできるだけ絞らずに使う、
そのほうが音がいい、という意見もあった。
LNP2では、インプットアンプのゲインを高くして、
つまり余剰ゲインを確保したうえで、ボリュウムは絞り気味にして使う。
そのほうが、なぜか好ましいように感じた。
20代のころは、LNP2に搭載されているポテンショメーターの質が高いからなのか、
とも考えたことがある。
LNP2のポテンショメーターはスペクトロール製で、かなり高価だった。
それに比べ、国産の普及クラスのプリメインアンプのそれは、ずっと安価だった。
スペクトロール製だから、絞り気味でも大丈夫なのか。
グリッドチョーク的ケーブルについて書いていて、
なんら関係のないLNP2のことを持ち出したのは、
ポテンショメーターを絞り気味にするという使い方は、
グリッドチョーク的ケーブルの直流域の抵抗の低さに通じるからである。
一週間前のaudio wednesdayで、
カザルスのモーツァルトを鳴らしてからというもの、
頭のなかで、カザルスのモーツァルトが流れている。
剛毅な、といいたくなるカザルスのモーツァルトは、
耳に残るし、心に残る。
それを反芻している。
意識的に、というよりも、ほぼ無意識的に、といったほうがいい。
電車に乗っていると、ほぼずっとカザルスのモーツァルトが、
頭の中に響いている。
きいたことすら記憶に残らない音楽(演奏)もある。
どちらのモーツァルトを聴くのかは、聴き手の自由である。
1970年代のプリメインアンプには、ミューティングスイッチがついている機種が割とあった。
たいていの機種では、このスイッチをONにすると、20dB減衰する。
私が使っていたアンプでは20dBだったけれど、
機種によっては10dBのものもあったと思う。
このスイッチはどういう時に使うかというと、
音楽を聴いている最中に電話がかかってきたりして、
急に音量を下げたい時に便利だし、
それだけでなく小音量で聴く場合に、
ミューティングスイッチをONにすれば、その分ボリュウムの位置は上になる。
いまでこそ、あまりいわれなくなったけれど、
当時は、ボリュウムは、絞り気味で使うと音が悪くなる──、
そんなことが、オーディオ雑誌によく書かれていた。
聴く音量、スピーカーの能率によっては、
ボリュウムをかなり絞った状態で使うことがある。
真夜中に音量を絞って聴きたい時に、
ボリュウムを絞りすぎると、音がやせることもあったし、
あまり質の高くないボリュウム(ポテンショメーター)だと、
左右チャンネルの減衰誤差が生じて、音量がアンバランスになることもある。
それらを回避するために、ミューティングスイッチを活用する、
ということがオーディオ雑誌に、これまたよく載っていた。
たしかにそうだったのだが、
たとえばマークレビンソンのLNP2を使ってみると、
ほんとうにそうなのか、と思うことがあった。
LNP2のインプットアンプのゲインは切り替えられる。
このゲイン設定によって、LNP2の音は変っていく。
以前書いているのが詳細は省くが、
インプットアンプのゲインは最大にして、
レベルコントロール(ポテンショメーター)を絞り気味で使ったほうが、
意外にも好ましかったりしたからだ。
約二年前の(その1)は、facebokkでのコメントに、
惚れ込めるオーディオ機器との出あいは、
過去に較べると減ってきていると感じていますか、というものがあったからだった。
ここ数年、ソーシャルメディアで目にすることが何度かあったのは、
スピーカーは○○を買ったら、あがりだ、という内容のものだ。
○○には、あるブランドが入る。
私が目にした範囲では、YGアコースティクスかマジコのどちらかだった。
どちらも世評の高いスピーカーである。
マジコのスピーカーは聴く機会がないのでなんともいえないのだが、
YGアコースティクスは聴けば、なるほど優秀なスピーカーだな、と感心する。
でも惚れ込めるスピーカーではない。
この感想は、あくまでも私個人のものであって、
優秀なスピーカーだからこそ惚れ込める、という人もいよう。
惚れ込んで、これらのスピーカーを買う人のことを書きたいのではなく、
YGアコースティクスを買ったら、スピーカーに関してはあがりだ、
マジコを買ったら、スピーカーに関してはあがりだ、という人について、
もやもやとしたものを感じている。
私が若いころ、JBLの4343に憧れていた。
4350の音は、4343よりも、もっとスゴい、と感じていた。
JBLのこれらのスピーカー以外にも、すごいと感じた音のスピーカーはあったし、
欲しい、とおもったモノはいくつかある。
けれど、それらを買ったからといって、
それでスピーカーに関して、あがりだ、と考えたことは一度もなかった。
少なくとも、あのころ、これを買ったらあがり、ということは、まず見かけなかった。
あのころはソーシャルメディアなんてなかったのだから、
もしあったら、いまと変らないのかもしれない。
そう思いながらも、私の周りのオーディオマニアに限ってなのだが、
あがり、という言葉を、スピーカーを手に入れた時に使っていた人はいない。
11月4日のaudio wednesdayでも、グリッドチョーク的ケーブルを試用した。
(その10)で書いているように、タムラのA8713の一次側巻線に、
1kΩの抵抗(DALEの無誘導巻線抵抗)と
1000pFのディップマイカコンデンサーを直列したものを並列にハンダ付けした音を聴いてもらった。
ここでも、確かに効果がある。
今回くらいの値だと、効果があるのはなんとなく説明がつくようなところがあるが、
スピーカーのユニットに、数Ωと数pFの抵抗とコンデンサーを接続したときの音の変化は、
どう説明できるのだろうか、といまも迷うところだ。
そうとうに高い周波数では作用しているだろうが、可聴帯域ではほとんど、というか、
まったく特性的には変化ない、といっていい。
電子回路のシミュレーターでも、変化は出なかったそうだ。
けれど音を聴く(聴いてもらう)と、抵抗、コンデンサーの有無による音の違いは、
そうとうにはっきりした もので、一度ありの音を聴いてしまうと、
なしの音は、どこか濁りを感じてしまうし、
人の声を聴けば顕著なのだが、ありの音を聴いた後では、
なしの音は、喉にえへん虫がいるような感じの発声にきこえてしまう。
今回のグリッドチョーク的ケーブルでの音の変化は、
録音の細工的なところが、はっきりと聴きとれる方向への変化だった。
その意味ではモニター的ということになるのかもしれないが、
一般的なモニタースピーカーのもつモニター的なイメージとは、ちょっと違う。
すんなり提示してくれる印象なのだ。
こうなると接続されず開放状態の二次側巻線にも、
このCR方法をやりたくなる。
この比較試聴は、12月のaudio wednesdayの最初のところで行う予定だ。
「2019年をふりかえって(その1)」で書いているが、
昨年以上に、今年は218のエヴァンジェリストでもあった。
audio wednesdayでは、218を使っていた。
2019年までの218と、いま鳴らしている218の音は、ずいぶん違っている。
昨年9月から自分のシステムで218を鳴らし始めた。
一年が経った。
別項で書いているように、何度か手を加えているからだ。
その218の音を聴いて、「私の218も」という人もいて、
その人たちの218にも手を加えてきた一年でもあった。
昨年の(その1)で、メリディアンの輸入元がオンキヨーに移ったことについて触れた。
どうなるんだろうか、と、おもった。
一年が経ち、どうなるんだろうか……、という心配は大きくなっていっている。
ほぼ一月に一回、オンキヨーのメリディアンのページにアクセスしていた。
たった一ページの告知があるだけで、ずっと変っていない。
今日(11月8日)現在、そのままである。
放ったらかしのまま、といえる。
「五味オーディオ教室」に、
「聴き手の好みより、再生装置がレコードを選ぶ」という章がある。
*
わかりすぎている話で今さらめくが、さまざまな再生装置は、極言すればその数だけのベートーヴェンやモーツァルトの音楽をもつ。私の言いたいのは、だからこそ再生装置の吟味に慎重でありたいし、よりよいものを欲求するのである。いつも言うことだが、一人の男がレコードを集めるとき、彼の再生装置が、おのずからレコードを選択している。彼自身の好みより、この機械のなす選択のほうが、歳月を経るにつれて、強くなる。しょせん音楽を機械で楽しもうなどという文化人は、機械に復讐されるのかもわからない。
*
これを読んでいたから、
「音は人なり」だけでなく、「人は音なり」ということを考えてしまうし、
「人は音なり」について、何度か書いてもいる。
再生装置がレコードを選ぶ──、
このことに納得するのがオーディオマニアで、
そんなことはない、と否定するのが音楽愛好家──、
という気はまったくない。
それでもなかには、
あくまでも聴きたい音楽(録音物)が主であり、
オーディオは従でしかない、
自分が、気に入ったレコード(録音物)を、
気に入った音で鳴らすオーディオを選んでいるし、
そうチューニングしている、という人がきっといることだろう。
ずっと以前から、そういう人はいた。
いまもいる、と思う。
だからといって、そういう人に問いかけたいことはない。
自問自答することであって、誰かがその人に向っていうことではない。
「人は音なり」ということを、そういう人はおもったことすらないのだろう。
12月2日のaudio wednesdayが最後になるので、自由にやる。
テーマはBeethoven 250だから、ベートーヴェンのみ。
最後にかける曲だけ、誰の演奏にするか迷っているけれど、
何をかけるかは、すでに決めた。
来られた方のリクエストにも応じない。
CDプレーヤーも使わない。
11月のaudio wednesdayと同じで、iPhone 12 Proを使う。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
昨日の昼、駅を出たところでiPhoneで会話をしている人が立っていた。
その人は、iPhoneを左手で持ち、右手の手話で、誰かと会話していた。
iPhoneにはFaceTimeというアプリが、最初からインストールされている。
おそらく、このアプリを使っての手話での会話なのだろう。
いわゆるテレビ電話である。
私が小学生のころ、テレビ電話は未来の技術だったし、
ましてそれが手のひらにおさまるサイズになるとは、なかなか想像できなかった。
SFもののテレビ番組では、腕時計にテレビ電話の機能が搭載されたものが、
何度か登場していた。
そんなモノがいつかは実現するんだろうけど、
生きているうちに出てくるんだろうか……、ぐらいに思っていた。
それがいま、現実のモノとして、
しかも特別なモノとしてではなく、多くの人が持っているモノとして存在している。
FaceTimeを使えば、テレビ電話ができることはわかっていても、
手話を使う人たちが、FaceTimeで会話するということは、想像していなかった。
だから、iPhoneには、こういう使い方もあるんだ、という感慨があった。
音声のみしか伝えられない電話は、
聴覚に障碍のある人にとっては、どういう存在だったのかを、
昨日まで考えることはなかった。
スマートフォンもコンピューターである。
手のひらにおさまるコンピューターである。
四年前の(その2)で、書いたことをくり返す。
ここでもスティーブ・ジョブズの言葉を思い出す。
コンピューターは個人の道具ではない、と。
個人と個人をつなぐための道具である、ということを。
昨晩のaudio wednesdayの最後にかける曲は、
あらかじめカザルスのモーツァルトに決めていた。
まず「ハフナー」をかけた。
残念なことに途中で、「偶然は続く(その3)」で書いているように、
マッキントッシュのMA7900の電源がふいに落ちた。
再び電源をいれて、最初からかけなおすことも考えたけれど、
「ジュピター」をかけることにした。
「ハフナー」にしても、「ジュピター」にしても、
一楽章から四楽章まで鳴らすつもりでいたので、
一楽章だけでなく最後まで聴いていた。
ライヴ録音なので、最後に拍手が入る。
拍手が鳴り出して、わりとすぐにMA7900の電源が落ちた。
この日、何度目になるのか。
途中で数えるのがイヤになるくらい、マッキントッシュの電源が落ちた。
十回ほどか。
それでもカザルスの「ジュピター」だけは、拍手の音は途中で切れたものの、
最後まで鳴らしてくれた。
昨晩(11月4日)のaudio wednesdayは、
2月に続いて、iPhoneを使って音出しだった。
CDプレーヤーは、まったく使わなかった。
今回からiPhoneは、これまでの8から12 Proである。
iPhone 8は三年前のモデル。
外観、大きさが違う。
持ってみると、iPhone 12 Proは、意外にも重く感じる。
ボディの素材もアルミニウムからステンレスに変っている。
それにMagSafe用のリング状のマグネットが内蔵されてもいる。
それにCPUも、もちろん違う。
期待できそうな点、そうでない点を感じる。
それらが、どのように音に影響を与えるのかは、聴いたところで判断できることではない。
どちらがいいのか悪いのか。
仮にiPhone 8の音が良かった、としても、
iPhone 12 Pro購入時に下取りに出すようにしているから、
近日中に手元からなくなる。
なのでiPhone 12 Proの音がよくあってほしいわけだ。
iPhone 12 Proが到着して、三日ほどそのままにしていた。
やっと使えるようにしてからも、iPhone 12 Proで音楽を聴くことはあえてしなかった。
audio wednesdayで、初の音出しをするつもりでいた。
いつものようにスピーカー、アンプをセッティングして、iPhone 12 Proを接続しての音。
悪くはないけれど、うーん……と感じる。
開始時間の19時までに、テーマとは関係ない曲をかける。
悪くはないけれど……、というおもいは拭えない。
いつものiPhone 8だったら、こんなふうに鳴るのに……が頭にあるからだ。
試しにiPhone 8にする。
やっぱりiPhone 8なのかな、と思う。
けれど、iPhone 12 Proでの音出しは、今日が最初だ。
もう少し鳴らしてみよう、と思い直した。
結果を書くと、最後までiPhone 12 Proで鳴らした。
昨晩(11月4日)のaudio wednesdayでは、
Bird 100がテーマだったので、
チャーリー・パーカー、ビリー・ホリデイ、バド・パウエル、
それからサンソン・フランソワをかけた。
19時からの、約四時間。
21時くらいに、ちょっと一休みという意味をかねて、
ジョニ・ミッチェルの“Both Sides Now”をかけた。
MQA(96kHz、24ビット)でかけた。
いいのは鳴らす前からわかっていたことなのだが、
それでも予想を超えて、よかった。
“Both Sides Now”は、ちょっとだけ意図を込めての一曲だっただけに、
ここまでうまく鳴ってくれると、何もいうことはない。
チャーリー・パーカー、ビリー・ホリデイなどをかけ終ったあとで、
パブロ・カザルス指揮のモーツァルトを鳴らした。
そういう意味を込めて、かけた。
(その2)までの内容とは関係ないのだが、
「偶然は続く」というタイトルに関係していることなので書いておく。
「2019年をふりかえって(その19)」で書いているマッキントッシュの電源が落ちる件。
昨晩のaudio wednesdayでも、発生した。
昨年も11月のaudio wednesdayで、プリメインアンプのMA7900の電源が、
音を鳴らしている途中で、何の前触れもなく、四時間で四回、落ちた。
再び電源をいれれば、何の問題もなく、音の変化もなく鳴るのだが、
どこかに原因があるのかは、はっきりとはしなかったから、対策もできなかった。
一年後の昨晩、また電源が落ちた。
しかも昨年よりも、もっと回数が多かった。
いい気持で聴いていると、電源が落ちて、音が止む。
興醒めであるばかりか、マッキントッシュへの不信感へとつながっていく。
偶然なのか、今年も11月に発生している。
想像するに、なんらかのノイズ混入による誤動作のような気がする。
おそらく修理に出したところで、症状が確認できない、ということになるだろう。
こういう故障とはいえない不具合はやっかいである。
「audio wednesday (first decade)…」で触れているように、
喫茶茶会記がビル建て替えのため移転する。
喫茶茶会記のいまの場所での営業は年内いっぱいである。
なので、audio wednesdayも、12月2日の118回をもって、一旦終了となる。
2011年2月にスタートして、ほぼ十年。
今年の4月は、コロナ禍のため、中止した。
十年120回はできなかったけれど、よく続けられたなぁ、とおもっている。
喫茶茶会記の店主、福地さんの理解があっての十年といえる。
喫茶茶会記の移転先は、まだ決っていない。
そのため移転先でaudio wednesdayが行えるのかどうかは、
いまのところはっきしたことは何もいえない。
次の十年が始められるかもしれないし、
来月の118回で、ほんとうの終了となるのかもしれない。